福田恆存
福田 恆存 ふくだ つねあり | |
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誕生 |
1912年8月25日 東京市本郷区駒込東片町 (現在の東京都文京区)[1] |
死没 |
1994年11月20日(82歳没) 神奈川県中郡大磯町東海大学医学部付属大磯病院[1] |
墓地 | 妙大寺 |
職業 |
作家 翻訳家 評論家 劇作家 演出家 |
言語 | 日本語(歴史的仮名遣) |
国籍 | 日本 |
教育 | 文学士(東京帝国大学) |
最終学歴 | 東京帝国大学文学部英文学科卒業 |
活動期間 | 1937年 - 1994年 |
主題 |
文芸評論 戯曲 英米文学 |
文学活動 | 国語国字問題 |
代表作 |
『藝術とはなにか : 藝術と文明』(1950年) 『平和論にたいする疑問』(1955年) 『人間・この劇的なるもの』(1956年) 『私の恋愛教室』(1959年) 『私の國語敎室』(1960年) 『解ってたまるか!』(1968年) 『私の英國史』(1980年) 『演劇入門』(1981年) |
主な受賞歴 |
岸田演劇賞(1955年) 読売文学賞(1961年) 菊池寛賞(1980年) 芸術院賞(1981年)[2] |
デビュー作 | 『作家の態度』(1947年) |
配偶者 | 福田敦江 |
子供 | 福田逸(次男) |
影響を受けたもの
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福田 恆存(ふくだ つねあり、1912年〈大正元年〉8月25日 - 1994年〈平成6年〉11月20日)は、日本の評論家、翻訳家、劇作家、演出家。日本芸術院会員。現代演劇協会理事長、日本文化会議常任理事[1]などを務めた。名前については「こうそん」と音読みされることも多い。
概要
[編集]保守派の文士であり、進歩的文化人を批判した『平和論にたいする疑問』(1955年)は、戦後思潮の転換点となる。討議倫理が進歩派にも影響を与えるなど、戦後日本を代表する思想家[6]。
また、同時期には『ハムレット』(1955年)をはじめとするシェイクスピア戯曲の翻訳、演出を開始する。新劇を日本の近代化問題の象徴的な弱点と捉え、演劇の革新に取り組んだ[7]。
文藝春秋社「文藝春秋」、「諸君」、自由社「自由」などの保守派総合雑誌への寄稿でも知られる。産経新聞社の論壇誌「正論」は、福田と田中美知太郎、小林秀雄等の提唱によって1973年(昭和48年)に創刊された。
「レトリシャン」や「論争の手品師」といわれ、一流のリフレーミングの使い手でもあった[8]。著書に『人間・この劇的なるもの』(1956年)、『私の英国史』(1980年)、戯曲『キティ颱風』(1970年)など。
経歴
[編集]出自と教育
[編集]1912年(大正元年)8月25日、東京市本郷区駒込東片町にて、埼玉県大宮出身の東京電燈社員の父・幸四郎、伊豆出身の石工の子孫である母・まさの長男として中間階級の家庭に生まれる。「恆存」は石橋思案の命名で、『孟子』に由来する[1][9]。自然豊かな下町・神田で育ち、一家はしばしば劇場に通った。
1919年(大正8年)、東京市立錦華小学校(現・千代田区立お茶の水小学校)に学区外入学。大正デモクラシー教育の先進校であった同校では自学自習、自由研究、自由画などが導入されており、福田はリベラルな先進的教育を受けるが、小学生ながらも「新教育理論」に陶酔する教師に対して違和感を抱いていた。また、1922年(大正11年)の関東大震災により下町の気風は消え、福田は「故郷喪失者」となった。[10]
私には今の東京は勿論の事、戰前の東京も故鄕ではない。私の故鄕は關東大震災前の東京である。つまり、私は故鄕喪失者といふことになる。 — 「ふるさとと旅」『旅』(1978年)
1925年(大正14年)4月、第二東京市立中学校(現・東京都立上野高等学校)入学。高橋義孝と同級。同校でもリベラルな先進的教育を受けるが、校風の「自主の精神」には息苦しさを覚えた。当時の二中校長高藤太一郎により、優秀な教師が集められ、教師陣には英語の落合欽吾、岡倉由三郎、上田義雄、国語の横山藤吾、時枝誠記、西尾実、福永勝盛、東洋史の志田不動麿がいた。1929年(昭和4年)、四修で旧制浦和高等学校の受験に挑戦するが、落第した。[11]
