日本万国博覧会
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開催期間中の会場風景。中央に太陽の塔を望む。1970年4月撮影。 | |
| イベントの種類 | 国際博覧会(旧・一般博[注 1]) |
|---|---|
| 通称・略称 | 大阪万博、70年万博、日本万国博、EXPO'70 |
| 正式名称 | 日本万国博覧会 |
| 開催時期 | 1970年3月15日 - 9月13日(6か月、183日間) |
| 会場 |
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| 主催 | 財団法人 日本万国博覧会協会[注 2] |
| プロデューサー | 丹下健三 |
| 来場者数 | 6,421万8,770人 |
| 最寄駅 |
万国博中央口駅、万国博西口駅 詳しくは大阪万博の交通を参照 |
| 駐車場 | 有 |
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| 作者 | 大高猛 |
|---|---|
| 製作年 | 1966年採用 |
日本万国博覧会(にっぽんばんこくはくらんかい、英:Japan World Exposition, Osaka 1970)は、1970年3月15日から9月13日までの183日間、大阪府吹田市の千里丘陵で開催された国際博覧会。高度経済成長を遂げたばかりの活気ある日本で開催された。未来の生活を表現するため、当時最先端の技術やサービスは当然として、建造物からコンパニオンの制服に至るまで現在で言うレトロフューチャーのデザインを採用した。さらに、整然とした外見を実現するため、幾何学的なモチーフも盛り込まれた。簡潔に記号化された会場デザインは分かりやすく、会場の外観も洗練されていたため、後の展示会にも大きな影響を与えた。時代の追い風が吹き、未来に向かって飛躍していた昭和の日本の象徴であり、閉会後も高度経済成長期を回顧する際には必ず日本万国博覧会が引用されている。
アジア初かつ日本で最初の国際博覧会(General category:一般博、現・登録博)であり、当時史上最大の規模を誇った。略称は開催地・開催年から大阪万博あるいは70年万博、一般的な英語表記としてはEXPO'70が用いられた。また、日本国内において単に万博あるいは万国博とも略される(本項の記述にも用いる)。主催は、財団法人 日本万国博覧会協会。博覧会の名誉総裁は当時の皇太子明仁親王、名誉会長は当時の内閣総理大臣:佐藤栄作。
目次
概要[編集]
「人類の進歩と調和」をテーマに掲げ、77ヵ国が参加し、戦後、高度経済成長を成し遂げアメリカに次ぐ経済大国となった日本の象徴的な意義を持つイベントとして開催された。コンセプトは「規格大量生産型の近代社会」[2]。その日本においては1964年の東京オリンピック以来の国家プロジェクトであり、多くの企業・研究者・建築家・芸術家らがパビリオン建設や映像・音響などのイベント制作・展示物制作に起用された。大阪市など会場周辺市街地では万博開催への整備がなされ、道路や鉄道・地下鉄建設など大規模開発が進められた。一方、第二次世界大戦以来の規模となる芸術家らの国家イベントへの動員は文化・芸術界内部で批判があったほか、同じく1970年に予定されていた日米安保条約改定に関する議論や反対運動(70年安保闘争)を大イベントで国民の目からそらすものだとして、大学生らによる反対運動も行われた。
常識を覆すような超巨大プロジェクトゆえに日本全国で物議を醸したが、世界各国の新技術や文化を結集し、一時の未来世界を作り上げたことで6422万人が来場し、大成功を収めた。日本万国博覧会では、サインシステム、動く歩道、モノレール、リニアモーターカー、電気自転車、電気自動車、テレビ電話、携帯電話、缶コーヒー、ファミリーレストラン、ケンタッキー・フライド・チキンなど、21世紀の現代社会で普及している製品やサービスが初めて登場した。日本万国博覧会を機に広く有用性が認知され、直後に日常生活にも拡がって行った製品は少なくない。しかし、リニアモーターカーなど、技術的な難易度が高く、現代でも実用化に至っていない製品もある。レトロフューチャー的な施設デザインは、清潔感があることから、後の展示会などでも頻繁に採用されている。
テーマ館の太陽の塔やアメリカ館・ソ連館などの、人気パビリオンでは数時間待ちの行列ができるなどして大変混雑した。特にアポロ12号が持ち帰った「月の石」[3]を展示したアメリカ館の行列は延々と続き、途中であきらめて他の館へ行く人も多かった。その異常な混雑ぶりから、テーマをもじって「人類の辛抱と長蛇」や「残酷博」と揶揄されたことがある。また、国際博覧会史上初めて黒字となった。
- 名称:日本万国博覧会 (Japan World Exposition, Osaka 1970)
- テーマ:「人類の進歩と調和」(Progress and Harmony for Mankind)
- サブテーマ[4]
- 「よりゆたかな生命の充実を」(Toward fuller enjoyment of life)
- 「よりみのり多い自然の利用を」(Toward more bountiful fruits from nature)
- 「より好ましい生活の設計を」(Toward fuller engineering of our living environment)
- 「より深い相互の理解を」(Toward better understanding of each other)
- 開催期間:1970年3月15日〜9月13日(183日間)(開会式は3月14日)
- 区分:国際博覧会条約に基づく第1種一般博 (General/first category)
- 会場運営:財団法人 日本万国博覧会協会
- 面積:330ha
- 総入場者数:6,421万8,770人[5](うち外国人 約170万人)
- 目標入場者数:3,000万人(その後5,000万人に上方修正)
- 参加国数:77カ国4国際機関
- 迷子になった親と子供の数:22万643人
- モノレール乗客数:約3,350万人
- 売上金額
- 入場券:約350億円
- 食堂・売店関係:約405億円
- 1日入場者数
- 迷い人:大人 12万7,453人 子供 4万8,190人 [7]
- 落し物:5万227件(そのうち、金銭は4,780万円)[7]
- 食中毒:43件 計404人[7]
大阪万博の最終的な総入場者数は約6,421万人で、2010年中国・上海で開かれた上海万博に抜かれるまでは万博史上最多であった(上海万博は約7,308万人[8])。また、愛称の「万博(バンパク)」は、この博覧会の正式名称の「万国博覧会」を略したものだが、その後の博覧会の愛称にも引き継がれている(科学万博=つくば博、花の万博=大阪花博、愛知万博=愛・地球博)。
なお、1940年3月15日から8月31日にかけて東京で開催される予定で、日中戦争の激化などを受けて開催延期された「紀元2600年記念日本万国博覧会」の前売り券が本博覧会で代替として使用できたため、約3,000枚が実際に使用された[9]。
また、入場料の引き下げのために、日本政府閣僚会議の要請のもとモーターボート競走業界より21億円余の協賛金が拠出されたほか、日本船舶振興会(現日本財団)もその他に補助金を交付するなど、万博への協賛が実施された[10]。
演出者[編集]
財団法人日本万国博覧会協会の会長理事は石坂泰三、事務総長理事は初代が新井真一(元通産省官僚、後に実業家)。新井はテーマの画策、テーマ館の総合プロデューサーを岡本太郎に依頼、説得するなど奔走したが志半ばで更迭された。理由は定かではないが、何らかの政治的な力学が働いたのではとメディアは伝えている[要出典]。2代目が鈴木俊一(後の東京都知事)。
開会式の演出は内海重典(宝塚歌劇団演出家)[11]、閉会式演出は内海と同じく宝塚歌劇団の高木史朗が担当した[12]。
SF作家の小松左京は自発的にプロジェクトに参画し、1965年7月に文化人類学者の梅棹忠夫、社会学者の加藤秀俊らと「万国博を考える会」を発足、同年10月に第1回総会を開催、その後BIE(パリの博覧会国際事務局)に提出するテーマと基本理念づくりのため草案を練り、テーマが「人類の進歩と調和」に決まった[13][14]。小松はその後、テーマ展示プロデューサーに就任した岡本太郎との個人契約という形で、テーマ展示サブプロデューサーとして太陽の塔の地下展示を作り上げた[13][14]。
万博会場の総合設計を行ったのは建築家の丹下健三であった[15]。会場やパビリオンには随所にメタボリズムの意匠が見て取れる。黒川紀章や菊竹清訓等メタボリスト達は、広大な敷地に会期の間だけ「都市」を出現させ、終わったら全てを無に帰すという博覧会の特徴が上手くメタボリズムと適応したためか、大阪万博以降の博覧会(沖縄海洋博など)にも関与した。
シンボルマーク[編集]
