大島健一
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年譜形式の経歴は推奨されていません。人物の伝記は流れのあるまとまった文章で記述し、年譜は補助的な使用にとどめてください。(2018年5月) |
| 大島 健一 おおしま けんいち | |
|---|---|
|
1917年 | |
| 生年月日 |
1858年6月19日 (安政5年5月9日) |
| 出生地 |
(現:岐阜県恵那市) |
| 没年月日 | 1947年3月24日(88歳没) |
| 出身校 | 陸軍士官学校卒業 |
| 前職 | 陸軍次官 |
| 称号 |
従四位 勲一等旭日桐花大綬章 功五級金鵄勲章 |
| 配偶者 | 大島磯陽 |
| 子女 |
大島浩(長男) 箕作長江(長女) |
| 親族 | 箕作祥一(孫) |
| 内閣 |
第2次大隈内閣 寺内内閣 |
| 在任期間 | 1916年3月30日 - 1918年9月29日 |
| 選挙区 | 貴族院勅選議員 |
| 在任期間 | 1920年6月2日 - 1946年 |
大島 健一(おおしま けんいち、1858年6月19日(安政5年5月9日) - 1947年(昭和22年)3月24日)は、日本の陸軍軍人、政治家。最終階級は陸軍中将。陸軍大臣、貴族院勅選議員、大東文化学院総長(第3代)などを歴任した。
陸軍中将、駐ドイツ大使の大島浩は長男、日本大学農獣医学部教授を務めた箕作祥一は孫。
陸軍大臣期間[編集]
第一次世界大戦でドイツ帝国が敗戦した際、大島は第2次大隈内閣から留任した陸軍大臣として、板東俘虜収容所(徳島県鳴門市大麻町桧、旧板野郡板東町)、松山俘虜収容所などを開設し、青島膠州湾租借地のドイツ兵を収容した[1]。板東俘虜収容所ではルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンの交響曲第9番が、俘虜のパウル・エンゲルやヘルマン・ハンゼンらにより、日本で初めて全曲演奏された。
ただし1918年1月8日から検討が開始されたパリ講和会議とヴェルサイユ条約締結手続のなかで、日本政府は膠州湾海底ケーブル所有権を含めドイツ帝国の山東権益の無条件譲渡を主張して山東問題に直面し、中国及びアメリカ合衆国からの非難を浴びた。内閣はシベリア出兵付随の米騒動や、河内事故などの影響で9月29日に内閣総辞職し、大島は予備役編入となった。
略歴[編集]
- 1858年 - 美濃国岩村藩(現岐阜県恵那市、旧恵那郡岩村町)の藩士の子として生まれる[2]。奥三河・稲武の豪農・篤志家古橋家にて初期教育を受ける。
- 1881年(明治14年)- 陸軍士官学校(旧4期)卒業。ドイツ留学を経験。
- 1894年(明治27年)- 日清戦争。山縣有朋の信任を受け、第1軍の副官を務める。
- 1902年(明治35年)
- 1904年(明治37年)- 日露戦争。大本営勤務。この後は参謀本部勤務となる。
- 1907年(明治40年)
- 1908年(明治41年)
- 1912年(明治45年・大正元年)
- 1913年(大正2年)
- 8月22日~1947年(昭和22年)3月24日 - 陸軍中将[7]。
- 1914年(大正3年)
- 1916年(大正5年)
- 1919年(大正8年)- 予備役に編入。
- 1920年(大正9年)6月2日- 貴族院勅選議員[14]
- 1926年(大正15年) - 大東文化学院総長(第3代)に就任。
- 1940年(昭和15年)- 枢密顧問官。1946年(昭和21年)まで務める。
- 1946年(昭和21年)- 公職追放となる[15]。
栄典[編集]
- 位階
- 1885年(明治18年)7月25日 - 従七位[16]
- 1891年(明治24年)12月28日 - 正七位[17]
- 1895年(明治28年)3月28日 - 従六位[18]
- 1913年(大正2年)1月30日 - 従四位[19]
- 勲章等
- 1889年(明治22年)11月29日 - 大日本帝国憲法発布記念章[20]
- 1895年(明治28年)
- 1900年(明治33年)5月31日 - 勲五等瑞宝章[23]
