伊藤忠治

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伊藤忠治
いとう ちゅうじ
生年月日 (1934-05-02) 1934年5月2日
出生地 三重県津市
没年月日 (2013-05-19) 2013年5月19日(79歳没)
死没地 三重県津市
出身校 津実業高等学校(現三重県立みえ夢学園高等学校)⇒津市立三重短期大学法経科(2部)夜間学部
前職 日本電信電話公社勤務
現職 民主党三重県連顧問⇒中央選挙管理会委員長
所属政党 日本社会党民主党

選挙区 旧三重1区
比例東海ブロック
当選回数 6回
在任期間 1983年 - 2005年
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伊藤 忠治(いとう ちゅうじ、1934年昭和9年)5月2日 - 2013年平成25年)5月19日)は、日本政治家。元衆議院議員(6期)。中央選挙管理会委員長。初当選時には全電通労組(全国電気通信労働組合)出身で支持母体としており、電電公社民営化後は、NTT労組を中心とする通信系労組である情報労連情報産業労働組合連合会)を支持母体としていた。

年譜[編集]

  • 三重県津市北丸之内出身。1934年(昭和9年)に三重県津市の自営業者(家具製造業)の家庭に生まれた。しかし父は事業に失敗して、伊藤家は貧困家庭となり働かざるをえなくなる。
  1. 三重2区鈴鹿市亀山市四日市市南部から立候補した第41回衆議院議員総選挙)では選挙区で落選した。それと三重4区でも落選した。
  2. 三重4区松阪市久居市一志郡から立候補した第43回衆議院議員総選挙)では選挙区で落選した。
  • 三重2区と三重4区の小選挙区で1勝もする事もなく比例東海ブロックからの当選のみとなった。
  • 2005年(平成17年)8月に三重4区を三重県議会議員であった森本哲生を後継に指名して、衆議院議員を引退した。
  • 民主党の以下の要職を務めた。
  1. 民主党の国会対策筆頭副委員長
  2. 民主党の倫理委員長
  3. 民主党の副幹事長

参考[編集]

選挙における支持層[編集]

  • 三重4区で伊藤忠治は51168票を獲得して比例復活をした。伊勢新聞や大手新聞が地元三重県版の選挙特集として、三重4区で実施した世論調査によると、男性は高支持率の反面、女性は低支持率であった。男性だけでは田村憲久と互角の五分の勝負をしていたが、女性は田村憲久が約8割(比率では80%)伊藤忠治約2割(比率では20%)と4倍近くの支持率の差をつけられた。働いている勤労者層(労働組合員である労働者)の男性は伊藤忠治の支持層に、働いていない専業主婦や高齢者女性は田村憲久の支持層が多かった。有権者の約3割(比率では30%)の勤労者層が支持層なので中選挙区制に強いが小選挙区制では勝利できない。学歴の価値は、戦後期の昭和一桁世代の高校進学率は約半分(50%)2分の1で中学校の学級編成で高校進学組と就職組に分けられて、今では低学歴と思われる定時制高校も現在の大学と同じレベル(中流の学歴価値)であった。大学と短期大学の高等教育の進学率は約1割で比率では10%(全体の10分の1)であり、短期大学卒業の学歴(津市立三重短期大学)は、当時の昭和20年代の戦後期ではエリートだった。
  • 三重2区で伊藤忠治は55516票を獲得して比例復活をした。三重2区での中川正春との勝敗の鍵は創価学会(合併して新進党となり、坂口力を支持していた旧公明党)の組織票だった。対立候補の中川正春には、以下の政党の支持層が支持した。
  1. 旧三重1区の中選挙区制時代に鈴鹿市を地盤としていた北川正恭の後継者としての票
  2. 民社党所属の中井洽の(全日本労働総同盟などの社会党右派と民社党系列の同盟労組票)
  3. 新生党出身の岡田克也を支持するジャスコ系の保守票
  • 以上の政党の支持層が中川正春候補を支援した。
  • 一方、伊藤忠治を支持したのは、以下の政党の支持層である。
  1. 旧日本社会党を支持していた組織でNTT労組などの自身(伊藤忠治)の後援会票
  2. 自由民主党を支持する川崎二郎
  3. 新党さきがけ
  • それぞれ(中川正春候補と伊藤忠治候補)の支持層となった。
  • 旧三重1区の中選挙区時代の坂口力を支持する創価学会の組織票が、新人候補の中川正春を支持した事で勝利した。1996年(平成8年)の三重2区の投票率は伊藤忠治は津市の出身者で、中川正春は松阪市出身者であり、選挙区である地元三重2区鈴鹿市)以外のよそ者であった事と、自民党が候補者を見送った事で自由民主党支持者の投票率が下がり、三重県内の5つの選挙区で一番低い投票率を記録した。

