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加藤正義

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
かとう まさよし

加藤 正義
生誕 嘉永7年2月23日1854年3月21日
伯耆国日野郡渡村(現・鳥取県日野郡日野町別所)
死没 大正12年(1923年12月24日
墓地 青山霊園 1イ1-7-11
別名 幼名源太郎
職業 実業家政治家
肩書き 日本郵船副社長
配偶者 菊枝
子供 加藤正治(養子)
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加藤 正義(かとう まさよし、1854年3月21日嘉永7年2月23日) - 1923年大正12年)12月24日[1])は日本の実業家政治家。元日本郵船副社長[1]幼名源太郎。

中央大学総長・東京大学名誉教授加藤正治の養父(岳父)。

経歴

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1854年3月21日嘉永7年2月23日)、伯耆国日野郡渡村(現・鳥取県日野郡日野町別所)の農家に生まれた[2]。加藤良吉の二男。7歳の頃から寺子屋に通った。12歳に達した時、根雨の大庄屋近藤喜八郎のもとに奉公に出された。

1873年鳥取県庁を皮切りに山形県庁兵庫県庁に勤務した。1885年、兵庫県令森岡昌純農商務少輔に転出すると、その推薦で農商務権少書記官となり 当時過当競争の弊害で産業発展にブレーキをかけていた三菱汽船共同汽船合併に奔走、日本郵船の創立をみた。

1886年、官を退いて同社に入社。1893年取締役、2年後副社長となった。1914年 - 東京市会議員に選ばれ、同年7月市会議長となり、1920年3月職を辞するまで市政に参画して東京都発展のために尽くした。傍ら扶桑海上保険社長、帝国海事協会、日本海員掖済会理事、東洋拓殖会社創立委員、東京湾築港協会委員等として海運界の発展に寄与し、あるいは法典調査員、東京商工会議所特別議員等、各界に委員として力を尽くした。

1923年12月24日、死去。特旨をもって従四位に叙せられ、勲二等旭日重光章を授けられる。

栄典

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位階
勲章等

家族

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『鳥取県百傑伝』438頁に「鳥取県出身の元文部大臣奥田義人博士の夫人は、菊枝の妹八重子である。また、のちに鳥取県知事になった武井守正は、夫人の伯父にあたる。」とある。

脚注

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  1. ^ a b 『大正過去帳 物故人名辞典』291頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2025年2月13日閲覧。
  2. ^ 『鳥取県百傑伝』436頁に「日野の山奥の無名の百姓の子として誕生した正義が、のちに成長して海運界の大御所となり、この日本近代史の大きな推進力になろうとは、当時だれも予想しなかったにちがいない。」とある
  3. ^ a b 『官報』第3405号「叙任及辞令」1923年12月27日。
  4. ^ 加藤正治『人事興信録』第8版 [昭和3(1928)年7月]

参考文献

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  • 『鳥取県百傑伝』 1970年、436-440頁
  • 稲村徹元、井門寛、丸山信共編『千葉県紳士名鑑』東京美術、1973年。
  • 『鳥取県大百科事典』(編集・新日本海新聞社鳥取県大百科事典編集委員会)1984年 182頁

関連項目

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外部リンク

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先代
初代
扶桑海上火災保険会長
1917年 - 1923年
次代
平生釟三郎