鮫島武之助
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鮫島 武之助(さめしま たけのすけ、1848年12月5日(嘉永元年11月10日[1]) - 1931年(昭和6年)2月20日)は、明治時代の官僚・政治家。貴族院議員ならびに伊藤博文内閣における内閣書記官長。鹿児島城下山之口馬場の薩摩藩藩医、鮫島淳愿の三男として鹿児島に生まれる。鮫島尚信の弟。台湾で植民地貿易やレンガ製造を行なった鮫島盛の兄[2]。
来歴
[編集]薩摩藩の開成所で英語を学び、慶應義塾を卒業し、アメリカに留学。帰国し東京外国語学校の教師となり、東京府に出仕する。1881年(明治14年)、東京府中学校長兼英語教師。のちに外務省書記生(専門職)、外務大臣秘書官、公使館書記官兼外務省参事官(イタリア駐在)、内閣総理大臣秘書官[3]などを経て、1896年(明治29年)9月11日、貴族院議員(勅選)を命ぜられ[4]、1898年(明治31年)1月、第3次伊藤内閣内閣書記官長、第1次大隈内閣内閣書記官長、1900年(明治33年)10月、第4次伊藤内閣内閣書記官長を拝命し、のちに鉄道会議議員、日本銀行監事となる。1931年(昭和6年)、84歳で没する。墓所は青山霊園。
栄典
[編集]- 位階
- 1886年(明治19年)7月8日 - 従七位[5]
- 1891年(明治24年)12月21日 - 従六位[6]
- 1897年(明治30年)5月31日 - 正五位[7]
- 1898年(明治31年)7月6日 - 従四位[8]
- 1899年(明治32年)9月21日 - 正四位[9]
- 勲章等
- 外国勲章佩用允許
- 1893年(明治26年)2月1日 - イタリア王冠勲章コンメンダトーレ[13]
脚注
[編集]- ^ 『貴族院議員氏名表』貴族院彙報附録、昭和2年12月20日、31頁では「安政2年9月25日」。
- ^ 鮫島盛君を弔するの文 『算外飛沫』 (木村匡, 1906)
- ^ 『日本官僚制総合事典:1868 - 2000』25頁。
- ^ 『官報』第3964号、明治29年9月12日。
- ^ 『官報』第908号「叙任及辞令」1886年7月12日。
- ^ 『官報』第2545号「叙任及辞令」1891年12月22日。
- ^ 『官報』第4172号「叙任及辞令」1897年6月1日。
- ^ 『官報』第4505号「叙任及辞令」1898年7月7日。
- ^ 『官報』第4870号「叙任及辞令」1899年9月22日。
- ^ 『官報』第5393号「叙任及辞令」1895年6月22日。
- ^ 『官報』第3704号「叙任及辞令」1895年11月1日。
- ^ 『官報』第1218号「叙任及辞令」1916年8月21日。
- ^ 『官報』第2880号、明治26年2月7日。
外部リンク
[編集]参考文献
[編集]公職 | ||
---|---|---|
先代 平山成信 安広伴一郎 |
内閣書記官長 第8代:1898年 第11代:1900年 - 1901年 |
次代 武富時敏 柴田家門 |