学歴の価値[編集]

英国視察[編集]

エピソード[編集]

学生時代[編集]

津市立三重短期大学法経科2部時代[編集]

  • 公立(津市立)中学校卒業後に勤務した印刷工場の社長に、真面目に昼間の時間帯に勤務する事を条件に、「夜間の高校(定時制)に通学させて下さい」とお願いして津実業高校の定時制高校生になる。さらに、向学心を持ち津市立三重短期大学法経科(法経学科)2部(夜間学部)に進学した。
  • 三重短期大学法経科2部では、学生運動や政治活動が盛んだった。以下の活動が盛んだった。
  1. 模擬国会内閣総理大臣外務大臣大蔵大臣法務大臣文部大臣通産大臣労働大臣厚生大臣国務大臣保安庁長官による)内閣制度議会の開設
  2. 津市内の国政と地方の公明選挙運動
  3. 三重短期大学の大学新聞など政治運動
  • 津市立三重短期大学法経学科夜間学部の学生は、以下の出身者が多かった。
  1. 津市内に勤務する三重県の職員である公務員及び三重県内の市町村に勤務する公務員出身者
  2. 高等学校を卒業した後に勤労学生として民間企業に就職して労働者になった苦学生
  • 学生の出身分類は、以下の出身者が多かった。
  1. 官公庁と民間企業に所属する労組出身者
  2. 三重県と三重県内の市町村に勤務する公務員出身者
  3. 民間企業で勤労する労働者
  4. 学費が低額な事から貧困層

三重県立津実業高等学校(定時制)時代[編集]

  • 敗戦の傷跡がまだ癒えていない1950年(昭和25年)に津実業高校の5期生として入学した。
  • 一流大学を中心に大部分が大卒となっている高学歴国会議員の中で、全日制(昼間)の高校出身ではない、数少ない定時制高校出身の国会議員であった。

[3] [4]

日本社会党時代[編集]

1983年(昭和58年)12月18日の初当選をした第37回衆議院議員総選挙では、候補者であり自分の名前「伊藤忠治」を覚えてもらうのから取り組み、全電通労組の組織力と15歳から働いてきた真面目な勤労者のイメージが好感を呼び十万票(108062票)の大台にのせてトップ当選する。総務委員会に所属した。

1986年(昭和61年)7月6日の衆参ダブル選挙は社会党に逆風が吹いていたが、同時に民社党中井洽にも逆風が吹き、伊藤忠治が最下位(5位)で90204票を獲得して滑り込み当選、中井洽が落選する。1990年(平成2年)2月18日総選挙は消費税を争点に、消費税解散で第39回衆議院議員総選挙が行われて、土井たか子委員長のもと社会党ブームで風が吹き119582票を獲得してトップ当選する強さだった。

1992年(平成4年)のPKO法案の決議に護憲を掲げた日本社会党が「戦争に繋がる」と反対した際に、日本社会党の執行部は、対抗措置として日本社会党所属の衆議院議員全員で伊藤忠治は他の議員と共に「議員辞職願」を提出した。

1993年(平成5年)に日本社会党の書記長人事があり、党内改革派として日本社会党の再建を期待されていた伊藤忠治は副書記長から格上げされる形で書記長候補となるが、党内に政治改革を主張する伊藤忠治の書記長就任に反対する議員がいて、この時1993年(平成5年)の55年体制最後となる日本社会党の書記長人事は混乱して書記長就任が断念された。結局山花貞夫委員長は赤松広隆を書記長に抜擢する。1993年(平成5年)5月に大前研一が結成した平成維新の会の研究会をまず井上一成議員・川島實議員に呼びかけて、その後平成維新の会の勉強会を日本社会党内に呼びかけて参加議員20名を得る。1993年(平成5年)6月には、日本社会党の政策集団として平成フォーラムを結成して伊藤忠治が代表者に就任する。

引退時の記者会見で1993年(平成5年)の落選時、トップ当選2回の実績から、伊藤忠治は大丈夫とマスコミに当確を言われて、安心しきっていたことを振り返っている。日本社会党の特に伊藤忠治の出身組織である全電通労組の組織力の強さを脅威と考えていて、労働組合は社会主義を支援する組織であると警戒して、中曽根康弘首相は新自由主義政策で国鉄からJRグループへの国鉄分割民営化日本専売公社JTへの民営化、日本電信電話公社NTTへの民営化を行って弱体化させようとした。伊藤忠治を中心に3公社民営化に反対したが、結果労組は弱体化して1986年(昭和61年)の第38回衆議院議員総選挙で社会党は敗北したが、伊藤忠治は当選。

