桂園時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索

桂園時代(けいえんじだい)は、陸軍山県閥に属する桂太郎と、伊藤博文の後継者として立憲政友会第2代総裁に就いた西園寺公望が、政権を交互に担当した1901年明治34年)から1913年大正2年)の10年あまりをいう。「桂園」とは、両者の名前から「桂」と「園」の字をとったものである。

概要[編集]

日露戦争から明治天皇崩御にかけての約10年、内閣総理大臣に桂-西園寺-桂-西園寺-桂が就任してそれぞれ内閣を組織し、桂を擁する藩閥政治と西園寺を党首とする立憲政友会内閣が交代で政権を担当した。この時期が「桂園時代」である。そのため、一種の二大勢力間の内閣輪番制の時代ともとらえられる。この間、松方正義山本権兵衛平田東助などを首相に擁する動きはあったものの、両者以上の政権基盤を持たず、あるいはそれぞれの勢力内で桂や西園寺に取って代わる基盤を持たずに、いずれも断念に追い込まれている。

大日本帝国憲法下にあっては、特に政治的に安定した時期とされ、期間中に行われた第10回衆議院議員総選挙第11回衆議院議員総選挙は、いずれも任期満了に伴うものであった。2回連続で任期満了・総選挙が行われたのは、日本憲政史上において桂園時代だけである。

西園寺は政友会総裁として政党内閣を組織するが、のちに首相となる原敬など1人か2人の政党員を主要閣僚にして実力をつけさせる一方、政党や藩閥など出自にとらわれない人材主義を採用して官僚軍部藩閥からの警戒心を解いた[1]。また、その人柄もあって西園寺は衆議院、桂は貴族院の多数派を率いて互いに協力し合った[1]。西園寺は清華家の家格を有する名門公家西園寺家の出身で、若年より秀才の誉れ高く、戊辰戦争での功績もあって岩倉具視西郷隆盛大久保利通とならぶ参与となったが、維新後はみずから官途を離れてパリに留学し、当地で民権思想の強い影響を受けた[1][注釈 1]。西園寺が最も期待した政治家は、自由民権運動にも参加した陸奥宗光であり、1897年(明治30年)に陸奥の訃報に接したときの落胆ぶりは傍目にもいたわしいほどであったという[1]。対して桂は、長州藩出身で当時軍部の大御所的存在であった山県有朋に近かったが、「ニコポン首相」と呼ばれ、人心掌握に長けていた。

1911年(明治44年)1月29日、当時の桂首相が政友会議員と会合した際に、「情意投合し、協同一致して、以て憲政の美果を収むる」と述べた。この時、桂が述べた情意投合(じょういとうごう)という語は、官僚・軍部勢力と政友会が暗黙のうちに意思疎通を図って政権運営に協力していくという桂園時代の政治体制を意味する言葉として、当時広く用いられた。両者の関係は日露戦争中の1904年(明治37年)12月頃から提携が模索され、戦争終結後の1906年(明治39年)1月に桂は西園寺を後継首相として退陣したことから本格化し、1912年(大正元年)12月に二個師団増設問題で西園寺・政友会と桂・軍部が対立して第2次西園寺内閣が崩壊するまで続いた[2]

桂園時代は、日英同盟の締結から日露戦争の勝利、韓国併合など日本の国際的地位が著しく向上し、陸奥宗光や小村寿太郎らの努力によって条約改正を達成し、いっぽうで重工業の発展のめざましい時期にあたっていた。一方で労働問題公害問題など従来みられなかった問題もあらわれた。日本の国際的地位向上に尽くした桂に対し、陸奥の遺志を継いで原を育てた西園寺は来るべき「大正デモクラシー」に道にひらいたといえる[1]

研究史[編集]

  • 徳富猪一郎著『大正政局史論』(民友社1916年(大正5年)刊)は、同じ著者による『政治家としての桂公』(民友社、1913年(大正2年)刊)が桂の死去直後、追悼のために速書きしたものとすれば、その同時代を政局史としてとらえ内閣交代の仕組みを描こうとした最初の著作である。『大正政局史論』は『国民新聞』に1915年(大正4年)8月から翌年2月にかけて連載したのち、書籍として上梓された。桂園時代の説明として歴史的原型とも言うべき叙述が、同書「二 十年間の天下」(6頁)にある。

脚注[編集]

[ヘルプ]

注釈[編集]

  1. ^ 1898年、第3次伊藤内閣文部大臣の職にあった西園寺は、リベラルな内容の「第2の教育勅語」をつくろうとしている。しかし、明治天皇からの内諾を得たものの実現しなかった。

出典[編集]

参考文献[編集]

関連項目[編集]