大阪万博の公式なシンボルマークは、日本の国花である桜をかたどったもので、デザインは大高猛[16]。当初は西島伊三雄のデザインによる鉄アレイ状の上に丸を描いた形で[17]、下部は東西世界や対立する人間関係が手を取り合うイメージと上部は日本を示す日の丸や次世代の平和な世界を表すとの説明だったが、シンボルマーク発表の記者会見の直前に万博協会会長の石坂泰三が「これでは日本が世界の上にあぐらをかいている」と激怒し、一蹴した(その日の会見は中止)。その後改めてデザインが行われ、桜をイメージしたマークとなった[18]。五つの花びらは五大州・世界を表し世界が手を取り合い万国博へ参加しようとする意図、中央の円は日本の日の丸を、周囲の白抜き部分は発展と進歩への余裕、全体の安定した印象は品位と調和を示し世界の催しであること力強く表現するものとした[19]。メインカラーは冴えた青、サブカラーを冴えた緑と冴えた赤とし組み合わせる「EXPO'70」「日本万国博覧会」のレタリングは早川良雄と原弘が担当し鼠色の配色とした[19]。なお、日本館はこのシンボルマークを模って建設された。
日本万国博に参加した国・地域・国際機関[編集]
国際博覧会史上アジアで初めて開催される大阪万博に、できるだけ多数の国の参加を得て充実した意義あるものとするため、在外公館を通じて未参加国に対して参加勧奨に努めるとともに、総理大臣または万博担当大臣の特使および万博日本政府代表のほか博覧会協会幹部職員等を派遣して折衝を行なった。その結果同年中に新たに中央アフリカ共和国ほか25ヵ国が参加を決定し、参加決定国は合計81ヵ国に上ったが、他面、財政事情その他の理由により5ヵ国(ポーランド、イスラエル、ガイアナ、ハイチ、コンゴ(当時の旧国名ザイール))が参加を取り消した。最終的には、77ヵ国(日本を含む)、4国際機関、1政庁、9州市が参加した[10]。
| 参加した国 (括弧)は、申し出の順番 | |||||
|---|---|---|---|---|---|
| アジア | |||||
| RCD連合(68)[※ 6] | |||||
| ヨーロッパ | |||||
| 北アメリカ | |||||
| 南アメリカ | |||||
| アフリカ | |||||
| オセアニア | |||||
| 参加した国際機関・州・市など (括弧)は、正式名、所属の国名・地域など | |||||
| EC(ヨーロッパ共同体)[※ 12] | OECD(経済協力開発機構) | ||||
| ミュンヘン市(ドイツ) | ロサンゼルス(アメリカ) | ||||
- ^ 台湾が「中華民国」の正式国名で参加した、最後の国際博覧会である。
- ^ 後のミャンマー
- ^ 後のスリランカ共和国
- ^ 当時、南北に分かれていたうちの南ベトナムである(1976年に北ベトナムへの統合により消滅)。
- ^ 現在はアラブ首長国連邦(UAE、1971年結成)を構成する首長国のひとつ。
- ^ イラン、トルコ、パキスタンの三ヵ国。後のECO(経済協力機構)
- ^ 後のロシア連邦、独立国家共同体構成国
- ^ 西ドイツのみ参加。
- ^ 後に王制を廃止、ギリシャとなる
- ^ 後にチェコとスロバキアに分裂
- ^ 後のコートジボワール
- ^ 後のEU(ヨーロッパ連合)
パビリオン一覧(50音順)[編集]
- 国際館
- アメリカ館
- アメリカンパーク(アラスカ州、ロサンゼルス市、アメリカン・エキスプレス、コカ・コーラ、サンキスト、マイルズ・ラボラトリーズ、パンアメリカン航空、エンサイクロペディア・ブリタニカ、アメリカ商務省観光局合同)
- アブダビ館(現アラブ首長国連邦アブダビ首長国)
- RCD館(イラン、トルコ、パキスタン)
- アルゼンチン館
- アルジェリア館
- 英国館
- EC館(現EU)
- イタリア館
- 国際共同館「インターナショナルプレース」
- 第1地区:アフリカ諸国(タンザニア、ガボン、中央アフリカ、マダガスカル、ウガンダ、ザンビア、ガーナ、シエラレオネ、ナイジェリア)
- 第2地区:中南米・ヨーロッパ諸国(パナマ、ベネズエラ、ペルー、ウルグアイ、ドミニカ、エルサルバドル、ニカラグア、コスタリカ、エクアドル、キプロス、マルタ、モナコ、モーリシャス)
- 第3地区:アジア諸国(アフガニスタン・カンボジア・ラオス・ネパール)
- 第4地区:アラブ連合・南ベトナム・アイルランド
- インド館
- インドネシア館
- エチオピア館
- OECD館
- オーストラリア館
- オランダ館
- オンタリオ州館
- カナダ館
- キリスト教館(バチカン市国)
- クウェート館
- ギリシャ館
- キューバ館
- ケベック州館(カナダ)
- 国連館
- コロンビア館
- サウジアラビア館
- サンフランシスコ市館(エキスポランド内)
- シンガポール館
- スイス館
- スカンジナビア館(デンマーク、フィンランド、ノルウェー、スウェーデン、アイスランド)
- セイロン館(現スリランカ)
- 象牙海岸館
- ソ連館(現CIS諸国及びバルト三国)
- タイ館
- 大韓民国館
- 中華民国館
- チェコスロバキア館
- チリ館
- ドイツ館
- ニュージーランド館
- 日本館
- ハワイ州館
- ビルマ館
- フィリピン館
- ブラジル館
- フランス館
- ブルガリア館
- ブリティッシュコロンビア州館(カナダ)
- ベルギー館
- ポルトガル館
- 香港館
- フィリピン館
- ミュンヘン市館(エキスポランド内)
- モルモン・パビリオン
- メキシコ館
- ワシントン州館(アメリカ合衆国)
- 企業館ほか
- IBM館(日本IBM)
- ガスパビリオン(テーマは「笑い」)
- 化学工業館
- コダック館
- クボタ館
- サントリー館
- サンヨー館
- 住友童話館
- 自動車館(日本自動車工業会)
- 生活産業館
- せんい館
- 虹の塔(日本専売公社)
- タカラ・ビューティリオン
- 地方自治体館
- 鉄鋼館
- 電気通信館
- 電力館(電気事業連合会)
- 東芝IHI館
- 日本民芸館(現・大阪日本民藝館)
- 日立グループ館(エスカレーターは会場最長)
- 古河パビリオン
- 富士グループパビリオン(360°スクリーンあり)
- フジパン・ロボット館(エキスポランド内)
- ペプシ館(エキスポランド内)
- 松下館
- 三井グループ館
- 三菱未来館(三菱グループ)
- みどり館(三和グループ32社の合同館、のちのみどり会発足の元となった)
- リコー館
- ワコール・リッカーミシン館
- その他
館・展示物[編集]
- テーマ館の一部として岡本太郎意匠による「太陽の塔」が作られた。現在も残され、万博記念公園のシンボルとなっている。
- 現在、唯一元会場内に残存している鉄鋼館が改修され、2010年3月13日に万国博の資料館「EXPO'70パビリオン」としてリニューアルオープンした。もともと鉄鋼館は現代音楽などの音楽公演を行うパビリオンで最新の音響設備を備えており、40年ぶりに公開されるメーン施設「スペースシアターホール」は、当時の光のショーをイメージして色とりどりの照明で演出している[20]。
- シンボルタワーの「エキスポタワー」は菊竹清訓の設計で、閉幕後も残され展望塔として観客を集めていたが老朽化により1990年に閉鎖され、2002年夏から2003年春にかけて撤去工事が行われ現在はなくなっている。
- 世界の美術品を集めた万国博美術館は開催後、国立国際美術館として再利用され、隣接する万国博ホールは多目的ホールとなった。しかし老朽化により2004年閉鎖され、ともに解体された。
- アメリカ館ではアポロ計画で持ち帰られた月の石が展示され、話題となる。(1969年、アポロ12号のお土産。なお日本館4号館にもアポロ11号[3]が持ち帰ったものが展示されていた。)
- インド館では「アショカ・ホテル」によるインド料理レストランが開設され人気を博した。なお同レストランの運営にはインド独立運動の闘士で、インド料理老舗の「ナイルレストラン」のオーナーであるA.M.ナイルが全面協力している。
- 民間企業のパビリオンとしては、三菱未来館、日立グループ館などが人気を集めた。
- 松下館で展示されたタイムカプセルは当時の各種物品を詰め、同じものが2つ大阪城公園に埋められている。一つは5000年後の6970年に開封予定。もう一つは内容物の状態確認のため、2000年以降100年ごとに開封されることになっており、2000年3月15日に当初予定通り掘り出して最初の開封が行われ、点検作業の後同年11月23日に再び埋設された[21][22]。さらに地上用に残された内容物を含めた同じもの一式が大阪市に寄付され、1971年11月22日から同公園内にあった大阪市立博物館で展示された[23]。2001年に大阪市立博物館が閉館して後は大阪市中央区にある大阪歴史博物館にて保管されており、1階でタイムカプセルの本体を展示している[24][25][26]ほか、2005年には内容物約30件の展示が行われた[27]。また、大阪府門真市にあるパナソニックミュージアム 松下幸之助歴史館(旧:松下電器歴史館)でももう一つのタイムカプセルの本体を展示している[21]。
- 古河パビリオンは未来的建築の並ぶ会場内であえて「外し」狙いで古典的に東大寺の過去に存在し、落雷で燃失した東塔[要出典](七重塔)を再現していた。会期終了後、東大寺より移設の要望もあったが、資金上の問題もあり最上部の相輪部のみ寄贈されるにとどまる。
- 全日本仏教会が休憩所として建築した「法輪閣」は、閉幕後に全日本仏教会が四天王寺に寄進し、飛び地境内に移築、改修され庚申堂となった。
