青嵐会

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索

青嵐会(せいらんかい)は、1973年自由民主党の派閥横断的に結成された保守派の衆参両若手議員31名からなる政策集団石原派と呼ばれた。

趣意[編集]

  1. 自由社会を守り、外交は自由主義国家群との緊密なる連携を堅持する。
  2. 国民道義の高揚を図るため、物質万能の風潮を改め、教育の正常化を断行する。
  3. 勤労を尊び、恵まれぬ人々をいたわり、新しい社会正義を確立するために、富の偏在を是正し、不労所得を排除する。
  4. 平和国家建設のため、平和は自ら備えることによってのみ獲ち得られるとの自覚に則り、国民に国防と治安の必要性を訴え、この問題と積極的に取り組む。
  5. 新しい歴史における日本民族の真の自由、安全、繁栄を期するために自主独立の憲法を制定する。
  6. 党の運営は安易な妥協、官僚化、日和見化の旧来の弊習を打破する。

概要[編集]

青嵐寒冷前線の意味で、会名は「渾沌停滞した政界に爽やかな風を送り込もう」という意味を込めて石原慎太郎が命名した。設立趣意書には「いたずらに議論に堕することなく、一命を賭して、右、実践する」とあり、結成時に石原の提案で会員名簿に血判状を捺した事で知られる[1]

中華民国支持の立場をとり、田中角栄首相による日中国交正常化に伴う中華民国との断交に絶対反対の姿勢を貫き、自民党外交部会などで強硬に主張した。1973年の「日中国交正常化1周年記念」に対抗して「中華民国断絶1周年訪問団」を結成し、台北市を訪問した。自民党議員による北朝鮮訪問を実力で阻止したこともある[1]。反共を標榜していたが、当時中ソ対立中華人民共和国と対立していたソビエト社会主義共和国連邦に対しては柔軟で、在京ソ連大使館職員を招いて勉強会を開くなどしている。

冷戦下にあって西側・自由主義陣営諸国との連帯強化を唱えていたため、中華民国の蒋介石政権だけでなく、韓国朴正煕政権とも友好関係を取った。とくに中川一郎は、初当選直後の1963年12月に朴正煕大統領就任慶祝団の一員として訪韓、1965年の日韓国交樹立の交渉にもタッチしており、朴政権が頼りとする議員の一人とされる。[2] 1974年1月に日本武道館で行った「青嵐会は主張する国民集会」では、大韓民国在日居留民団(民団)にも動員令がかかり、「朝鮮服は着ないで出席せよ」との指令が出ていたという。[3]

1974年には浜田幸一中国国民党擁護の立場から、在日台湾独立派金美齢と論戦を行ったが、この番組(毎日放送制作:東京12チャンネル放映予定)は中国国民党の圧力で放映中止となった。

結成当初より、集会では会場となった日本武道館を満員にするほどの人気を得ていた[1]が、マスコミからは「自民党の右翼集団」「極右集団」などと批判された[1]。また、思想面で近いことから「福田赳夫親衛隊」などと言われることもあった。中川、石原、玉置ら、福田・岸系列に近い人間が多かったため、それらの指摘がある側面も存在する。マスコミの批判的報道に神経質になっていた中川は、取材を受ける際には記事に細かい注文をつけていた[1]

結成から間もなくして、中華人民共和国に対する強硬論に反発した山崎拓が中川の度重なる説得にも翻意せず脱会し、それに続いて野田毅綿貫民輔内海英男ら離脱者が続いた。1977年になると、中川の農林大臣就任をきっかけとして、中川と渡辺が対立するようになった[1]

1979年に解消。中川は石原ら一部のメンバーと青嵐会の意志を引き継いだ自由革新同友会(中川派)を結成した。

結成メンバー[編集]

衆議院議員26名、参議院議員5名(当選回数、所属派閥は当時のもの)。

衆議院議員

参議院議員

その他[編集]

中川の長男で自由民主党政務調査会長財務大臣を歴任した中川昭一は、「自身の政治家としての原点」と述べ、当時のマスコミの同会に対する報道姿勢に強い不信感を抱いたことを明らかにしている[要出典]

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e f 河内孝「「悲観的悲観論者」だった中川一郎・昭一親子の「憂国の死」」、『SAPIO』第21巻第20号、小学館2009年11月25日2010年3月25日閲覧。
  2. ^ 『血の政治 青嵐会という物語』河内孝(新潮新書)96p
  3. ^ 『血の政治 青嵐会という物語』河内孝(新潮新書)108p

関連項目[編集]