有吉忠一
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有吉 忠一 ありよし ちゅういち | |
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![]() 有吉忠一 | |
生年月日 | 1873年6月2日 |
出生地 |
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没年月日 | 1947年2月10日(73歳没) |
出身校 | 東京帝国大学法科大学 |
親族 | 山崎巖(娘婿) |
有吉 忠一(ありよし ちゅういち、1873年6月2日 - 1947年2月10日)は、日本の内務官僚。元千葉県知事・宮崎県知事・神奈川県知事・兵庫県知事。朝鮮総督府政務総監。横浜市長。貴族院議員。横浜商工会議所会頭、日本商工会議所副会頭、日赤理事も務めた。豊岡県宮津(現・京都府宮津市)生まれ。クリスチャン。父は宮津藩藩士・京都留守居役・郡長の有吉三七。
略歴[編集]
東京帝国大学法科大学卒業。内務省に入省。1902年内務省警保局書記官、参事官。
- 1908年 第11代千葉県知事
- 1910年6月14日-1911年3月13日 朝鮮総督府総務部長官。
- 1911年 第13代宮崎県知事
- 1915年 神奈川県知事
- 1919年 第15代兵庫県知事(兵庫県章を制定)
- 1922年6月12日-1924年7月4日朝鮮総督府政務総監。
- 1925年 第10代横浜市長
- 1930年 勅選貴族院議員となる(1946年6月15日辞任[1])。
- 1931年 「ネスレ事件」に加担し、札幌駅で暴漢に殴られる。
- 1933年 横浜商工会議所会頭。
人物[編集]
日本基督教団神戸教会の教会員であり、神奈川県知事時代には関東学院の開設に助力する。
有吉が朝鮮総督府、政務総監だった頃にイギリス人の植民地研究の権威だったアレン・アイルランドが朝鮮を訪れている。「有吉氏は日本で最も専門的知識があり評判の高い文官の一人で、私個人の見解では、仕事熱心で朝鮮の人々に対して思いやりのある人物である」[2]
栄典・授章・授賞[編集]
- 位階
- 勲章等
- 1912年(大正元年)8月1日 - 韓国併合記念章[5]
- 1915年(大正4年)11月10日 - 大礼記念章[6]
- 1918年(大正7年)6月29日 - 勲二等瑞宝章[7]
- 1920年(大正9年)11月1日 - 旭日重光章[8]
親族[編集]
初代中華民国大使の有吉明と尼崎市長の有吉實は弟、長男は日本郵船社長の有吉義弥[9]。孫(義弥の次男)に三菱重工横浜造船所所長、同社常務の有吉煕がいる[10]。長女は政治家の山崎巌に[10]、三女は元建設事務次官の柴田達夫に[9]、四女は元日本電信電話公社総裁の米沢滋に[9]、五女は川上嘉市の次男で東宝アドセンター社長を務めた川上流二にそれぞれ嫁いでいる[11]。川上嘉市の妻すなわち川上流二の母は天文学者・寺尾寿の後妻の姪[12]。
参考文献[編集]
脚注[編集]
- ^ 『官報』第5827号、昭和21年6月19日。
- ^ アレン・アイルランド『THE NEW KOREA』(1926) 日英対訳 桜の花出版
- ^ 『官報』第1866号「叙任及辞令」1918年10月22日。
- ^ 『官報』第3009号「叙任及辞令」1922年8月11日。
- ^ 『官報』第205号・付録「辞令」1913年4月9日。
- ^ 『官報』第1310号・付録、「辞令」1916年12月13日。
- ^ 『官報』第1773号「叙任及辞令」1918年7月1日。
- ^ 『官報』第2640号「叙任及辞令」1921年5月21日。
- ^ a b c 『閨閥』、341-344頁。
- ^ a b 『閨閥』、342-343頁。
- ^ 『閨閥』、342-344頁。
- ^ 東京天文台初代台長寺尾寿の家系図を入手 - 国立天文台・天文情報センター・アーカイブ室新聞 第65号(PDFファイル)
関連項目[編集]
公職 | ||
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先代: 水野錬太郎 |
![]() 第3代:1922 - 1924 |
次代: 下岡忠治 |
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