- 万博会期後はほとんどのパビリオンが取り壊され跡地は公園化されたが、パビリオンの中には引き取られ移設されたものもある。オーストラリア館は閉幕後、三重県四日市市に移築され、オーストラリア記念館となったが、2013年に閉館し、2014年に解体された。同様に、スカンジナビア館も北海道石狩市(当時は石狩町)に移築され、1972年2月に再開館した[28]が、所有者の倒産に伴い数年で閉鎖され、1981年11月までに撤去されている。また三菱未来館の一部は宝塚ファミリーランドへ移設されたがこれも後に老朽化のため解体された。カンボジア館は万博閉幕の翌年1971年に神戸市北区広陵町に移設され、現在では「広陵町パビリオン」という地元の愛称で自治会館として使用されている。
- フジパン・ロボット館はフジパンの本社がある愛知県にできた愛知青少年公園(後に愛・地球博の長久手会場となる)に移設。建物は老朽化により1993年に取り壊されたが、ロボットはその後も同公園内の愛知県児童総合センターで展示されていた。その後、2002年3月に、愛・地球博の会場工事のため同公園・同センターは休園になるものの、2005年の愛・地球博のわんパク宝島・ロボットステーション(児童総合センターの建物をパビリオンにそのまま転用)に展示・公開された。大阪・愛知の2つの万博で共に展示されたのはこのロボット以外にはない。現在も長久手会場の跡地に整備された愛・地球博記念公園の同センター内に展示・保存されており、ロボットのパフォーマンスを見ることができる。
沿革[編集]
招致活動[編集]
- 1963年[29]
- 2月18日 - 紀元2600年記念日本万国博覧会計画時に商工省博覧会監理課長を務めた豊田雅孝参院議員が自由民主党政務調査会商工部会の特別委員会にて日本での国際博覧会開催を提案[30]。
- 4月23日 - 左藤義詮大阪府知事、中馬馨大阪市長、小田原大造大阪商工会議所会頭が連盟で政府に「国際博覧会の大阪開催に関する要望書」を提出。
- 6月9日 - 政府が国際博覧会の日本開催の検討を閣議決定。
- 7月18日 - 近畿2府6県議長会が国際博覧会の近畿誘致を決議、衆参両院議長と政府に要望。
- 7月22日 - 大阪府・大阪市・大阪商工会議所が「国際博覧会大阪誘致委員会」を発足。当初大阪府は千里丘陵、大阪市は大阪南港埋立地を会場候補としていた[30]。
- 7月27日 - 近畿ブロック知事会議が国際博覧会近畿誘致を決議。
- 7月30日 - 近畿商工会議所連合会が国際博覧会近畿誘致を決議。
- 8月20日 - 神戸市が神戸港東部埋立地を会場候補地に国際博覧会誘致を決定。
- 8月21日 - 櫻内義雄通商産業大臣が閣議で1970年万博の日本開催を提案し積極的検討を決定[30]。
- 9月1日 - 通商産業省企業局に国際博覧会調査室を設置。その後近畿地区や東京都・千葉県などが国際博覧会誘致の検討に入った[30]。
- 9月9日 - 金井元彦兵庫県知事、原口忠次郎神戸市長らが政府に国際博覧会第2会場の神戸誘致を要望する。
- 9月24日 - 奥村悦造滋賀県副知事が滋賀県への国際博覧会会場誘致を要望。
- 10月2日 - 大阪府知事・大阪市長・大阪商工会議所会頭による三者会談での調整検討で大阪府内の会場最終候補を千里丘陵に決定[30]。
- 10月9日 - 兵庫県・神戸市・神戸商工会議所が神戸港埋立地第4工区を候補地として万国博覧会神戸誘致委員会を発足、自民党近畿圏整備特別委員会にて万国博主会場を千里丘陵、副会場を琵琶湖・神戸市等とする方針を決議[30]。
- 10月23日 - 滋賀県・県内各都市・県経済界代表が琵琶湖東岸木浜埋立地を中心候補地として万国博覧会滋賀県誘致委員会を発足[30]。
- 12月28日 - 衆参両院の全会一致で国際博覧会条約を批准承認。
- 1月14日 - 岡崎英城通産政務次官が近畿8府県3政令市の知事・市長・議長・商議所会頭懇談会にて国際博覧会会場の統一と近畿地域内での調整と準備団体の結成を訴える。
- 2月8日 - 日本が国際博覧会条約に加盟。
- 4月3日 - 櫻内通産大臣が大阪・滋賀・神戸の3地域代表者と懇談し博覧会会場を大阪府千里丘陵を開催地と裁定し滋賀・神戸は関連事業開催の折衝を行うとした[30]。
- 4月5日 - 櫻内通産大臣が近畿8府県3政令市の知事・市長・議長・商議所会頭と会談し千里丘陵開催の裁定を了承。
- 4月13日 - 近畿8府県3政令市の知事・市長・議長・商議所会頭・在阪経済団体4団体代表者で大阪国際博覧会準備協議会を結成、1970年万博の開催申請書を通産大臣に提出。
- 4月14日 - 日本商工会議所、経済団体連合会、日本経営者団体連盟、経済同友会代表が大阪国際博覧会準備協議会に参加。
- 4月16日 - 1970年万博開催申請手続きの早急な推進を閣議了解。
- 4月22日 - 駐仏日本大使を通じてBIEに開催申請書を提出。
- 5月12日 - BIE第57回理事会にて大阪での万博開催を受理。
- 7月3日 - 大阪国際博覧会準備協議会発足、新井真一が事務局長に就任。
- 8月25日 - 通産省が大阪での国際博覧会の名称を「万国博覧会」に統一することを了承。
- 9月1日 - テーマ委員会設置。
- 9月14日 - 1970年万博の大阪開催が正式決定。
開催準備[編集]
- 1965年[29]
- 10月9日 - 大阪国際博覧会準備委員会解散、財団法人日本万国博覧会協会(万国博協会)発起人会を開催。
- 10月15日 - 日本万国博覧会協会発足、大阪市東区に事務所を設置。
- 11月2日 - 万国博協会第1回理事会開催、テーマ基本理念と統一テーマ「人類の進歩と調和」を決定。
- 11月25日 - 万国博協会会長に石坂泰三が就任。
- 3月23日 - 万国博協会第3回理事会にて一般規則・一般分類表を了承、正式名称を「日本万国博覧会」(略称:JEXPO'70)、会期を1970年3月15日から9月13日に決定[32]。
- 4月6日 - 西山夘三、丹下健三をトップとする会場計画委員会が会場基本計画第1次案を提示。当初7案を考案、その後4案に絞り込む[33][32]。
- 4月12日 - 日本万国博覧会担当大臣の設置を閣議決定、初代大臣に三木武夫通産大臣が兼任で就任。
- 4月19日 - 日本万国博覧会関係閣僚協議会設置を閣議決定。
- 4月20日 - 第4回理事会にてシンボルマークを決定、略称を「EXPO'70」に変更[32]。
- 5月11日 - BIE第59回理事会にて日本万国博覧会の登録と一般規則・一般分類表を承認。宇宙開発・海洋開発・電子機械等最新の技術や公害等の社会問題、東洋文化や社会科学の追加、植民地部門の削除を主とした[34]。
- 5月23日 - 会場基本計画第2次案を作成[33]。
- 6月24日 - 万国博協会第7回理事会にてサブテーマ決定。
- 6月27日 - 日本万国博覧会特別措置法が参院で可決成立、7月1日交付。
- 9月3日 - 世界123カ国21国際機関に招請状を発出。
- 9月6日 - 会場基本計画第3次案を作成。周辺部へのゲート4か所の追加、施設配置のコンパクト化、中央人工湖周辺へのパビリオン配置と周辺台地上への大規模館配置、中央のシンボルゾーンと東西南北各ゲートへの動脈的な装置道路の設置などとし骨子を整える[33]。
- 9月30日 - 国内2,498団体に招請状発送を開始。
- 10月 - 第1次全体資金計画作成。運営費168.5億円、建設費546.65億円とする[35]。
- 10月7日 - カナダ政府が第一号の参加表明。
- 11月1日 - 1968年9月 日本専売公社が協賛タバコを第一次発売[36][32]。
- 11月14日 - 会場基本計画を決定。
- 12月3日 - 2代目万国博担当大臣に菅野和太郎通産大臣が就任。
- 1967年[29]
- 1月25日 - 工事用道路着工。
- 2月10日 - 基幹施設プロデューサーを丹下健三に委嘱。
- 3月15日 - 第1回万国博デーとして会場起工式を開催、テーマソング「世界の国からこんにちは」発表[37]。
- 4月1日 - 9月30日 - 国内企業団体出展参加を受け付け。
- 5月17日 - 敷地造成工事について8業者と請負契約を締結し着工[38]。
- 7月7日 - テーマ館展示プロデューサーを岡本太郎に委嘱。
- 7月19日 - 万国博協会新井真一事務総長辞任、後任に鈴木俊一が就任。
- 8月1日 - 催し物プロデューサーを伊藤邦輔に委嘱。
- 8月22日 - 万国博関係閣僚協議会で関連公共事業を決定。
- 11月25日 - 3代目万国博担当大臣に椎名悦三郎通産大臣が就任。
- 12月15日 - 万国博協会に場内輸送委員会を設置。
- 12月20日 - 万国博協会に財務委員会を設置。
- 12月21日 - 日本万国博観光宿泊対策協議会設置。
- 1968年[29]
- 1月1日 - 万国博協会に美術展示委員会を設置
- 1月 - 第2次全体資金計画決定。運営費203.88億円、建設費523.64億円[35]。
- 1月22日 - 入場券デザイナーを杉浦康平に決定[39]。
- 1月23日 - 美術展示委員会第1回委員会開催
- 3月 - 近畿日本鉄道が場内輸送施設に関する報告書を作成[33]。
- 3月12日 - 政府日本万国博覧会推進対策本部の設置を閣議決定。
- 3月15日 - 皇太子が名誉総裁に就任、会場立柱式挙行、万国博協会本部ビル着工[40]。
- 4月24日 - 万国博協会が全体資金計画を決定。建設費524億円・運営費283億円とする。
