秋田戦争

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秋田戦争
戦争秋田戦争
年月日慶応4年7月11日1868年8月28日)- 同年9月17日11月1日
場所出羽国(現在の山形県最上地方秋田県のほぼ全域)
結果新政府軍官軍)の勝利
交戦勢力
Flag of the Japanese Emperor.svg 新政府軍
(奥羽鎮撫隊)
Tokugawa Aoi(No background and Black color drawing).svg 旧幕府軍
Flag of Ouetsu Reppan Domei or the Northen Alliance in Japan.svg 奥羽越列藩同盟
指導者・指揮官
Flag of the Japanese Emperor.svg 九条道孝
(奥羽鎮撫総督)
Japanese Crest Katabami.svg 酒井忠篤
(庄内藩主)
戦力
10,327(久保田、本荘、亀田、矢島、仁賀保) 約2,000(庄内、松山、仙台、上山、山形)
約2,000名(盛岡)
損害
戦死者:461名(久保田藩士) 戦死者:332名
負傷者:412名(庄内藩士)
戊辰戦争

秋田戦争(あきたせんそう)は、戊辰戦争時、奥羽越列藩同盟を離脱して新政府軍に参加した久保田藩(秋田藩)が鹿児島藩佐賀藩山口藩などと共に、庄内藩を中心とした列藩同盟軍を相手に繰り広げた一連の戦いの総称である。秋田庄内戊辰戦争ともいう。

背景[編集]

庄内藩[編集]

庄内藩は江戸薩摩藩邸の焼討事件および柴橋事件により新政府から敵対視され、奥羽鎮撫隊の討伐対象とされた。庄内軍は仙台軍の応援を得て数的に優勢であったばかりでなく、御用商人本間家の金策でヘンリー・スネルより武器を密輸していたため、装備は東北諸藩のなかで最も充実していた。江戸時代中期の本間光丘による藩政改革以降、領民の藩主支持も強く、農兵2,031名、鶴岡商兵184名などが加わっていた。また、弘前藩士の本多庸一など他藩からの自主的加勢もあった。

盛岡藩[編集]

盛岡藩は、盛岡城で奥羽列藩同盟と新政府のどちらに味方するべきか連日論議を続けていた。勤王攘夷思想のある有力者も、謹慎中の家老・東次郎など多数いたからである。そこへ京都へ上洛していた主席家老・楢山佐渡が帰国し、各国の情勢を伝えた。楢山は京都で会見した西郷隆盛らの態度に不信感を募らせ、同盟側に味方することを内心で決めていた。家臣の一人は楢山を諫めるために切腹をし、また一人は脱藩をして楢山に抗議したが、楢山には伝わらなかった。盛岡藩は列藩同盟に味方し、久保田藩へ攻め込むことを決定した。

ただ、盛岡藩の影響が強いとはいえ独立した藩である八戸藩は、藩主南部信順が鹿児島藩主島津重豪からの養子ということもあり勤王派で、久保田藩と密かに連絡を取り合い、秋田戦争には参加しなかった。また盛岡藩内でも、遠野南部家は大評定で強硬に新政府へ味方することを主張し、こちらも秋田戦争に参加していない。

久保田藩[編集]

秋田市にある殉難した仙台藩士の慰霊碑

国学の第一人者であった平田篤胤の生没地である久保田藩は、平田の影響から若手を中心として勤王思想を持っている者がもともと他藩よりも多かった。

鳥羽・伏見の戦いが終了して間もない慶応4年1月15日(1868年1月29日)、新政府は奥羽諸藩に東征軍を派遣するから応援するように命じた。2月17日(1868年3月10日)、京都の東征大総督府は奥羽鎮撫隊総督九条道孝に会津・庄内両藩の処置についての回答を与えた。九条は海路仙台に到着、直ちに仙台・米沢両藩に会津討伐を命じ、4月6日(1868年4月28日)には久保田藩にも庄内討伐を命じた。

