桂太郎

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桂 太郎
かつら たろう
Katsura Taro.jpg
生年月日 1848年1月4日
弘化4年11月28日
出生地 日本の旗 日本 長門国阿武郡萩町
(現:山口県萩市
没年月日 (1913-10-10) 1913年10月10日(65歳没)
死没地 日本の旗 日本 東京府三田
前職 武士長州藩士)
陸軍軍人
所属政党 無所属
称号 帝國陸軍の階級―肩章―大将.svg 陸軍大将
従一位
大勲位菊花章頸飾
功三級金鵄勲章
公爵
配偶者 桂 歌子(1874 - 1886)
桂 貞子(1886 - 1890)
桂 可那子(1898 - 1913)
子女 長女:長雄蝶子
長男:桂与一
次女:長崎繁子
次男:井上三郎
三女:長島潔子
四女:天岡輝子
三男:桂四郎
四男:桂五郎
五女:伊藤寿満子
五男:桂新七
親族 桂與一右衛門(父)
中谷正亮(叔父)
長雄勝馬(娘婿)
長崎英造(娘婿)
長島隆二(娘婿)
天岡直嘉(娘婿)
伊藤文吉(娘婿)
桂広太郎(孫)
井上光貞(孫)
サイン KatsuraT kao.png

日本の旗 第11・13・15代 内閣総理大臣
内閣 第3次桂内閣
在任期間 1912年12月21日 - 1913年2月20日
天皇 大正天皇
内閣 第2次桂内閣
在任期間 1908年7月14日 - 1911年8月30日
天皇 明治天皇
内閣 第1次桂内閣
在任期間 1901年6月2日 - 1906年1月7日
天皇 明治天皇

日本の旗 第17代 外務大臣
内閣 第3次桂内閣
在任期間 1912年12月21日 - 1913年1月29日

日本の旗 第3代 内大臣
在任期間 1912年8月21日 - 1912年12月21日

その他の職歴
日本の旗 侍従長
(1912年8月13日 - 1912年12月21日)
日本の旗 第13代 大蔵大臣
(1908年7月14日 - 1911年8月30日)
日本の旗 第19代 文部大臣
1905年12月14日 - 1906年1月7日)
日本の旗 第18代 内務大臣
1903年10月22日 - 1904年2月20日
日本の旗 第5代 陸軍大臣
1898年1月12日 - 1900年12月23日
日本の旗 第2代 台湾総督
1896年6月2日 - 1896年10月14日
日本の旗 貴族院議員
(1911年4月 - 1913年10月)
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桂 太郎(かつら たろう、弘化4年11月28日1848年1月4日) - 大正2年(1913年10月10日)は、日本武士長州藩士)、陸軍軍人政治家日露戦争時の内閣総理大臣で、西園寺公望と交互に首相を務めた期間は「桂園時代」と呼ばれた。ニコポン宰相の異名も持ち、通算在職日数は2,886日(2019年12月現在歴代2位)。軍人としての階級陸軍大将で、児玉源太郎川上操六とともに「明治陸軍の三羽烏」とされる。後の憲政会立憲民政党に連なる立憲同志会の創立途中に病没した。

清澄(きよずみ)。幼名寿熊(ながくま)、左中(さちゅう)。海城(かいじょう)。元老井上馨とは義理の親子の関係であった。台湾総督(第2代)、陸軍大臣(第5代)、内務大臣(第18代)、文部大臣(第23代)、大蔵大臣(第13代)、貴族院議員、内大臣外務大臣(第17代)内閣総理大臣(第11代、13代、15代:第1次桂内閣第2次桂内閣第3次桂内閣)などを歴任した。「元老の一人であった」という説もある[注釈 1]位階勲等功級爵位は、従一位大勲位功三級公爵

概要[編集]

長州藩士であり、毛利家庶流で重臣であった桂家の出身で、大江広元桂元澄などの子孫に当たる。

戊辰戦争に参加し、明治維新後、横浜語学学校で修学し帝政ドイツへ留学。帰国後は山縣有朋の下で軍制を修学した後に陸軍次官、第3師団長、台湾総督を歴任した後、第3次伊藤内閣第1次大隈内閣第2次山縣内閣第4次伊藤内閣陸軍大臣を務めた。

