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岩下清周

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
いわした きよちか

岩下 清周
(岩下 淸周)
岩下清周
生誕 安政4年5月28日 (1857-06-19) 1857年6月19日
信濃国松代(現・日本の旗 日本 長野県長野市松代)
死没 (1928-03-19) 1928年3月19日(70歳没)
日本の旗 日本 静岡県
墓地 不二聖心女子学院中学校・高等学校
出身校 立教学校(現・立教大学
商法講習所(現・一橋大学
三菱商業学校
職業 実業家、起業家、政治家
宗教 聖公会
配偶者 岩下幽香子
子供 下記に参照
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岩下 清周(いわした きよちか、安政4年5月28日1857年6月19日) - 昭和3年(1928年3月19日)は、実業家起業家政治家三井財閥を経て北浜銀行(三菱UFJ銀行の源流)を起業後は当時のベンチャー企業への積極的な融資を行い、自身も融資先の経営に積極的に携わった。関西大手私鉄である阪急電鉄阪急阪神ホールディングス)及び近畿日本鉄道近鉄グループホールディングス)の事実上の創設者であり、豊田式織機 (現:トヨタ自動車)や森永製菓大林組など現代日本を代表する企業の草創に活躍した。息子は、カトリック司祭哲学者岩下壮一、清周本人も立教学院に学び聖公会に所属したクリスチャンであった。

来歴・人物

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信濃国松代城下代官町(長野県長野市松代町)に松代藩士の岩下佐源太の次男に生まれるが、ほどなく実父が死去したため、3歳で叔父の岩下章五郎の養子となる。松代藩兵制士官学校を卒業すると上京し[1]1874年明治7年)築地の立教学校(現在の立教大学)へ入学し、チャニング・ウィリアムズに立教学校1期生として英学を学んだ[2]。立教学校時代の友人には、日本初のシェイクスピア劇翻訳者となった河島敬蔵がいた[3]1876年(明治9年)、前年に開設された東京商法講習所(現・一橋大学)が木挽町に移転して開設されると、同所に入学し商業学を学ぶ[注釈 1][5]1878年(明治11年)3月に三菱商業学校が開設されると、商法講習所の卒業を待たず転校した[注釈 2]。三菱商業学校は開校時に1回生8名の生徒を有したが、その中に岩下の他に岩崎久弥三菱財閥3代目総帥)がいた[6]。その後、一時期、商法講習所の教諭となり、矢野二郎所長門下の秀才と謳われたのち三井家に入った[7]

1878年明治11年)、三井物産創立者である益田孝にスカウトされて三井物産に入社。益田の有能なブレーンの一人として活躍し、1880年(明治13年)同社ニューヨーク支店長、1883年(明治16年)から1888年(明治21年)まで同社パリ支店長を務める[3][8]1889年(明治22年)同社退社[3]。パリ支店長時代に桂太郎寺内正毅山本権兵衛斎藤実といった陸海軍の官僚と親交があり、中でも外務省時代の原敬とは親友となった[9]

1889年(明治22年)、益田孝らと品川電灯を設立し、同社社長に就任。翌年、桂太郎の実弟桂二郎杉村二郎が創立した関東石材会社の経営改善のため取締役に就任したが、進展が見られず、1891年(明治24年)の秋に同社を辞した[1]。同年、中上川彦次郎が経営改革に当たっていた三井銀行本店に入り副支配人となり、1896年(明治29年)、同大阪支店長時代には大阪・関西財界での強力な人脈網を中上川に批判され衝突、1893年(明治26年)王子製紙取締役。1897年(明治30年)、三井銀行を退社し、北浜銀行設立。同行常務を経て、1903年(明治36年)から頭取。「日銀幹部ストライキ事件」では、中上川が支援した山本達雄総裁らに反発し、鶴原定吉植村俊平藤尾録郎らの免職された東大出身者らを積極的に住友など関西財界に紹介した[10]

1906年(明治39年)大阪ガス監査役[11]1907年(明治40年)阪神電気鉄道取締役[12]1908年(明治41年)には政界に進出し衆議院議員当選。同年箕面有馬電気軌道(現:阪急阪神ホールディングス)初代社長[13]西成鉄道社長、電気信託会長等も務めた。大軌では生駒トンネル建設案を出し、実現させている。他にも大林組の設立、南満州鉄道副総裁。豊田佐吉豊田式自動織機の支援等にもかかわる[14]

1910年(明治43年)営口水道電気設立、同社社長[1]森永商店(現:森永製菓相談役[15]武蔵電気鉄道取締役[16]鬼怒川水力電気取締役[17]1911年(明治44年)帝国商業銀行取締役[1]1912年(明治45年)東京横浜電鉄取締役[18]1913年大正2年)大阪電気軌道(大軌、現:近畿日本鉄道)第2代社長[19]。同年、後ろ盾でもあった桂太郎が死去。1914年(大正3年)、大林組や大軌などの営業不振による債務焦付きで、北浜銀行が破綻し逮捕された。同年経営破綻した鈴木藤三郎の鈴木農場を不二農園と改称して、お茶工場の設立などを行って経営再建にあたった[20]