1930年(昭和5年)、旧制浦和高等学校文科甲類入学。当時の旧制学校は昭和恐慌もあり同盟休校が盛んに行われた「シュトゥルム・ウント・ドランク」(疾風怒濤)の時代だったが、福田自身は左翼的な学生運動には関わらなかった。小説から戯曲に関心を移し、高校時代に劇作家を志す。高校三年時に執筆した「我国新劇運動の過去と未来」では、小山内薫没後まもない演劇界の左翼・マルクス主義傾向を批判している。また同時期に、アドルフ・アッピア(舞台演出家)の"L'Oeuvre D'art Vivant"の第一章を英訳版から重訳している。1932年(昭和7年)開設の築地座に応募作品「或る人の街」を送り、佳作に選ばれた。[12]
1933年(昭和8年)、東京帝国大学文学部英吉利文学科(英文科)入学。高校末期から大学初期にかけ執筆は劇作から批評に重きを置いた。これは小林秀雄の影響によるものだが、福田自身は小林の影響がこれ以上及ぶことを恐れ、『文藝評論』など僅かな作品にしか触れていない。[13]。
戦前・戦中
[編集]1936年(昭和11年)3月、東京帝国大学文学部英吉利文学科卒業。卒業論文は「D・H・ロレンスに於ける倫理の問題」、英題"Moral Problems in D. H. Lawrence")。同年、徴兵検査を受け、丙種合格兵役免除。東大卒業後は旧制中学教師、出版社、団体職員などで勤務した[1]。
1937年(昭和12年)1月、同期の友人高橋義孝に誘われ第一次『作家精神』の後継誌である『行動文学』の同人となり、論壇デビュー作として「横光利一と『作家の秘密』」を発表した。同年4月、不況下で就職先がなく、東京帝国大学大学院入学。1938年(昭和13年)5月から静岡県立掛川中学校(現・静岡県立掛川西高等学校)で教鞭を執るが、校長との不和により翌年7月に退職した。
1940年(昭和15年)には中学時代の恩師である西尾実の紹介により、雑誌『形成』編集者となる。このころ、神奈川県立湘南中学校(現・神奈川県立湘南高等学校)、浅野高等工学校(現・浅野工学専門学校)、日本大学医学部予科で教鞭を執る。1941年(昭和16年)、西尾の紹介で日本語教育振興会に参加し、雑誌『日本語』編集に関わった。翌1942年(昭和17年)には日本語教育振興会の命令により満州、モンゴル、中国を視察する。1944年(昭和19年)、日本語教育振興会退職。同年、太平洋協会研究員。
1944年(昭和20年)1月、西尾の媒酌により西本敦江(西本直民長女)と結婚。空襲が激しさを増す中で恆存以外の家族は静岡県に疎開する。同年6月、東京女子大学講師。
戦後
[編集]1946年(昭和21年)10月、月刊誌『展望』にて「民衆の心」を発表。同年3月、神奈川県中郡大磯町に移住し、一家を疎開先の静岡県から呼び寄せる。1947年(昭和22年)に『批評』同人となる。また、中村光夫、吉田健一と共に鉢の木会を結成する。 1948年(昭和23年)6月、太宰治の死を受けて『群像』7月号に「道化の文学-太宰論」を掲載した[14]。 1950年(昭和25年)に多摩美術大学教授。同年には岸田國士による「雲の会」創設に参加。1951年(昭和26年)、チャタレイ裁判に被告人側の特別弁護人として出廷し、小山書店社長小山久二郎の無罪を主張した。
1969年(昭和44年)、京都産業大学教授。京都には在住せず、月に一度の集中講義を行った。1983年(昭和58年)、京都産業大学退職。1981年(昭和56年)より日本芸術院(第2部)会員。
晩年
[編集]1987年(昭和62年)から1988年(昭和63年)にかけ『福田恆存全集』を刊行したが、平成に入ってからは、いくつかの雑誌に数ページ分の随筆・所感を書いた以外は執筆発表を行わず、『福田恆存翻訳全集』が完結した翌年の1994年(平成6年)11月20日に、肺炎により東海大学医学部付属大磯病院で没した[1]。享年82。戒名は実相院恆存日信居士[15]。12月9日に青山葬儀所で本葬・告別式が行われた。葬儀委員長は作家阿川弘之で、林健太郎、久米明等が弔辞を述べた。墓所は神奈川県中郡大磯町妙大寺福田家之墓。