明治34年(1901年6月2日内閣総理大臣に就任、第1次桂内閣発足。日英同盟を締結し、日露戦争で日本を輝かしい勝利に導いた。西園寺公望と交代で首相を務め、桂園時代(けいえんじだい)と呼ばれた。大正2年(1913年2月20日に辞任する(第3次桂内閣総辞職)までの内閣総理大臣通算在職日数は「2,886日」で、その後の百年以上に渡り日本の憲政史上最長となった。戦前戦後を通じて永らく歴代一位となる総理大臣在職日数であったが、令和元年(2019年11月20日に第90・96・97・98代内閣総理大臣安倍晋三が「2,887日」となり在職記録を更新された[2]

明治33年(1900年9月15日には、拓殖大学の前身である台湾協会学校を創立している。また、現在の獨協中学校・高等学校の前身である獨逸学協会学校の2代校長を明治20年(1887年)4月から同23年(1890年)7月まで務めた。第2次桂内閣時には韓国併合も行った(朝鮮の歴史大韓帝国日本統治時代の朝鮮)。

生涯[編集]

誕生から戊辰戦争まで[編集]

長州藩士時代の桂

長門国阿武郡萩町、萩城下平安古(ひやこ、現・山口県萩市平安古)にて、長州藩士馬廻役・桂與一右衛門(125石)の嫡男として生まれる。母は同藩士・中谷家の娘・喜代子。桂は125石の上士の長男で、母の実家の中谷家は180石。叔父の中谷正亮松下村塾のスポンサーだった。桂は入門しなかったが、それは吉田松陰が刑死したとき、数え年で13歳だったからである。しかし、中谷の甥であったことによって、桂がどれほど恵まれたかは計り知れないものがある。

幼少時に阿武郡川島村(現・萩市川島)に移り、万延元年(1860年)には藩の西洋式操練に参加して鼓隊に編入される。家柄の良い桂は当初は正規軍である「選鋒隊」に編入されたが、元治元年(1864年)、禁門の変などにより藩が存亡の窮地に立たされる中、7月に世子毛利元徳の小姓役となる。第2次長州征伐では志願して石州方面で戦う。

戊辰戦争では奥羽鎮撫副総督澤為量の参謀添役や第二大隊司令として奥羽各地を転戦し、敵情視察や偵察任務、連絡役など後方支援に従事した。秋田戦争では、まず庄内戊辰戦争春の陣で負け、奥羽列藩同盟の成立を許し、その後弘前藩に入藩することを拒否され、東北諸藩を説得できないふがいなさに能代では自殺も考えたものの、なんとか久保田藩を新政府側に寝返らせることに成功する。その後、7月11日金山の戦いで仙台藩軍に壊滅的な打撃を与え、新庄藩を寝返らせることに成功するものの、14日には人数では勝っているはずの新庄の戦い酒井吉之丞率いる庄内藩軍に負け、庄内藩仙台藩相手に、新政府軍の増援が到着するまで延々久保田藩内で撤退戦を行わざるを得なくなった。なぜか、戦後は「その軍功が評されて」賞典禄250石を受けている。彼の部下は約200名だったが戦死者が41名、負傷者が53名もいた。非常に高い死傷率といえるが、隊長の桂はかすり傷1つ負わなかったという。

明治維新後[編集]

明治3年(1870年)8月、桂は帝政ドイツに留学した。但し、賞典禄を元手にした私費留学であったことから現地での生活はかなり苦しく、ヨーロッパ使節団のためドイツへ来訪した木戸孝允を訪ね、官費留学への待遇切り替えを依頼している。木戸は桂の叔父・中谷正亮とは親しくしていたため、中谷の甥である桂にも目をかけていた。だが、木戸は帰国した明治6年(1873年)7月、政争の合い間に桂のために切り替え手続きを行ったものの、桂は10月半ばに留学を打ち切って帰国した。

