チャニング・ウィリアムズ

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チャニング・ムーア・ウイリアムズ
Channing Moore Williams
日本聖公会初代主教
Channing Moore Williams.jpg
教会 米国聖公会
聖職
叙階/叙聖 1855年7月1日(執事)
司祭叙階 1857年1月11日
主教叙任 1866年10月3日
個人情報
出生 1829年7月18日
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
ヴァージニア州リッチモンド
死去 1910年12月2日
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
ヴァージニア州リッチモンド
墓所 ホーリウッド墓地(ヴァージニア州リッチモンド)
両親 ジョン・グリーン
メリー・アニー
配偶者 なし
子供 なし
出身校 ウィリアム・アンド・メアリー大学
バージニア神学校
聖人
記念日 12月2日
崇敬教派 聖公会
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チャニング・ムーア・ウイリアムズChanning Moore Williams中国語: 維廉1829年7月18日 - 1910年12月2日)は、米国聖公会のアメリカ人宣教師

中国での伝道活動のあと、1859年(安政6年)日本が開国する状況下、ジョン・リギンズとともにプロテスタント最初の宣教師として来日[注 1]
立教大学立教女学院の創設者であり、日本各地に学校や教会を設立した。英国聖公会エドワード・ビカステス日本聖公会の組織を確立。日本聖公会の初代主教となり、聖公会の発展に力を尽くした[1]。「日本近代郵便の父」と呼ばれる前島密に郵便制度を教え、日本の郵便制度の近代化に繋げた[2]1889年(明治22年)主教を辞し、一牧者として関西で伝道に従事し、1908年(明治41年)に帰米するまで収入の全てを聖公会のために捧げた。その生き方は、「道を伝えて己を伝えず」の言葉を体現し、生まれ故郷のリッチモンドにある墓碑にも刻まれている。

生涯[編集]

出生・青年期[編集]

1829年7月18日、アメリカ合衆国東海岸ヴァージニア州リッチモンドで弁護士のジョン・グリーンとメリー・アニーの間に三男、第五子として生まれる[3]。出生後まもなく同地の教会で洗礼を受け、その教会の牧師で当時の米国聖公会バージニア教区の主教であったリチャード・チャニング・ムーア英語版の名前から、洗礼名をチャニング・ムーアとした[4]

ウィリアムズが19歳になった頃、大学の学費を稼ぐためにケンタッキー州ヘンダーソンでウィリアムズの兄が経営している雑貨店にて働き始める。1850年、蓄えた学費でウィリアム・アンド・メアリー大学に入学し、1852年7月に、同期生のうち唯一の修士号(文学修士号)を取得し、優秀な成績で卒業[5][6]。同年秋にはバージニア神学校英語版に入学する[7]。この神学校在学中にウィリアムズは、海外で伝道する卒業生たちの報告などを聞き、伝道の情熱を養い、同じく卒業生で中国(当時・)で活動する初代海外伝道主教のウィリアム・ジョーンズ・ブーンが1853年秋に神学校へ訪れたことから、海外への伝道を決意する。ウィリアムズは1855年にバージニア神学校を卒業し[8]米国聖公会内外伝道協会で、神学校の同級生であったジョン・リギンズとともに中国への派遣を名乗り出、受理される[9]

中国での伝道[編集]

壮年期のウィリアムズ

1855年11月30日に、オナイダ号でニューヨークを出港、リオデジャネイロシドニーを経由し、出港からおよそ7か月かけて翌年の6月26日上海へ到着する[10][11]。上海に上陸して4日目から中国語の勉強を開始し[12]、1年半後には日常会話どころか説教まで中国語で行ってしまうほどに上達した[13]

日本、長崎へ[編集]

現在の長崎・東山手(英国聖公会会堂跡・C.M.ウィリアムズ宣教師館跡付近)

