加納久朗

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
加納久朗
かのう ひさあきら
生年月日 1886年8月1日
出生地 日本の旗 日本 東京府小石川(現東京都文京区)
没年月日 (1963-02-21) 1963年2月21日(76歳没)
出身校 東京帝国大学法科大学政治学科卒業(現東京大学法学部)
前職 日本住宅公団総裁
配偶者 加納多津
子女 次男・中村久次
親族 父・加納久宜(官選鹿児島県知事、一宮町長)
孫婿・橋本龍太郎(内閣総理大臣)
曾孫・橋本岳(衆議院議員)

千葉県の旗 公選 第5代 千葉県知事
当選回数 1回
在任期間 1962年11月3日 - 1963年2月21日
テンプレートを表示

加納 久朗(かのう ひさあきら、1886年明治19年〉8月1日 - 1963年昭和38年〉2月21日[1])は、日本の銀行家、政治家。子爵千葉県一宮町出身[2]。元千葉県知事、元国際決済銀行取締役、副会長。父は、最後の上総国一宮藩主であった加納久宜

人物[編集]

1886年8月1日、子爵加納久宜・文子の次男として東京府小石川の私邸に生まれる。兄・久元は夭逝していたため、事実上の嫡男であった[3]

1894年、県知事に任命された父に従い鹿児島県に移り、その後現地に赴任してきたアメリカ・オランダ改革教会宣教師ピークから英語とキリスト教を弟の久憲とともに学ぶ[4]

1900年、久宜が鹿児島県知事の業務を辞し[注釈 1]て一家は東京へ戻り、父が設立に関わった学習院中等科へ編入した[6]。学習院在学中、内村鑑三の薫陶を受ける[7]

1909年、東京帝国大学法科大学政治学科に入学。在学中に青年会を創設して、一宮町長となり農村青年の研修に尽力していた父久宜を補佐する[8]華族でありながら『これからの日本』と題した政府批判本を発行し、発禁処分を受ける。これに対し片山潜から驚きと感激の手紙を寄せられている[9]

帝大卒業後は、父の町政業務を1年間手伝った後、国際為替銀行として日本の貿易金融を一手に担っていた横浜正金銀行へ入行[9]ニューヨークやロンドン赴任時に都市での高層住宅での暮らしや田園都市構想に接する[10][11]

ロンドンにて駐英大使吉田茂の親交を得、日英経済人の交流・対話に尽力し、牧野伸顕近衛文麿木戸幸一原田熊雄ら軍の横暴に批判的な華族グループと連絡を取り合った。ロンドン支店支配人となって国際決済銀行理事会副会長にも就任。取締役として同行北支最高責任者として経済情勢分析などにあたる一方、木戸幸一蔣介石政権の真意や国民党共産軍の意図など、現地の政治情勢を報告する(「重慶情報」)。政府要人に対して非戦を主張したため、一時帰国時には監視がつけられた。「金を借りておいて戦争になるから利息を支払わないでは通らない」と東條政権の指示を拒絶して第二次世界大戦中も日本国債の利払いを継続し、戦後の日本の信用力確保に寄与した。その後香港占領に対するイーデン外務大臣の非難演説に公開状で反論し、拘束されて後に帰国[2][11][12]

北京で終戦を迎え、戦後の混乱の収拾に尽力した。

公職追放解除後はGHQと財界の連絡役として活躍し[1]ドッジ・ライン実施に際しては、ジョゼフ・ドッジに意見表明と情報提供を行う[2][13]。国際文化振興会会長等を経て、三木武吉の推薦により1955年日本住宅公団初代総裁に就任[1][14][15]ステンレス流しシリンダー錠など住宅部品の導入を発案、普及のために尽力するなど多大な功績を残した[16]

1958年東京湾の埋め立て開発を提唱( 『東京湾埋立による新東京建設提案[注釈 2]』)。「農林省出身の柴田は、千葉県を開発する気がない」と現職の柴田等の追い落としを図る川島正次郎水田三喜男らをはじめとする、自民党や財界の推挙により、1962年千葉県知事選挙に出馬し当選するが、在任110日で急逝。開発政策は友納武人知事に引き継がれた[2][18]

