宏池会

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宏池会
Fumio Kishida Minister.jpg
会長の岸田文雄
略称 岸田
前身 自由党吉田派)
設立年 1957年(昭和32年)
設立者 池田勇人
種類 自由民主党派閥
本部 日本自転車会館1号館→全国町村会館
位置 東京都港区赤坂千代田区永田町
メンバー 自由民主党所属国会議員
関連組織 為公会麻生派)
宏池会古賀派)
宏池会谷垣派)
予算 207,742,774円

宏池会(こうちかい)は、自由民主党の派閥宏池会系)。現存する最古参派閥である。

現在の通称は岸田派。宏池会は池田勇人佐藤栄作と袂を分かって旗揚げしたのが始まりで、通称の変遷としては、池田派前尾派大平派鈴木派宮沢派加藤派[注釈 1]古賀派→岸田派。

概要[編集]

政策科学的機構としては、宏池政策研究会と定義される。吉田茂の直系の弟子である池田勇人によって創立されて以来[1]大平正芳鈴木善幸宮沢喜一と4人の総理総裁を輩出、野党時代にも河野洋平谷垣禎一と2人の総裁を出しており、自他共に保守本流の名門派閥と見なされてきた。元来、池田を取り巻く官僚出身の議員やスタッフを中心に形成されたという沿革もあり、今日に至るまで政策に通じた議員が多く在籍する。しかし政策には強いが政局に弱いと評され、「公家集団」と揶揄されることもしばしばみられる。

当初から離合集散を繰り返してきた自民党各派閥に比べて、各会長の下一致結束して派閥を継続してきたとされ、自民党草創期の名称を今日まで維持している唯一の派閥でもある。しかし1993年の野党転落を機に派の主導権争いが激化して以降は分派や合流を繰り返している。

政策面では、歴史的に明確な一貫性があるわけではないが、自民党内では中道派に属し、特に安全保障では日米関係を重視しながらも、ややハト派的傾向が見られる。小泉政権以降、自民党の主流が保守化する中、後述の宏池会再結集においては意識的にリベラル派の再結集をアピールした。

後述のように大平クーデター、一六戦争、KK戦争、そして加藤の乱、古賀と谷垣の抗争等派閥内抗争を繰り返してきたことが特徴としてあげられる。

「宏池会」の名は、後漢の学者・馬融の「高崗の榭(うてな)に臥し、以って宏池に臨む」という一文(出典は『広成頌』)から、陽明学安岡正篤が命名したものである。池田勇人の「池」の字、池田の出身地である広島の「ひろ」を「宏」に掛けているともいわれる。

創設以来、赤坂の日本自転車会館(赤坂貿易会館→日本短波放送会館を経て現在のビル名)1号館に事務所が置かれていたが、再開発によりビル取り壊しが決定したため、永田町の全国町村会館に移った。

池田、前尾、宮澤、岸田ら、伝統的に酒豪のそろった派閥として知られ、会合や宴席では部外者が唖然とする光景が繰り広げられている[2]

沿革[編集]

結成[編集]

1957年池田勇人を中心に結成された。

池田は、旧自由党吉田茂派(吉田学校)を同門の佐藤栄作(周山会)と分ける形で派閥を形成し、池田の下には前尾繁三郎大平正芳黒金泰美鈴木善幸宮澤喜一小坂善太郎など官僚系を中心とした人材が結集した。また、派のブレーンにはやはり大蔵官僚出身の下村治・田村敏雄などが集まり政策を立案していった。

前尾・大平派時代[編集]

池田の退陣・死去後は前尾繁三郎が派閥を継承したが、佐藤四選を許した前尾に飽き足りない田中六助田沢吉郎塩崎潤ら若手議員は大平正芳を担いで、前尾を会長から下ろした(大平クーデター)。

大平派においては、伊東正義斎藤邦吉佐々木義武が「大平派三羽烏」と呼ばれた。大平は総理総裁に就任すると椎名裁定以来の総幹分離の慣例を破って総裁派閥である斎藤邦吉を幹事長に起用し、大平―斎藤ラインで1979年衆院選を行い、自派閥衆議院議員を50名に増やした。

鈴木派・宮沢派時代[編集]

