白石勝巳

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白石 勝巳
Shiraishi Katsumi.JPG
1952年
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 広島県広島市南区
生年月日 (1918-04-15) 1918年4月15日
没年月日 (2000-12-11) 2000年12月11日(満82歳没)
身長
体重
167 cm
68 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 遊撃手
プロ入り 1936年
初出場 1936年
最終出場 1956年
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督・コーチ歴
  • 広島カープ (1953 - 1960, 1963 - 1965)
  • 読売ジャイアンツ (1968 - 1974)
野球殿堂(日本)
Empty Star.svg Empty Star.svg Empty Star.svg 殿堂表彰者Empty Star.svg Empty Star.svg Empty Star.svg
選出年 1985年
選出方法 競技者表彰

白石 勝巳(しらいし かつみ、1918年4月15日 - 2000年12月11日)は、広島県広島市南区皆実町出身のプロ野球選手監督野球解説者

愛称はトラ(眼病のトラホームが由来)。また、アメリカのギャング映画スタージェームズ・キャグニーに顔が似ているため『キャグニー』とも呼ばれた[1][2][3]

来歴[編集]

自宅の近所だった広陵中学に進学し、1935年に強打の5番・一塁手として鳴らし、春の甲子園準優勝[4]。翌1936年1月、広陵を四年で中退し創立間もない東京巨人軍に入団。同年夏の茂林寺キャンプでは猛練習でナインを奮い立たせ、以降は不動の遊撃手として巨人の第一次黄金時代に貢献[4][5][6]1944年に応召するまでプレーした。

終戦後は1946年パシフィック1947年ノンプロ・植良組(別府市)、1948年に再び巨人を経て、1950年郷土に創設された初の市民球団、広島カープ創設に参画[3][5][7]。弱小球団と呼ばれ続けたチームを牽引し、何度も存続の危機に見舞われたチームを救った[6]。創設時の広島では唯一のスター選手で、観客はみな白石を見に行ったとさえ言われる[5][8]。広島カープ初代背番号11953年、初代監督石本秀一に代わり広島監督に就任(選手兼任監督)。1954年7月7日の対国鉄戦、プロ野球史上最速で通算1500試合出場[9]1956年シーズン終了後に現役を引退し監督専任。1960年に念願の勝率5割を果たし監督退任。1961年から1962年まで球団重役1963年から1965年シーズン途中まで再び監督を務め、古葉竹識と並ぶ延べ11年にわたって指揮をとり、在任中「王シフト」を考案した[4][10][11][12]

その後、広島テレビ放送解説者を経て、1968年に三度(みたび)巨人に復帰。ヘッドコーチ・二軍監督として一軍監督の川上哲治を支えてV9に貢献[4][5][6]1985年野球殿堂入り。球界引退後は、横浜市青葉区で余生を過ごす。2000年12月11日、心不全のため死去。82歳没。「勝巳」は1950年に改名したもので1949年までは「白石敏男」でプレーしていた[3]

球史に名高い「逆シングル」の守備が特徴の選手だった[3][4][5][6][7]。一説には、生まれつき右目の視力が弱かったことが逆シングルを編み出す要因になったといわれる[3][13]。後述する"茂林寺の特訓"をきっかけにショートの定位置をつかみ、逆シングルを始めるが、当時は両手捕りが絶対で、シングル、しかも逆シングルは誰もしなかったが、できればかなり守備範囲が広くなる[3]。もともと一塁手だった白石は普段から逆シングルをすることがあり、ショート守備でもとっさに出た[3]。試合で初めてやったのは1939年のフィリピン遠征であるが、球場のファンが大歓声で沸いたため、藤本定義監督も「プロなんだから売りものがあった方がいい」と言ってくれ、本格的にやってみることにした[3]。通算失策数はプロ野球史、断トツの646(遊撃手として636、一塁手として10)であるが[3]、当時のグラウンドや道具が粗悪品であり、また、普通なら取れない球を無理して取り悪送球になるなど、「守備が上手いから生まれた失策」が原因といわれている[3]。また、初球にどんな絶好球が来ても必ず見逃す打者で、その理由は「もったいなくて、打てへんのじゃ」というものだった[3]

プロ入り前[編集]