主な業績は、前記の『全集』や『翻訳全集』にまとめられた。ただし自選により、短編の論文随想に加え唯一の新聞連載小説である『謎の女』(新潮社、1954年(昭和29年))をはじめ、生前刊行の全集・著作集には、未収録で知られざる論考著作も多い。2007年(平成19年)11月より、福田逸(次男・明治大学商学部教授で、演出家・翻訳家・財団法人「現代演劇協会」[16]理事長として演劇活動を継いだ)等の編集により、『福田恆存評論集』(麗澤大学出版会、カバー装丁)が刊行完結した(下記の全集・著作集を参照)。
活動
[編集]文芸評論
[編集]『行動文学』の同人として、「横光利一と『作家の秘密』」などを発表し文芸評論を開始。文芸評論者としては嘉村礒多、芥川龍之介らに関する論考が、戦前や戦後間もない時期の主な作品である。また1947年(昭和22年)に『思索』春季号に発表された「一匹と九十九匹と」は、政治と文学の峻別を説く内容で、「政治と文学」論争に一石を投じた。この作品を福田の代表作とみなす見解も多い。『群像』1948年6月-7月に「道化の文学―太宰治論」を発表。1949年(昭和24年)より日英交流のための団体「あるびよん・くらぶ」に参加[17]。
昭和20年代後半より、文学への関心は次第に個別の作家論や文芸批評を離れていった。この時期の代表作は、芸術をより根本的に論じた1950年(昭和25年)の『藝術とは何か』(要書房)や、芸術・演劇論から人間論にまで展開した1956年(昭和31年)の『人間・この劇的なるもの』(新潮社)などの著作である。1950年、多摩美術大学で教授を務めた[18]。
政治
[編集]福田恆存の名を世間で有名にしたのは、進歩派全盛の中での保守派の論争家としての活動であった。1954年(昭和29年)に『中央公論』12月号に発表した「平和論の進め方についての疑問」で、当時全盛であった進歩派の平和論を真っ向から判した。
福田は、「平和論の進め方についての疑問」以降、論壇から「保守反動」呼ばわりされ、「村八分」の処遇を受けたと述懐している[19]。『朝日新聞』論壇時評(1951年10月〜1980年12月)では、「平和論の進め方についての疑問」以降、言及が即座に無くなったわけではなく、1966年までは比較的言及されているが(言及数24)、しかし肯定的に取り上げられているのは17で31人中第28位となり、中野好夫(49)、小田実(40)、清水幾太郎(39)の半分以下となる[20]。さらに、否定的に取り上げられているのは7であり、否定的に取り上げられる割合は30・8%となり、31人中のトップとなる[20]。
ベトナム問題が論壇をにぎわしているのは、これで四ヶ月目だが、今月になって目立つことは、アメリカの政策を支持する論文の登場である。中でも、一番むきになってこの役をはたそうとしているのは、福田恒存の「アメリカを孤立させるな」(文芸春秋)であろう。福田はいろいろなことを、いわば文学者的特権で、証明なしに言っている(後略) — 『朝日新聞』論壇時評 1965年6月22日
しかし1967年以降からは、肯定的・否定的に関わらず言及されなくなり、竹内洋は「『保守反動』評論家というレッテルが定着したのだろう」と述べている[20]。このように福田は論壇では否定、そして無視されていくようになる[22]。坪内祐三は、福田が『問ひ質したき事ども』(1981年)を刊行したころは保守論壇からも完全に孤立していた、と評している[23]。
1977年(昭和52年)から1979年(昭和54年)には、フジテレビ系列の政治討論番組『福田恆存の世相を斬る』(世相を斬るシリーズにおいては第3代目)の司会進行でテレビ出演もしていた。この時期には韓国大統領朴正煕と親交があり、没時に回想記も発表した。
右派の漫画家・小林よしのりは、『修身論』後半の一章[24]を使い、福田の「人間は生産を通じてでなければ付合えない。消費は人を孤独に陥れる」[25](「消費ブームを論ず」1961年 原文原題は本字体歴史的仮名遣い)を引用し、自身のスタッフに「福田恆存のこの言葉を噛みしめよ」と述べている。
国語国字問題
