長谷場純孝

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索
日本の旗 日本の政治家
長谷場 純孝
はせば すみたか
Sumitaka Hasebe.jpeg
生年月日 1854年4月27日
(旧暦嘉永7年4月1日
出生地 日本の旗薩摩国日置郡串木野村
没年月日 1914年3月15日(満59歳没)
死没地 日本の旗 日本 東京府
称号 勲三等瑞宝章

日本の旗 第17代 衆議院議長
在任期間 1914年3月7日 - 1914年3月15日

日本の旗 第22代 文部大臣
内閣 第2次西園寺内閣
在任期間 1911年8月30日 - 1912年11月9日

日本の旗 第14代 衆議院議長
在任期間 1908年12月23日 - 1911年9月6日
テンプレートを表示

長谷場 純孝(はせば すみたか、嘉永7年4月1日1854年4月27日) - 大正3年(1914年3月15日)は、日本の政治家

衆議院議員(11期)。

経歴[編集]

薩摩国日置郡串木野村(現在の鹿児島県いちき串木野市)出身。父は鹿児島藩の郷士。1871年に東京に上京。1872年、警視庁の羅卒(巡査)となり、少警部に進む。1877年、故郷へ戻って私学校に入り、西南戦争には西郷隆盛方として参加し、捕虜となる。1880年、特赦により出獄。

出獄後より国会開設運動に携わり、1885年から1887年まで鹿児島県会議員、1887年から1890年まで鹿児島の4郡の郡長となる[1]。1890年の第1回衆議院議員総選挙で鹿児島県から当選し、以降11回連続当選。のち政友会設立に関わる。1908年から1911年にかけて1度目の衆議院議長を務めた。また、1911年の第2次西園寺内閣文部大臣を務めるが、翌年病にかかり辞任。1914年、2度目の衆議院議長に就任し、シーメンス事件での混乱の中、議会の運営に当たるが、就任わずか9日で動脈瘤破裂のため急死する[2]

栄典[編集]

関連項目[編集]

脚注[編集]

[ヘルプ]
  1. ^ 朝日日本歴史人物事典
  2. ^ 服部敏良『事典有名人の死亡診断 近代編』(吉川弘文館、2010年)238頁
  3. ^ 『官報』第8257号、「叙任及辞令」1910年12月28日。
  4. ^ 『官報』第124号、「叙任及辞令」1912年12月27日。


議会
先代:
杉田定一
大岡育造
日本の旗 衆議院議長
第14代:1908年 - 1911年
第17代:1914年
次代:
大岡育造
奥繁三郎
公職
先代:
小松原英太郎
日本の旗 文部大臣
第22代:1911年 - 1912年
次代:
牧野伸顕(臨時代理)