- 5月27日 - 京都国際会館にて第1回参加国政府代表会議開催。
- 7月1日 - カナダ館・鉄鋼館・古河パビリオン・三菱未来館を皮切りに展示館着工。
- 7月23日 - 会場用地買収を完了[34]
- 8月23日 - 第27回理事会で入場料決定。
- 8月31日 - 敷地造成完了[38]。
- 10月1日 - 万国博診療所、宿泊インフォメーションセンター設置。
- 10月31日 - 1969年2月28日 - 第1期入場前売り券発売[39]。
- 11月12日 - 第2回参加国政府代表会議開催。
- 11月29日 - BIE第64回理事会にて万国博覧会統一マークの制定を決定。
- 11月30日 - 4代目万国博担当大臣に菅野和太郎経済企画庁長官が再任。
- 1969年[29]
- 3月15日 - 郵政省が寄付金付き記念切手を発売[36]。
- 3月15日 - 8月31日 - 第2期前売り入場券発売[39]。
- 3月31日 - 下水処理施設完成[40]。
- 4月1日 - 万国博消防署設置。
- 5月1日 - 会場跡地利用問題懇談会発足。
- 5月27日 - 第3回参加国政府代表会議開催。
- 6月9日 - 会場敷地に万国博協会本部ビル完成。
- 7月15日 - 日本万国博観客輸送対策懇談会発足。
- 8月 - 場内地域冷房工事完成[41]。
- 8月15日 - 万国博記念100円白銅貨発行決定。
- 8月22日 - 催し物プログラム・料金を決定。
- 9月 - 1970年8月 - 協賛タバコ第2回発売[36]。
- 9月15日 - 1970年2月28日 - 第3期前売り入場券発売[39]。
- 9月15日 - 記念メダル発売[36]。
- 9月18日 - 入場者予測を3000万人から5000万人に修正。
- 9月20日 - イギリス館が展示館初完工。
- 9月26日 - アクセス鉄道となる北大阪急行電鉄が試運転開始。
- 10月1日 - 千里ニュータウンに設けられた外国展示館の外国人従業員宿舎が業務開始。
- 10月6日 - 万国博郵便局・電報電話局業務開始。
- 10月25日 - 万国博電報電話局完成。
- 10月27日 - モノレール全線完成。
- 10月31日 - 万国博美術館竣工[40]。
- 11月1日 - 会場警察隊発足。
- 11月10日 - 阪急千里線臨時駅「万国博西口駅」営業開始。
- 11月14日 - BIE第66回理事会にて松島正矩デザインによる万国博覧会統一マークを制定。
- 11月16日 - アイルランドが参加表明、参加国数が万博史上最多の77カ国となる。
- 12月1日 - プレスセンター開館[42]。
- 12月3日 - 17日 - 第1回プレスプレビュー開催[42]。
- 12月5日 - 佐藤栄作総理大臣が万博名誉会長に就任。
- 1970年[29]
- 1月1日 - 会場内主要建物番号を発行[43]。
- 1月14日 - 5代目万国博担当大臣に宮沢喜一通産大臣が就任。
- 1月21日 - 第4回参加国政府代表会議開催。
- 1月31日 - 万国博ホール、身体障害者センター竣工[40]。
- 1月末 - 人工池設備竣工[40]。
- 2月 - 道路工事、駐車場施設完成[40]。
- 2月10日 - 3月10日 - 第2回プレスプレビュー開催[42]。
- 2月24日 - 北大阪急行電鉄営業開始。
- 2月28日 - エキスポタワー、中央・東西南北各入場口竣工[40]。
- 3月1日 - 当日入場券発売開始[39]。一部展示館に冷水供給を開始[44]。
- 3月10日 - 万国博記念100円白銅貨を発行、7月9日にも第2次発行。お祭り広場・テーマ館完成[40]。
- 3月12日 - 最終プレスプレビュー「グランドプレビュー」開催[42]。会場内小建物への建物番号発行[43]。
- 3月 - 最終全体資金計画として運営費を354.3億円とする[35]。
会期中[編集]
- 開会式[12]
開幕前日の3月14日、天皇・皇后・皇太子・同妃と特別招待客・一般招待12,000名が出席してお祭り広場で開会式が行われた。午前11時「越天楽」の調べの中で天皇皇后が臨席し鈴木俊一万国博協会事務総長の開式の辞からNHK交響楽団による国歌「君が代」とともに日本国旗を掲揚し国名と各国語の「こんにちは」を送る参加申し込み順による参加各国の入場行進、「EXPO'70讃歌」の合唱とともに参加国・国際機関91旗の掲揚、博覧会国際事務局副会長オタカール・カウツキーから同年に制定された万博旗が石坂万国博協会会長に手渡された後佐藤栄作首相・船田中衆院議長・重宗雄三参院議長・参加国代表のカナダ政府パトリック・リード代表・左藤義詮大阪府知事の挨拶とBIEレオン・バレティ会長のボイスメッセージ再生が行われた。その後天皇の開会宣言とファンファーレや三善晃作曲の祝典序曲に続いて名誉総裁の皇太子により開幕のスイッチが押され、万国博のシンボルマークをかたどった大くす玉が割れ会場に大阪府内の小学1年生の折った匂い付きの千羽鶴や世界からのメッセージの入った紙吹雪に包まれ場内外では花火や風船が上がり、お祭り広場内ではロボット「デメ」が動き子供たちによるパレードやマスゲームを展開、さらに世界各国の子供たちによる花みこしや獅子舞や道化師が登場し会場を踊りの輪で沸かし、最後に10人の子供が貴賓席の来賓に花束を贈り鈴木事務総長の閉会の辞で締められ午前12時に終了。その後午後1時10分からは航空自衛隊「ブルーインパルス」が祝賀飛行を行い会場上空に「EXPO'70」の煙文字を描いた。
- 主な出来事[45]
- 3月14日 - 開会式開催。招待営業中にエキスポランド空中ビュッフェのカプセルが上昇中傾斜し3名が軽傷[46]。
- 3月15日 - 開会。万博粉砕共闘会議67人が反万博デモとして万国博中央口駅に座り込み不退去罪・鉄道事業法違反・威力業務妨害罪で逮捕[47]。
- 3月16日 - 中華民国館で特殊ガラス張りの蒋介石の肖像画にスパナを投げた男が威力業務妨害罪逮捕[47]。
- 3月21日 - モノレール西口駅にてオーバーランのため手動急停車、4名が軽傷[46]。
- 3月26日 - 動く歩道ソ連館前出入り口付近でソ連館方面へ行く観客と中央方面へ向かう観客が錯綜して行き詰まり転倒事故が発生、重傷者6名軽傷者44名[47]。
- 4月3日 - 動く歩道、エキスポランド空中ビュッフェ運転再開。
- 4月7日 - モーリシャスのナショナルデーに合わせシウサガル・ラングーラムモーリシャス首相来訪。
- 4月9日 - 天六ガス爆発事故を受けてガスパビリオンが4月21日まで営業自粛。
- 4月12 - 13日 - 4月13日の国際連合スペシャルデーに合わせウ・タント国連事務総長来訪。
- 4月15日 - 地域冷房の全面運用を開始[44]。
- 4月19日 - 入場者1000万人達成、該当者に花電気自動車パレードのサービスと記念メダル・香港1週間旅行券・真珠ネックレスを贈呈しパレード・入場券・メダルは1970万人・3000万人・5000万人時にも提供された[43]。
- 4月21日 - ドミニカ館開館で全パビリオンが開館、会場内で初めての労働組合「エキスポ綜合労組」結成。
- 4月26日 - 太陽の塔の地上約60メートルに位置する未来の顔右眼部に赤軍派を名乗る覆面の男が立てこもる[47]。
- 4月29日 - 公開時間を夏時間に変更。
- 5月3日 - 太陽の塔の立てこもり犯を建造物侵入・威力業務妨害罪で逮捕[47]。
- 5月11日 - モノレール故障、約1時間運休。
- 5月16日 - 4月の国会で「万国博では老人対策がなされていない」との意見を受け、毎月1・15日を「万国博敬老の日」に制定し70歳以上の高齢者とその付添人一人を対象に展示館やモノレールの優先利用、老人専用バス、日本庭園茶室開放、お祭り広場観覧席の無料休憩所開放、車いす利用サービスを実施するとした[43]。
- 5月17日 - エスコートガイド、通訳ホステス等が夏服に衣替え。
- 5月22日 - 迷子1万人突破。
- 5月23日 - 入場者1970万人達成。
- 5月24日 - 入場者2000万人達成。
- 5月25日 - エチオピアのナショナルデーに合わせハイレ・セラシエ1世エチオピア皇帝来訪。
- 5月27 - 28日 - 5月27日のカナダのナショナルデーに合わせピエール・トルドーカナダ首相来訪。
- 6月3日 - アンカシュ地震を受けてペルー館が休館。
- 6月3日 - スハルトインドネシア大統領来訪。
- 6月6日 - 8日 - 会場内でペルー大地震被害者救済募金を実施、合計約191万円を集める。
- 6月8日 - 3月26日の動く歩道事故で関係者が書類送検。
- 6月23日 - 入場者3000万人達成、3000万人該当者に日本航空ヨーロッパ一周カップル旅行券・副賞30万円を贈呈[43]。
- 6月29日 - 佐藤総理大臣が記者会見で万国博跡地は一括利用すると表明。
- 7月12日 - 入場者数3500万人達成。
- 7月15日 - この日の第4回万国博老人の日より展示館優先利用についてソ連館・アメリカ館・三菱未来館からいずれか1館の優先入場整理券制を開始[43]。
- 7月24日 - 宮沢喜一通産大臣・万国博大臣の諮問機関として日本万国博覧会後処理委員会発足[48]。
- 7月28日 - 入場者4000万人達成。
- 8月9日 - ベトナム館の乗用車に解雇抗議のビラ約60枚を貼り付けたアルジェリア館労組書記長ら3人を暴力行為等処罰法違反で検挙[47]。