[編集]戦後の国語国字改革を批判し、1955年(昭和30年)から翌年にかけての金田一京助たちとの論争で(「国語改良論に再考をうながす」「知性」1955年10月号など)「現代かなづかい」・「当用漢字」の不合理を指摘した。その集大成が歴史的仮名遣のすすめを説く『私の國語敎室』(新潮社、初版1960年(昭和35年)、読売文学賞受賞)である。著書全ては歴史的仮名遣で書かれたが、出版社の意向で文庫再刊等の一部は、現代かなづかいを用いている。
翻訳
[編集]翻訳家としての代表作は、シェイクスピア「四大悲劇」を初めとする主要戯曲、ヘミングウェイ『老人と海』、D・H・ローレンス最晩年の評論『アポカリプス論』(初版は邦題『現代人は愛しうるか』白水社、1951年(昭和26年)に初刊)、ワイルド『サロメ』、『ドリアン・グレイの肖像』である。
堀内克明は、著書『誤訳パトロール』(1989年、大修館書店)で『恋する女たち』(新潮文庫)の福田のテキストから、「a long, slow look」を「遠いどんよりしたまなざし」としている語その他を「初歩を誤った」誤訳であると指摘している(堀内によれば、この表現は正しくは「ゆっくり、じっと」という、距離ではなく時間としてのlongとslowであるとする)。小川高義は、『老人と海』(光文社古典新訳文庫、2014年)訳者解説で、老人の「aloud」を福田が「叫ぶ、ののしる」など感情的に翻訳している点を批判、老人の性格描写および近現代の用法からその語は単に「口にした」程度のものである、と考察している。
演劇人として
[編集]劇作家、演出家でも活躍した。福田恆存(1912年生)は、1930年代の十代より評論、劇作を開始、『我国新劇運動の過去と現在』を発表するなど、新劇運動にも参画した。支持を表明する築地座(1932年結成)の戯曲公募にも応じ、処女作『或る街の人』が佳作に選ばれた事で、友田恭助らの面識を得る[26]。文壇へのデビュー後には、岸田國士が主宰する雲の会(1950年結成)に参加し[27]、文学座でのシェイクスピア悲劇『ハムレット』(1955年初演)の翻訳、演出を行った[28]。1963年からは、財団法人・現代演劇協会の理事長を務め、協会附属の劇団雲、劇団欅、更には劇団昴を主宰する[29]。
やがて芥川と対立すると、協会内で新たに「劇団欅」を設立し、「劇団雲」から手を引いて芥川らと一線を画するようになった。1975年(昭和50年)に芥川、仲谷、岸田、中村伸郎ら「劇団雲」の大部分が現代演劇協会を離脱し、「演劇集団 円」を設立すると、「劇団雲」の残留派と「劇団欅」を統合し、「劇団昴」を結成した。
1981年(昭和56年)に『演劇入門』(えんげきにゅうもん)[30]を刊行。没後の2020年(令和2年)に『演劇入門 増補版』(2020年8月、中央公論新社)が中公文庫で再刊された[31]。
家族・親族
[編集]著作
[編集]評論
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- 以下は没後刊
- 以下の※は電子書籍で再刊
- 『日本を思ふ』(文春文庫、1995年)- 新編・解説佐伯彰一
- 『私の幸福論』(ちくま文庫、1998年)
- 『私の國語敎室』(文春文庫、2002年)- 底本は「全集」版
- 『福田恆存文芸論集』(講談社文芸文庫、2004年)
- 坪内祐三編 -「全集」未収録作品も含む文芸評論集、書誌・年譜を収録
- 『人間・この劇的なるもの』(新潮文庫(改版)、2008年)- 解説佐伯彰一・坪内祐三
- 『私の恋愛教室』(ちくま文庫、2009年※)
- 『藝術とは何か』(中公文庫(改版)、2009年)
- 『私の英国史』(中公文庫、2015年)- 解説浜崎洋介
- 『芥川龍之介と太宰治』(講談社文芸文庫、2018年10月※)- 解説浜崎洋介
- 『演劇入門 増補版』(中公文庫、2020年8月※)- 解説福田逸[32]
- 『保守とは何か』(文藝春秋〈文春学藝ライブラリー〉、2013年10月)
- 『国家とは何か』(文藝春秋〈文春学藝ライブラリー〉、2014年12月)
- 『人間とは何か』(文藝春秋〈文春学藝ライブラリー〉、2016年2月)
- 各・浜崎洋介編、代表作を年代別に精選したアンソロジーの文庫判
- 『人間の生き方、ものの考え方 学生たちへの特別講義』
- 『私の人間論―福田恆存覚書』(浜崎洋介編・解説、ビジネス社、2020年11月)、ISBN 978-4828422220