日米修好通商条約が調印され、日本が開国する状況下、米国聖公会の遣清宣教師であるエドワード・サイルと米国総領事タウンゼント・ハリス米国聖公会信徒)から日本への宣教勧告と情報を得た米国聖公会が、日本での伝道、学校開設、医療活動を目的とする日本ミッションの開設を決定する。この決定を受けて、中国で活動するウィリアムズとリギンズが日本に派遣されることとなった[14][15]リギンズがマラリアの療養を兼ねて、ウィリアムズより早く1859年5月に長崎に来日し、翌月(1859年6月)、ウィリアムズも米国軍艦ジャーマンタウン号で長崎に来日した。ウィリアムズは、同じく遣清宣教師エドワード・サイルの家族の病気のため日本への出発が遅れたのであった。来日したリギンズは、長崎奉行の要請から早速、長崎通詞たちに教師として英語を教え、奉行からは3部屋ある家が提供された。ウィリアムズが来日してから、両者は長崎の崇福寺の境内に滞在した。1859年11月に来日したグイド・フルベッキもリギンズとウィリアムズに迎えられ崇福寺に同居した。リギンズは英語教育と外国書籍の頒布など積極的に活動するが、体調は回復せず、1860年2月にアメリカへ帰国したため、米国聖公会としてはウィリアムズのみ日本にとどまり活動することとなる。シーボルトと交流し、1860年7月に出島からシーボルトへ書簡を送っている[16]。1860年8月には米国聖公会宣教医H.E. シュミットも来日し、長崎に診療所を開設する。シュミットは医療活動の傍ら、地元の医師に西洋医学と英語を教えた[17]。1861年7月には、ウィリアムズとシュミットは整備された東山手居留地に居を移した。ウィリアムズは東山手居留地の五番館に住んだ。シュミットの住む四番館に隣接する三番館にはフルベッキが居住した[18]。シュミットの高度な医療は評判となるが、シュミットもまた疲労から体調を崩し、1861年11月に日本を離れた。ウィリアムズはシュミットの帰国を残念に思い、その後も米国聖公会へ医療活動の重要性を訴えている。このことは、後に米国聖公会が設立した聖バルナバ病院[注 2]聖路加国際病院立教大学への医学部開設の動きにも繋がっている[注 3]。ウィリアムズは長崎の漢方医、笠戸順節とも交流している[注 4]。ウィリアムズが来日した直後、日本ではキリスト教が禁止されていたが、教育活動だけは許可されており、長崎奉行から要請もあり、ウィリアムズも洋学所などで英語を教えた[20]。また、ウィリアムズはいつかキリスト教が解禁されるときのために、熱心に日本語を勉強し、また聖書や聖歌、祈祷書を日本語に翻訳していた[21]

*(左): 高杉晋作 *(中央): 大隈重信 *(右): 前島密 *(左): 高杉晋作 *(中央): 大隈重信 *(右): 前島密 *(左): 高杉晋作 *(中央): 大隈重信 *(右): 前島密

1862年10月にはウィリアムズは、ジョージ・スミス主教の寄金と居留外国人の献金によって長崎・東山手居留地内に完成した英国聖公会会堂(日本で最初のプロテスタントの教会)の初代チャプレンとなる。(2代目チャプレンはフルベッキ。)この時期、ウィリアムズのもとを高杉晋作が訪れ、高杉に欧米事情を教授した[注 5][22]。また、ウィリアムズは大隈重信前島密らに英語や数学などの英学を教えた[注 6]。前島は郵便制度も学ぶが、これが後に日本の近代的郵便制度の基礎確立に繋がることになる。漢字廃止論もウィリアムズから示唆を受けたものであった。ウィリアムズとフルベッキは盟友となり、フルベッキの子供たちはウィリアムズより洗礼、堅信を受け聖公会員となった[注 7]。ウィリアムズはのちに立教大学を創設するが、早稲田大学の建学者たち(建学の祖フルベッキ早稲田大学創設者の大隈重信、校長となる前島密)にも大きな影響を与えた。また、ウィリアムズはのちに早稲田大学(当時、東京専門学校)で教鞭をとった谷口藍田とも交流し、藍田に英語や海外事情を教え、藍田からは和漢の学について教えを受けた。1863年には、肥後藩士で坂本龍馬肥後藩薩長同盟に参加させようと画策した荘村助右衛門もウィリアムズの下で学んだ[注 8]。1866年に、荘村はウィリアムズから日本人として最初の洗礼を受けている。この頃の長崎では龍馬や荘村をはじめとする幕末の志士たちが多く活動した。ウィリアムズ、フルベッキが当初暮らした崇福寺と志士たちも利用した料亭花月のある丸山、ウィリアムズ、フルベッキがその後暮らした東山手居留地、志士たちに艦艇や銃器を提供販売し、亀山社中とも取引を行ったトーマス・グラバーのグラバー商会やグラバー邸は、程近くにあり、海外の情報を得て学びたい志士たちと、外国人たちのコミュニティが出来上がっていた。東山手居留地の英国聖公会会堂は、長崎に駐在する欧米の外国人たちが集い礼拝する場所であった。教会管理人の一人をグラバーが務めた[24]。日本のその後の動きを決める、話し合いがこの長崎のコミュニティでなされたと言ってよい。またウィリアムズを訪れる日本人の将校は、公式な訪問を避けるために、夜間に訪れるなど、秘密裏に情報交換をしていた。1864年4月にはウィリアムズとフルベッキの2名による「日本の当局に抑圧された日本の”浪人”や長州藩下関戦争」の内容を含むレターを米国聖公会海外伝道委員会が機関紙に取り上げている。