- 1905年(明治38年)5月30日 - 勲四等瑞宝章[24]
- 1908年(明治41年)7月13日 - 勲二等旭日重光章[25]
- 1915年(大正4年)11月10日 - 大礼記念章(大正)[26]
- 1916年(大正5年)
- 1920年(大正9年)11月1日 - 勲一等旭日桐花大綬章
- 外国勲章佩用允許
その他[編集]
- 文人としても知られ、雅号を蘇谷という。数多くの漢詩を残している。
- 「陸軍大臣まで務めながら、薩長の藩閥に属していなかった為に生涯大将になることは出来なかった」と言われることがあるが、これは誤り。陸軍省人事局長を務めた額田坦中将(陸士29期)によると、本人が「自分は戸籍の間違いで既に中将の退職年限に達しているので大将親任の資格は無い」と自ら申し出て、大将親任を断ったとのことである。また長州閥ではなかったが、山縣有朋元帥附副官を務めてその手腕を認められたのがその後の栄達のきっかけであり、準長州閥と見られていた。
家族・親族[編集]
脚注[編集]
- ^ 1917年4月11日官報『大正6年陸軍省告示第7、8号』。大蔵省印刷局、1917年。
- ^ ただし宮武外骨は「前陸軍大臣であつた大島中将は岐阜県の特殊部落の出身であると云ふ事が先年大阪の朝日新聞に出て居たが、果して其事が真ならば、我は旧穢多族なりと叫んで貰ひたい」と発言している(1919年8月13日、平民大学講演会での発言)。このとき臨監の警官は中止を命じたが、外骨は屈せず、これを『赤』第6号に発表している。『宮武外骨著作集』第8巻(河出書房新社)解説「宮武外骨と『穢多』の語」(師岡佑行)を参照。
- ^ a b 『官報』第5589号「叙任及辞令」1902年2月24日。
- ^ a b c 『官報』第5753号「叙任及辞令」1902年9月5日。
- ^ a b c 『官報』第5841号「叙任及辞令」1902年12月20日。
- ^ a b c d 『官報』第7315号「叙任及辞令」1907年11月14日。
- ^ a b 『官報』第321号「叙任及辞令」1913年8月23日。
- ^ a b c d 『官報』第7648号「叙任及辞令」1908年12月22日。
- ^ 『官報』第7370号「叙任及辞令」1908年1月23日。
- ^ a b 『官報』第8654号「叙任及辞令」1912年4月27日。
- ^ 『官報』第7941号「叙任及辞令」1909年12月11日。
- ^ a b 『官報』第514号「叙任及辞令」1914年4月18日。
- ^ a b 『官報』号外「叙任及辞令」1916年3月30日。
- ^ 『官報』第2350号、大正9年6月3日。
- ^ 『朝日新聞』1946年9月26日一面
- ^ 『官報』第677号「叙任」1885年10月1日。
- ^ 『官報』第2551号「叙任及辞令」1892年1月4日。
- ^ 『官報』第3521号「叙任及辞令」1895年3月29日。
- ^ 『官報』第150号「叙任及辞令」1913年1月31日。
- ^ 『官報』号外「叙任及辞令」1889年12月29日。
- ^ 『官報』第3693号「叙任及辞令」1895年10月19日。
- ^ 『官報』第3824号・付録「辞令」1896年4月1日。
- ^ 『官報』第5072号「叙任及辞令」1900年6月1日。
- ^ 『官報』第6627号「叙任及辞令」1905年8月2日。
- ^ 『官報』第7514号「叙任及辞令」1908年7月14日。
- ^ 『官報』第1310号・付録「辞令」1916年12月13日。
- ^ 『官報』第1038号「叙任及辞令」1916年1月20日。
- ^ 『官報』第1187号「叙任及辞令」1916年7月15日。
- ^ 『官報』第4005号「叙任及辞令」1896年11月2日。
外部リンク[編集]
| 公職 | ||
|---|---|---|
| 先代: 岡市之助 |
1916年 - 1918年 |
次代: 田中義一 |
| 学職 | ||
| 先代: 井上哲次郎 |
大東文化学院総長 第3代 : 1926年 - 1927年 |
次代: 鵜澤總明 |
| ||||||