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陸軍戸山学校

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

陸軍戸山学校(りくぐんとやまがっこう)は、大日本帝国陸軍軍学校(実施学校)の一つである。歩兵戦技射撃銃剣術剣術など)、歩兵部隊戦術体育軍楽の教官・生徒育成と研究を行い、また陸軍を代表する軍楽隊として陸軍戸山学校軍楽隊を有していた。

所在地は牛込区戸山町(現在の東京都新宿区戸山、都立戸山公園箱根山地区およびその周辺)。麹町区から移転してきた陸軍軍医学校が近接していた。

歩兵戦技・体育の教官育成と研究については現在の自衛隊体育学校に、軍楽については陸上自衛隊中央音楽隊教育科に、それぞれ相当する機関である。

概要

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兵科中尉少尉下士官を対象とする甲種学生には、体操、剣術、銃剣術などの訓練を行った。乙種学生は各隊の喇叭長が対象で、喇叭譜の訓練を実施。軍楽生徒は、軍楽部を志す者から選抜し教育した。

この学校で、陸軍の射撃、銃剣術、短剣術、軍刀術(両手軍刀術片手軍刀術)などの歩兵戦技が制定された。当初はフランス陸軍から教官を招聘し、フェンシングとフランス式銃剣術を訓練していたが、後に日本式の軍刀術と銃剣術に改めた。これらは太平洋戦争後、銃剣術・短剣術は競技武道の銃剣道短剣道となり、陸上自衛隊でも訓練されている。この他、軍刀操法も研究されていたが、これは居合道流派の戸山流となって、現在は民間団体で稽古されている。

日本陸上競技選手権大会の第1回から第3回大会までは、陸軍戸山学校運動場で開催された[1]

跡地には、国立国際医療研究センターが所在する。

陸軍戸山学校軍楽隊

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ギャラリー

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編制

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明治45年時点での編制は以下。

  • 本部
    • 校長
    • 副官
    • 主計
    • 軍医
  • 体操科
  • 剣術科
  • 射撃科
  • 学生隊
  • 軍楽生徒隊
  • 体操科士官学生

大正・昭和期の記録は戦災により散逸している。

沿革

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1873年(明治6年)6月22日、旧尾張藩下屋敷跡に陸軍兵学寮戸山出張所が設置。初代教頭は兵学頭の曽我祐準少将。同年8月20日、各鎮台(後の師団)から招集した上、下士官の訓練事務を始めた。

1874年(明治7年)2月4日、陸軍戸山学校と改称。射撃、銃剣術、体操、攻守戦法、操練、諸勤務、喇叭を教授した。

1875年(明治8年)4月、村田経芳少佐が射撃研究を開始。

1879年(明治12年)6月27日、明治天皇臨幸。同年8月、アメリカ合衆国のユリシーズ・グラント大統領が戸山学校を訪問。

1885年(明治18年)1月、第一期体操学生・第一期射撃学生を召集。翌年5月には剣術学生を招集。

1887年(明治20年)10月、監軍部に隷属した。

1888年(明治21年)、馬場先門外の第一軍楽隊を隷下とし、同隊の後身である軍楽基本隊は陸軍教導団から1891年(明治24年)に戸山学校内へ移転、のちの陸軍戸山学校軍楽隊となる。

1898年(明治31年)3月、条例改正により戸山学校に隷属する陸軍軍楽学校が軍楽教育を担当ことになる。同年11月、寺内正毅教育総監により戸山学校教育綱領が制定。戦術科・射撃科・体操剣術科の教育方針を示す。

1912年(大正元年)9月1日[2]、戦術科、射撃科、教導大隊を分離し陸軍歩兵学校千葉県都賀村)を設け、戸山学校は体操科(剣術を含む)、軍楽生徒隊を統括した。

1913年(大正2年)、大正天皇臨幸。

1939年(昭和14年)から射撃術の教育研究を担当。

1945年(昭和20年)9月10日、閉校。

歴代校長

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脚注

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  1. 『日本陸上競技選手権 100回記念 MEMORIAL BOOK』日本陸上競技連盟、2016年、88頁。
  2. 『官報』第31号、大正元年9月4日。
  3. 『官報』第2151号、昭和9年3月6日。
  4. 『官報』第2575号、昭和10年8月2日。

参考文献

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  • 鵜沢尚信『陸軍戸山学校略史』私家版、1969年。
  • 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
  • 外山操・森松俊夫編著『帝国陸軍編制総覧』芙蓉書房出版、1987年。
  • 原剛・安岡昭男編『日本陸海軍事典コンパクト版(上)』新人物往来社、2003年。

関連項目

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