一時米国へ帰国[編集]

1864年ウィリアム・ブーン英語版中国語版が亡くなってから空席であった中国・日本伝道監督(現在の主教に相当)に、1865年米国聖公会はウィリアムズを指名した[25]。その按手式を受けるため、1866年にウィリアムズは帰国する[26]。ただし、実際にその監督職の任命を受けると決めたのはアメリカに到着してからであった[27][28]。1866年10月3日、ウィリアムズは中国・日本伝道主教に任命を受けた[29]。また、合衆国大統領アンドリュー・ジョンソンと国務長官ウィリアム・スワードと面会し、日本の禁教撤廃を米政府に要請した[30]。1867年には、ウィリアムズは米国コロンビア大学より神学博士号を授与された[31]

再び中国、大阪へ[編集]

サンフランシスコを出港し横浜を経由して上海に到着したウィリアムズは、休む暇もなく中国各地を視察した[32]。そんなとき、日本で大政奉還が行われたことを聞きつけたため、大阪に居を移すことにし、1869年に大阪市の川口・与力町(川口居留地近く)に建物を得、小礼拝堂と英語塾(のちの大阪・英和学舎、立教大学のルーツの一つ)を開いた[注 9][26][34]。1880年、後に主教を後任する米国聖公会主教のジョン・マキムが来日し、川口居留地の照暗女学校(現・平安女学院)のチャプレンになる。

東京伝道[編集]

呼び寄せた宣教師を迎えるため東京に伝道の拠点を移したウィリアムズは、1874年築地居留地に私塾「立教学校」(のちの立教大学)を開く[注 10][35][36]。同年、ウィリアムズは深川西元町に教会堂を建て、翌1875年に献堂式を行う(東京における米国聖公会の最初の会堂、聖三一教会)[37]。また、婦人教育を行うことも必要だと考えたウィリアムズは、1872年に女学校を設立する構想を提示し[38]、1877年にはブランシェにより湯島立教女学校(のちの立教女学院)が設立される[39][40]。同年、米国聖公会から派遣されたフローレンス・ピットマンが来日し、立教女学校の校長となりブランシェ夫人を支えた。1877年10月に、ウィリアムズは東京・入船町の邸内に「東京三一神学校」(のちの聖公会神学院)を開設[41][42]。1880年には、立教学校はジェームズ・ガーディナーを校長に迎え、新校舎の建造を進め、1883年に米国式カレッジである立教大学校を開設する[43][44]

