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安東貞美

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
安東あんどう 貞美さだよし
安東貞美
生誕 1853年9月21日
嘉永6年8月19日
江戸幕府信濃国伊那郡飯田城下追手町(現:長野県飯田市
死没 (1932-08-29) 1932年8月29日(78歳没)
大日本帝国の旗 日本東京府東京市牛込区市ケ谷加賀町(現:東京都新宿区
所属組織  大日本帝国陸軍
軍歴 1872年 - 1918年
最終階級 陸軍大将
指揮 台湾総督
第12師団
第10師団
戦闘 西南戦争
日露戦争
勲章 勲一等旭日桐花大綬章
功二級金鵄勲章
墓所 青山霊園
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安東 貞美
あんどう さだよし
称号 従二位
勲一等旭日桐花大綬章
功二級金鵄勲章
男爵
配偶者 安東家栄
子女 安東貞雄(長男)
親族 安東辰武(父)
柳田直平(兄)
本郷義夫(娘婿)
桑木厳翼(娘婿)
第6代 台湾総督
在任期間 1915年5月1日 - 1918年6月6日
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安東 貞美(あんどう さだよし[1]/ていび[2]/さだみ[3]1853年9月21日嘉永6年8月19日〉- 1932年昭和7年〉8月29日)は、日本の陸軍軍人朝鮮駐剳軍司令官第10師団長第12師団長台湾総督などを歴任した。階級は陸軍大将従二位勲一等功二級。勲功により男爵に叙爵された。

信濃国伊那郡南部の信濃飯田藩の槍術師範・安東辰武の三男として生まれる。父の辰武は同国松本藩槍術師範・菅沼政治の子で、飯田藩士・安東辰置の養子となり、辰置の長女志記と結婚した。志記との間に長男欽一郎を儲けるが、志記が早くに亡くなった為、島地菊子を娶った。これが貞美の生母で、貞美の同母兄には後に大審院判事となる柳田直平(1849-1932、柳田家に養子・柳田國男義父)が、弟には中学校教師となる安東武雄がいる。

1870年明治3年)12月、大阪陸軍兵学寮に入った貞美は1872年(明治5年)6月にこれを卒業し、陸軍少尉心得に任じられる。翌年5月には陸軍少尉に進み、1874年(明治7年)11月、陸軍中尉に進む。1876年(明治9年)8月、東京鎮台歩兵第1連隊中隊長心得を命ぜられ、1877年(明治10年)3月、征討別働第2旅団に編入され西南戦争に出征する。この戦役で負傷し、同年5月には大尉に進む。1878年(明治11年)4月の陸軍士官学校附の後、1883年(明治16年)2月には歩兵少佐に進級し歩兵第2連隊第3大隊長を命ぜられる。1884年(明治17年)2月に陸軍士官学校教官、1886年(明治19年)4月に参謀総長伝令使となり、1887年(明治20年)3月に参謀本部の第3局第1課長に就任する。翌年5月には第1局員に移り、1889年(明治22年)8月に再び陸軍士官学校教官となる。1891年(明治24年)4月、歩兵中佐に進み1893年(明治26年)8月7日には陸軍戸山学校長に就任する。1894年(明治27年)8月30日、鉄道線区司令官に移り、同年12月1日には歩兵大佐進級を経て1896年(明治29年)9月28日には陸軍士官学校長に就任する。後に専ら中将が補された陸軍士官学校長であるが、この頃は大佐が充てられることが続いていた。

1897年(明治30年)9月28日、歩兵第6連隊長に移り、1898年(明治31年)10月1日には陸軍少将に任じられ、台湾守備混成第2旅団長に就任する。1899年(明治32年)8月26日、歩兵第19旅団長に移り、1904年(明治37年)3月の動員下令を以って日露戦争に出征する。1905年(明治38年)1月15日、陸軍中将に進級し第10師団長に親補される。日露戦争の功により1906年(明治39年)4月12日には功三級金鵄勲章を受章する。1907年(明治40年)9月12日には男爵の爵位を授けられ、華族に列せられる。1910年(明治43年)8月26日、第12師団長に移り、1912年(明治45年)2月14日には朝鮮駐剳軍司令官に親補される[4]

1915年大正4年)1月25日、陸軍大将進級と共に待命となるが、同年5月1日には佐久間左馬太の後を受け台湾総督に就任する。就任早々、日本人95人が殺害される西来庵事件がおこった。1918年(大正7年)6月6日には待命となり、同年8月19日には後備役編入、1923年(大正12年)4月には退役となった。