日本プロ野球の創成期は、職業野球と呼ばれ、世間からはまっとうな仕事と思われていなかった。白石も当時の花形である東京六大学早稲田大学明治大学からの誘いを断り[3] 職業野球入りを決めると、「何で身を売るんじゃ」と先輩から非難され広陵中野球部を追放されている。戦前の讀賣以外の新聞界は、プロ野球を讀賣の事業とみなしあまり記事を書かなかった[14]。なお、白石の巨人入団は当時の球団代表・市岡忠男からの誘いだった。1学年上の門前真佐人が既に大阪タイガースと契約した後だったため、代わりに関係者に推薦されたとされる(諸説あり)。市岡直々のスカウトではなく、地元有力者からの誘いで、殺し文句は「アメリカに行けるんじゃ」だった[3]。広陵中からは反対されたが、キャンプ地静岡に向かう際には、広島駅に大勢の仲間が集まって見送ってくれた[3]、茂林寺の特訓でも、この時の光景が頭から離れず、逃げ帰るわけにはいかん、と頑張ることが出来たと回想している[3]

茂林寺の特訓[編集]

1936年、この年より日本国内で初の職業野球リーグが開始。巨人は前年に引き続きアメリカ遠征を行い春季大会を欠場、夏季大会から参加した。ところが、球団の内紛で田部武雄三原脩(8月復帰)、水原茂(11月復帰)らが退団していたこともあり、6月から7月にかけての夏季大会では惨敗を喫した。その後の満州遠征でも遊山気分で夜遊びにふける選手が多く、これを見た監督の藤本定義は、9月5日より群馬県館林市分福球場で緊急キャンプを敢行した。

藤本は「巨人軍は職業野球の先達だ、負けるわけにはいかん、どんなことをしても勝たねばいかんのだ」と力説。ナインに猛練習を課し、グラウンドで連日千本ノックの特訓を続けた。しかし肝心の沢村栄治ヴィクトル・スタルヒンら投手陣にノックは出来ず、投手陣は外野でアクビをしながら高みの見物だった。監督の藤本と選手兼助監督の三原の標的になったのは若手選手で、最年少で一塁手から遊撃手にコンバートされたばかりの白石には特に過酷な練習が課された[15]。炎天下のノックで白石は疲労困憊したが、暫時の休養を挟んでの打撃練習ではすぐに打席に立った。その直後、前川八郎の1球目がヘルメットを被っていない白石のこめかみを直撃。駆け寄る他の選手たちに対して白石は「どきんしゃい、ワシャこのまま打つけ(どいて下さい、私はまだ打ちますから)」と言ったが三原に「打ってはいかん。休め。」と言われベンチに寝かされた。ところが、ベンチでも「打つけ」と繰り返し起きようとする白石を見て、沢村ら他のナインも真面目に練習を始めた[3]

同年の秋季大会は勝ち点で並んだ大阪タイガースを優勝決定戦で下し公式戦初優勝。以降も戦前11シーズンで8度の優勝を成し遂げ第1次黄金時代を築いた。このため後年になって茂林寺の特訓は常勝巨人の土台を据えた、と言われ伝説化した。その後も巨人がキャンプで猛練習をするとこの時の茂林寺の練習がよく引き合いに出される(1979年長嶋茂雄が監督の時に伊東市中畑清篠塚利夫山倉和博江川卓西本聖角三男鹿取義隆らを鍛えた秋季キャンプ等)。

徴兵[編集]

粗悪ボールで飛ばないボールの時代だったため、1940年から1943年まで4年連続打撃ベストテン入り。1940年.264、7位、太平洋戦争が始まった1941年シーズンは、打率.267で打撃ベストテン2位(首位打者川上哲治.310)、1942年は.236にもかかわらず8位、1943年の.248は4位。右目がほとんど見えなかったため、打席では身体を動かさず構え打ちに出た。晩年選手引退を決意したのも夜間試合(ナイター)が常態となったためといわれる。さらに幼い頃に患った中耳炎で右耳も聞こえなかった。このため、水原ら先輩選手から「呼んでも返事をしない。ヤツは生意気だ」と最初は反感を買った。三度も召集された沢村を始め、多くの主力選手が次々徴兵に取られ命を落としたが、白石にはなかなか令状が来ず、何故自分には来ないのか不安になった、と自著では書いている。しかし、藤本定義は著書『プロ野球風雪三十年の夢』の中で、巨人軍が解散されたこの頃、白石は藤本の斡旋で、田村駒商店が経営していた爆弾工場に勤務し兵役逃れをやっていたと述べている。1944年4月(6月)にようやく令状が来て郷里の広島陸軍第五師団に入営した。藤村富美男もいた師団である。その後中国戦線に回され杭州の通信部隊に配属された。しかしこの部隊の隊長が巨人ファンで目をかけてくれ、危険な前線近くの電線修理に狩り出されなかった。最後は炊事当番となり多くの戦友が痩せ細る中、肥満した。こうして戦闘を体験することなく終戦を迎えた。1946年2月、ようやく船の順番がきて上海から帰国。その足で広島市に入る。一面焼け野原でもう諦めていたが、我が家に辿り着くと二階は無くなっていたものの自宅は現存し、母親との再会を果たした。まもなく戦地でも会った藤村富美男の弟・藤村隆男が訪ねて来て「プロ野球が再開される。藤本定義さんが監督になって、田村駒がチームを作る。一緒にやらないか」と誘われ、大阪に向かった[13]