1980年衆院選の最中に大平が急逝、鈴木善幸が宏池会代表(のち会長)・首相となる。もともと鈴木は首相はもちろん会長職も担える人材とはみなされていなかったが、大平の後継を巡り宮澤喜一と田中六助の間に「一六戦争」と呼ばれる抗争が繰り広げられていたため、決着がつくまでの当面のつなぎという性格が強かった。宮澤は早くから将来を嘱望される存在であったものの、人望と政治的手腕に欠け、一方の田中(六)は鈴木善幸の擁立や新自由クラブとの連立工作などで存在感を増していく。背景には宮澤嫌いで知られる田中角栄と、宮澤と同じく大蔵省出身の福田赳夫による「角福戦争」がある。

鈴木退陣後は中曽根康弘総裁の下で主流派を占めていたが、中曽根が田中派に傾倒していくに従って溝が広がり、「半主流派」などと揶揄される。二階堂擁立構想では、鈴木ら派幹部が主導的役割を演じた。宮澤と田中(六)の後継争いは田中が1985年に持病の悪化により死亡したために、結果的にすんなりと宮澤が派を継承した。宮澤は竹下登安倍晋太郎とポスト中曽根を争うが、1987年の「中曽根裁定」により竹下に敗れた。

宮澤は1991年に竹下派の後押しもあって念願の総裁に就くが、その竹下派の分裂が引き金になり、自民党は野党に転落することになった。野党転落後は宮澤が会長に留任したまま、宏池会の河野洋平が総裁となり、1994年に自社連立を実現させ、与党に復帰する。しかし河野総裁の任期中から宮澤の後継争いも絡んで加藤紘一と河野との対立が深刻化し(「KK戦争」)、加藤が1995年の総裁選で橋本龍太郎を支持したこともあり、河野は総裁続投断念に追い込まれる。4ヶ月後には村山富市の総理辞任によって橋本が総理に就任。河野は総理大臣に就任しない最初の自民党総裁となった。

宮澤後継を巡る対立はその後も燻り続けたが、宮澤から加藤へ派閥の継承が決定的になると1998年12月に河野は派閥を離脱、派内の反加藤議員を結集して翌年1月に大勇会(現:為公会)を結成した。長らく結束を保ってきた宏池会にとって最初の分裂だったが、翌年には更なる激震に見舞われることになる。

加藤の乱と派閥の分裂[編集]

2000年11月に野党から提出された森内閣不信任案に加藤は同調。しかし、派閥全体を動かすことができずに尻すぼみに終わった(加藤の乱)。結果、加藤を支持するグループと、反加藤グループ(堀内派)に分裂し、両派が互いに「宏池会」と名乗る異常な事態となった(加藤グループは、2年後に加藤が秘書のスキャンダルで議員辞職に追い込まれて小里貞利が継承。その後小里が政界引退し、2005年9月26日の派閥総会で谷垣禎一が会長に就任)。

宏池会分裂時(2000年11月 - 2008年5月)の各派閥についての詳細は、以下の項目も参照。

小泉政権[編集]

5年半の長期政権となった小泉政権においては、谷垣派は谷垣自身がほぼ一貫して重要閣僚を担っていたため事実上の主流派として政権を支える一方、堀内派は政権に対する距離が定まらず、2003年の総裁選などでも派内対立が激化した。2005年のいわゆる郵政法案とその後の郵政解散を巡っては、堀内会長が反対票を投じて離党に追い込まれ、古賀も棄権票を投じたため誓約書を書かされた上でようやく公認を得るなど苦汁を舐めさせられている。小泉の「脱派閥」方針で一貫して派閥の弱体化が進んだ時期だったが、相対的に小泉の出身派閥である清和会の存在感が増していくと、それに対する対抗の意味もあり、宏池会の再結集が語られるようになっていった。

宏池会結集構想[編集]

2006年に入ると、河野グループも含めた旧宮澤派の流れを汲む三派の再結集を目指す大宏池会構想が具体的に表面化した。谷垣と河野グループ(当時)所属の麻生太郎ポスト小泉に名乗りを上げているため、2006年9月の自民党総裁選が終了した10月頃の合同で三派幹部の認識は一致しており、「大宏池会」への流れは加速していると見られてきた。

