藤沼 庄平(ふじぬま しょうへい、1883年(明治16年)2月17日[1] - 1962年(昭和37年)1月2日[1])は日本の官僚、政治家。
栃木県佐野市生まれ、旧姓は若田部[1]。1902年(明治35年)栃木県立栃木中学校(現栃木県立栃木高等学校)卒業、1909年(明治42年)に東京帝国大学法科大学政治科を卒業、内務省に入省。奈良県、鹿児島県、京都府、大阪府の警察部長を務め[1][2]、1923年(大正12年)10月に茨城県知事に就任したが、虎ノ門事件により辞職[1]。この後内務省警保局長、新潟県知事、東京府知事を歴任した。
1928年(昭和3年)の第16回衆議院議員総選挙で栃木2区から衆議院議員に当選、立憲政友会に所属した。1932年(昭和7年)警視総監に就任。翌1933年(昭和8年)には貴族院勅選議員に勅任された。1936年(昭和11年)に広田内閣の内閣書記官長に就任。この頃大日本武徳会の理事長も務めた。
第二次世界大戦後の1946年(昭和21年)に警視総監に再任され、東京都長官(現・知事)を兼任。枢密顧問官も務めたが、翌1947年(昭和22年)にGHQにより公職追放。1951年(昭和26年)の追放解除後はニッポン放送顧問を務めた[1]。1962年(昭和37年)1月2日満78歳で死去。
なお、藤沼は警視総監への再任を経験した最後の人物である。戦前・戦中までは警視総監に再任することは特に珍しいことではなく、中には安楽兼道のように3度にわたって再任(初就任を含め、計4度就任)している例もある。藤沼の再任を最後に、現在まで警視総監再任を経験した者は現れていない。なお、戦後に警視総監再任を経験したのは坂信彌(1945年8月19日再任)と藤沼(1946年1月15日再任)の2名だけである。
語録:「私のことを運のいい奴だ、棚ぼた式の男だというが、ぼたもちが落ちてくる真下にまで行く努力をしない奴には、決してぼたもちは口に入らないのだ」[3]
- 位階
- 勲章等
- 外国勲章佩用允許
参考文献[編集]
- 『昭和戦前期立憲政友会の研究 党内派閥の分析を中心に』 奥健太郎/著 出版社名:慶應義塾大学出版会 発行年月:2004年7月 JANコード:9784766410921
- 第2部「政友会の中央地方関係」
外部リンク[編集]
 |
ウィキメディア・コモンズには、藤沼庄平に関連するカテゴリがあります。 |
警視総監 (第38代:1932年-1934年 / 第56代:1946年) |
---|
大警視 | |
---|
警視総監 |
|
---|
|
東京府知事・東京都長官(1932年/1946年) |
---|
官選 |
江戸府知事 | |
---|
東京府知事 | |
---|
東京府大参事 | |
---|
東京府権知事 | |
---|
東京市長 | |
---|
東京都長官 | |
---|
|
---|
公選 |
|
---|
|