1993年(平成5年)7月18日日本社会党が大敗した選挙では、津市内にあるNTT三重体育館の婦人バレーボール大会(NTT主催)に出席して、「日本政治のベルリンの壁が壊れた。今、政治が変わらなければ世界の笑いものになる」と主婦たち約300人に訴えた。落選の危機感から政治改革派の議員としてアピールする作戦にして、衆議院選挙のキャッチフレーズを「改革する男」とした。自身の日本社会党労組は稼動せず無党派層の支持票が岡田克也に票を奪われ、88317票の6位で落選をした。

当選後から大衆政治家として庶民に日の当たる政治を実行している。好物はうどん(特に地元三重県の伊勢うどん)で三重県内のおいしい店に詳しく庶民らしい大衆政治家である。

中選挙区の三重1区日本社会党社会党左派社会党右派の両派が統一されてからずっと議席を守ってきた安全圏であった。1993年(平成5年)東京都議会議員選挙の日本社会党敗北の直後の第40回衆議院議員総選挙でも逆風が吹いている事は実感していたが、最低でも滑り込み当選ができると思っていた。その後の引退会見で、日本新党の推薦候補となったのが中井洽だった。日本新党民社党との関係を強調して無党派層の支持をえた中井洽が頑張っていた。自分は安心していたので最後の議席争いに負けてしまったと振り返っている。1993年(平成5年)に実施された第40回衆議院議員総選挙の日本社会党候補の中では東海地方で唯一の落選者となり、日本社会党の副書記長に就任していた日本社会党の幹部で党内改革派として活躍していた伊藤忠治の落選は日本社会党が大敗した事の典型な結果であった。

落選後 民主党時代[編集]

1995年平成7年)の三重県知事選挙では、自由民主党と日本社会党が推す候補の尾崎彪夫ではなくて(新進党新党さきがけ公明党)推薦候補の北川正恭を支持した。この事が日本社会党内に伊藤忠治への反発を生み、日本社会党執行部と対立した事で自ら三重県本部委員長を当然辞職して、日本社会党が党公認候補の申請決定を白紙撤回する事態を招く。厳重注意処分となったが日本社会党執行部と対立した事から日本社会党を離党した。

民主リベラル勢力の結集を目指して、日本社会党を離党して民主党結成に加わり、伊藤忠治は新党の上げ潮ブームを期待して、「民主党三重」を旗揚げする。三重2区の候補者から東海比例区の単独候補となり、当時の菅直人民主党代表)同じ三重県出身の岡田克也民主党幹事長と民主党三重県連合)から打診され三重4区の鞍替え候補者となり、東海比例区で名簿が第1位で優遇されて当選する。三重2区から旧民主党から立候補時、古巣の社民党とその連立相手である新党さきがけ自民党の推薦をもらい支援をうけたが、自由民主党支援者から「あんたはずっと敵だったから鬼みたいに恐ろしい顔だと思っていたがそうでもないね」と言われた。

後継者の指名と選定は三重短期大学法経科2部の後輩である森本哲生三重県議会議員(松阪市飯南郡選出)とその後津市長となった、松田直久三重県議会議員(一志郡選出)を協議させた後、森本哲生三重県議を自身の後継者に指名した。伊藤忠治は総選挙対策長として、森本哲生を「哲ちゃんの山を築かせて下さい、哲ちゃんの花を咲かせてください」と応援して、民主党はこの時の衆議院議員選挙で大敗したが、日本共産党の候補樹立断念と三重短期大学同窓会の応援もあり自身の後継者である衆議院議員候補の比例東海ブロックでの復活当選を成功させた。

三重4区は久居市一志郡以外縁もゆかりもない選挙区であった。相手候補田村憲久の地盤が強くて民主党支援者に聞いても「小選挙区で勝つのは無理だろう」「ならどの選挙区なら勝てるのか」と聞いてもいい答えが返らなかった。田村憲久は「伊藤さんはベテランの議員で気がぬけない」とコメントをした。民主党の岡田克也代表は郵政族で官公労組出身の伊藤忠治に配慮して郵政民営化法案に賛成しにくかった。郵政解散前に自民党の野田聖子など郵政民営化反対派は伊藤忠治など民主党郵政族との連携を模索した。最後の議員活動は小泉内閣の郵政民営化反対討論であった。