1872年9月20日から25日にかけて、第一回プロテスタント宣教師会議が横浜にて開催される。日本では当時米国聖公会の宣教師のほかにもイングランド国教会の宣教師がそれぞれの教会の監督の下活動しており、両者が連携して活動すべきであると考えられたからである[45][46]。この会議により、同一の日本語祈祷書を用いることや神学校を設立することが決定していたことから[47]、ウィリアムズが家塾のかたちで始めた東京三一神学校を母体として、1878年10月に、ウィリアムズを校長に新たな「東京三一神学校」が設立された[48][49][47]。同年、ビクトリア主教(日本でイングランド国教会の宣教を担当する主教)が不在の間、ウィリアムズ主教は彼の代わりに行動するように要請され、パームサンデーに東京のアレクサンダー・ショー牧師の礼拝堂で32人に堅信を授けた[50]

日本聖公会設立後[編集]

第一回プロテスタント宣教師会議以来協力関係にあった英国聖公会米国聖公会が合同で日本聖公会を設立する。組織設立には米国聖公会のウィリアムズと英国聖公会エドワード・ビカステスが主導的な役割を果たし、1887年2月11日に最初の総会を開催した[51]。ウィリアムズは旧約聖書の日本語翻訳にも取り組み、1888年2月3日にプロテスタント各派の宣教師たちにより開催された明治元訳聖書旧約聖書翻訳完成祝賀会では、米国長老派教会ジェームズ・ヘボンが司会を務める中、会の冒頭でウィリアムズは詩篇19篇の朗読を行った。会ではヘボンとフルベッキにより翻訳の沿革が語られた。1889年にはウィリアムズが日本伝道主教を辞任し[52]、ジョン・マキムが主教を後任した。1890年11月1日には、ウィリアムズの要請により医師で聖公会信徒の長田重雄が京橋区船松町13番地に「愛恵病院」(英語名:Tokyo Dispensary)を設立する。この病院は「築地病院」(英語名:St. Luke's Hospital)と改称されたのち、ルドルフ・トイスラーが1901年2月21日に設立する「聖路加病院」となった[53]。ウィリアムズは1893年12月にアメリカへ帰国した。

晩年[編集]

1895年に再び来日した[54]ウィリアムズは、京都に住まいを得、京都聖ヨハネ教会など3つの教会を管理した[55][56]。大阪市川口居留地の照暗女学校が京都市に移転、校名を「平安女学院」に変更し開校する。その頃になると、目が見えなくなったり、また自分の行こうとしていた場所を失念したりするなど、老衰が顕著にみられるようになってきた[57]。このためウィリアムズはジェームズ・ガーディナーに依頼してアメリカへ帰国する手続きをしてもらい、リッチモンドまでガーディナーに付き添われながら帰国した[58][59]

1909年にはウィリアムズの病状が悪化したため入院する。入院中は日本語を話して看護婦を困らせたとされる。1910年12月2日、ウィリアムズは逝去した[60][61]

以下の墓碑に記されている「道を伝えて己を伝えず」という言葉の通り、ウィリアムズは自分について知られることを嫌っていて、日本から帰国する際に自分に関する資料を燃やしてしまったほどだという[62][63][64]

墓碑[編集]

バージニア州リッチモンドのハリウッド墓地(Hollywood Cemetery)にある彼の墓碑には、次の文字が刻まれている。

「IN LOVING MEMORY OF THE RIGHT REVEREND CHANNING MOORE WILLIAMS, D.D. WHO CONSECRATED HIS LIFE TO JAPANESE PEOPLE AS MISSIONARY AND BISHOP FROM JULY 1859 TO APRIL 1908. THIS TABLET IS ERECTED BY JAPANESE CHRISTIANS.

創業ノ難ヲ拝シ堅忍能ク日本聖公會ノ基ヲ奠ム嗚呼我ガ老監督ウイリアムス美哉日本在任五十年道ヲ傳ヘテ己ヲ傳ヘズ一朝飄然トシテ去リ老骨ヲ故山ニ埋ム温容彷髴追憶日ニ新ナルモノアリ茲ニ碑ヲ老師就眠の地ニ建テ日夕愛慕ノ意ヲ表ス 大正二年七月 日本聖公會 有志者」

逸話[編集]