- 8月10日 - 入場者4500万人達成。
- 8月13日 - 返却率の低迷に伴い雨傘の貸出サービスを中止[43]。
- 8月19日 - 入場者5000万人達成、5000万人該当者に日本航空世界一周航空券2名分・副賞30万円を贈呈[43]。
- 8月20日 - 混雑のため万国博老人の日サービスを中止[43]。
- 8月28日 - 入場者5500万人達成。
- 9月5日 - 1日の最高入場者数85万5832人を記録、輸送力が麻痺し約5,000人が会場内で野宿。
- 9月6日 - 最大逗留者数59万1408人を記録。午後5時以降夜間入場停止、入場者数6000万人達成。
- 9月13日 - 閉会式開催。
- 閉会式[12]
9月13日、招待客6,000名が出席してお祭り広場で閉会式が行われた。午前10時より皇太子・皇太子妃臨場とファンファーレに続き鈴木事務総長の開式の辞、国歌斉唱と国旗掲揚を行い佐藤総理・石坂万国博協会会長の感謝の言葉と地元代表中馬大阪市長の挨拶、各国政府と国内企業・団体館への記念メダル贈呈式、リードカナダ政府代表の挨拶、皇太子の閉会挨拶の後参加国旗降納と万博旗のBIEシャロン事務局長への引き継ぎ、宝塚歌劇団・展示館のホステスやホスト・陸上自衛隊音楽隊・少年音楽隊・吹奏楽団・道化師のパレード、山本治雄吹田市長らによる桜若木の記念植樹、日本万国博覧会旗の降納をし最後に「蛍の光」のメロディとともに退場パレードが行われ鈴木事務総長が閉式の辞を述べ11時に終了。その後閉会式の観客が限られることから職員・従業員による退場パレード隊が12時まで引続き会場内で行進を行い来場者に閉会式の雰囲気を演出した他、11時30分からは航空自衛隊ブルーインパルスが祝賀飛行を行い「サヨナラ」の煙文字を描いた。
開催後[編集]
- 1970年
- 9月14日 - 北大阪急行電鉄会場線、阪急千里線万国博西口駅廃止。
- 9月18日 - 万国博会場跡地利用担当大臣に福田赳夫大蔵大臣が就任。
- 10月12日 - 31日 - 混雑による入場停止措置を受けて日本交通公社各営業所で不使用入場券の払い戻しを受付[39]。
- 10月22日 - 万国博跡地利用懇談会発足。
- 12月6日 - 北大阪急行電鉄会場線撤去完了[48]。
- 12月末 - 阪急千里線万国博西口駅撤去完了[48]。
- 12月23日 - 万国博跡地利用懇談会が跡地利用を「緑につつまれた文化公園」とする中間報告を大蔵大臣に提出。
- 12月25日 - 万国博跡地日本庭園・展示地区129万平米を大阪府から政府が買い上げを決定。
- 4月3日 - 公式記録映画「日本万国博」封切り。
- 5月24日 - 日本万国博覧会記念協会法案が参議院で可決。
- 6月末 - お祭り広場やエキスポランド等一部施設を除いた大半の会場施設の撤去工事を完了。
- 7月1日 - 日本万国博覧会記念協会法施行。
- 8月31日 - 万国博協会解散、万国博全体収支として194億3940万2017円の黒字を記録[35]。
- 9月1日 - 日本万国博覧会記念協会発足。剰余金から継承施設の補修改造費8億7200万円、撤去費25億3100万円、事後処理経費5億円を除いた150億円程度を記念基金として設定するとした[35]。
記録[編集]
| 順位 | パビリオン名 | 入場者数 |
|---|---|---|
| 1位 | ソ連館 | 28,000,000人 |
| 2位 | カナダ館 | 25,035,000人 |
| 3位 | アメリカ館 | 16,500,000人 |
| 4位 | エルサルバドル館 | 13,725,000人 |
| 5位 | アメリカン・パーク | 12,810,000人 |
| 6位 | スイス館 | 12,600,000人 |
| 7位 | 日本館 | 11,632,627人 |
| 8位 | 三菱未来館 | 11,556,268人 |
| 9位 | オーストラリア館 | 11,554,420人 |
| 10位 | チェコスロバキア館 | 11,200,000人 |
- 出産 1人
- 結婚式 55組(記録有のみ)
- 患者 86,332人(件)
- 拾得物 54,154件
- 拾得金 48,924,577円
会場内・会場への交通[編集]
詳細は大阪万博の交通の項目を参照。
- 鉄道
- 空路
記念発行物[編集]
- 記念切手
- 1969年3月15日に宣伝と建設寄付金募集を目的に地球と万国博のマークの図案をあしらった15+5円寄付金切手を1500万枚、智積院障壁画の桜図をあしらった50+10円寄付金切手を750万枚発行[53]。1億3857万円余りの寄付金をシンボルゾーンの建設費に充てた[43]。
- 会期中には7円・15円・50円の三種類が、3月14日と6月29日にそれぞれ異なる図案で発行された。3月分は会場風景の7円・地球と桜の花の15円を各3500万枚、尾形光琳作カキツバタの50円を2000万枚、3種組み合わせを700万枚発行。6月分は会場と秋田の竿灯の7円・地球に会場風景の15円を各3500万枚、酒井抱一作夏秋草図の50円を2000万枚、3種組み合わせを1000万枚発行[43]。
- 諸外国(特に発展途上国)でも、日本での需要を見込んで多数の記念切手が発行された。リベリアは三波春夫と「世界の国からこんにちは」の一節を日本語であしらったものを、セネガルは万博会場を5連組みで描いたものを発行した。
- 航空書簡[53]
- 1970年3月1日に発行、薄青の紙色で料額印面を大人と子供の横顔に万国博マークを配したデザインとした。
- 記念貨幣
- 記念メダル[36]
- 1968年12月に記念メダルの製造販売を担当する18社による「日本万国博記念メダル協会」と委託契約を締結し、杉浦康平デザインの18金直径27mmの金メダル333,020枚・佐藤忠良デザインのスターリングシルバー製直径34mmの銀メダル1,311,310枚、福田繁雄デザインの丹銅製直径34mmの銅メダル1,633,210枚の3種を製作しいずれも杉浦康平が表面デザインを担当。1969年9月15日より金銀銅セット14,500円、銀単品1500円・銅単品350円で発売し5億2304万1000円の協賛金を集めた。また前売り入場券の販売促進策として入場券番号を用いた抽選くじを行いメダルが賞品として用いられ1等に3種セット、2等に銀メダル、3等に銅メダルが用意されその他ペア入場券や開会式招待券も賞品となった[39]。
- 1970年3月25日には万国博統一マークの制定記念と国際共同館「インターナショナルプレイス」の建設資金調達を目的に裏面に万国博統一マークをあしらった10万円の直径30mm純プラチナメダルが22,750枚発行され即日完売し、2億2700万円の協賛金を集めた。
テレビ・ラジオにおける大阪万博[編集]
会期中は多くのテレビ・ラジオが万博を取り上げ、NHK総合テレビでは毎日、会場から中継を行なう帯番組を編成した。会場内には映像音声回線を埋設し23か所にテレビ中継車と接続する端子箱を備えた中継ポストを設けプレスセンターの操縦室を経由し映像はエキスポタワーからマイクロウェーブ・音声は万国博電報電話局から電話線を用い各局へ送られた[42]。万国博協会と在阪テレビ5局で「日本万国博覧会会場内放送取材用映像回線共同運用企業体」を組織し運用要領を定め運営し操縦運用は大阪東通、回線管理を電電公社に委託し運用された[42]。
開会式はNHKは特別番組を放送しカナダCBC・台湾CTVとTTV・ブラジルTV-GLOBO・フィリピンABS-CBNへ同時衛星配信を行った[42]。民放はこれに対抗するため、在阪テレビ局を中心に日本民間放送連盟に加盟するテレビ全局が協力して『幕開く日本万国博』を製作した。全民放テレビ局が一致協力して1番組を放送したのはこれが初めてのことだった[54]。
開催中のテレビ番組[編集]
- NHK
- 花ひらく万国博[42]
- 1970年3月29日 - 4月3日 毎日21時 - 21時30分
- ナショナルデーへの招待 - 参加国の催しを紹介する番組[55]。
- 1970年3月16日 - 9月11日 NHK総合テレビ(全国放送) 月曜・水曜・金曜13時40分 - 14時20分[56]
- 万国博アワー - 会場とスタジオを結び、ゲストのインタビューなどを織り込みながら万博の話題を伝えた番組[55]。
- 1970年4月7日 - 8月25日 NHK総合テレビ(全国放送) 火曜20時 - 21時[56]
- 万国博と結ぶ - 万博会場の電気通信館と日本各地を結ぶ二元中継番組[57]。
- 1970年3月16日 - 9月12日 NHK総合テレビ(ローカル、大阪放送局管内以外の局が持ち回りで放送) 月曜 - 土曜13時5分 - 13時20分[56]
- おはよう万国博 毎日7時55分 - 8時10分
- 万国博情報 毎日11時45分 - 11時50分
- 万国博トピックス 毎日23時59分 - 24時4分
- 万国博ウィークリー 土曜16時30分 - 16時45分
- 万国博ニュース 日曜11時30分 - 11時45分
- きょうの万国博 月-土曜7時20分 - 7時35分・日曜7時30分 - 7時35分
- 万国博ハイライト 月-金曜7時30分-7時40分
- これが万国博だ
- スター万国博評判記 日曜12時15分 - 12時45分
- 万国博ニュース 日曜14時25分 - 14時30分
