池田裁定

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1964年12月自由民主党総裁選挙

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1964年12月1日
→ 1966年

選挙制度 前総裁による指名
無投票

  Eisaku Sato 19641109.jpg


候補者 佐藤栄作

選挙前総裁

池田勇人

選出総裁

佐藤栄作

池田裁定(いけださいてい)は、1964年11月9日自由民主党総裁池田勇人佐藤栄作を次期総理総裁候補に指名し、佐藤が同年12月1日に自民党総裁に就任したことを指す。

経緯[編集]

1964年自由民主党総裁選挙で池田勇人総裁(内閣総理大臣)が対立候補の佐藤栄作らを退けて三選され、内閣改造を実施して政権継続となっていた。しかし、池田は総裁選前後から喉の痛みを訴えており、東大病院での検査に於いて喉頭がんとの診断結果が出たことが判明し、池田側近の前尾繁三郎大平正芳が知ることとなる[1]

この年の9月には国際通貨基金(IMF)東京総会、10月には東京オリンピックが控えていたため、総理である池田の健康状態が国内外の政治・社会情勢に多大な影響を与えることを考慮して医師団や自民党幹部らは池田が喉頭がんであることを公表せず、また本人への告知をしなかった(当時は本人にがんの告知をしないことが多かった)[1]

池田は9月7日にIMF総会で演説した後、9月9日に「慢性咽頭炎」を理由に国立がんセンターに入院し[2]、同月25日に医師団は池田の病状について「前がん症状である」と発表した[2][1]

前尾は極秘裏に池田内閣の幕引きの準備に入り、退陣表明時期は東京オリンピック閉幕の翌日とした[1]。前尾と大平は10月8日に国立がんセンター総長の比企能達と会い、池田に東京オリンピック終了直後の首相退陣勧告を要請した[1]。比企は10月12日に池田に対して病気の現状と治療が長期に亘ることを伝え、暗に首相退陣を示唆した[1]。池田は比企から首相退陣について前尾と大平と相談したと伝えられると、進退を前尾と大平に委ねる決断をした[1]

池田退陣の動きは東京オリンピック開会中は完全に秘密が保たれ、東京オリンピック閉会式の翌日の10月25日に池田は入院先の国立がんセンターの病室に河野一郎国務大臣、川島正次郎自民党副総裁三木武夫自民党幹事長鈴木善幸内閣官房長官など政府与党の幹部を招いて退陣の意向を伝えると共に、三木と鈴木に自らの退陣表明の声明文を託して発表させた[2][1]

後継総裁には佐藤栄作、河野一郎、藤山愛一郎の3人が名乗りを上げた[1]11月4日に自民党両院議員総会を開催して「後継首相候補は両院議員総会で選び、新総裁は12月1日の臨時党大会で決定する」ことが確認された[3]

11月9日の朝に川島と三木は病床に池田を訪ねて、「党内の大勢は佐藤支持である」と報告して後継総裁に佐藤を推薦した[1]。池田は「佐藤君が後継者として妥当だ」と述べ、あらかじめ用意されていた裁定文の空欄に佐藤栄作の名前を書いた[4]。同日行われた自民党両院議員総会上で、川島は「後継首班候補に佐藤栄作君を指名する」との池田の総裁裁定文を読み上げ、了承された[5]。同日に第47回臨時国会が召集され、第3次池田内閣が総辞職すると共に衆議院参議院の本会議で実施された首班指名選挙にて佐藤栄作を第61代内閣総理大臣に指名した[5]。その後、12月1日に自民党臨時党大会で佐藤が正式に第5代党総裁に就任した[5]

出典[編集]

  1. ^ a b c d e f g h i j 池田政権の幕引きを仕切る 「池田首相を支えた男」前尾繁三郎(4)”. 日本経済新聞 (2011年12月4日). 2021年5月4日閲覧。
  2. ^ a b c "池田首相、辞任を表明 1964年10月25日 「再現日録 東京五輪の10月」(25)". Kyodo News. 共同通信社. 25 October 2020. 2021年5月6日閲覧
  3. ^ 奥島貞雄 2009, pp. 55-56.
  4. ^ 升味準之輔 1988, pp. 304-305.
  5. ^ a b c 奥島貞雄 2009, p. 56.

書籍[編集]

関連項目[編集]