木戸は陸軍卿山縣有朋に依頼し、桂を陸軍に入れて大尉に任命した。賞典禄250石を受けた軍歴からすれば佐官クラスであるが、山縣の「君が留学中に陸軍の秩序も整って、初任の場合はいきなり佐官にしないことになった。しばらく辛抱してくれ」との慰めに対し、桂は「秩序と規律は軍の根幹であります。大尉ではなく少尉の方が陸軍のためには良かったと思います」と返答している。さらに陸軍の興隆策についての下問に対して「帰国して日が浅いので何ともいえませんが、徴兵制が実現したことは欣快に存じます。後は兵士をどう訓練するかでしょう」と返答。これを聞いた山縣は大喜びだった。

大村益次郎が発案した徴兵制度を押し進めていた山縣は、士族出身者から白眼視されていた。桂は山縣の派閥に組み入れられたが桂の木戸に対する気配りは大変なもので、駐在武官となって赴任したドイツからも月に1度は手紙を出し、珍しいものを木戸夫人宛てに贈った。また、木戸宛ての宛名には「木戸尊大人様閣下」になっている。この仰々しい敬称にはかえって木戸の方で驚いたに違いないが、桂にはそれを平然とやってのける図太さがあった。

明治19年(1886年)、伊藤博文内閣は、陸軍の軍制改革に当たって、経費節減を命じた。陸軍省現役兵の帰休(予備役化)による縮小と、代人料(一時期導入されていた、金納による徴兵免除)制度の復活で、経費節減を実現しようとした。桂はこれに反対する目的で、川上操六川崎祐名と連名で、大山巌陸軍大臣宛に「軍政上改革に就き建議書」を提出した(公爵桂太郎伝. 乾巻 - 『公爵桂太郎伝 乾巻』 pp.411-416)。桂らの主張は、以下の内容だった。

  • 現役兵の帰休で節減できるのは「僅少の金額」であり、経費節減には抜本的な軍制改革が必要である。
  • 軍隊の目的は二つある。第一は、「單に敵國の襲来を防禦」し、局外中立を守るための目的で、欧洲の二等国の目的はこれである。
  • 第二は、「大いに武威を輝かし」、他国の干渉を受けずに「他働の兵を養ふ」目的で、欧洲の(多数の植民地を支配している)一等国の目的はこれである。
  • 本邦の軍制の目的は、「決して此第一に止まらず」第二の目的がある。欧洲の諸強國は、徴兵の任期は3-5年で、十分な教育を行って非常時に備えている。徴兵の途中で兵を帰休させてしまえば、十分な教育を施せず、帝國は二等国に甘んじるしかない。
  • 代人料を復活させれば、「資産品行あるもの」はみな徴兵免除を選ぶから、兵士の質が低下する。
  • 兵士の帰休と代人料復活が「大いに不可」なのは、一等国の軍制を二等国に後退させるばかりか、「未開の地位に退却」させてしまうからである。
  • 他省庁の手前、どうしても経費節減を免れないのなら、東京湾海防予算削減などを行うべきである。

大山は桂らの建議書に賛同したが、行政整理のためにさらなる調査を命じたという。

首相就任、日露戦争を勝利に導いた「第二流内閣」[編集]

束帯を着用した桂

日清戦争後[編集]

以後は山縣の引き立てもあり、順調に昇進を重ねた。日清戦争には名古屋大日本帝国陸軍第3師団長として出征した。1896年その後、台湾総督を経て、第3次伊藤内閣陸軍大臣になり、続く第1次大隈内閣に次ぎ、第2次山縣内閣でも陸相とともに山縣の参謀格を務め、明治33年(1900年)に発生した義和団の乱では中国に軍を出動させた。8月に動乱は終結したが、複雑な国際関係の中での出兵と国内の政争に心労を感じた桂は中央から距離を取るために転地療養に入った[3]。10月に第4次伊藤内閣が成立すると桂は離職の意思を示したが、明治天皇に一旦は慰留された。しかし、立憲政友会与党の内閣に違和感を感じた桂は政務に関与せず、再び辞意を示して12月に児玉源太郎と交代した。