- 万国博メモ 水・金・日曜22時26分 - 22時28分
- 万国博ミニ訪問 土曜23時26分 - 23時30分
- 世界のひろば 土曜22時 - 22時30分
- 世界の味じまんお国じまん 土曜13時30分 - 14時30分
- ミセスのエキスポ 毎日13時30分 - 13時35分
- 万国博メモ 毎日17時45分 - 17時50分
- EXPO招待席
- 1970年4月5日〜9月13日 日本テレビ系 日曜22時30分 - 23時
- 万国博だより 土曜 12時 - 12時5分
開催中のラジオ番組[編集]
- NHK[42]
- 万国博リポート 月曜 6時10分 - 6時20分
- 万国博案内 火-土曜 7時25分 - 7時30分
- エキスポ 月・火・木・土曜7時52分 - 8時、火-土曜8時55分 - 9時、毎日9時30分 - 9時35分、月 - 土曜10時30分 - 10時35分
- 万国博ニュース 月-土曜 11時 - 11時5分
- エキスポインタビュー 月-土曜 15時15分 - 17時
- 万国博 月-土曜 6時50分 - 7時、日曜6時45分 - 7時
- セスナスタジオ 月-土曜 15時15分 - 17時
- エキスポ 月-土曜 22時10分 - 22時15分
- 今日の万国博 土曜 7時55分 - 8時
- 万博情報 水-金曜 9時45分 - 10時
- 万博ニュース 月-土曜 10時20分 - 10時30分
- 万博レーダー 月-土曜 18時35分 - 18時40分
- 月-土曜 7時15分 - 8時・19時 - 20時30分 ワイド番組内にて万国博ニュースを放送
- 歌うパビリオン 日曜 20時30分 - 21時30分
テーマソング[編集]
| 「万国博音頭」 | ||
|---|---|---|
| 村田英雄の楽曲 | ||
| リリース | 1966年 | |
| 作詞者 | 三宅立美 | |
| 作曲者 | 古賀政男 | |
|
| ||
- 世界の国からこんにちは(万博テーマソング、作詞:島田陽子、作曲:中村八大)
万博に出展し、その後実現普及したもの[編集]
- 技術
- 温水洗浄便座(ガス館)
- 動く歩道
- エアドーム(アメリカ館、富士グループパビリオン)
- ワイヤレスフォン(現在の携帯電話、電卓の機能まですでに内蔵されていた。電気通信館。)
- コンピュータ・ハンド・ゲーム(古河グループパビリオン)(人間の声でクレーンを操る大型のクレーンゲーム機。1985年からUFOキャッチャーという商品名で発売され、ゲームセンターなどを中心に全国で普及した。)
- アストロラマ(みどり館)(360度全天周スクリーン映像。以後の各博覧会で見られた全天周映像やオムニマックスシアター等、他、デジタル映像式プラネタリウム投影機の先駆け。)
- テレビ電話(第三世代携帯電話でほぼ普及した)
- ローカル・エリア・ネットワーク(LAN)
- モノレール(アルウェーグ式を改良した日本跨座式が会場内にて初めて運用された)
- サインシステム(ピクトグラムと共同運用した最初のもの)
- 電波時計(UHFを用いて会場内の時計の時刻を原子時計の時刻に同期させた)
- タイムカプセル(松下館)(タイムカプセル自体は1939年のニューヨーク万国博覧会で既に出品されていた。しかし、日本がタイムカプセル大国と言われるほど(主に学校などで)タイムカプセルを埋めるようになったのは、大阪万博のタイムカプセルEXPO'70がきっかけであり、大阪万博を通して普及したものである。)[63]
- 食文化
- 缶コーヒー(UCC上島珈琲)
- ファーストフードやファーストフードチェーン(ピザ、ケンタッキーフライドチキン、ドムドムバーガー)
- ファミリーレストラン(アメリカゾーンに外国店扱いでロイヤルがステーキハウスを出店、この実績がのちにロイヤルホストへとつながる)
- コーヒー味のソフトクリーム(エチオピア館)
- 甘味料での味付け、およびコーンスターチ・ゼラチン・寒天などによるババロア状加工を一切行なっていないヨーグルト(ブルガリア館)(のちに各社から販売された。発売は明治ブルガリアヨーグルトが最初。)
万博で登場したがいまだ普及途上にあるもの[編集]
- 国鉄式浮上式リニアモーターカー(日本館、国鉄)
- 空中ビュッフェ(会場各所)[1] - ドン・キホーテ大阪道頓堀店に同様の観覧車がある。
- ファクシミリ配信型の新聞 - 類似のものとしてポーリング受信によるファックス情報サービス。なお、インターネットで紙面を配信するサービスはすでに始まっている。
- 人間洗濯機(サンヨー館) - ミストバス(身体障害者用自動洗浄浴槽)・介護用浴槽として浸透しつつある。なお、人間洗濯機は使用不能であるが、2019年2月18日から門真市のパナソニックミュージアムものづくりイズム館で常設展示されている[64]。
- 電気自動車 (ダイハツ工業)
万博が舞台、もしくは関係のある作品[編集]
小説[編集]
漫画・アニメ[編集]
- モンキー・パンチ『ルパン三世外伝』
- 万博開催期間中に『ハクション大魔王』の下記回に舞台として登場している(共に1970年8月9日に放映)。
- 第90話「世界の皆さん 今日わ の話」
- 第91話「ハクション 魔法パビリオン の話」
- 『サザエさん』(フジテレビ)
- アニメ映画『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲』
- 劇中、野原一家(主人公は、しんちゃんの父の野原ひろし)が出演する特撮「ヒーローサン(ヒロシサン)」は大阪万博会場ミニチュア・ジオラマセットが舞台。
- 浦沢直樹『20世紀少年』
- ムロタニツネ象『パビリオン地獄』
テレビドラマ[編集]
- 『ウルトラマン』(1967年、TBS)
- 第26・27話「怪獣殿下」に登場する怪獣ゴモラは、大阪万博で展示するために日本に移送される途中目を覚まし、大阪を蹂躙する。
- 『柔道一直線』(1970年、TBS)
- 第30話「必殺!空中二段投げ」 開幕前のまだ工事中だった万博会場で撮影されたシーンが出てくる。
- 『仮面ライダー』(1971年、MBS/NET)
- 第7話「死神カメレオン 決斗! 万博跡」(5月15日放映) 会期終了後のエキスポランドで撮影。
- 連続テレビ小説 『まんてん』(2002年、NHK)
- 連続テレビ小説 『べっぴんさん』(2017年、NHK)
バラエティ番組[編集]
映画[編集]
| 公式長編記録映画 日本万国博 | |
|---|---|
| 監督 |
谷口千吉(総監督) 山岸達児、亀田利喜夫、下坂利春 |
| 脚本 | 田口助太郎、伊勢長之助、谷口千吉 |
| 製作 | ニュース映画製作者連盟 |
| 製作総指揮 | 田口助太郎 |
| ナレーター | 石坂浩二、竹下典子 |
| 音楽 | 間宮芳生 |
| 撮影 | 植松永吉(撮影監督) |
| 編集 | 伊勢長之助 |
| 製作会社 | ニュース映画製作者連盟 |
| 配給 |
日本万国博映画配給 (松竹・ダイニチ映配[65]) |
| 公開 | 1971年4月3日[65] |
| 上映時間 | 173分 |
| 製作国 |
|
| 言語 | 日本語 |
| 製作費 | 3億4千万円[65] |
| 配給収入 | 7億4千万円 |
公式記録映画[編集]
1968年3月4日の万国博協会第8回広報委員会で記録映画の製作を決定、1969年4月1日に田口助太郎ニュース映画製作者連盟会長を総プロデューサーとし8月1日に万国博の準備記録映画や広報映画の製作を担当していたニュース映画製作者連盟をプロダクションに決定し加盟各社の保有機材と富士フィルムから寄贈のカラーフィルム10万mを使用し直接製作費は3億4千万円、参加スタッフ数延べ1万8千名で日本自転車工業会からの公益資金補助も行われた[66]。また題字は石坂泰三万国博協会会長が揮毫した。一般公開用として2時間53分版で日本語版に加え外国語版「EXPO'70」を英語・フランス語・スペイン語、1時間39分の短縮版を英語・スペイン語で製作し記録用作品が8章14編製作された[66]。
日本国内での配給権は松竹系とダイニチ映配系に譲渡され配給業務会社「日本万国博映画配給」を設立し1971年4月3日より全国242館で公開[66]。同時上映は「札幌オリンピック序曲-札幌国際冬季スポーツ大会の記録」[66]。単一の映画作品の2配給系列での上映は本作が日本初となり[66]、1965年「東京オリンピック」を上回る規模となった。また国外配給権・縮小版フィルム・ビデオテープ販売権・テレビ放映権は東宝に譲渡された[66]。
- スタッフ
- 企画:財団法人日本万国博覧会協会
- 製作:社団法人ニュース映画製作者連盟
- 総プロデューサー:田口助太郎
- プロデューサー補佐:徳永三千男、藤本修一郎、熊田朝男
- 脚本構成:田口助太郎、伊勢長之助、谷口千吉
- 総監督:谷口千吉
- 監督:山岸達児、亀田利喜夫、下坂利春
- 監督補:大久保秀洋、豊島輝雄、加藤友久、小倉邦夫
- 撮影監督:植松永吉
- 編集:伊勢長之助
- 作曲:間宮芳生
- 演奏:読売日本交響楽団
- 記録:扇瑞枝
- ナレーター:石坂浩二、竹下典子
- 推薦:総理府、外務省、農林省、通商産業省、労働省
- 映像ソフト
いずれもジェネオン エンタテインメント/ジェネオン・ユニバーサル・エンターテイメントより発売。