この命令を受けて久保田藩は亀田藩本荘藩矢島藩(当時は立藩前)、弘前藩新庄藩などと共同し由利地方や新庄藩に兵を集結し、庄内藩を攻めようとした。ただ、庄内藩が討伐対象とされる経緯に疑問を持ち、鹿児島藩の私怨と考える兵士も多く、士気はふるわなかった。

由利地区に攻勢にでた連合軍に対し、庄内藩はこれをいち早く察知して閏4月20日(1868年6月10日)に反撃してきた。そのため、久保田連合軍は総崩れとなった。その後、仙台藩による白石同盟の呼びかけにより、この連合はなし崩し的に解散となった。

奥羽鎮撫隊の命令を受けて兵を集めていた仙台藩米沢藩は、逆に会津への支持を表明した。仙台藩が白石会議を呼びかけると、久保田藩からは家老の戸村十太夫が出席して、奥羽越列藩同盟に調印した。九条総督と参謀の醍醐忠敬は仙台城下に軟禁されたが、佐賀藩の部隊が到着すると引き渡されて仙台を退去し、盛岡へ向かった。盛岡藩はこの時点で藩論統一されておらず、1万両を献金したのみで奥羽鎮部隊へ協力しなかった。

次いで九条総督の一行は久保田へ向かった。そのため、久保田藩の領内には鹿児島藩・山口藩・佐賀藩などの官軍が入ってきた。また、以前から久保田領内にいた副総督の澤為量隊やその参謀の大山格之助桂太郎らは、次の目的地であった弘前藩に入領することを拒否されていた。これは弘前藩が藩内の勤皇派が勢いづくことを恐れたためとも言われている。このため結果的に、久保田藩には奥羽鎮撫隊の全ての部隊がそろうことになった。

列藩同盟の盟主の仙台藩はこの動きを批判して、九条らの仙台への引き上げを申し入れた。それに対して久保田城内では、勤皇派と同盟派が激しく争ったものの、最終的に奥羽鎮撫隊や藩内の若手勤皇派の意見を容れる形で久保田藩主佐竹義堯は裁断を行い、同盟離脱を決定して同盟派の家老らを更迭した。そして7月4日(1868年8月21日)、大山格之助の命令で、久保田藩は仙台藩使節の志茂又左衛門以下11名を殺害し、久保田城下五丁目橋に首をさらした。このことで仙台藩は怒り、秋田戦争が始まった。

経過[編集]

庄内戦争[編集]

山道口の戦い[編集]

7月6日庄内軍は、山道口(内陸)の一番大隊・二番大隊の約1,000名と海堂口(海沿い)の三番大隊・四番大隊の約1,000名の二手に分かれて久保田藩領を進撃した。7月11日未明、院内口に布陣した薩摩藩・長州藩・佐賀藩・小倉藩が、新庄藩の裏切りによる手引きで、庄内藩征討を目標に進撃を開始した。秋田との国境の新庄領金山(現・最上郡金山町)付近に布陣していた仙台藩を主力とする、米沢藩、山形藩、上山藩、天童藩の諸藩連合は、金山峠方面からは桂太郎率いる長州兵が、東側の有屋からは大山綱良率いる薩摩兵が攻めてきて、これらの攻撃を受けた連合軍は大混乱となり、壊滅的な打撃を受け潰走した。新政府軍は奥羽越列藩同盟軍の陣地を次々に撃破して、7月12日には新庄城下に入る。

白河口の戦いの応援に向かっていた庄内藩二番大隊は、久保田藩と新政府軍と戦うために、7月11日早朝に楯岡を出発して夕方舟形に着き、宿陣した。一番大隊は天童で、二番大隊の使者に会い、同盟軍が大敗して、新庄が裏切ったことを聞いた。そこで、一番隊も援軍のために北上した。7月11日に金山に宿営した新政府軍は庄内軍が舟形に着いたという情報を得て、7月12日午後4時頃新庄城に入城した。7月13日、新庄藩兵に案内させて、小国川をはさんで庄内藩軍一番大隊と二番大隊と砲撃戦を行う。しかし、庄内藩の一番隊の背後よりの奇襲により形成が逆転する。庄内軍は新政府軍の本営の四ツ屋を占領し、兵糧を奪う。