伊藤博文は4回、山縣有朋と松方正義は各2回の首相経験があり、薩長閥の大物で残っているのは西郷従道井上馨の2名である。西郷は例によって兄の隆盛を持ち出して断ったが、井上は引き受ける決心をし、明治天皇による大命降下を受けて組閣にとりかかった。財政難を切り抜ける手腕のある大蔵大臣を誰にするか。すぐれた作戦家だが、軍政には適していない児玉を変えるかどうか。井上は蔵相に渋沢栄一、陸相に桂の再任を求めたが、両者に拒否されてあっさり組閣を断念した。

初の組閣[編集]

元老会議は桂を推し、明治天皇は桂に組閣を命じた。明治34年(1901年)6月、海相・山本権兵衛と陸相・児玉源太郎の留任を除いて、「小粒な内閣」たる第1次桂内閣が発足した。蔵相兼外務大臣曾禰荒助をはじめ、初めて大臣になるという官僚が大半で、その多くが内務省出身の山県閥官僚であった。

世人は「小山縣内閣」「第二流内閣」と揶揄したが、桂は批判に対して勅命が降下したのだから仕方が無い、というスタンスをとり続けた[3]。 桂は首相就任と同時に予備役となるはずであったが、天皇の意向により現役であり続けた。桂は9月に小村寿太郎を外相に起用した。日英同盟締結を推進するためで、桂は自伝で、自分と小村とは日露問題の解決は武力によるしかないと最初から覚悟していたと語っている(もっとも、この自伝について山縣は、桂本人に都合のいい作文みたいなものだと酷評している)。

1901年(明治34年)には、後に日本商工会議所の前身となる商業会議所の設置法を成立させ、各地における50名以下の選出議員からなる商業会議所の設立を推進した[4]。この商業会議所制度は、後継の商工会議所法により廃止される1927年まで続いた。

日露戦争[編集]

現実に日英同盟日露戦争において日本に有利に作用し、戦争そのものは大日本帝国海軍東郷平八郎、陸軍の大山巌の働きで勝利した。アメリカ合衆国ニューハンプシャー州ポーツマスでのロシア帝国との和平交渉(ポーツマス講和会議)は陰で米大統領セオドア・ルーズベルトを動かした金子堅太郎の努力で、何もかも成功した。桂は、明治天皇から参謀総長であった山縣の頭越しに戦争指導について諮詢を受けるなど、戦争運営を通じて強い信頼を得、自信を深めていった。

桂は「首相として称賛されるべき」だったが、国民的人気は湧かなかった。戦争の実状を国民に秘匿していたため、世界史上初めて有色人種の国家が白人国家を打ち破るという偉業を成し遂げたわけだが、「戦勝国にもかかわらず賠償金は獲得できず、割譲されて得た領土が樺太南部だけ」という結果に、民衆が不満を持っていたからである。ポーツマス講和条約]の内容に関する鬱積に端を発する日比谷焼打事件も、この第1次桂内閣の末に起こっている。

桂園時代[編集]

フロックコートを着用した桂

その後、桂は西園寺公望と交互に組閣して政権を担い、桂園時代(けいえんじだい)と呼ばれ、明治41年(1908年)7月から同44年(1911年)8月に第2次内閣、大正元年(1912年)12月から同2年(1913年)2月に第3次内閣を組閣し自身の最後の任期で政権を担う。

この桂園時代は立憲政友会原敬との攻防と「情意投合」、盟友である西園寺との信頼関係のもと、凋落する元老世代からの自立を図った時代でもある。第2次内閣の時代には、韓国併合朝鮮の歴史大韓帝国日本統治時代の朝鮮)や大逆事件による社会主義者への弾圧、関税自主権の回復による条約改正の達成などの業績を残した。

