太田耕造

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太田耕造
おおた こうぞう
亜細亜大学学長時代 1955年(昭和30年)
生年月日 1889年12月15日
出生地 日本の旗 日本 福島県
没年月日 (1981-11-26) 1981年11月26日(91歳没)
出身校 東京帝国大学法学部英法科卒業
前職 首相秘書官
現職 亜細亜大学学長
所属政党 無所属倶楽部

日本の旗 第57代 文部大臣
内閣 鈴木貫太郎内閣
在任期間 1945年4月7日 - 1945年8月17日

内閣 平沼内閣
在任期間 1939年4月7日 - 1939年8月30日

在任期間 1939年8月28日 - 1945年12月21日
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太田 耕造(おおた こうぞう、1889年明治22年)12月15日 - 1981年昭和56年)11月26日)は、日本弁護士政治家・教育者。亜細亜大学の実質的創立者の一人。

経歴[編集]

二本松藩の豪商・勢州屋八代長左衛門より分家し、金融機関の相生社(あいおいしゃ)結社に参画した太田貞郎の4男として福島県で生まれる。日本基督一致教会福島教会(現、日本基督教団福島教会)で洗礼を受け、キリスト教青年運動に従事。牧師を志し上京、聖学院神学校に入学するが、法律家政治家に進むことを決意。東京中学卒業時に高等学校受験に失敗し、明治大学法学部を経て、第四高等学校 (旧制)東京帝国大学法学部英法科を卒業し弁護士となる一方、民族主義運動に傾注。平沼騏一郎の主宰する国本社に参加し、幹事を務めている。帝大在学中に七生社の前身である興国学生連盟を組織して国家主義運動に入り、平沼騏一郎からの信頼篤く、田辺治通竹内賀久治と共に「平沼の三羽烏」と称され、五・一五事件血盟団事件では弁護士を務めた[1]

1938年(昭和13年)法政大学教授に就任。1939年(昭和14年)1月平沼内閣発足に伴い首相秘書官に任命され、さらに同年4月には総理女房役の内閣書記官長に就任する。平沼内閣総辞職を目前に控えた同年8月28日、貴族院勅選議員に勅任され[2]、院内会派・無所属倶楽部に所属して、公職追放で議員辞職する1945年(昭和20年)12月21日までこれを務めている[3]。1941年(昭和16年)興亜専門学校設立の中心の一人に。1945年4月に発足した鈴木貫太郎内閣文部大臣となる。

戦後、1945年(昭和20年)12月2日連合国軍最高司令官総司令部は日本政府に対し太田を逮捕するよう命令(第三次逮捕者59名中の1人)[4]A級戦犯の容疑で巣鴨刑務所に勾留されたが、不起訴となり出所。その後は、興亜専門学校の後進である日本経済短期大学亜細亜大学学長として教育に力を注ぐ。一時期福島テレビ会長にもなった。墓所は多磨霊園

栄典[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 妙味ある布陣 最適任・三大使の横顔大阪毎日新聞 1942.8.29 (昭和17)、神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫
  2. ^ 『官報』第3795号、昭和14年8月29日。
  3. ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年、53頁。。
  4. ^ 梨本宮・平沼・平田ら五十九人に逮捕命令(昭和20年12月4日 毎日新聞(東京))『昭和ニュース辞典第8巻 昭和17年/昭和20年』p341-p342 毎日コミュニケーションズ刊 1994年
  5. ^ 『官報』・付録 1941年11月21日 辞令二

参考文献[編集]

先代
田辺治通
内閣書記官長
第41代:1939年
次代
遠藤柳作
先代
児玉秀雄
文部大臣
第61代:1945年
次代
松村謙三(兼任)
先代
-
亜細亜学園理事長
初代:1954年 - 1956年
次代
五島慶太
先代
笹森順造
日本経済短期大学学長
第2代:1945年
次代
早川崇
先代
-
亜細亜大学学長
初代:1954年 - 1981年
次代
早川崇