- 公式長編記録映画 日本万国博(2005年5月25日 GNBD-1101)
- 公式記録映画 日本万国博DVD-BOX(2006年3月10日 GNBD-1131 1年間限定生産)
- 未公開の記録用作品フィルムを再編集したDVD-BOX。
- Disk1:「開会式・閉会式編」「ナショナルデー・貴賓編」
- Disk2:「世界のまつり お祭り広場催物編」「エキスポランド編」「美術編」
- Disk3:展示館及び展示編「テーマ館・日本館・日本庭園」「国内団体・企業館」「北米」「中南米」
- Disk4:展示館及び展示編「ヨーロッパ」「中近東・アジア・オセアニア」「アフリカ」
- 日本万国博《40周年記念》DVD-SET(2010年3月25日 GNBD-1560 1年間限定生産)
- 2006年発売DVD-BOXに「開催準備編」「施設・運営編」を収録したディスクを加えた商品。
- 日本万国博《40周年記念》SPECIAL DVD(2010年3月25日 GNBD-1561 1年間限定生産)
- 40周年DVD-SETに収録された「開催準備編」「施設・運営編」ディスクの単品販売。
題材作品[編集]
- 勝新太郎主演・三隅研次監督作品『とむらい師たち』(大映、1968年)
- 万博会場造成中の千里丘陵でロケをしたり、大阪万博の公式シンボルマークの前で勝新太郎が演じたりするなど、万博開催直前の大阪を舞台にした作品。
- 日本一の断絶男(東宝、1969年)
- 大原麗子主演・鳥居元宏監督作品『三匹の牝蜂』(東映、1970年)
- 映画の冒頭部分に開催中の万博会場でロケをしたシーンが出て来る。
- 山田洋次監督作品『家族』
- 劇中で大阪へ立ち寄った際に中央口付近が登場する。
- 井上梅次監督作品『鑚石艶盗』(香港映画) 1971年2月香港公開。
- 怪獣映画『ガメラ対大魔獣ジャイガー』
- 『20世紀少年』
- 上記の漫画を映画化。
- 湯浅憲明監督作品『ボクは五才』
- このほか、ソ連の映画監督アンドレイ・タルコフスキーが当時製作中の映画『惑星ソラリス』の一シーンに大阪万博会場の光景を使おうとした。しかし万博開催中に出国許可が下りず、ようやく閉幕後に訪れたが、イメージに合わなかったため、急遽首都高速道路の車窓風景を用いている。
楽曲[編集]
- セルジオ・メンデス『ライブ・アット Expo'70』アルバム(会場でのライブアルバム)
- スクールメイツ『エキスポ・メイツ・ショー』アルバム(会場内の水上ステージで開催されたショーのサウンドトラック・アルバム。CD『ベスト・オブ・スクールメイツ』に全曲収録。)
- ベンチャーズ「EXPO'70 (Kyoto Doll)」シングル (日本語題は「京都の恋」。渚ゆう子がカバーして大ヒットした。)
現代音楽(万博で初演・公開されたもの)[編集]
- 武満徹:『クロッシング』、『四季』(いずれも鉄鋼館)
- 高橋悠治『慧眼(エゲン)』(鉄鋼館)
- ヤニス・クセナキス『ヒビキ・ハナ・マ』(鉄鋼館)
- カールハインツ・シュトックハウゼン『シュピラール』『シュティムンク』(西ドイツ館)[67]
- 湯浅譲二『スペース・プロジェクションのための音楽』(せんい館)
- 湯浅譲二『ヴォイセス・カミング』より「テレ・フォノ・パシー」(電気通信館)
- 松平頼暁『アッセンブリッジズ』
- 三善晃『トランジット』
- 黛敏郎『生命の讃歌』(太陽の塔)
その他[編集]
- 『小学五年生』1970年4月号では、小学生用サイズの日本館ホステスの制服を着用した少女が表紙を飾っている[68]。
- 舞台『まとまったお金の唄』(2006年、大人計画)
- 三田誠広『堺屋太一の青春と70年万博』
- 串間務『まぼろし万国博覧会』(1998年、小学館)- レトロ文化研究書。ISBN 4093872481
- プロジェクトX〜挑戦者たち〜「大阪万博 史上最大の警備作戦」(2003年、NHK総合)
- 歴史秘話ヒストリア「1970 熱いぜ! 祭りだ! 万博だ!」(2016年、NHK総合)
博覧会閉幕後[編集]
会場跡地はビジネス副都心・研究都市など様々な開発案があったがどれも明確な計画ではなく、最終的には公園として再整備され1972年に万博記念公園として開園している。
多くの自然文化施設、文化施設、スポーツ施設、レジャー施設が所在し、今も多くの市民に親しまれている。また、開催中から営業していたアミューズメントエリアのエキスポランドは、2009年に閉園となった。後の2015年に、エキスポランドの跡地に複合施設であるEXPOCITYが開業となった。
博覧会を主催した日本万国博覧会協会は、1971年9月に設立された日本万国博覧会記念協会(大蔵省主管)にその業務が移管され、その後2003年に特殊法人の整理合理化計画に伴い、独立行政法人日本万国博覧会記念機構となった[69]。しかし、2013年に記念機構を廃止する法律が成立し、2014年4月1日付で記念機構は解散、万博記念公園の運営は大阪府に、また基金事業は関西・大阪21世紀協会にそれぞれ引き継がれている[1]。
パビリオンの転用[編集]
- カンボジア館 - 広陵町自治会集会場(兵庫県神戸市北区広陵町、1971年移築)
- ラオス館 - 1971年、宗教法人「中観山同願院昭和寺」として長野県の霧ケ峰に移築され、出品された矢崎虎夫作の「平和観音像」が安置されている[2][70]。
- ミュンヘン館 - 陸上自衛隊日本原駐屯地 広報資料館(岡山県勝田郡奈義町)
- サンヨー館 - ブリティッシュコロンビア大学アジア図書館(カナダ・バンクーバー市)
- 解体済み
- ウルグアイ館 - ラーメン店「どさん娘」 兵庫県氷上郡(現・丹波市)氷上町市辺・市辺交差点付近
- ペルー館 - 喫茶「ペルー」 兵庫県氷上郡(現・丹波市)氷上町市辺・市辺交差点付近
- フジパンロボット館 - 愛知青少年公園(現・愛・地球博記念公園)。1995年解体。
- スカンジナビア館 - スカンジナビアン・パビリオン 北海道石狩郡石狩町(現・石狩市)1972年移築、1976年閉館、1981年取り壊し。
- オーストラリア記念館 - 三重県四日市市大字羽津甲[3]。2013年に閉館、2014年に取り壊された。
開催時間・入場料[編集]
- 3月15日から4月28日まで
- 博覧会場 9:30 - 22:00
- 展示館 10:00 - 21:00
- 美術館 10:00 - 17:00
- 駐車場 8:30 - 23:00
- 4月29日から9月13日まで
- 博覧会場 9:00 - 22:30
- 展示館 9:30 - 21:30
- 美術館 9:30 - 17:00
- 駐車場 8:00 - 23:00
- 入場料[39]
- 大人(23歳以上) 800円、青年(15歳から22歳) 600円、小人(4歳から14歳) 400円 夜間(17時以降)は半額
- 特別(障がい者など):大人 300円、青年 200円、小人 100円
- 回数券(5枚綴り):大人 3800円、青年2850円、小人1900円(複数人での使用不可)
- 一般団体:大人 700円、青年500円、小人300円(日・祝日は対象外)
- 学校団体・勤労青少年団体:高校 200円、小中学 100円(日・祝日は対象外、勤労青少年は5月21日 - 7月20日の日曜以外に適用)
- 前売券[39]
- 第1期(1968年10月31日-1969年2月28日):大人640円、小人320円
- 第2期(1969年3月15日-1969年8月31日):大人720円、小人360円
- 第3期(1969年9月15日-1970年2月28日):大人760円、小人380円
- 海外前売券(1968年10月31日-1970年2月28日):大人720円、小人360円
- 駐車料金[71]
- バス1,000円、乗用車500円、二輪車200円、自転車100円
位置情報[編集]
北緯34度48分38.66秒 東経135度31分39.36秒 / 北緯34.8107389度 東経135.5276000度座標: 北緯34度48分38.66秒 東経135度31分39.36秒 / 北緯34.8107389度 東経135.5276000度
脚注[編集]
注釈[編集]
出典[編集]
- ^ a b 旧独立行政法人日本万国博覧会記念機構について - 財務省ウェブサイト
- ^ 大阪よ、再び日本の中心たれ。堺屋太一さんが大阪2025に込めた思い / 『婦人画報』2017年4月号 (UPDATE : 2019.02.19)
- ^ a b 国立科学博物館の月の石 - 月探査情報ステーション
- ^ 2025年国際博覧会のテーマ・基本理念、日本で2025年に開催する意義について - 経済産業省
- ^ 2010年の上海万博に抜かれるまで、長らく万博史上最高だった
- ^ これも上海万博に抜かれるまで1日最高入場数の万博記録だった
- ^ a b c 1970年9月14日付毎日新聞
- ^ ただし、大阪万博の入場料は800円と当時のサラリーマンから見て高額(当時の平均月給が5万円)であった点、上海万博では記録更新に躍起になってチケットのバラマキ行為が行われたといわれている点、日本と中国との人口差など加味するべき点もあるが、事実は上記の通りである
- ^ 『幻の1940年計画』P.89 指南役著 アスペクト 2009年
- ^ a b 日本万国博覧会への協賛 日本財団三十年のあゆみ.