カナモジカイの有力メンバーで、福田恆存を相手に論戦したり県庁内の応接室を「オオセツマ」と表記させるなど実行に熱心であった。

略歴[編集]

著作[編集]

  • 『戦時世界経済の諸問題』日本経済連盟会、1943年、小冊子
  • 『新しい首都建設』時事通信社、1959年
  • 『世界の国造り』時事通信社「時事新書」、1961年
  • 菅谷重二共著『水資源』時事通信社「時事新書」、1962年
  • 『東京と水・水・水』太平洋協会、1962年、小冊子

語録[編集]

  • 歴史認識のない政治や外交は根のない花である[26]

家系[編集]

加納氏三河国加納村発祥である。明確でないが藤原氏末流とされている。

ただし、父・久宜は養子として加納家に迎えられている。

三代前の加納家当主加納久徴も読みが「ひさあきら」であったため、家中の者は久徴を「きゅうちょう」久朗を「きゅうろう」と読み分けていた[3]

家族・親族[編集]

脚注[編集]

[脚注の使い方]

注釈[編集]

  1. ^ 休職の体裁が取られた[5]
  2. ^ 埋立地への官庁や皇居の一部移転などを構想した[17]
  3. ^ 伊藤軍兵衛の孫、伊藤祐敬の娘[20]
  4. ^ 昭和海運を経て、日本郵船に統合

出典[編集]

  1. ^ a b c 加納 久朗とは”. コトバンク. 2020年12月1日閲覧。
  2. ^ a b c d 人物”. 一宮町史. 一宮町 (1964年). 2020年12月2日閲覧。
  3. ^ a b c 高崎 2014, p. 65.
  4. ^ 高崎 2014, pp. 66–67.
  5. ^ 『官報』第5158号、明治33年9月10日。
  6. ^ a b c 高崎 2014, p. 68.
  7. ^ 高崎 2014, p. 68.
  8. ^ 高崎 2014, p. 72.
  9. ^ a b 高崎 2014, p. 75.
  10. ^ 高崎 2014, p. 93.
  11. ^ a b 高崎 2014, pp. 95–163.
  12. ^ 毎日新聞千葉支局, ed (1973). 九十九里. 九十九里史料調査研究会. pp. 150-152 
  13. ^ 高崎 2014, p. 172.
  14. ^ 加納久朗とは”. コトバンク. 2020年12月1日閲覧。
  15. ^ 高崎 2014, pp. 184–185.
  16. ^ 高崎 2014, p. 184.
  17. ^ 東京改造のための提言リスト”. www.token.or.jp. 東京建設業協会. 2020年12月1日閲覧。
  18. ^ 小川裕夫 (2019年3月7日). “人気住宅街「南船橋」、昔は娯楽の中心地だった”. 東洋経済オンライン. 2020年12月1日閲覧。
  19. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w 高崎 2014, pp. 244–245.
  20. ^ a b 高崎 2014, p. 74.
  21. ^ a b c d e 貴き者の責務 日本住宅公団初代総裁加納久朗第8回高崎哲郎、UR都市機構
  22. ^ 高崎 2014, p. 89.
  23. ^ 高崎 2014, pp. 90–91.
  24. ^ 高崎 2014, p. 170.
  25. ^ 高崎 2014, pp. 179–180.
  26. ^ 高崎 2014, p. 104.
  27. ^ 高崎 2014, p. 68.

参考文献[編集]

  • 高崎哲郎 『国際人加納久明の生涯』鹿島出版会、2014年。 

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

公職
先代
柴田等
千葉県の旗 千葉県知事
公選第5代:1962年 - 1963年
次代
友納武人
官職
先代
西山勉
日本の旗 終戦連絡中央事務局次長
1946年
次代
白洲次郎
日本の爵位
先代
加納久宜
子爵
一宮加納家第2代
1919年 - 1947年
次代
華族制度廃止