1932年(昭和7年)8月29日、薨去。同日付で勲一等旭日桐花大綬章を受章する。

位階
爵位
勲章等
受章年 略綬 勲章名 備考
1878年(明治11年)6月22日 勲五等旭日双光章
1884年(明治17年)11月13日 勲四等旭日小綬章[14]
1893年(明治26年)11月29日 勲三等瑞宝章[15]
1895年(明治28年)10月18日 旭日中綬章[16]
1895年(明治28年)11月18日 明治二十七八年従軍記章[17]
1902年(明治35年)11月29日 勲二等瑞宝章[18]
1906年(明治39年)4月1日 功二級金鵄勲章[19]
1906年(明治39年)4月1日 勲一等旭日大綬章[19]
1906年(明治39年)4月1日 明治三十七八年従軍記章[19]
1915年(大正4年)11月7日 大正三四年従軍記章[20]
1915年(大正4年)11月10日 大礼記念章(大正)[20]
1932年(昭和7年)8月29日 旭日桐花大綬章[21]
外国勲章佩用允許
受章年 国籍 略綬 勲章名 備考
1911年(明治44年)5月2日 清 大清帝国 頭等第三双竜宝星中国語版[22]
賞杯等
  1. 安東貞美 (初版) - 『人事興信録』データベース”. jahis.law.nagoya-u.ac.jp. 2024年4月4日閲覧。
  2. 安東貞美関係文書 | 憲政資料(憲政資料室) | リサーチ・ナビ | 国立国会図書館”. 国立国会図書館 (2023年11月27日). 2024年4月4日閲覧。
  3. 官僚の経歴を見る|公文書に見る外地と内地 -旧植民地・占領地をめぐる人的還流-”. 国立公文書館アジア歴史資料センター. 2024年4月4日閲覧。
  4. 『官報』第8594号「叙任及辞令」1912年2月15日。
  5. 『官報』第2551号「叙任及辞令」1892年1月4日。
  6. 『官報』第3467号「叙任及辞令」1895年1月22日。
  7. 『官報』第4603号「敍任及辞令」1898年11月1日。
  8. 『官報』第6135号「敍任及辞令」1903年12月12日。
  9. 『官報』第6742号「敍任及辞令」1905年12月19日。
  10. 『官報』第7678号「敍任及辞令」1909年2月2日。
  11. 『官報』第468号「叙任及辞令」1914年2月21日。
  12. 『官報』第1840号「叙任及辞令」1918年9月19日。
  13. 『官報』第7272号「授爵敍任及辞令」1907年9月23日。
  14. 『官報』第420号「賞勲叙任」1884年11月20日。
  15. 『官報』第3127号「叙任及辞令」1893年11月30日。
  16. 『官報』第3693号「叙任及辞令」1895年10月19日。
  17. 『官報』第4029号・付録「辞令」1896年12月2日。
  18. 『官報』第5824号「叙任及辞令」1902年12月1日。
  19. 1 2 3 『官報』号外「叙任及辞令」1906年12月30日。
  20. 1 2 『官報』第1310号・付録「辞令」1916年12月13日。
  21. 『官報』第7272号「敍任及辞令」1907年9月23日。
  22. 『官報』第8371号「敍任及辞令」1911年5月20日。
  23. 『官報』第4926号「彙報 - 褒賞」1899年12月1日。
  24. 『官報』第264号「彙報 - 褒賞」1913年6月17日。
  25. 『官報』第1389号「彙報 - 褒賞」1917年3月22日。
  26. 『官報』第2830号「宮廷録事 - 恩賜」1922年1月11日。
  27. 『官報』第1510号「宮廷録事 - 恩賜」1932年1月15日。
  28. 1 2 柳田直平(やなぎだなおひら) 谷中・桜木・上野公園路地裏徹底ツアー
軍職
先代
上田有沢
朝鮮駐箚軍司令官
第5代:1912年2月14日 - 1915年1月25日
次代
井口省吾
先代
浅田信興
第12師団長
第4代:1910年8月26日 - 1912年2月14日
次代
山根武亮
先代
川村景明
第10師団長
第3代:1905年1月15日 - 1910年8月26日
次代
小泉正保
先代
波多野毅
歩兵第19旅団
1899年8月26日 - 1905年1月15日
次代
林太一郎
先代
松村務本
台湾守備混成第2旅団
1898年10月1日 - 1899年8月26日
次代
山中信儀
先代
高井敬義
歩兵第6連隊長
1897年9月28日 - 1898年10月1日
次代
南部辰丙
先代
波多野毅
陸軍士官学校長
第13代:1896年9月25日 - 1897年9月28日
次代
中村雄次郎
先代
原口兼済
陸軍戸山学校長
1893年8月7日 - 1896年9月25日
次代
原口兼済
先代
山内長人
陸軍士官学校次長
1890年 - 1893年
次代
(廃止)
日本の爵位
先代
叙爵
男爵
安東(貞美)家初代
1907年 - 1932年
次代
安東貞雄