岡部長景
岡部 長景(おかべ ながかげ、1884年(明治17年)8月28日 - 1970年(昭和45年)5月30日)は、昭和初期の日本の外交官・政治家。子爵。
人物[編集]
子爵岡部長職の嫡男として東京に生まれる。父の死去に伴い、1926年3月15日、子爵を襲爵した[1]。
学習院初等科、学習院中等科、学習院高等科から東京帝国大学卒業。外務省に入省して文化事業部長、宮内省に転じ内大臣秘書官長、1930年貴族院議員、宮内省式部次長、陸軍政務次官、大政翼賛会総務、1943年東條英機内閣で文部大臣、学徒勤労動員を実施した。
占領期にはGHQにより、戦犯容疑で逮捕拘束されて、22ヵ月巣鴨拘置所にいた。不起訴となり釈放。その後公職追放される[2]。
講和後は東京国立近代美術館館長、国際文化振興会理事長(国際連盟脱退直後の1934年に設立した、日本で最初の国際文化交流事業のための機関で、現在は国際交流基金)に就いた。
貴族院議員達とゴルフを通じて交流することが多かった。主な交流相手は三井弁蔵と長景の妹の栄子夫妻。他に織田、黒木、西尾などの名前が彼の日記からは出てくるが、これらは織田信恒、黒木三次、西尾忠方らだと考えられている。
栄典[編集]
家族・親族[編集]
父・岡部長職は和泉岸和田藩の第13代(最後)の藩主。実弟には元朝日新聞社社長・村山長挙、昭和天皇侍従を務めた岡部長章[4]がいる。
母親は長職の先妻青山錫子。郡上八幡藩藩主青山幸哉の子で、長景が3歳の時に死別している。兄弟姉妹は13人おり、同腹の姉の清子(すがこ)に錘子(まさこ)、異母弟妹は11人で、長剛(ながたけ)、長挙(ながたか)、栄子(さきこ)、豊子(とよこ)、長世(ながよ)、盈子(みつこ)、長量(ながかず)、久子(ひさこ)、長建(ながたつ)、長伸(ながのぶ)、長章(ながあきら)である。
長景の妻・悦子は加藤高明の長女で東京女子高等師範学校附属高等女学校を卒業した[5]。悦子との間に息子長衡(東京帝大工学部卒業後軍人)[5]。加藤高明の妻・春路(悦子の母)は三菱財閥の創業者・岩崎弥太郎の長女であり、長景の末弟・長章の妻は岩崎輝弥(岩崎弥之助の三男)の長女・妙子。岡部家は三菱の創業者一族・岩崎家と二重の姻戚関係を持っているといえる。
文献[編集]
脚注[編集]
関連項目[編集]
- 幣原喜重郎 - 岡部家の系図が一部掲載されている(系図自体は幣原家、および幣原家と直接の姻戚関係を持つ岩崎家と古在家が中心である)
- 東方文化事業・東方文化学院 - 外務省文化事業部長として実務に携わった。
- 大日本運動 - 大日本運動結成の宣誓式で玉串拝礼を行った。
- 村田陶苑 - 岡部長景の勧めにより第1回個展を三越本店で開催。三笠宮夫妻、高松宮妃が来場した。
外部リンク[編集]
先代: 岡部長職 |
岡部家(旧岸和田藩主)当主 第14代:1926年 - 1970年 |
次代: 岡部長衡 |
公職 | ||
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先代: 東條英機(兼任) |
![]() 第58代:1943年 - 1944年 |
次代: 二宮治重 |
日本の爵位 | ||
先代: 岡部長職 |
子爵 (岸和田)岡部家第2代 1926年 - 1947年 |
次代: 華族制度廃止 |
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