だが、それは山縣との間に微妙な亀裂を生み始める。2度の内閣での実績を盾に山縣からの自立を図り、さらに反政友会勢力を結集させた「桂新党」までも視野に入れた桂だったが、山縣はそれを許さなかった。山縣は、明治天皇の崩御(死去)により急きょ海外視察から帰国した桂に「新帝輔翼」の重要性を説き、内大臣侍従長として宮中に押し込めることで桂の政治的引退を図った。だが、二個師団増設問題を桂は巧みに利用し、第2次西園寺内閣の倒閣後、山縣自らが桂を擁立せざるを得ない状況へと誘導する。

大正政変からその死去[編集]

だが、第3次桂内閣の時に第一次護憲運動が起こり、これに対して桂は「桂新党」構想実現のための新政党(後の立憲同志会)を立ち上げて対抗しようとしたが、達成できないまま大正2年1913年2月20日、わずか62日で自身の政権退陣を余儀なくされた。

その後は病状が悪化し、6月には葉山鎌倉に転地し、8月には一時容態が小康となり9月に三田の本邸に戻る。10月には脳血栓を起こし、10月10日の午後4時に死去、享年67。遺体遺言により死後解剖され、「死因は、腹部に広がっていたと頭部動脈血栓である」と診断された。

葬儀は10月19日に増上寺で行われ、葬儀の会葬者は数千人にのぼり、8ヶ月前に桂政権を打倒したはずの民衆までも大挙して押し寄せた。

墓所[編集]

墓所は生前の桂の遺言により、吉田松陰を祀る松陰神社(東京都世田谷区)に隣接して建立されている。

人物[編集]

桂太郎は通称、「ニコポン宰相」(ニコポンさいしょう)と呼ばれた。命名者は「東京日日新聞」記者の小野賢一郎で、「桂がニコニコ笑って肩をポンと叩き、政治家や財界人を手懐けるのに巧みだったため、新聞にそう書いた」と言われている。

背が低い(低身長な)わりに頭が大きく、腹がふくれた姿が七福神大黒天に似ていたので、「大黒様」「巨頭公」とも呼ばれたとされる。

栄典[編集]

位階
勲章等
外国勲章佩用允許

家族・親族[編集]

桂家[編集]

本姓大江氏。『日本の名家・名門 人物系譜総覧』246頁によれば、

「桂家は、三度首相に就いた桂太郎を出した家。同家は毛利元就と同族で、相模国津久井から出た氏で、元就の重臣としては桂元澄がいる。陶晴賢を厳島に誘い出して討つことに成功したのは、この元澄の働きによる。」という。

子女[編集]

3回結婚、5男5女、計10人の子女を儲けた(うち1人は愛人との間に儲けた庶子)[28][29]

  • 最初の妻歌子(旧姓は野田。1874年結婚、1886年没)との間に1男2女。
  • 2番目の妻貞子(旧姓・宍道、歌子の兄の未亡人、1886年結婚、1890年没)との間に1男1女。
  • 愛妾中村ウラ子との間に1女を儲けた。
  • 3番目の妻可那子(1875年 - 1940年[31]、かな子、加那子とも)は、元々村上浜次郎の娘で名古屋の上前津の料亭「旗亭香雪軒」の経営者・木村常次郎の養女となり[32]、桂が第三師団長になった際、再三この店を訪れ、27歳年下の可那子を見染めた。1891年より事実婚、1898年に井上馨の養女として桂と結婚。2人の間に3男1女。[31]
    • 四郎(1893年) - 早世
    • 五郎(1895年 - ?)
    • 寿満子(1897年 - 1930年、須磨子とも) - 首相伊藤博文の庶子文吉と結婚
    • 新七(1899年 - ?)
  • 三男の三郎は、井上馨の養嗣子井上勝之助の養子となり井上家を継ぐ。更に三郎と勝之助の養女千代子(馨の実子)の間に生まれた井上光貞は、歴史学者として活躍した。
  • 愛妾として知られる芸者・お鯉(安藤照)とは日露戦争中に山縣の紹介で知り合った。病弱だった本妻可那子に代わり桂の世話をし、総理官邸に「お鯉の間」が設けられたり、日比谷焼打事件では妾宅が襲撃の対象になったりした。関西をお鯉と訪れる際には「松風閣」とよばれる財界人の清遊の場にたびたび宿泊している。「松風閣」は現在も大阪府箕面市の箕面観光ホテル内に「桂別邸」として存在する。