ところが、総裁候補を有しない丹羽・古賀派内部では若手議員を中心に安倍待望論が根強く、丹羽雄哉・古賀誠も事実上の安倍支持を表明、更に丹羽・古賀派のベテランである柳澤伯夫が安倍陣営の選対本部長に就任(後に厚生労働大臣)。安倍が勝利した総裁選後の人事では丹羽・古賀派からは丹羽が総務会長に就任したのに加え、4人を閣僚に送り込み、河野グループ(2006年12月以降、麻生派)でも麻生外相が留任するなど主流派となったのと対照的に、谷垣派は完全に要職から外れた。さらに総裁選後は丹羽・古賀派の古賀系の議員による丹羽外しの動きが見られた。

翌2007年、安倍退陣後の総裁選においては、総裁選の過程で早くから谷垣・古賀が派として福田康夫支持を打ち出し、対立候補の麻生を一転劣勢に追い込んだため「麻生包囲網」などと言われた。福田政権においては古賀・谷垣自ら三役入りする一方で、麻生は入閣を拒否し反主流派にまわった。かつての盟友である麻生・古賀の関係が冷え込んだのもこの時期である。

このように三派の関係や各派内部においても溝が生じたため、総裁選を過ぎた後は、大宏池会としての合流は困難な情勢となった。

古賀派・谷垣派の再合流[編集]

他方、上述の総裁選をきっかけに谷垣・古賀両派の関係は緊密化し、2007年末になって麻生派抜きの「中宏池会」として古賀派と谷垣派が2008年5月にも再合流することで両派閥が合意。これに伴い「宏池会」の名称で2つの派閥が並立する状態は7年ぶりに収束することになった。

その後、再合流は通常国会前が望ましいとの観点から2008年5月13日に前倒しされ、古賀が派閥会長に、谷垣が代表世話人に、堀内光雄が名誉会長に、逢沢一郎が事務総長に、それぞれ就任した。

中宏池会の成立により宏池会(2008年10月15日現在[3]61人)は、清和政策研究会(2008年6月20日現在[4]玉澤徳一郎含めて89名)、平成研究会(2008年2月13日現在[5]69人)に次ぐ第3派閥となり、ハト派勢力として党内に影響を与えると見られた。

総裁派閥に[編集]

自民党が野党に転落した第45回衆議院議員選挙では宏池会も所属衆議院議員を25人と半減させたが、第1派閥の清和会、第2派閥の平成研がそれぞれ1/3に議席数を減らしたため、衆議院では第1派閥となった。

麻生総裁退任を受けた2009年9月の自民党総裁選では、谷垣禎一が勝利。自派も含めて幅広く支持を集めての圧勝だったが、小野寺五典が自ら立候補を模索した上河野太郎支持に回った他、菅義偉も派閥を退会して河野を積極的に支持するなど、総裁選は派閥単位の動きよりは世代対立の様相を呈した。宏池会が総裁派閥となるのは、皮肉にも前回の野党転落時の河野洋平以来14年ぶりだが、就任後もしばらくは離党者が相次ぐなど、厳しい党運営が続いた。

古賀派から岸田派へ[編集]

しかし翌年の第22回参議院議員通常選挙で与党を過半数割れに追い込むと、地方選などでも勝利を重ね、総裁としての谷垣は一定の評価を得るようになっていった。総裁再選を目指し、2012年自由民主党総裁選挙への立候補に意欲を示す谷垣は、出身派閥の領袖である古賀へ支援を要請した。しかし、古賀は「若い人へバトンタッチするべき」と述べて、谷垣への支援を拒否した。派内の旧谷垣派議員らが反発する中、古賀は参議院議員林芳正擁立に乗り出した。出身派閥の支援を得られなくなった谷垣は脱派閥を打ち出し、党内最大勢力となった無派閥議員の支持を得ようとするも、推薦人の確保すらままならなくなり、幹事長の石原伸晃が突如として立候補することを受け、執行部内の候補一本化を理由に最後は立候補の断念に追い込まれた。次期総選挙における自民党の政権奪還が確実視される中、側近重用人事の影響もあり谷垣は総理の座を目前で逃すことになったが、こうした展開は皮肉にも、やはり宏池会出身の総裁であった河野洋平のケースと酷似したものだった[6]