パシフィック時代の没収試合[編集]

巨人と広島以外で1年のみ在籍したパシフィック(のち松竹ロビンス)では、巨人の優勝を逃す因を作ってしまった。在籍した1946年は戦後再開初年度で混乱期でもあり、復員した選手も職業野球が再開されるのか半信半疑で、故郷に帰っている者が多く各チームとも選手の復帰に駈けずりまわった。1944年の申し合わせで復帰する場合は前所属チームに復帰するか、旧チームに了解を得るなどの取り決めがあったが、パシフィック監督に就任した藤本定義は「戦争が終わって日本も1から出直す、職業野球も同じ。選手も自由に球団を選ぶべき」と主張。

巨人時代の恩師である藤本の要請で白石は、元阪神藤井勇・同じ元巨人のヴィクトル・スタルヒンと一緒にパシフィックに入団。これに当時も大きな力を持っていた巨人と阪神が怒り、連盟の理事会で、優先権の侵害で認めない、と裁定を出した。にもかかわらず公式戦が始まると「どうして白石を出さない、藤井を出さない」と観客からヤジられ藤本は二人を四試合出場させてしまった。同年秋になって理事会が召集され、白石らのパシフィックへの帰属は認めるが(前年までの給与を前所属球団から受けていなかったため)、二人を出場させた5月の4試合は帰属が確定する前の出場として没収試合と裁定が出た。なお、その後出場した74試合は、帰属が確定した後のため問題なしと判断された。この年のペナントレースは巨人とグレートリングとの優勝争いが最終戦までもつれ、結果1勝差で鶴岡一人率いるグレートリングが優勝したが、4試合の没収試合の中にパシフィックがグレートリングに勝った試合が1試合あり、この1勝が一転グレートリングの勝ちとなり、結局この1勝差でグレートリングが優勝した。この1勝が無ければ巨人と同率となり、プレーオフが実施されていたが、巨人にとっては戦後初年度の優勝を逃す事となった[13]

建設会社勤務[編集]

パシフィック在籍時の1946年に31歳となった白石は、戦後の食糧難から生涯出来る仕事への転職を考えていたが、広陵の先輩で、審判をやっていた稲田正次から別府の植良組を紹介された。当時の新聞には、白石は眼が悪く、野球に自信を失ったので辞めた、と書かれた。庶務の仕事を数か月やった所で、植良組の社長と稲田から「野球部ば作りたいけん、監督ばしちゃらんとやろか」と頼まれた。道路を隔てた向かい側のライバル会社・星野組が、のち“火の玉投手”と呼ばれる荒巻淳西本幸雄を獲得して都市対抗野球出場を目指すという。「負けたらいかんばい。力ば貸してもらえんとやろか」と懇願され、野球からは離れようと遠く別府まで来たのに、と考えていたが、業務命令とも言われ引き受ける事にした。当時の九州は翌1948年第19回都市対抗野球大会を制す西日本鉄道大岡虎雄らのいた八幡製鐵所、そのライバル・門司鉄道局など実業団の強豪がひしめいていた。星野組の監督は広陵の先輩・加藤喜作だった。名のある選手の勧誘は義理も面子もあってうまくいかず、無名の高校生を集めチームを強化、また、懇意にしていた藤村隆男が肩を壊して呉に帰っているという話を聞き「別府の温泉に入ってから肩治しんさいよ」と口説き入団させると本当に肩が治り、大きな戦力となった。しかし、1947年第18回都市対抗野球大会地区予選決勝では星野組に惨敗した。手薄な戦力を率いての監督采配は評価され八幡製鐵所から監督として声が掛かった。しかし翌1948年、巨人が別府でキャンプを張った。すると、監督の三原脩中島治康千葉茂らが「帰って来いよ、また一緒にやろうよ」と声をかけてくれ、白石は再び巨人に復帰した[3]。遊撃手に不安を持った三原が茂林寺の猛練習に耐えた白石を復帰させる目的で別府キャンプを仕組んだともいわれる[16]。この時の巨人の宿舎・日名子旅館は荒巻淳の養家で植良組から徒歩1分の所にあり、さらに旅館から坂を上がった所に稲尾和久の生家があったという。植良組監督の後任には、広陵の先輩・岩本義行が引き受けた。