『ミカドズ・エンパイア』の著書グリフィスは、グイド・フルベッキジェームズ・ヘボンサミュエル・ブラウン、チャニング・ウィリアムズの四人の宣教師こそ、アメリカが日本に贈った最高のプレゼントであると評して、前者三名の伝記を著した。だが、ウィリアムズの伝記だけは実現しなかった。ウィリアムズがそれを許可しなかったからである。遺言状で自らの書簡や説教メモなどの出版を厳禁、最後の離日前にそれらのほとんどを焼却、他界後1年後には墓の行方が一時不明になるなど、死後においても隠れた謙虚な人であった[65]

ウィリアムズの幼少期、ある暴風雪の日曜日に、外に出ることは不可能だと考えたウィリアムズの母、メリーが自宅の中で礼拝を行おうと準備をしていると、窓の外に当時ウィリアムズらの教区の主教であったリチャード・チャニング・ムーアが教会へ向かって歩いている姿が見えた。これに感激したメリーは、直ちにムーア主教を追って幼いウィリアムズらとともに教会へ急いだという[66][67][68]

日本でキリスト教が禁止されていたある日、ウィリアムズの元に客が来た。客が来ることは珍しいため、ウィリアムズは丁重にもてなした。その客は他に誰か人がいないか心配していたため、他に誰もいない旨を伝えると、おもむろにキセルを懐から取り出し、このキセルをキリシタンの魔法で純金のキセルに変えてほしいと言った。ウィリアムズはこれに対し、自分は魔法使いではないと答えると、今度は金持ちの家の蔵に忍び込み金を盗んで逃げる方法を聞いてきた。自分は日本に泥棒の方法を教えるために来たわけではない、とウィリアムズがはっきり断ったため、客は気落ちして帰っていったという[69][70]

神戸から船で横浜へ向かっている際、ウィリアムズがあまりにもみすぼらしい服を着ているところを見た知人の船長が、服は裏返すと新しく見えることをウィリアムズに教えた。ウィリアムズはこれに対して、この服はすでに裏返したあとで、また古くなったのだと答えた[71][72][73]

1880年(明治13年)4月、50歳のウィリアムズは、プロテスタントの新約聖書翻訳完成式典が催された新栄橋教会の後方座席に座していた。白髪白髭の彼を見たある他派信徒は、「群雀中の白鶴だ、キリスト教の説教は彼一人で事が足りる」と言ったという[65]

ミッション・スクールにのりこんではキリスト教を論破していたある排耶漢学者が、あるとき立教学校に来校し、ウィリアムズに面すると、彼はあまりの倫理的威圧感におされて何も言えず、立ち去ってしまった。この漢学者はのちにウィリアムズを洋の東西に通ずる高徳を体現する人物であったと評したという[65]

1889年、名出保太郎が東京三一神学校の神学生であった際、名出をはじめとする神学生は自身に割り当てられた寮の屋根裏部屋を不満に思い、ウィリアムズに改善してほしいと伝えると、ウィリアムズは善処すると答えた。明くる日、名出らが神学校に行っている間に、ウィリアムズは用務員とともに自分の部屋と神学生らの部屋の荷物を入れ替えて、部屋を交換した。名出はこれに対して、ウィリアムズに申し訳ないと平謝りしたが、ウィリアムズは自分が部屋を使うのは寝るときだけであり、学生は勉強のためによい部屋を使うべきだと言って、一度決めたことを譲ろうとはしなかった[74][75]

土曜日の最終の汽車を逃した際、日曜日は安息日であるので汽車を使わないと決めていたウィリアムズは、自宅まで歩いて帰った。

時間に非常に厳しく、生徒が5分でも遅刻した際は授業を受けさせなかった。

ウィリアムズが汽車に乗ってくるということで、信者らが駅まで迎えに行った。当時、ウィリアムズのような宣教師は二等車に乗車していたため、二等車の降り口で出てくるのを待ち構えていた。だが、汽車が発車するときになっても二等車から出てくることはなく、ウィリアムズは三等車の降り口から出てきた。信者がウィリアムズに、なぜ三等車を使うのか尋ねたところ、ウィリアムズは「四等車がないものですから」と答えたという[76]