脚注[編集]

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注釈[編集]

  1. ^ 林茂千葉功など。伊藤之雄大久保利謙は否定している[1]
  2. ^ 陸海軍大将のなかでも軍功が抜群な者は特にこれを終身現役の大将として元帥の称号を冠することを許し、彼らが大元帥たる天皇の軍事面における最高顧問となった。したがって元帥は軍人としては最高の栄誉に他ならなかったが、軍人としての器よりも政治家としての器の方がはるかに大きかった桂にとって、それはなによりも有難迷惑なものでしかなかった。伊藤博文政友会にならって自身も新党を結成し、今後とも議会政治に対する影響力を一層伸張していくことを模索していた桂は、元帥府に列して現役軍人の身分が生涯つきまとうと、それが自身が望む政党党首となることを否定するものとなるばかりか、一政治家としての政治活動さえも著しく制限するものになることを嫌ったのである。

出典[編集]

  1. ^ 伊藤之雄『元老―近代日本の真の指導者たち』中央公論新社、2016年。
  2. ^ 安倍首相、在職日数が歴代最長に 106年ぶり更新”. 朝日新聞. (2019年11月19日) 2019年12月3日閲覧。
  3. ^ a b 澤村修治『天皇のリゾート:御用邸をめぐる近代史』図書新聞 2014年 ISBN 9784886114600 pp.157-174.
  4. ^ 商業会議所法』(明治34年3月25日法律第31号)、官報国立国会図書館
  5. ^ 『官報』第621号「叙任及辞令」1885年7月27日。
  6. ^ 『官報』第1003号「叙任及辞令」1886年11月1日。
  7. ^ 『官報』第2086号「叙任及辞令」1890年6月14日。
  8. ^ 『官報』第3991号「叙任及辞令」1896年10月15日。
  9. ^ 『官報』第7770号「叙任及辞令」1909年5月22日。
  10. ^ 『官報』第363号「叙任及辞令」1913年10月13日。
  11. ^ 『官報』第718号「賞勲叙任」1885年11月20日。
  12. ^ 『官報』第1929号「叙任及辞令」1889年12月2日。
  13. ^ 『官報』第2357号「叙任及辞令」1891年5月12日。
  14. ^ 『官報』第3644号「叙任及辞令」1895年8月21日。
  15. ^ 『官報』第5548号「叙任及辞令」1901年12月28日。
  16. ^ 『官報』第5593号「叙任及辞令」1902年2月28日。
  17. ^ 『官報』号外「叙任及辞令」1907年1月28日。
  18. ^ 『官報』第7272号「授爵敍任及辞令」1907年9月23日。
  19. ^ 『官報』第7771号「叙任及辞令」1909年5月24日。
  20. ^ コマ4「◯授爵、敍任及辭令 ◯明治四十四年四月二十二日 …依偉勲特陞授公爵 正二位大勲位功三級侯爵 桂太郎…」
  21. ^ 『官報』第205号・付録「辞令」1913年4月9日。
  22. ^ コマ5「◯宮廷錄事 ◯勅書 一昨二十二日陸軍大將公爵桂太郎ニ對シ左ノ勅書ヲ賜ハリタリ
    朕陸軍大將正二位大勲位功三級公爵桂太郎ヲ待ツニ特ニ大臣ノ禮ヲ以テシ茲ニ元勲優遇ノ意ヲ昭ニス」
  23. ^ 勅語類・大正詔勅・乾:桂公爵ニ賜フ勅書』 アジア歴史資料センター Ref.A14110303800 
  24. ^ コマ2
  25. ^ 『官報』第5365号「叙任及辞令」1901年5月24日。ただし同報では「フランス共和国グランオフィシェードロルドルナショナルドラレジョンドノール勲章」と記載。
  26. ^ 『官報』第6893号「叙任及辞令」1906年6月22日。ただし同報には「ローマ法王ピーヌーフ第一等勲章」と記載。
  27. ^ 『官報』第8123号「叙任及辞令」1910年7月20日。
  28. ^ 宇野(2006年)、P272 - P275、P284 - P285。
  29. ^ 竹内正浩『「家系図」と「お屋敷」で読み解く歴代総理大臣 明治・大正篇』(実業之日本社、2017年)P116 - P118
  30. ^ コマ8「◯彙報 ◯華族卒去 公爵桂太郎長男正五位桂與一ハ一昨十六日卒去セリ」
  31. ^ a b 「桂太郎(明治の首相)が、軍人として名古屋に来たとき知り合った女性(のちに夫人となる)について知りたい。」 - レファレンス協同データベース
  32. ^ 『明治美人伝』長谷川時雨