2005年(平成17年)に津市のセンターパレスで『伊藤忠治先生感謝の会』が開催された。横路孝弘赤松広隆野呂昭彦中井洽中川正春森本哲生衆議院議員高橋千秋芝博一参議院議員連合三重の千田会長など三重県内を中心に日本全国の政界・経済界・労働界の主要人物が集合した。民主党が導入した70歳定年制で70歳の定年を機に次の衆議院議員選挙に出馬しない意思があった。1993年(平成5年)に第40回衆議院議員総選挙で落選していて、1993年(平成5年)から~1996年(平成8年)の期間に与党であった日本社会党の議員として非自民・非共産連立政権細川内閣羽田内閣自社さ連立政権村山内閣に参加せず与党経験が一度もない野党一筋であったことを誇りにしていた。

自身が公表した伝記の一種である(津実業高等学校の50周年記念誌に記述された夜間部の学生時代のエピソード)の細かい情報と国会議員になった(政治家時代のエピソード)の政治情報などでは伊藤忠治に関係する文献は多いが、子供時代の(戦時中のエピソード)と日本電信電話公社の(公務員・サラリーマン時代のエピソード)の情報や文献は少ないので伊藤忠治についての年譜では子供時代と公務員時代の細かい生活が不明であり、この時期の人生については本人による公表はされていない。学生時代の就職と政治家当選が転機となり、伊藤忠治の人生は(第一期の子供時代・第三期の公務員時代・第五期政界の引退後)は平凡だが、(第二期の学生時代・第四期の政治家時代)は激動の時期だった。1993年(平成5年)の第40回衆議院議員総選挙の落選がなければ、自社さ連立政権非自民・非共産連立政権など与党時代の郵政大臣などの閣僚や日本社会党の幹部になっていた可能性が強かった。

マスコミの記事[編集]

父が事業に失敗した事で貧困家庭となり、少年時代に昼間の学校に進学する事を断念して夜間学校に通いながら仕事をしてきた事と、発生障害のどもり(吃音)を克服したことなど田中角栄と伊藤忠治の経歴には共通点が多く、新聞記者たちの関心が高かった。「金の卵」として(夜間学校)定時制高校と津市立三重短期大学法経学科夜間学部に通学した勤労学生であった事が、政治家として新聞記者などマスコミから関心や興味があった。日本社会党議員で田中角栄に類似した政治家であり日本社会党田中角栄とも云われる政治家で田中角栄的な人物であった。

政治信条[編集]

政治家になったきっかけ[編集]

  • 経済的不公平をなくす正義感からで、自身が家庭の経済的な理由で昼間の高校(高等学校)と大学(短期大学)ではなく、夜間の高校(高等学校)と大学(短期大学)で働きながら学んだ労働者で苦学生や勤労学生であった事から、経済的不平等をなくさなくてはならない、経済的弱者、それによる教育が受けられない、弱いものの味方のため、政治家になった事をモットーとする、庶民政治家である。三重県の国会議員で田口一男→伊藤忠治→森本哲生の政治家系図は非世襲議員で非大学卒の庶民派の議員である。急死した同じ三重県労組の先輩田口一男議員の無念を晴らすため日本社会党の後継者になる事を決意した。

青年時代の人間性と人間関係[編集]

  • 伊藤家は裕福な実業家だったが、戦後の混乱で伊藤忠治の父親が事業に失敗した。その事で自営業者(中小実業家)から貧しい労働者階級として働きながら夜間学校に通わざるを得なかった経済的階級転落を経験している。菅直人とは伊藤忠治が日本社会党時代、菅直人が社会民主連合時代からの親しいおいこらの仲である。落選中に社会民主党三重県連の代表に就任して、三重県では日本社会党当選者で最後の国会議員となった。アメリカ合衆国に憧れる、アメリカ音楽をする若者女性に持てようとする女性にやさしいアメリカ人的な若者だった。

政策[編集]

経済政策通貨政策[編集]

  • 現在は閉鎖されているが衆議院議員時代に伊藤忠治の個人公式ホームページを開設していたが、その中で円の価値をドルと同じ価値にする1ドル=1の新しい通貨に切り替える、デノミネーション政策を提唱していた。デノミ推進議員連盟に所属をしていた。

日本社会党議員としての革新政策[編集]