- 『福田恆存の言葉 処世術から宗教まで』(文春新書、2024年2月※)- 連続講演を初書籍化
- 『シェイクスピア』(中公文庫、2024年6月※)- 作品解題19編、あとがき福田逸
- 『福田恆存の手紙』(福田逸編・解説、文藝春秋、2024年11月)、ISBN 978-4163919171
- 語句集
- 『日本への遺言 福田恆存語録』(文藝春秋、1995年、文春文庫、1998年)
- 中村保男・谷田貝常夫編 - 著作を軸に約300篇の語録断章を編む
- 『滅びゆく日本へ 福田恆存の言葉』(河出書房新社、2016年6月※)
- 佐藤松男編 - 著作全体から約400篇の語句を編み解説
戯曲・小説
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翻訳
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- エーヴ・キュリー
- 戰塵の旅 ロシア篇(坂西志保との共訳、日本橋書店、1946年)
- アジア篇も刊行予告されたが未刊。
- アーネスト・ヘミングウェイ
- 老人と海(チャールズ・E・タトル商会、1953年/改訂版1956年)
- 老人と海(ヘミングウェイ全集 第10巻:三笠書房、1956年/改訂版1966年/決定版「第7巻」1973年)
- 老人と海(新潮文庫、1966年、改版1994年、新訂版2003年)、※電子書籍も刊
- ヘミングウェイ(世界の文学 第44巻:中央公論社、1964年/新装版1993年)
- ヘミングウェイII(新潮世界文学 第四十四巻:新潮社、1970年)、各『老人と海』を所収
- T・S・エリオット
- カクテル・パーティ(小山書店、1951年 / 創元文庫、1952年)
- 現代世界文学全集 (26) T・S・エリオット(新潮社、1954年)
- 『カクテル・パーティー』、『一族再会』、『寺院の殺人』を所収。
- エリオット全集 (2) 詩劇(中央公論社、1960年、改訂版1971年、新装版1981年)、同上
- オスカー・ワイルド
- ワイルド語録(池田書店、1950年)
- 獄中記(新潮文庫、1954年、改版1968年)
- サロメ(新潮社、1958年 / 岩波文庫、1959年、改版2000年)、※電子書籍も刊
- ドリアン・グレイの肖像(新潮文庫、1962年、改版1967年、新装改版2004年)、※電子書籍も刊
- アーサー卿の犯罪(中央公論社、1952年 / 福田逸との共訳、中公文庫、1977年)、短編集
- J・M・バリー
- ジェームズ・サーバー
- 現代イソップ(万有社、1950年)
- SEXは必要か(E・B・ホワイト共著、南春治との共訳、新潮社〈一時間文庫〉、1953年)
- D・H・ロレンス
- 恋する女たち(新潮文庫 全3巻、1952年 / 改版全2巻、1969年)
- 旧版は1950-51年に「ロレンス選集 9・10」小山書店で刊行(上・中巻のみで中絶)
- G・K・チェスタトン
- バーナード・ショー
- ヘンリク・イプセン
- ヘッダ・ガーブラー(中央公論社、1979年)- 英訳版での訳書
- ソポクレス
- コリン・ウィルソン
- アウトサイダー(河出書房新社、1957年)- 中村保男との共訳
全集・著作集
[編集]- 福田恆存著作集(全8巻、新潮社、1957 - 1958年)、3巻目までは創作集、他の5巻は評論集
- 福田恆存評論集(全7巻、新潮社、1966年)、5巻目までは上記新版
- 福田恆存全集(全8巻、文藝春秋、1987 - 1988年)、実質は自選集、第7巻に年譜、第8巻は創作集
- 福田恆存翻訳全集(全8巻、文藝春秋、1992 - 1993年)、半数がシェイクスピア作品
- 福田恆存評論集(全20巻別巻1、麗澤大学出版会、2007年11月 - 2011年3月)
- 当初は全12巻別巻1で、2009年中に完結予定だったが同年に変更。別巻はホレイショー日記・年譜、著書目録、索引ほか。
- 福田恆存戯曲全集(全5巻別巻1、文藝春秋、2008年11月 - 2011年5月)
- 別巻は「劇場への招待」、「私の演劇白書」、「觀客への訴へ」ほか。
- 福田恆存対談・座談集(全7巻、玉川大学出版部、2011年4月 - 2012年10月)
