1970年自由民主党総裁選挙
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1970年自由民主党総裁選挙(1970ねんじゆうみんしゅとうそうさいせんきょ)は、1970年(昭和45年)10月29日に行われた日本の自由民主党の党首である総裁の選挙である。
概要
[編集]現職の佐藤栄作総裁の任期満了に伴うものである。
佐藤総裁は3期6年政権の座にあり、沖縄返還や日米安保条約の自動延長等、戦後政治の懸案事項を片付ける道筋をつけたことから、花道退陣の可能性があったが、佐藤自身は去就をしばらく明かさなかった[1]。
この時、自民党の派閥の中で一定の規模を保っていたのは周山会(佐藤派)、宏池会(前尾繁三郎派)、清和政策研究会(福田赳夫派)の三派(保守本流)であり、佐藤の後継は、前尾、福田、自派の有力議員で会った田中角栄であった。佐藤の周辺は、福田が最有力との見立てであったが、当時幹事長であった田中は、福田禅譲の目を潰すべく、佐藤四選に向けて佐藤派内を固めて既定路線化することにより、佐藤直系を自認する福田も四選支持せざるを得なくなるとともに、佐藤派内に田中の影響力を構築、次期政権を目指しての工作の機会となった。1970年1月、第3次佐藤内閣発足の政権人事においても、福田系の保利茂を退けて、自身の幹事長留任を勝ち取る[2]。
残った宏池会は、前回の総裁選で領袖の前尾への支持が集まらず、小派閥である番町政策研究所を率いる三木武夫の後塵を喫し三位に終わり、後継の大平正芳が自前で事務所や派員を抱えるようになり、派内からは"戦闘意欲に欠ける"として、求心力を失っていた。そのような状態で田中からの立候補引き留め工作を受ける。派内の親前尾系は、福田と田中が拮抗した際は自身が中間派として漁夫の利をえる可能性があるという希望的観測の下、立候補を取りやめる。そして、前尾は総裁選後の恒例となっていた内閣改造でポストの厚遇を受ける見通しもあった[3]。
結局立候補したのは、佐藤と、前回に引き続きの挑戦となる三木の二人となり、佐藤批判の票を掘り起こした三木は353対111と善戦。三木は「今日は敗北ではない。二年後の総裁選挙の勝利のための新たなる一歩だ」と総括し、総裁の有力候補に名を連ねた[4]。
選挙後、佐藤は恒例の内閣改造を行わなかった。結果として、前尾との密約は空手形となった。宏池会では若手議員が前尾の体たらくに反旗を翻し、前尾を引きずり下ろす形で大平へと代替わり、ポスト佐藤の争いに加わることとなった[5]。
選挙データ
[編集]総裁
[編集]- 選挙前:佐藤栄作(第5代)
- 選挙後:佐藤栄作(第5代)
投票日
[編集]- 1970年(昭和45年)10月29日
- 第24回臨時党大会で実施。
選挙制度
[編集]- 決選投票制
- 総裁公選規程に基づく公選
選挙活動
[編集]候補者
[編集]立候補制ではなかったものの、選挙活動した国会議員。
| 佐藤栄作 | 三木武夫 |
| 衆議院議員 (8期・山口2区) 内閣総理大臣(1963-現職) 党総裁(1963-現職) |
衆議院議員 (13期・徳島全県区) 外務大臣(1966-1968) 党幹事長(1964-1965) |
| 周山会 (佐藤派) |
政策研究会 (三木派) |
| 山口県 | 徳島県 |
選挙結果
[編集]第1回総裁選から1972年(昭和47年)の第12回総裁選までは立候補制ではなかったため、自民党所属の国会議員への票はすべて有効票として扱われた。
候補者別得票数
[編集]| 候補者 | 得票数 | 得票率 | |
|---|---|---|---|
| 佐藤栄作 | 353 | 75.59% | |
| 三木武夫 | 111 | 23.77% | |
| 千葉三郎 | 1 | 0.21% | |
| 宇都宮徳馬 | 1 | 0.21% | |
| 藤山愛一郎 | 1 | 0.21% | |
| 総計 | 467 | 100.0% | |
| 有効投票数(有効率) | 467 | % | |
| 無効票・白票数(無効率) | % | ||
| 投票者数(投票率) | % | ||
| 棄権者数(棄権率) | % | ||
| 有権者数 | 100.0% | ||
| 出典:朝日新聞 | |||
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]参考文献
[編集]- 『昭和の宰相 佐藤栄作と高度成長』戸川猪佐武、P268
- 升味準之輔『現代政治 1955年以後 上』東京大学出版会、1985年2月20日。ISBN 4-13-033026-8。