- ^ “宝塚歌劇や大阪万博開会式を演出 宝塚で内海重典さん企画展 | おでかけトピック | 兵庫おでかけプラス | 神戸新聞NEXT”. cdn.kobe-np.co.jp. 2019年10月18日閲覧。
- ^ a b c 日本万国博覧会公式記録第2巻 式典と貴賓の来訪 開会式・閉会式 - 日本万国博覧会記念協会(1972年)
- ^ a b 2019年10月5日付毎日新聞大阪版夕刊
- ^ a b 70年大阪万博と小松左京 平和な未来へ、巨大な物語 文化人ら巻き込み民間の力で / 毎日新聞「デジタル毎日」会員限定有料記事 2019年10月05日
- ^ 鈴木と丹下のつながりは新東京都庁舎にも続いた。
- ^ 大高は他に日清カップヌードルのロゴや初代「のりたま」のパッケージデザインを手がけた。
- ^ 大阪万博1970 デザインプロジェクト - Internet Museum
- ^ 大阪万博のあのシンボルマーク「桜」決定までのひと騒動「大阪万博1970 デザインプロジェクト」 - Exciteニュース
- ^ a b 日本万国博覧会公式記録第1巻 総説 テーマ - 日本万国博覧会記念協会(1972年)
- ^ ミニ「EXPO70」13日オープン…パビリオン模型など3000点 - YOMIURI ONLINE(読売新聞)
- ^ a b 歴史館まめ知識 - パナソニックミュージアム 松下幸之助歴史館、パナソニック。 - 2017年3月15日閲覧。
- ^ 点検結果の詳細については「タイム・カプセルEXPO'70の開封」『JSA』Vol.8 (2001)、表面分析研究会 SASJ、70-75頁を参照。
- ^ タイム・カプセルEXPO'70概要 > あらまし、パナソニック。 - 2017年3月15日閲覧。
- ^ naniwarekihakuのツイート(715699010602999809)
- ^ naniwarekihakuのツイート(744330159944261632)
- ^ naniwarekihakuのツイート(715761882796277760)
- ^ 大阪歴史博物館:常設展:展示更新情報:タイム・カプセル EXPO'70収納品、大阪歴史博物館。2014年6月25日更新
- ^ 現在の藤女子大学花川キャンパスの辺りで、付近のバス停にも「スカンジナビア館」と表記されていた。
- ^ a b c d e f g h i j 日本万国博覧会公式記録第3巻 日本万国博覧会年表 - 日本万国博覧会記念協会(1972年)
- ^ a b c d e f g h i 日本万国博覧会公式記録第1巻 総説 開催決定まで - 日本万国博覧会記念協会(1972年)
- ^ a b c 外交資料に見る日本万国博覧会への道 - 外務省
- ^ a b c d 日本万国博 Vol.1 テーマ特集 - 日本万国博覧会協会(1966年)
- ^ a b c d EXPO'70のデザイン(II) 万国博覧会と交通システム - 工藝ニュース 1970年4月号
- ^ a b 日本万国博覧会公式記録第1巻 総説 開催準備 - 日本万国博覧会記念協会(1972年)
- ^ a b c d e 日本万国博覧会公式記録第3巻 財政 財務 - 日本万国博覧会記念協会(1972年)
- ^ a b c d e 日本万国博覧会公式記録第3巻 財政 資金調達 - 日本万国博覧会記念協会(1972年)
- ^ 大阪万博のテーマ「世界の国からこんにちは」 根底に流れる「戦争は嫌」 - 毎日新聞 2018年12月12日東京夕刊
- ^ a b 日本万国博覧会公式記録第3巻 建設 敷地造成 - 日本万国博覧会記念協会(1972年)
- ^ a b c d e f g h i 日本万国博覧会公式記録第2巻 入場券 入場券の販売 - 日本万国博覧会記念協会(1972年)
- ^ a b c d e f g h 日本万国博覧会公式記録第3巻 建設 基礎施設 - 日本万国博覧会記念協会(1972年)
- ^ 日本万国博覧会公式記録第3巻 建設 供給施設 - 日本万国博覧会記念協会(1972年)
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r 日本万国博覧会公式記録第3巻 報道・広報 報道 - 日本万国博覧会記念協会(1972年)
- ^ a b c d e f g h i j k 日本万国博覧会協会第2巻 運営 観客サービス - 日本万国博覧会記念協会(1972年)
- ^ a b 日本万国博覧会公式記録第2巻 運営 地域冷房 - 日本万国博覧会記念協会(1972年)
- ^ 日本万国博覧会公式記録第3巻 資料 日本万国博覧会日誌 - 日本万国博覧会記念協会(1972年)
- ^ a b 日本万国博覧会政府公式記録 日本万国博覧会の運営 運営状況 - 通商産業省(1971年)
- ^ a b c d e f 日本万国博覧会政府公式記録 日本万国博覧会の開催準備及び関連諸対策 警備交通対策 - 通商産業省(1971年)
- ^ a b c d 日本万国博覧会公式記録第3巻 会場跡地と公式記録 会場施設の後処理 - 日本万国博覧会記念協会(1972年)
- ^ 中国道の上り線用地を北大阪急行電鉄会場線用地として貸与していたため、万博開幕直前の1970年3月1日に中国吹田IC-中国豊中IC間のみ暫定2車線で供用を開始し、万博期間中の7月23日に中国豊中IC-宝塚IC間までが延伸した。万博終了後に当初の計画どおり4車線化されて開通した。
- ^ 万博開催当時、名神高速道路と近畿自動車道、中国自動車道は互いに接続されておらず、各高速との往来は一旦出場して一般道を経由する必要があった。なお、吹田JCT(名神と中国道の直結ランプ)が開通したのは1979年5月15日である。
- ^ 北大阪急行は万博期間終了後、会場線と万国博中央口駅を廃止した。なお大阪モノレールは万国博終了後20年を経た1990年に路線開業し、万国博中央口駅跡のすぐ南に万博記念公園駅が作られた。
- ^ 日本万国博覧会公式記録第3巻 報道・広報 広報 - 日本万国博覧会記念協会(1972年)
- ^ a b c 日本万国博覧会政府公式記録 日本万国博覧会の開催準備及び関連諸対策 その他 - 通商産業省(1971年)
- ^ 日本民間放送連盟(編) 『日本放送年鑑 昭和45年度版』 岩崎放送出版社、1970年、78頁。
- ^ a b NHK大阪放送局・七十年史編集委員会 『こちらJOBK -NHK大阪放送局七十年-』 NHK大阪放送局、1995年、214頁。
- ^ a b c d 日本放送協会総合放送文化研究所放送史編修室 『NHK年鑑'70』 日本放送出版協会、1970年、88頁。
- ^ a b 日本放送協会総合放送文化研究所放送史編修室 『NHK年鑑'70』 日本放送出版協会、1970年、86頁。
- ^ NHK大阪放送局・七十年史編集委員会 『こちらJOBK -NHK大阪放送局七十年-』 NHK大阪放送局、1995年、214-215頁。
- ^ 日本万国博覧会政府公式記録 日本万国博覧会の開催準備及び関連諸対策 11広報活動 - 通商産業省(1971年)
- ^ a b c d e “EXPOシート/万国博の歌/世界のひろばで/伊東ゆかり/ダークダックス/立教女学院高校/富山県立小杉高校/青森市立第一高校/万博/ソノシート2枚の商品情報”. Aucfree 全て無料で見られるオークション落札価格検索サイト. 2019年3月30日閲覧。
- ^ a b c d e “世界のひろばで / 咲いたひらいた”. report ads. 2019年3月30日閲覧。
- ^ a b “ポップスヒストリーVol.4 世界の国からこんにちは(1967~71) CD”. Amazon.com. 2019年3月30日閲覧。
- ^ 柳田一成『なぜ学校でタイムカプセルを埋めるのか〜タイムカプセルから見る日本現代史〜』(九州産業大学商学部観光産業学科 平山ゼミナール 平成28年度卒業論文)
- ^ これが「人間洗濯機」 70年大阪万博で人気 大阪・門真のパナミュージアムで常設展示 / 毎日新聞「デジタル毎日」会員限定有料記事 2019年2月26日 09時55分(最終更新 2月26日 10時57分))
- ^ a b c EXPO'70=日本万国博の公式長編記録映画、DVDに! - CDジャーナル(2005年3月16日)
- ^ a b c d e f 日本万国博覧会公式記録第3巻 会場跡地と公式記録 公式記録映画 - 日本万国博覧会記念協会(1972年)
- ^ 先端芸術音楽創作学会(JSSA)第7階研究会会誌 柳田益造「1970年のシュトックハウゼン ―西ドイツ館スナップショット―」p13-p20, 同誌 水野みか子「1970年大阪万博のシュトックハウゼン ―音楽における空間性理念の側面から―」p21-26
- ^ 『ワンダーライフスペシャル 学年誌が伝えた子ども文化史 昭和40〜49年編』小学館、2018年、2-3頁。ISBN 978-4-09-106610-7。
- ^ 「独立行政法人日本万国博覧会記念機構法を廃止する法律案」について - 財務省(2013年4月、PDF文書)
- ^ 参考文献1971年6月5日昭和寺建立を伝える南信日々新聞の記事参照(現長野日報)、国会図書館
- ^ 日本万国博覧会公式記録第2巻 運営 観客輸送 - 日本万国博覧会記念協会(1972年)
関連項目[編集]
外部リンク[編集]
- 万博記念公園
- EXPO 1970 OSAKA - BIE(博覧会国際事務局による紹介)
- 懐かしの大阪万博
- OSAKA BAN PACK!
- 蛞蝓万博 EXPO '70
- 万博記念館
- 万博(Expo'70)を見た乗物たち
- パルナス思い出の館(Internet Archive)
- 大阪万博パピリオン3DCG(壁紙使用可)
- 吹田博物館で見た岡本太郎
- 大阪万博 華やかに開幕 - NHKニュース(動画・静止画) NHKアーカイブス
- 『花ひらく日本万国博』 - NPO法人・科学映像館Webサイトより
- EXPO'70 OSAKA 3Dでよみがえる大阪万博 - 朝日新聞社
| 前大会: モントリオール万国博覧会 |
一般博 日本、大阪府 |
次大会: セビリア万国博覧会 |
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