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日本自由党 (1953-1954)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

日本自由党(にっぽんじゆうとう)は、かつて存在した日本の政党

1953年当時、与党であった自由党内の党内争いで、吉田茂首相(党総裁兼任)に反抗する鳩山一郎元総裁が分派する形で結成したものである。鳩山ら大半の議員は程なく復党するが、一部議員はこれに従わず引き続き分派を維持し、鳩山が再び脱党、日本民主党を結党する下地となった。

分党派自由党

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1953年(昭和28年)2月28日、衆議院予算委員会における吉田首相の“バカヤロー”発言後、首相懲罰動議採決で欠席した自由党鳩山派は、その後の内閣不信任案の採決にあたって、不信任案可決を狙い自由党を離党。同じく懲罰動議採決に欠席し農林大臣罷免されていた広川弘禅も加えて、分党派自由党を結成した(前議員37名)。直前まで所属していた自由党と同名で紛らわしいことから、一説にはマスコミが、鳩山が新たに結党した自由党を鳩山自由党、元からある自由党を吉田自由党と区別する呼称が定着したとされる[1]

第26回衆議院議員総選挙(1953年4月19日)にて、鳩山自由党は35議席を獲得。吉田自由党は振るわず半数割れし、革新政党であった日本社会党が伸長した[2]。選挙後成立した第5次吉田内閣は、戦前の保守二大政党の後裔の片割れであった改進党の閣外協力を取り付けて政権運営に当たったが、一方で鳩山も、吉田自由党幹部から、後継含みで復党を持ちかけられる。鳩山自由党の経営にかかった費用を吉田自由党が清算する、と確約されると鳩山も断りがたく、11月17日吉田が党首会談で鳩山の主張である憲法改正調査会と外交委員会の設立を受け入れたのを手土産として、11月29日、鳩山ら29人が吉田自由党に復党[3]したものの、三木武吉河野一郎ら8名は復党せずに後述の「日本自由党」を結成した[2]

歴代執行部役員表

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総裁 幹事長 党務委員長 政策委員長 選挙委員長
鳩山一郎 三木武吉 石橋湛山 広川弘禅
 〃 河野一郎  〃  〃

歴代総裁

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自由党総裁

総裁 在任期間
1 鳩山一郎 鳩山一郎 1953年(昭和28年)3月18日 - 1953年(昭和28年)12月10日

日本自由党 (1953-1954)

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日本自由党(にっぽんじゆうとう)は、上述の鳩山自由党から鳩山らが吉田自由党に戻った際、これに付き従わなかった政治家が中心となって1953年11月に結成された。

鳩山と一時的に袂を分かって参画したのは、三木武吉河野一郎山村新治郎池田正之輔松田竹千代中村梅吉安藤覚松永東の8人。彼らは後に当時流行した映画七人の侍』(1954年春公開)をもじって八人の侍と呼ばれるようになる。

日本自由党は、保守系野党の立場をとりつつも、吉田自由党と没交渉だったわけではなく、1954年3月、少数与党体制の打破を目指す吉田自由党の求めによる保守新党結成の交渉に改進党とともに加わる。しかし6月に交渉が破談になると、改進党と日本自由党は、自由党の鳩山派とともに、反・吉田保守新党の動きをおこす。かくして、再び吉田自由党を離党した鳩山を総裁に担ぐ形で、11月24日、日本民主党が結成され、日本自由党も全員がこれに加わった。

歴代執行部役員表

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総裁 最高顧問 幹事長 政務調査会長
(空席) 三木武吉 河野一郎 中村梅吉

党勢の推移

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衆議院

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選挙当選/候補者定数備考
第26回総選挙35/102466 

参議院

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選挙 当選/候補者非改選定数備考
第3回通常選挙0/92250 
  • 当選者に追加公認は含まず。追加公認には会派に加わった無所属を含む。

脚注

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注釈

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出典

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  1. ^ 水木楊『誠心誠意嘘をつく 自民党を生んだ男・三木武吉の生涯』2005年7月、日本経済新聞社ISBN 4-532-16524-5
  2. ^ a b 升味 1983, p. 420.
  3. ^ 世相風俗観察会『現代世相風俗史年表:1945-2008』河出書房新社、2009年3月、59頁。ISBN 9784309225043 

参考文献

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関連項目

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