主な編著
[編集]- 芥川龍之介研究-作家研究叢書(新潮社、1957年)
- 國語問題論爭史(新潮社、1962年)- 著者名は福田だが、実質は門下生土屋道雄がまとめた。
- 土屋道雄『國語問題論爭史』(玉川大学出版部、2005年)、ISBN 4472403153 - 増訂版
- 現代日本思想大系 32 反近代の思想(筑摩書房、1965年)- 福田名義での解説担当だが、実際は西尾幹二による口述筆記。
- 中国のすべて 日本の将来(企画・監修、高木書房、1973年)
- ソ連のすべて 日本の将来(同、高木書房、1974年)
- 教育のすべて 日本の将来(同、高木書房、1974年)
- 新聞のすべて 日本の将来(同、高木書房、1975年)
- 国家意識なき日本人 日本の将来(同、高木書房、1976年)
- 中国はどうなるか 続・中国のすべて 日本の将来(桑原寿二と企画監修、高木書房、1976年)
- 憲法のすべて 日本の将来(同、高木書房、1977年)
- 朝鮮半島のすべて 日本の将来(同、高木書房、1977年)
- 福田恆存 世相を斬る(サンケイ出版、1978年)‐日曜午前のテレビ番組でのゲストとの対談。
音声
[編集]- 福田恆存講演 第1集 日本の近代化とその自立 (新潮カセット、新潮社、1996年4月)- 第1・2集は連続講演「処世術から宗教まで」。
- 福田恆存講演 第2集 理想の名に値するもの(新潮カセット、新潮社、1996年6月)- 1976年3月から1977年3月にかけ三百人劇場で行われた。
- 福田恆存講演 第3集 近代日本文学について/シェイクスピア劇の魅力(新潮カセット、新潮社、1996年8月)
評論・研究
[編集]- 井尻千男『劇的なる精神 福田恆存』日本教文社〈教文選書〉、1994年6月。ISBN 4-531-01517-7。
- 井尻千男『劇的なる精神 福田恆存』徳間書店〈徳間文庫 教養シリーズ〉、1998年7月。ISBN 4-19-890934-2。
- 岩本真一「第3章 福田恆存の「近代の超克」論―「言葉」と「共同体」」『超克の思想』水声社、2008年12月。ISBN 4-89176-704-9。
- 遠藤浩一『福田恆存と三島由紀夫 1945〜1970』麗澤大学出版会(上・下)、2010年4月。ISBN 4-89205-596-4 / ISBN 4-89205-597-2。
- 岡本英敏『福田恆存』慶應義塾大学出版会、2014年4月。ISBN 4-7664-2128-0。
- 川久保剛『福田恆存 人間は弱い』ミネルヴァ書房〈日本評伝選〉、2012年7月。ISBN 4-623-06388-7。
- 金子光彦『福田恆存論』近代文芸社、1996年5月。ISBN 4-7733-5405-4。
- 久米明『僕の戦後舞台・テレビ・映画史70年』河出書房新社、2018年11月。ISBN 4-309-27985-6。後半が師・福田恆存との回想記。
- 向坂隆一郎『回想の向坂隆一郎』向坂隆一郎追悼集編集会、1984年。[37]
- 斎藤禎『文士たちのアメリカ留学 一九五三~一九六三』書籍工房早山、2018年12月。ISBN 4-904701-54-2。[38]
- 辻村明「偽善との戦い―孤高の精神 福田恆存」『自分と戦った人々』高木書房、1993年4月。ISBN 4-88471-042-8。
- 土屋道雄『福田恆存と戦後の時代-保守の精神とは何か』日本教文社〈教文選書〉、1989年8月。ISBN 4-531-01511-8。[39]
- 坪内祐三「「一九七九年の福田恆存」および「丸山真男か福田恆存か」」『ストリートワイズ』晶文社、1997年4月。ISBN 4-7949-6301-7。
- 坪内祐三「「一九七九年の福田恆存」および「丸山真男か福田恆存か」」『ストリートワイズ』講談社文庫、2009年4月。ISBN 4-06-276332-X。
- 坪内祐三「一九八二年の「福田恆存論」」『後ろ向きで前へ進む』晶文社、2002年8月。ISBN 4-7949-6540-0。
- 中村保男『絶對の探求 福田恆存の軌跡』麗澤大学出版会、2003年8月。ISBN 4-89205-467-4。
- 西尾幹二「「素心」の思想家・福田恆存の哲学」『真贋の洞察』文藝春秋、2008年10月。ISBN 4-16-370370-5。