こうした状況に派内では対立が激化。事態の収拾のため、古賀は会長職の辞任を表明した。後任には谷垣側近の逢沢一郎を充て、派内の融和を図ろうとするも、谷垣系の反発は収まらず、逢沢や川崎二郎などの約10人の旧谷垣派出身議員が退会届を提出した。逢沢らは、総裁退任後に宏池会への復帰を見送った谷垣や、谷垣の再選を支持した議員らと共に、「有隣会」を旗揚げし、宏池会は再び分裂した。

結局、新会長には古賀に近い岸田文雄が就任し、ナンバー2の座長には林芳正が、名誉会長には古賀が就くこととなった。これを受け、以後マスメディア等では岸田派と呼ばれるようになる。総裁選での支援候補の敗北や、派閥の分裂で、求心力が大幅に低下した古賀は、第46回衆議院議員総選挙に立候補せず、政界を引退した。

総選挙後に誕生した第2次安倍内閣では岸田が外相に就任したのをはじめとして林、小野寺五典根本匠の4人が入閣した。

2014年9月3日に発足した第2次安倍改造内閣では林、小野寺、根本が閣外へ去り、岸田が留任、塩崎恭久、事務総長の望月義夫が新たに入閣。後任の事務総長に宮腰光寛が就任した。その後辞任した閣僚の後任として上川陽子宮沢洋一林芳正がそれぞれ法相、経産相、農相として入閣し、合計6人となった。

2015年10月に発足した第3次安倍第1次改造内閣では、岸田が留任したのみで、1名の入閣にとどまった[7]

2016年は「加藤の乱」前後の派閥の長だった堀内光雄、加藤紘一、小里貞利が相次いで他界した。

現在の構成[編集]

役員[編集]

名誉会長 会長 座長 副会長 事務総長 最高顧問
古賀誠 岸田文雄 林芳正 竹本直一
山本幸三
根本匠
望月義夫
宮腰光寛 金子一義

衆議院議員[編集]

金子一義
(10回、岐阜4区
岸田文雄
(8回、広島1区
竹本直一
(7回、大阪15区
根本匠
(7回、福島2区
宮腰光寛
(7回、富山2区
望月義夫
(7回、静岡4区
山本幸三
(7回、福岡10区
小野寺五典
(6回、宮城6区
北村誠吾
(6回、 長崎4区
平井卓也
(6回、 香川1区
上川陽子
(5回、静岡1区
三ツ矢憲生
(5回、三重5区
左藤章
(4回、大阪2区
寺田稔 
(4回、広島5区
葉梨康弘
(4回、茨城3区
木原誠二
(3回、東京20区
盛山正仁
(3回、比例近畿
岩田和親
(2回、比例九州
古賀篤
(2回、福岡3区
國場幸之助
(2回、比例九州)
小島敏文
(2回、比例中国
小林史明
(2回、広島7区
武井俊輔
(2回、宮崎1区
藤丸敏
(2回、福岡7区
堀内詔子
(2回、比例南関東
村井英樹
(2回、埼玉1区
辻清人
(2回、東京2区
渡辺孝一
(2回、比例北海道
大西宏幸
(1回、比例近畿)

(計29名)

参議院議員[編集]

溝手顕正
(5回、広島県
林芳正
(4回、山口県
松山政司
(3回、福岡県
藤井基之
(2回、比例区
水落敏栄
(2回、比例区)
金子原二郎
(1回・衆院5回、長崎県
宮澤洋一
(1回・衆院3回、広島県
磯崎仁彦
(1回、香川県
大沼瑞穂
(1回、山形県
古賀友一郎
(1回、長崎県)
中泉松司
(1回、秋田県
二之湯武史
(1回、滋賀県
馬場成志
(1回、熊本県
森屋宏
(1回、山梨県
足立敏之
(1回、比例区)

(計15名)[8]

備考[編集]

脚注[編集]

注釈[編集]

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  1. ^ 2000年11月の加藤の乱に伴う派閥分裂中は、
    の二系統の二派閥に分かれていたが、2008年5月13日、分裂していた二派閥は中宏池会として統一された。

出典[編集]

関連項目[編集]