7月14日には一番大隊と二番大隊が新庄攻略作戦を展開する。二番大隊が迂回して新庄城を占領する。新庄藩主戸沢正実はすでに逃亡して、開城してあった。

そして、8月1日に院内、8月5日に湯沢、8月11日に横手、8月13日に角間川(大仙市)、15日に大曲と、新政府軍は同盟軍に押される形になり、開戦一ヶ月で久保田藩領のうち雄勝平鹿の二郡全部と仙北郡の南半が同盟軍の制圧下に入った。

8月13日に横手を脱出した新政府軍は、神宮寺に退却して本営を置いた。そして、小倉藩、佐賀藩、久保田藩、新庄藩を角間川に置いて同盟軍の北上を阻止しようとした。13日早朝仙台藩を先鋒にして同盟軍が進撃を開始するが、まもなく、仙台藩は敗走をはじめ、後方にいた庄内藩の二番大隊が代わりに攻撃した。敵は横手川を渡り、大曲方面に脱出しようとし大混乱に陥った。そこを、二番大隊が追撃して大勝利を収めた。

8月14日に二番大隊は田村新田を出発して、昼前に角間川村についた。一方新政府軍は澤為量副総督が本営を神宮寺において、新たな増援部隊が次々に到着して神宮寺・太平山を中心に雄物川対岸に巨大な防衛陣地を築いていた。18日より庄内軍は神宮寺攻略を始める。20日と22日に攻撃をするが失敗する。

8月23日に新政府軍は角館から刈和野にいたる山道口にわたって大反撃を開始する。一番大隊の主力は大曲にあったが、午後4時ころ、玉川を渡河して花館を襲撃した。薩摩の正規軍が庄内軍を前線を突破して大曲に進撃した。庄内藩は決死隊を編成して、薩摩軍の陣地を夜襲して、多数の薩摩軍兵士を捕らえる。

8月25日に、庄内二番大隊の酒井吉之丞と一番大隊参謀長坂右近助が相談して、角館攻略を決定した。8月26日に、午後2時頃庄内二番大隊は南楯岡を発して、角間川の渡しを越えて、翌日の午前2時過ぎに、大曲に入った。庄内一番大隊は出発して四ツ屋の浅瀬に向かったが夜が明け、新政府軍の反撃を受けたので渡河を中止した。川端より引き返し、次の戦略目標の角館を攻めることに決して、横堀に宿営した。28日に、国見で仙台兵と落ち合った。仙台兵を先鋒にして、庄内藩と松山藩で攻撃を開始した。新政府軍の強固な土塁陣地が多数あり、対岸高台の陣地や、大威徳山の砲台から激しく旧幕府軍を砲撃した。また、角館に迫る勢いだった盛岡藩と挟撃して角館を攻略する予定だったが、盛岡藩は8月26日頃すでに敗退し、9月6日には自国に引き返していた。

新政府軍は、庄内藩と平戸藩が応援に駆けつけた。攻撃三日目に、冷たい風雨が吹き荒れ、玉川が増水して渡河が不可能だったので、盛岡藩も現れなかったので、角館攻略を断念した。

海道口の戦い[編集]

庄内軍三番大隊と四番大隊は別の海道口を進撃した。由利郡で秋田遊撃隊、有志の二隊、亀田藩、本荘藩、矢島藩に佐賀藩の砲撃隊が加わり、鳥海山中腹の三崎峠を踏破して、女鹿(山形県遊佐町)にあった庄内軍の陣地を急襲した。庄内軍のイギリス製のライフル銃200挺と弾薬、青銅製のカノン砲などを鹵獲して、村を焼き払った。しかし、吹浦から出陣した庄内軍三番大隊と四番大隊に包囲されて、塩越(にかほ市象潟地域)に退却した。