- 西部邁「「言葉の弓射る」精神の書 〈福田恆存全集〉刊行に寄せて」『ニヒリズムを超えて』角川春樹事務所〈ハルキ文庫〉、1997年11月、170-173頁。ISBN 4-89456-362-2。 - 日本文芸社(1989年)を改訂。
- 西部邁「保守思想の神髄――福田恆存」『日本の保守思想』角川春樹事務所〈ハルキ文庫〉、2012年5月、224-264頁。ISBN 4-7584-3662-2。 -『思想史の相貌』(世界文化社、1991年)を改題・改訂
- 西部邁「106 福田恆存」『学問』講談社、2004年4月、342-344頁。ISBN 4-06-212369X。
- 浜崎洋介『福田恆存 思想の〈かたち〉 イロニー・演戯・言葉』新曜社、2011年11月。ISBN 4-7885-1263-7。
- 福田逸『父・福田恆存』文藝春秋、2017年7月。ISBN 416-3906886。
- 福田逸『父・福田恆存』文春学藝ライブラリー、2021年6月。ISBN 416-8130924。電子書籍も刊
- 前田嘉則『文學の救ひ 福田恆存の言説と行為と』郁朋社、1999年4月。ISBN 4-87302-0204。
- 持丸博、佐藤松男『証言 三島由紀夫・福田恆存 たった一度の対決』文藝春秋、2010年10月。ISBN 4-16-373250-0。
- 『総特集 福田恆存―人間・この劇的なるもの』河出書房新社編、2015年5月。ISBN 4-309247091
- 入門・福田恆存、インタビュー、メモワール、福田恆存論セレクション、福田恆存への10の視点、単行本未収録作品、主要著作30作ガイドほか
脚注
[編集]- ^ a b c d e f “福田恆存 ~〈戦後〉に異議あり 保守の論客~” (PDF). グレート・ワークスの世界 ―近現代日本の思想と学問―. 神奈川県立図書館. 2014年8月10日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年7月28日閲覧。
- ^ “福田恒存”. デジタル版 日本人名大辞典+Plus. コトバンク. 2012年6月23日閲覧。
- ^ 三谷太一郎「「文明化」・「西洋化」・「近代化」をめぐって: 福沢諭吉と丸山眞男─日本近代の先導者と批判者─」『日本學士院紀要』第72巻Special_Issue、2018年、226頁、doi:10.2183/tja.72.Special_Issue_209。
- ^ 『吉本隆明全集9 1964-1968』晶文社、2015年6月、283-296頁。
- ^ 『『平衡感覚ー福田恆存を悼んで』、柄谷行人、新潮』新潮社、1995年2月、250-253頁。
- ^ “ハンドブック近代日本政治思想史 幕末から昭和まで”. www.minervashobo.co.jp. ミネルヴァ書房. 2023年9月12日閲覧。
- ^ “演劇入門 -福田恆存 著|文庫|中央公論新社”. www.chuko.co.jp. 2023年8月13日閲覧。
- ^ 竹内洋『メディアと知識人 - 清水幾太郎の覇権と忘却』中央公論新社、2012年、308頁。ISBN 978-4120044052。
- ^ “孟子 盡心上”. 中國哲學書電子化計劃. 2012年6月21日閲覧。 “人之有德慧術知者,恒存乎疢疾”
- ^ 川久保2017 6-10頁
- ^ 川久保2017 11-13頁
- ^ 川久保2017 14-24頁
- ^ 川久保2017 24-34頁
- ^ 岩波書店編集部 編『近代日本総合年表 第四版』岩波書店、2001年11月26日、367頁。ISBN 4-00-022512-X。
- ^ 岩井寛『作家の臨終・墓碑事典』(東京堂出版、1997年)283頁
- ^ 設立50年目の2013年秋に一旦解散した。
- ^ 同会の出版部編集委員として活動。会誌『あるびよん』の編集委員を務める。『あるびよん』創刊号、新月社、1949年
- ^ http://www.shiro1000.jp/tau-history/tama-zoukei/tama-zoukei.html
- ^ 『福田恆存全集 第三卷』「覚書三」
- ^ a b c 竹内 2011, p. 289.