1895年(明治28年)、京都御所に近い東三本木の日本家屋にいたころ、隣近所の日本人がウィリアムズの家政婦に「あれは西洋乞食だろう」とさかんに揶揄していた。けれども、同年発行の雑誌『太陽』の偉人特集に掲載されたウィリアムズをみて、あわてて家政婦のところに、これまでの非礼を謝りにきている[65]

京都北部の漁港宮津で汽船の待合所に座っていたウィリアムズを、事務員は乞食と思い隅に追いやったところ、素直に指示に従っていたウィリアムズのところに、次々と来訪する土地の名士の歓迎ぶりをみて、係員は恥じいってしまった[65]

北関東の寄居町へウィリアムズの巡回時、荒川の渡船場で年老いた船頭が「いま、ここを神様のような方が通られました」と後続の日本人信徒にいったという[65]

非常な倹約家で、当時の米国聖公会主教の月々の俸給は 400 円(現在の価値で約 150 万円)だったが、彼の生活費は 15 円(同約 6 万円)程度だったといわれている。 このようにして貯めたお金は、教会の建築に多額を費やすなどして使っている(築地の聖三一大会堂、京都の聖ヨハネ教会は、ほとんどがウィリアムズの私費によって建てられたとされる)。また、路傍の困窮者へお金を与えることもあったが、その際も彼はこれみよがしに金を差し出したりはせずに、「汝の右手のなすことを左手をして知らしむるなかれ」の教え通り、困窮者のもとに近寄り、袖の下から落とすようにしてこっそりと金を差し出すのが常であった。

雇っていたコックが買い出しの際に値の張るものを買ってくると、それを返してより安いものへと交換しに行かせた。耐えかねたコックが「もうあなたのコックは務まりません。」と退職を申し出た際、ウィリアムズは「そうですか。それは残念です。これはあなたが今まで貯めたお金です。」と言って、彼が食べ物を返品した際の差額を貯蓄していたものを差し出した。これに感動したコックは、引き続きウィリアムズのもとで働き続けることとなった。

彼のポケットには金平糖が入っており、それをことあるごとに子供たちに配って喜ばせた。この逸話に由来し、現在立教大学にあるウィリアムズ主教の銅像は、金平糖を取り出す際の仕草として片手をポケットに入れた姿になっている。

脚注[編集]

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注釈[編集]

  1. ^ 琉球王国で伝道活動した英国聖公会のバーナード・ジャン・ベッテルハイムを日本における最初のプロテスタント宣教師とすることもあるが、琉球王国は1879年になって日本の沖縄県になることから、正式に日本ミッション開設のために米国聖公会から派遣されたジョン・リギンズとチャニング・ウィリアムズを日本における最初のプロテスタント宣教師とする。
  2. ^ ウィリアムズが病院の開設に尽力した。
  3. ^ 戦後、理事会において医学部開設の決定されたが、聖路加の病院施設が1956年までGHQの接収を受けており、実現には至らなかった[19]
  4. ^ 笠戸順節は、漢文にも長けた人物で、リギンズ、ウィリアムズ、フルベッキに、日本語や日本に関する書籍を供給した。リギンズ、ウィリアムズは中国で漢文を習っていたため、笠戸とコミュニケーションが取りやすかったと思われる。笠戸順節は、シーボルトにも資料を提供していたとされる。
  5. ^ 高杉晋作はチャニング・ウィリアムズから「アメリカでは、階級間に差別がなく一般人から大統領が生まれ、また大統領も、辞めれば一般人となること」など欧米の状況を聴き、知識を得る。(これが奇兵隊の発想の元にもなったと言われる。)
  6. ^ 大隈重信アメリカ独立宣言を知り、その後の人生に大きな影響を受けたが、アメリカ独立宣言の起草者であるトーマス・ジェファーソンはウィリアムズが卒業したウィリアム・アンド・メアリー大学の卒業生であり、大隈にアメリカ独立宣言を最初に教えたのはウィリアムズであった可能性が高い。
  7. ^ 次男はチャニング・ムーア・ヴァーベック(フルベッキ)と命名(ウィリアムズは遺産の一部と金時計を与えると遺言状で指示)。二女のエマ・フルベッキは聖公会の婦人伝道師となり、立教女学院立教学校(のちの立教大学)で教えた。
  8. ^ 荘村は、藩では兵学者で西洋流砲術、洋式操練の研究担当し、佐久間象山の塾や長崎海軍伝習所でも学んだ。ウィリアムズからは軍事書を手に入れたほか、フルベッキグラバーに加え桂小五郎坂本龍馬とも親交を持った[23]
  9. ^ 小礼拝堂は現在の川口基督教会の発祥となる[33]
  10. ^ 開校当初は「Day school for boy」または「Boys school」などと呼ばれていたが、年末までに立教学校と命名された。(『立教学院百年史』 学校法人立教学院1974年、151頁)