7月28日に矢島、8月1日に塩越、8月2日に平沢が奪われた。

8月5日に上条由利本荘市)で弘前藩、本荘藩、亀田藩、福岡兵が庄内四番大隊と4時間に及ぶ銃撃戦を展開した。庄内軍の援軍により、新政府軍は退却した。そこで、奥羽鎮撫総督府参謀の前山清一郎が久保田軍と福岡軍と共に援軍に来て、庄内軍を攻撃した。久保田軍は突撃刀槍隊で切り込みを敢行した。しかし、最終的には新政府軍が退却して、8月6日に本荘城が奪われ、また以前から奥羽鎮撫隊監軍山本登雲助に理不尽な采配を受けていた亀田藩は庄内藩に降伏した。

8月13日から14日には庄内軍三・四番隊が亀田城下に進駐し、8月17日に久保田藩は長浜(秋田市下浜長浜)付近まで追い込まれた。

刈和野・椿台方面の戦い[編集]

8月27日に二番大隊は大曲に転陣して、角館の戦いに出かけた一番大隊の留守を預かった。9月2日に一番大隊が大曲に帰還して、角館の戦いの戦況を聞いて、軍議を開いて、作戦を練り直した。今度は、二番大隊中心になり、海道口の四番大隊と協力して、雄物川流域の福部羅付近を強行渡河する作戦になった。四番大隊は秋田城の目指して北上し、二番大隊は神宮寺の鎮撫軍の本営を攻撃し、一番大隊は大曲で神宮寺、角館の鎮撫軍をひきつけるという作戦であった。

9月7日午前2時に、二番大隊は大曲を出発して行軍して、9月8日に雄物川を渡河した。すでに、四番大隊が渡河して久保田兵と川口を守備していた福岡兵と交戦した。新政府軍は敗走して、庄内軍は北東に転進した。

9月に入ると、内陸を進んだ一・二大隊と由利から高尾山を越えて秋田に入った四番隊が連携した。9月9日には椿台(秋田市雄和)の目前に達した。

庄内軍が進撃の急報に接した鎮撫軍は、秋田藩の支藩秋田新田藩の陣屋がある椿台とその付近丘陵に兵力を集中して強固な兵力を集中した。ここは、久保田城まで16キロの地点である。9月10日より、庄内軍は三手に分かれて椿台に総攻撃に入った。糠塚山を守備していた佐土原兵、秋田兵、本庄兵、福岡兵と交戦して、糠塚山を占領して安養寺から、椿台・椿川方面に攻め込んだ。鎮撫軍の守備は堅く、9月11日より、鎮撫軍が反撃を開始して、激戦の後も決着がつかず、9月12日に庄内三番大隊が長浜に来襲して激戦が繰り広げられた。新政府軍の善戦により、庄内軍が雄物川を渡り敗走する。

8月28日に米沢藩が降伏すると、9月12日に米沢藩の支持により上山藩も降伏に決定し、9月13日に仙北の兵も上山に帰還することになった。9月9日ごろから旧幕府軍の諸隊が仙台に集結して、城内では連日激論が交わされていた。9月12日に仙台に到着した米沢藩の降伏勧告に使者に説得されて、9月13日には藩論は恭順になった。

奥羽越列藩同盟軍は総崩れになった。旧幕艦隊を率いた榎本武揚と新撰組副長の土方歳三は、仙台藩に見切りを付けて函館に渡った。この状況下にあって、9月14日に庄内軍は軍議をひらいて、庄内に撤退し、本土防衛に徹することを決めた。

9月15日から、刈和野を攻撃して奪回戦を行った。一番隊の葉緒後からの奇襲により、16日午後2時ころ鎮撫軍は潰走を始めた。一番隊は引き上げを助けるために、撤退戦を行った。盛り返した西軍の攻勢をかわしながら引き返した。9月17日に鶴岡自城では降伏の藩議が決定された。23日に庄内軍の全軍の帰還完了を確認した。

庄内藩の降伏[編集]

西郷隆盛黒田清隆が米沢から鶴岡に入り、9月27日に鶴岡城内で降伏調印と城内・武器の点検を行った。庄内藩は降伏の条件として、賠償金70万両の献金を命ぜられた。この寛大な処置は西郷の発案によるとされ、庄内は西郷に感謝し交流するようになった。