- ^ 竹内 2011, p. 288.
- ^ 竹内 2011, p. 290.
- ^ 『諸君!』1997年11月号、呉智英・坪内祐三「福田恒存から断筆・筒井康隆まで戦後論壇この50人・50冊」
- ^ 小林よしのり『ゴーマニズム宣言PREMIUM 修身論』マガジンハウス、2010年、203-206頁。
- ^ 『福田恆存全集 第五卷』文藝春秋、1987年。
- ^ 川久保剛「福田恆存 ミネルヴァ日本評伝選」、ミネルヴァ書房、2012年、pp.18-23。
- ^ 宮野江里加「「雲の会」論——文学立体化運動の再考」『身体表象』第3巻、身体表象文化学会、2020年3月、2023年8月13日閲覧。
- ^ 井上優「岩田豊雄の中のシェイクスピア--1955年 福田恆存演出『ハムレット』成立の一背景」『西洋比較演劇研究』第19巻第1号、西洋比較演劇研究会、2020年、23-37頁、doi:10.7141/ctr.19.23、ISSN 1347-2720、NAID 130007825948。
- ^ “現代演劇協会年表 – 現代演劇協会 デジタルアーカイヴ”. onceuponatimedarts.com. 2023年8月13日閲覧。
- ^ 『演劇入門』玉川大学出版部、1981年6月15日 。後年にオンデマンド版で再刊
- ^ “演劇入門 -福田恆存 著|文庫|中央公論新社”. www.chuko.co.jp. 2023年8月13日閲覧。
- ^ 『演劇入門 増補版』(中公文庫)は、1980年代に発表された『演劇入門』に、評論を追加。なお版元・中央公論新社は、2000年代に読売新聞社を軸とするメディア・コングロマリットの一社となった。
- ^ 昭和37年から昭和55年にかけ、九州で四度行った講演と問答集
- ^ 編著『シェイクスピア バースデイブック SHAKESPEARE BIRTHDAY BOOK』(現代演劇協会、新潮社制作、1967年、村上芳正装丁、非売品)、左に語句、右に日記・メモ帳
- ^ 他に『シェイクスピア 6大名作』(河出書房新社、1981年)、福田訳は『ハムレット』、『オセロー』
- ^ 旧版『ノーベル賞文学全集20 ジョージ・バーナード・ショー ほか』に受賞演説と収録(主婦の友社、1972年)
- ^ 新潮社の編集者で、退社後は演劇関係で福田を支えた
- ^ 「第9章 アメリカから帰った福田恆存は、「文化人」の「平和論」を果敢に攻撃した」を収録。著者は文藝春秋「諸君」などでの担当編集者
- ^ 著者自身により、Amazon Kindleで再刊。2012年11月
参考文献
[編集]- 竹内洋『革新幻想の戦後史』(中央公論新社、2011年10月)ISBN 978-4120043000
- 川久保剛『福田恆存-人間は弱い』(ミネルヴァ書房、2012年7月)ISBN 978-4623063888
- 福田逸『父・福田恆存』(文藝春秋、2017年7月)ISBN 978-4163906881
関連項目
[編集]関連人物
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