出典[編集]

  1. ^ 『キリスト教大事典』109頁
  2. ^ 前島男爵 談 市島謙吉 編「鴻爪痕」、市島謙吉 デジタル化出版者:国立国会図書館、1922年、 doi:10.11501/986504
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  7. ^ 大江(2000), p. 30.
  8. ^ 大江(2000), p. 34.
  9. ^ 伊藤・松平 2007年 7頁
  10. ^ 矢崎(1988), p. 31.
  11. ^ 伊藤・松平 2007年 12頁
  12. ^ 大江(2000), p. 97.
  13. ^ 伊藤・松平 2007年 13頁
  14. ^ 伊藤・松平 2007年 15頁
  15. ^ 矢崎(1988), p. 40-41.
  16. ^ 石山禎一、宮崎克則「シーボルトの生涯とその業績関係年表Ⅲ(1856年‐1862年)」『西南学院大学国際文化論集』第27巻第1号、西南学院大学学術研究所、2012年10月、 ISSN 0913-0756
  17. ^ 園田健二「幕末の長崎におけるシュミットの医療活動」『日本医史学雑誌』第35巻第3号、日本医史学会、1989年7月、 261-276頁、 ISSN 0549-3323NAID 40002821979 (Paid subscription required要購読契約)
  18. ^ Wolfgang Michel-Zaitsu「野中烏犀円文庫収蔵の諸洋医書について」『伊藤昭弘篇『佐賀藩薬種商・野中家資料の総合研究ー日本史・医科学史・国文学・思想史の視点から』、佐賀大学地域学歴史文化研究センター、2019年3月、 doi:10.13140/RG.2.2.12581.55522
  19. ^ 立教と聖路加のつながり
  20. ^ 杉本つとむ「続・幕末の洋学事情--近代の発信地,長崎と蘭医と近代教育」『早稲田大学図書館紀要』第42号、早稲田大学図書館、1995年12月、 1-55頁、 ISSN 02892502NAID 40003930216
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  22. ^ ウィリアムズ主教の生涯と同師をめぐる人々
  23. ^ 中島一仁「日本における聖公会初の受洗者・荘村助右衛門 : その人物像とウィリアムズとの交友をめぐって」『立教学院史研究』第16号、立教大学立教学院史資料センター、2019年、 2-20頁、 doi:10.14992/00018017ISSN 1884-1848NAID 120006715214
  24. ^ 『日本初のプロテスタント教会のスケッチ図をバークガフニ環境・建築学部長が発見』 長崎総合技術大学
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  31. ^ 『創立者ウィリアムズの物語』 立教女学院中学校・高等学校
  32. ^ 矢崎(1988), p. 70.
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  34. ^ 矢崎(1988), p. 73-72.
  35. ^ 矢崎(1988), p. 97.
  36. ^ 伊藤・松平 2007年 26頁
  37. ^ 1889(明治22)年頃には、二つに分かれ一つは築地の立教会堂と合併して聖三一教会(現在の東京聖三一教会)となり、一つは深川にとどまって真光教会(現在は町田市にある。)と呼ばれた。
  38. ^ 大江(2000), p. 461.
  39. ^ 大江(2000), p. 462-463.
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関連人物[編集]

参考文献[編集]