南部・秋田戦線[編集]

扇田神明社の戦い[編集]

盛岡藩は将兵を鹿角地区に集め、戦闘準備を行った。8月9日(書面は8月8日)に戦書を久保田藩側に提出、白石同盟の脱退を名分に戦闘を始めることを告げた。戦闘は十二所から始まり、十二所の兵は潰走し後退した。

盛岡藩兵は11日大館南方の扇田村に進駐、家老楢山佐渡も隊列を組み進駐した。扇田村の住民は盛岡藩兵を酒肴で歓待した。ところがこれは罠で、酒肴で酔いつぶれた所を、十二所の兵が襲おうとした計略であった。ところが、楢山佐渡ら将兵は住民との打ち合わせの場所にはおらず扇田神明社前に移動し駐屯していた。12日十二所勢は午前4時に盛岡藩兵を攻撃し、双方に死傷者が続出する。

8月13日、盛岡藩は一時将兵を久保田領内から引き上げた。小康状態に陥ったので、大館城城代の佐竹大和は将兵の再配置を行う。11日には、弘前藩の対馬寛右衛門の銃士隊も庄内との戦いを中止し、大館に集合していた。しかし、銃は旧式銃がほとんどで新式のゲベロ銃がわずか5挺、兵力の質も量も盛岡側と比較して貧弱なのは明らかであった。8月14日には弘前藩からの鉄砲100挺、弾薬1万発の陣中見舞いが届いた。

楢山佐渡の再攻撃は20日に始まった。楢山佐渡自ら指揮をして、日没までに一気に扇田村まで攻め寄せた。12日朝の攻撃は、扇田村住民の手引きがあると断定し、盛岡藩軍は扇田村に火をつけ400戸のうちわずか6戸を残して扇田村は灰燼となった。このとき、女軍夫の山城ミヨが流れ弾に当たり死亡している。その後、山城は靖国神社に祀られた最初の女性となった。扇田村の敗戦を受けて、久保田側は大館城近辺に将兵を集め部隊の再編を行い、大館城を防衛しようとした。

大館城攻城戦[編集]

22日、盛岡藩兵は朝5時大館城を総攻撃した。激戦の後、久保田藩兵は次第に総崩れとなった。城代の佐竹大和は籠城する覚悟であったが、部下に諫められ城に火をつけ午前8時に脱出することとなった。大館城の門は午前9時に破られ、盛岡藩兵が突入し占領することになる。

午後1時、盛岡藩は大館と扇田の諸役をできるだけ集め「3年間の年貢を免ずる」と宣言した。

きみまち阪周辺の戦い[編集]

久保田藩側は険しい地形で難所として有名だったきみまち阪周辺を防衛地点と決め後退、本陣を荷上場村に置いた。一方盛岡藩側は23日は休兵とし、24日から一部の部隊を前進し始めた。25日盛岡藩本隊は綴子村に到着、さらに本道からきみまち阪方面と、間道の大沢村に向けて進撃した。

25日早朝、佐賀藩の総隊長である田村乾太左衛門が早朝カゴで荷上場村に向け急行した。26日には乾の部下の生駒小十郎が前線に到着、休む間もなく前線を視察し、本隊到着までの戦闘準備を行う。正午には5名の佐賀兵が到着し、大沢村での戦闘に参加した。

28日盛岡藩側にも佐賀兵の救援の噂が伝わり、きみまち阪の要害を抜こうと、本道と間道両方からの攻撃を行った。本道からの攻撃は、険しい地形を利用し防衛した久保田藩兵により失敗した。本道の村々は撤退する盛岡藩兵によって火をつけられた。また、間道から大沢村に至った部隊は大沢村に火をつけ占領するものの、大沢村から山道を越え撤退した。同夜、佐賀兵の本隊である遊兵隊300名が最新の銃砲を持って荷上場村に到着した。

