森岡昌純

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森岡昌純

森岡 昌純(もりおか まさずみ[1] / しょうじゅん[2]1834年1月10日(天保4年12月1日[2][3] - 1898年明治31年)3月27日[2][4])は、幕末薩摩藩士、明治期の官僚政治家実業家兵庫県令貴族院勅選議員男爵。旧名・清左衛門[5]

経歴[編集]

薩摩国鹿児島郡鹿児島城樋ノ口通[5]で薩摩藩士の家に生まれる。文久2年4月23日1862年5月21日)寺田屋騒動において島津久光の命を受け薩摩藩尊皇派を鎮撫した[6]

明治政府に出仕し明治4年8月27日1871年10月11日)長崎県大参事に就任。その後、同権参事飾磨県参事、同権令、兼五等判事などを歴任。1876年8月21日、飾磨県が廃止され廃官。同年9月9日、兵庫県権令となり、1878年5月29日、県令に昇格[5]地租改正の推進、県会の開設準備などに尽力。学校教師・生徒の新聞購読を禁じ、政治団体の演説会への弾圧、新聞記者の県庁舎への立入を禁止するなど、政党活動を抑圧した[7]1885年4月7日、農商務少輔に転じたが同日に非職。1888年4月6日に非職満期となり退官した[5]

1885年4月9日、共同運輸会社社長に就任[8]。同年9月29日、同社が郵便汽船三菱会社と合併して日本郵船会社が設立すると初代社長に就任[8]。同社の経営改善に尽力。1894年3月、新定款の制定を契機に社長を退き取締役となる[5][6]

1890年9月29日、貴族院勅選議員に任じられ[5][9]、死去するまで在任した。臨終に際しその勲功により男爵を叙爵した[10][11]

家族[編集]

林小兵衛商店

安政6年(1859年)に薩摩藩士・柴山権介の娘和歌子と結婚したが、寺田屋騒動により森岡と柴山家は敵対する立場になったことから、4年で離婚、和歌子は三島通庸と再婚した[12]。家督と爵位は養子の森岡彦(鹿児島藩士・江夏喜藏の二男)が引き継いだ[13]。彦の妻・とめは、株式仲買人・林小兵衛の二女[14]。林小兵衛(1857年生)は大阪の藤田辰造の三男に生まれ、丁稚奉公ののち兜町に移って株仲買の林商店に入り、働きぶりが認められて養子となり、林小兵衛を襲名、株式界の飛将軍と呼ばれ、巨富を築いた[15]。彦と相婿に芝田徹心。男爵位は彦の長男・森岡銈一郞が継いだ。

脚注[編集]

  1. ^ 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』172頁。
  2. ^ a b c 『平成新修旧華族家系大成』下巻、747頁。
  3. ^ 「従四位勲三等男爵森岡昌純特旨叙位ノ件」では「天保5年2月」。
  4. ^ 『朝日日本歴史人物事典』1706頁では「3月26日」。
  5. ^ a b c d e f 「従四位勲三等男爵森岡昌純特旨叙位ノ件」
  6. ^ a b 『朝日日本歴史人物事典』1706頁。
  7. ^ 『新編日本の歴代知事』695頁。
  8. ^ a b 吉田準三「わが国明治期の会社制度の展開過程・(続編)」『流通經濟大學論集』第27巻第4号、1993年、1-16頁、NAID 120006218952 
  9. ^ 『官報』第2182号、明治23年10月6日。
  10. ^ 『明治過去帳』新訂初版、536頁。
  11. ^ 『官報』第4419号、明治31年3月29日。
  12. ^ 『尚友ブックレット』第5~8号、1996、尚友倶楽部、p25
  13. ^ 森岡彦『人事興信録』第4版 [大正4(1915)年1月]
  14. ^ 林小兵衛『人事興信録』第4版 [大正4(1915)年1月]
  15. ^ コンプライアンス率先の飛将軍 林小兵衛氏日経新聞、2014年7月19日

参考文献[編集]

公職
先代
品川弥二郎(→欠員)
日本の旗 農商務少輔
1885年
次代
(欠員→廃止)
先代
中島錫胤
飾磨県権令
1874年 - 1876年
参事
1872年 - 1874年
次代
(廃止)
ビジネス
先代
(新設)
日本郵船会社社長
1885年 - 1894年
次代
吉川泰次郎
先代
伊藤雋吉
共同運輸会社社長
1885年
次代
(日本郵船会社に統合)
日本の爵位
先代
叙爵
男爵
森岡(昌純)家初代
1898年
次代
森岡彦