関連文献[編集]

翻刻史料
  • 『桂太郎自伝』(宇野俊一校注、平凡社東洋文庫、1993年) ISBN 4582805639
    存命中に本人が執筆、原本は憲政資料室所蔵「桂太郎関係文書」書類の部に拠る。
  • 『桂太郎関係文書』(千葉功編、東京大学出版会、2010年) ISBN 978-4-13-026222-4
    「桂太郎関係文書」と、早稲田大学中央図書館特別資料室所蔵の「桂太郎旧蔵諸家書翰」のうち、桂太郎宛ての書簡を翻刻・編集した資料集。巻末解説で、桂が死去した際桂家にあった書簡・書類など桂家文書の現在にいたるまでの伝来を記す。
  • 『桂太郎発書翰集』(千葉功編、東京大学出版会、2011年) ISBN 978-4-13-026226-2
    前年出版の『桂太郎関係文書』(桂宛書簡集)に対応した桂自身による書簡を翻刻した資料集。
刊行書籍

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

公職
先代:
伊藤博文
西園寺公望
西園寺公望
日本の旗 内閣総理大臣
第11代:1901年6月2日 - 1906年1月7日
第13代:1908年7月14日 - 1911年8月30日
第15代:1912年12月21日 - 1913年2月20日
次代:
西園寺公望
西園寺公望
山本権兵衛
先代:
内田康哉
日本の旗 外務大臣
第25代:1912年 - 1913年(兼任)
次代:
加藤高明
先代:
徳大寺実則
日本の旗 内大臣
1912年
次代:
伏見宮貞愛親王
先代:
徳大寺実則
日本の旗 侍従長
1912年
次代:
鷹司煕通
先代:
松田正久
日本の旗 大蔵大臣
第13代:1908年7月14日 - 1911年8月30日(兼任)
次代:
山本達雄
先代:
久保田讓
日本の旗 文部大臣
第19代:1905年12月14日 - 1906年1月7日(兼任)
次代:
西園寺公望(臨時兼任)
先代:
児玉源太郎
日本の旗 内務大臣
第18代:1903年10月22日 - 1904年2月20日(兼任)
次代:
芳川顕正
先代:
高島鞆之助
日本の旗 陸軍大臣
第5代:1898年1月12日 - 1900年12月23日
次代:
児玉源太郎
先代:
樺山資紀
日本の旗 台湾総督
第2代:1896年6月2日 - 同10月14日
次代:
乃木希典
軍職
先代:
黒川通軌
War flag of the Imperial Japanese Army.svg 第3師団長
第2代:1891年6月1日 - 1896年6月2日
次代:
長谷川好道
爵位
先代:
陞爵
公爵
桂家初代
1911年 - 1913年
次代:
桂広太郎
先代:
陞爵
侯爵
桂家初代
1907年 - 1911年
次代:
陞爵
先代:
陞爵
伯爵
桂家初代
1902年 - 1907年
次代:
陞爵
先代:
叙爵
子爵
桂家初代
1895年 - 1902年
次代:
陞爵