三原ポカリ事件[編集]

巨人に復帰するとまもなく千葉茂との1、2番コンビを組み、1リーグ最後の年の1949年、巨人の戦後初優勝に貢献した。この年、南海の大黒柱・別所引き抜き事件に端を発する有名な「三原ポカリ事件」が起きた。このきっかけを作ったのも白石だった[17]。遺恨試合となった4月14日の巨人-南海3回戦、先発は巨人・藤本英雄、南海は岩本義行の弟・岩本信一だった。9回表4-0と巨人リードで投手・藤本から南海が飯田徳治のホームランなどで1点差に追いつき、なお無死一塁で代打岡村俊昭。岡村の当たりは一塁ゴロ、併殺を狙った川上哲治がショート・白石へ送球、セカンドフォースアウト、一塁へ送球しようとした白石に一塁ランナー・筒井敬三がぶつかった。「なにしとるんなら!」広島弁で白石が怒鳴った[18]。温厚な白石には珍しいことだった[18]。これをきっかけに白石と筒井がやり合い、ベンチから飛び出した監督の三原脩が筒井の頭をポカリと殴った[19]。この事件は大きな問題となって三原は全シーズン出場停止と処分が出たが、のち100日に短縮され巨人は戦後初優勝した。この事件と夏にシベリアから水原茂が帰還したため、翌年監督を水原と交代、三原は総監督という閑職にされたため西鉄クリッパースに移った。

広島カープ創設に参画[編集]

優勝したこの年夏以降、かねてからの噂、新球団の加盟-2リーグ分裂が現実となり、さらに自著にもあるがこの年優勝したにもかかわらず、チーム内でも三原派と水原派の対立が起こった。12月になって広島行きを打診され「郷里で野球生命を終えたい」と決意し、選手兼助監督として広島に移籍した[3][13]。しかし真の理由は年齢の事と、不穏な巨人のチーム状況に嫌気がさした事ではなかったか、とされる。縁起かつぎで名前を敏男から勝巳と変える[13]。結成に参加したものの、1950年シーズンの開幕直後の5月には既に給料が遅れ始め、広商出身で数字に強い石本が後援会を組織した。選手が行かないとファンが集まらないので、一番の人気選手だった白石も毎日集会に狩り出された。「お願いします」と頭を下げるだけではなく、歌をうたったり、隠し芸を披露したりした[3]。また、当時のカープの本拠地は観音球場(広島県営球場)だったが、ギャラの前払いをしてもらえるのがありがたかったらしく、河川敷や学校のグラウンドなど、それなりの広さがあるところならどこでも呼ばれれば公式戦を開催した。ロープを張って試合をするので、ファンがカープに都合のいいように引っ張ったりしてよく相手チームともめた。1953年4月1日に太田垣喜夫(備前喜夫)の母校である尾道西高校(現尾道商業高校)で開催された大洋松竹ロビンスとの公式戦で、外野のファンが「白石の打った球だ! ホームランにしてやれ!」とみんなでロープを前に出しホームランにしてしまった。洋松監督の小西得郎は猛抗議をしたが判定は覆らず、このためこれは「ナワ・ホームラン」と呼ばれた[3](なお試合は2対1でカープが敗戦)。また、1950年6月7日に三次市河川敷・十日市球場で行われた対大洋戦は、川土手を即席で観客席にしてグラウンドと川土手(観客席)をロープで仕切った。この試合でカープは本塁打6本を含む28安打を放ったが、これはチーム1試合最多安打の現在もセリーグ記録という[20]