29日は久保田藩側の総攻撃の日となった。早朝はきびしい寒さとなり、また数歩離れただけでも見えなくなるような濃霧の日であった。本道から攻めた久保田藩側は前山村の盛岡藩兵を攻撃、盛岡藩兵はほとんど反撃もできず砲弾を残したまま前山村から潰走し、坊沢村で防衛することになった。坊沢村では激しい戦いになったが、大沢村から間道を越してきた佐竹大和率いる久保田藩側の別部隊と挟み撃ちの形にされ、盛岡藩側は坊沢村に火をつけ総撤退した。

8月28日盛岡藩は庄内藩と共同して久保田藩を攻撃しようとし、角館方面にも攻め込んだ。

岩瀬会戦と大館戦[編集]

30日と9月1日は両陣とも攻撃準備を行っている。2日午前6時に佐賀の大砲の音を合図に、岩瀬村において久保田藩側の総攻撃が始まった。盛岡藩側も待ちかまえており、この岩瀬会戦が南部・秋田戦線の最大の戦闘となった。この戦闘では佐賀兵も一時撤退を指揮官に訴えるなど苦戦し。また、盛岡側も楢山佐渡が敗兵を厳しく叱責するなど敢闘精神を見せたが、正午頃には大勢が決まり、盛岡藩兵は撤退した。このとき、米代川沿岸にいた盛岡藩兵は久保田藩側の急迫に退路を失い、渡河する途中で多くの犠牲者を出している。大館南部の山道を辿った久保田藩の部隊は板沢村の盛岡藩の部隊を急襲、盛岡藩側は前線から離れている場所の昼食時という不意を狙われ、幹部級の戦死者4名をだし、多量の軍資金や軍需品を置き去りにして敗走した。

2日から5日にかけては大館近郊での戦いが続いた。双方必死の攻防が続いた。6日朝6時に大館への総攻撃を計画していた久保田藩側だったが、盛岡藩側は扇田村が占領され退路を断たれる危険性をおそれたのか、5日夜に既に大館を総撤退しており戦闘はなかった。6日久保田藩は大館を回復した。

7日久保田藩兵側は藩境の町である十二所を回復した。その後、十二所地区や雪沢地区で、終戦まで一進一退の攻防が続いた。盛岡藩側も藩境を突破されないように強硬に抵抗を行った。

盛岡藩の降伏[編集]

22日盛岡藩は降伏嘆願書を正使に持たせ久保田藩側に派遣した。25日に沢尻村で正式に盛岡藩の降伏が締結され、これでこの地区の戦闘は終結した。

戦後処理[編集]

久保田藩では藩士の3分の2が兵火にかかり、人家の四割が焼失した。奥羽鎮撫使に随従した15藩の約1万の将兵、新庄藩・本荘藩・矢島藩から逃亡してきた藩主・藩士の家族のまかないをすべて久保田藩が負担することになり、推定総額675,000両の戦費を消費した。

明治2年(1869年)6月、新政府から賞典(永世禄)として、久保田藩へ2万石、新庄藩へ1万5千石、弘前藩と本荘藩へ1万石、矢島藩へ1千石が、また岩崎藩(久保田新田藩)へは賞典金(一時金)として2千両が下賜された。これらは戦費・戦災に対してまったく見合わない少額であり、藩士・領民には廃藩置県後も新政府に対する不信感が残った。

後世への影響[編集]

2000年(平成12年)、秋田県角館町で開かれた「戊辰戦争百三十年in角館」というイベントの各地の市長による座談会で、当時の宮城県白石市長・川井貞一が、奥羽越列藩同盟が負けたのは秋田の裏切りのせいであるという批判をした。

脚注[編集]

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参考文献[編集]

  • 誉田慶恩、横山昭男『山形県の歴史』山川出版社,1970年
  • 星亮一、戊辰戦争研究委員会編『戊辰戦争を歩く』光人社、2010年
  • 『三百藩戊辰戦争事典 (上)』人物往来社、2000年
  • 『三百藩戊辰戦争事典 (下)』人物往来社、2000年
  • 郡義武『秋田・庄内戊辰戦争』人物往来社、2001年
  • 狩野徳蔵 編、『戊辰出羽戦記』、吉川半七、1890年4月[1]