  • 新人議員時代(当初)は田口一男議員の後継者として労組出身である事から(マルクス思想)社会主義政策をとる社会党左派に所属する議員であったが、平成時代になり赤松広隆山花貞夫グループの一員として社会党右派に所属して民主党結成に加わった。政策の基本理念は以下である。
  1. 平和主義
  2. 人権の尊重
  3. 環境主義
  4. 福祉国家の建設
  • 以上の4つを守り大切にする事が基本理念である。
  • 社会党時代に直接カンボジアを視察してPKO問題を直接自分の目で見た行動派である。

郵政族として執筆した著書[編集]

  • 旧全電通労組出身で郵政族である、著作にNTT(エヌ・ティ・ティ出版)出版が発行している本で書名は「通信ビッグバン」である。出版された出版年月日は1998年(平成10年)2月であり、販売定価は1575円である。

夜間教育について[編集]

  • 国会では高等学校の定時制と大学2部関連の法案の審議に取り組んだ。三重県内の定時制高校の卒業式には祝電を送っていた。

選択的夫婦別姓制度[編集]

選択的夫婦別姓制度導入に賛同[5]

その他[編集]

  • 静岡空港建設反対の国会議員署名活動で署名者に加わっている[6]

思想[編集]

支持層[編集]

社会主義思想を持った理由[編集]

  • 三重短大入学の頃(20歳頃)日本社会党に入党した。若者として社会主義思想を持ったのは、中学生の頃家業の家具製造が傾き、昼間の学校に行きたかった、もっと勉強がしたかった、進学がしたい人間や勉強がしたい人間がなぜできないのか、両親も昼夜働いているのに、一向に貧乏である、なぜなのか。貧困問題を政治の力で解決するのは日本社会党と労組である。自身が貧困家庭で働きながら学費を稼ぎ、夜間(定時制)高校と公立短期大学の夜間部で学んだ苦学生である事から、真面目に勉強せずに働かなかったり、非行行為をする現在の定時制の高校生を否定している。母校の津実業高校が総合学科みえ夢学園高等学校に新しく変わるのは認めるが、本来は不登校児やカルチャースクール文化学校・趣味学校)ではなくて労働者の学校であると文集で述べている。学費が日本一安い公立の津市立三重短期大学夜間部の出身であることから、現在の高い学費を払いながら勉強しない私立大学の学生を批判している。平和憲法や人権や北朝鮮問題や国旗国歌法などの左翼政策は形式的には賛成したが左翼思想より社会主義を第一とする、強い社会主義思想の持ち主である。野党であった民主党で郵政問題に詳しい族議員であった。郵政族として野党の民主党内で、日本郵政公社労働組合の組織内候補である衆議院議員参議院議員を中心に「公社を発展させる民主党議員の会」2004年(平成16年)9月6日設立の会長に伊藤忠治が就任して議員数91名)が結成されて、小泉内閣が提出した郵政民営化法案潰しに呼応した。

政治スタンス[編集]

尊敬する人物[編集]

座右の銘[編集]

  • 愛人尊命(意味は人を愛する事と命を尊ぶ事。)
  • 人生一度(意味は人生は一度きりしかない。)

趣味[編集]

戦後政治史の人物として[編集]

参考文献[編集]

関連項目[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 「日本政治史に残る三重県選出国会議員」の309ページの記述。(著者)廣新二。出版年は1985年(昭和60年)三重県選出日本社会党議員の「伊藤忠治」の項目。
  2. ^ 伊藤忠治氏死去(元民主党衆院議員) 時事ドットコム 2013年5月20日
  3. ^ 平成9年の津実業高校記念式典での本人談では、高校時代に職場で丸1日働いてから学校へ自転車で駆けつけるのが一日の生活で、学生食堂へすっ飛んでいてコッペパンやアンパンをほおばりながら脱脂粉乳で作った温かいミルクを流し飲んで空腹を満たすのが楽しみだった。発声障害のひどいドモ(吃音)だった。た行のタ・チ・ツ・テ・トから始まる言葉はドモって発言できなかったと語っている。
  4. ^ 津実業高校2年生の3学期のときに、鈴鹿電気通信学園の募集をしていて、親友にその事を尋ねたら今日が締切で、消印が1日違っても受け付けてくれるかもしれないと思い投函したら受付が許可されて、20倍以上の競争率でまさか合格するわけないと思ったが合格して、学園では通信業務の訓練が10ヵ月あり、卒業後は津電報局に配属された。
  5. ^ 第126回国会 衆議院 法務委員会 11号
  6. ^ 国会議員署名これまでと今後の展望 - 空港はいらない静岡県民の会(2009年3月7日時点のアーカイブ