1915年(大正4年)背任罪等で起訴される[1]1920年(大正9年)には不二農園労働者のために、温情舎小学校(現:不二聖心女子学院中学校・高等学校)を設立し、初代理事長に長男岩下壮一神父を据えた[21]1924年(大正13年)には懲役3年の判決が言い渡され収監されたが、10ヶ月後に恩赦で出獄し[7]、晩年は富士山麓で不二農園の運営に従事した[14][1]

栄典

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家族

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  • 父:岩下左源太 - 松代藩士[23]
  • 養父:岩下章五郎[23]
  • 妻:幽香子 - 松代藩士・弥津繁人四女、渡辺養女。
  • 妾(氏名不詳)

脚注

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注釈

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  1. ^ 東京商法講習所は、木挽町に移転した際に東京府立となり、矢野二郎が所長に就任した[4]。岩下は、東京商法講習所の看板を発見し、同所を訪ね、矢野の知遇を得て、入学することとなった[1]
  2. ^ 岩下は矢野のもとを去ることとなったが、三菱商業学校で学んだ後、一時母校の商法講習所の英語教師につくなど、三井物産入社まで引き続き矢野の世話を受けていた[1]

出典

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  1. ^ a b c d e f g h 黒羽雅子「企業勃興を牽引した冒険的銀行家 : 松本重太郎と岩下清周」『法政大学イノベーション・マネジメント研究センター ワーキングペーパーシリーズ』第38巻、法政大学イノベーション・マネジメント研究センター、2007年6月、1-22頁。 
  2. ^ 小林一三: 都市型第三次産業の先駆的創造者 老川慶喜
  3. ^ a b c 老川慶喜「立教人物誌 : 岩下清周」『立教学院史研究』第1巻、2003年3月、180-183頁。 
  4. ^ 一橋大学 沿革(2022年5月13日アーカイブ) - 国立国会図書館Web Archiving Project
  5. ^ 「岩下 清周(読み)イワシタ セイシュウ」20世紀日本人名事典の解説
  6. ^ 宮本 又次「大阪における商業・経済教育事始て」『大阪大学史紀要』第1巻、大阪大学五十年史資料・編集室、1981年5月、17-24頁、ISSN 03897621 
  7. ^ a b 岩下清周 (男性)人事興信録データベース第8版 [昭和3(1928)年7月](名古屋大学大学院法学研究科
  8. ^ 『明治の怪物経営者たち(3)』小堺昭三,グーテンベルク21
  9. ^ 佐久間健『近代日本における財界の形成-外債と金本位制をめぐる政治過程-』 早稲田大学〈博士(政治学) 甲第5031号〉、2017年。 NAID 500001033607https://hdl.handle.net/2065/00054420 
  10. ^ 岩下清周 いわした きよちか国立国会図書館
  11. ^ 大阪瓦斯(株)『大阪瓦斯五十年史』(1955.10)渋沢社史データベース
  12. ^ 阪神電気鉄道(株)『輸送奉仕の五十年』(1955.04)渋沢社史データベース
  13. ^ 「京阪神急行電鉄(株)『京阪神急行電鉄五十年史』(1959.06)」
  14. ^ a b ふるさと松代人物館信州松代観光協会
  15. ^ 森永製菓(株)『森永五十五年史』(1954.12)
  16. ^ 東京横浜電鉄(株)『東京横浜電鉄沿革史』(1943.03)
  17. ^ 小田急電鉄(株)『小田急五十年史』(1980.12)渋沢社史データベース
  18. ^ 東京横浜電鉄(株)『東京横浜電鉄沿革史』(1943.03)
  19. ^ 近畿日本鉄道(株)『50年のあゆみ』(1960.09)渋沢社史データベース
  20. ^ 「不二農園100周年」不二聖心女子学院 中学校・高等学校
  21. ^ 学院の歴史 不二聖心女子学院 中学校・高等学校
  22. ^ 『官報』第8454号「叙任及辞令」1911年8月25日。
  23. ^ a b 『人間の分際 神父・岩下壮一』P.44
  24. ^ 『人間の分際 神父・岩下壮一』P.194
  25. ^ 『人間の分際 神父・岩下壮一』P.105、135

参考文献

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  • 新訂 政治家人名事典 明治〜昭和』(2003年、編集・発行 - 日外アソシエーツ、79頁)
  • 『長野県歴史人物大事典』(1989年、編集・発行 - 郷土出版社
  • 『岩下神父の生涯』(1961年、小林珍雄著 発行 - 中央出版社(現・サンパウロ)(1988年、伝記叢書25 発行 - 大空社))
  • 『人間の分際 神父・岩下壮一』 (1996年、小坂井澄著 発行 - 聖母の騎士社)

外部リンク

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先代
初代
箕面有馬電気軌道
(現:阪急阪神ホールディングス)社長
初代:1908年 - 1915年
次代
平賀敏
先代
廣岡惠三
大阪電気軌道
(現:近畿日本鉄道)社長
第2代:1913年 - 1914年
次代
大槻龍治