その後樽募金などファンの熱烈な支援があったが、特に後援会の力は絶大で、創立3年目の小鶴誠金山次郎三村勲の3選手の入団など大きな力となった。しかし白石の自著では、行き過ぎて弊害が生じた事が記されている。球団に金を出してくれるだけならいいが、次第に選手個人を応援する後援会が形成されるようになり、エスカレートして、飯や酒の誘いがかかり、いわゆる「タニマチ」状態になった。酒好きの選手も多いためプレーに支障が出たり、酒つながりの後援会はタチが悪く、契約の時に押しかけたり、辞めさそうものなら食ってかかってきたという。

白石自身守備の人のイメージが強いが、カープ創立年のこの年5月28日には1イニング2ホーマーを放つなどホームラン20本、打率.304と生涯最高の成績を残した。また、翌1951年の8月には4試合連続本塁打をマークしている。

1952年シーズンのビッグプレー[編集]

逆シングルは白石が初めてプレーとして認知させたものであった。1952年のシーズン初めのセ・リーグ理事会では、勝率3割未満のチームは解散も有りうる、という規定が決定したが、後半戦に入った8月12日、北海道夕張市での対巨人戦、この試合はカープ初めてのNHKラジオ放送があった日だった。巨人が3点リードで、マウンドはこの年33勝した別所毅彦。しかしカープが逆転し7-4で迎えた最終回、巨人が粘って1点差に詰め寄り、3番・青田昇デッドボールでツーアウト一・二塁のピンチ。バッター4番・川上哲治、ピッチャー・長谷川良平。川上の強烈な打球は三遊間を抜けるヒット性の当たりだったが、白石が三遊間の深い所を逆シングルで掴んだ。タイミング的に間に合わないと思われたが、一塁へ偽投のフェイントをし、本塁へ向かった三塁走者を自ら三塁に駆け込みタッチプレーで仕留めゲームセット[3][5]。ラジオの実況は「川上打った! ヒット! ヒット! ああ広島勝ちました!」と絶叫、聴衆はしばらくは何が起こったか分からなかったという。広島はこの白星で最下位脱出に弾みをつけ、最終成績は.316と3割をクリア。代わって最下位になった松竹ロビンスは.288と勝率3割を切って大洋ホエールズとの合併に追い込まれた[5]。大洋は当時、本拠地を下関に置いており、距離的にも近い広島と合併させるプランだったと言われている。結果的に球団消滅の危機を救ったビッグプレーであったが、白石も「生涯最高のプレー」と語っていた[5]

王シフト[編集]

1964年、この頃全盛期の巨人ON砲王貞治長嶋茂雄)の打撃力は絶大で手が付けられず、その対策は各チームの難問となっていた。その対策として白石が編み出したのが「王シフト」である。

広島監督時代[編集]

選手・監督・フロントとして計15年カープに在籍。石本の仕事が早くから金策が主となったため、実質カープ創立時から監督のような立場でチームの指揮を執り、更に金策のサポートから選手補強などにも関わり、ゼネラルマネージャーのような働きをした。広島財界のトップだった東洋工業(1968年より筆頭株主)社長の松田恒次(後のオーナー松田耕平の父)とはカープ創立期から懇意にしており、補強費の調達にとどまらないチーム作りを行った(広島市民球場建設、日南キャンプ、独立採算制など)[21]。そうした自分を「俺は本当に空気みたいな存在だな」(見えなくとも無くてはならない存在)という名言で表現している。当時の口癖は「勝率5割」であった。

1953年からは選手と監督を兼任。1957年から監督に専念する。

1957年に完成した広島市民球場の設計には白石の意見が取り入れられたが、翌1958年は、球場完成によりもたらされた潤沢な資金で大補強が行われたにも拘わらず、4月8日の中日戦から6連敗、同月24日の阪神戦から10連敗を喫するなどチームは低迷する。3塁コーチャーズボックスで采配を振る白石には容赦ない野次が浴びせられ、ファンから辞任を求める投書が自宅にまで届く有様になってしまった。そのためシーズン中に球団代表の河口豪に辞任を申し出たが、松田恒次に「新球場が出来て3年は辛抱するよう」説得されたため、辞意を撤回し、以降の試合はコーチ陣の気遣いによりダグアウトで采配を振るった[22]

1958年古葉竹識のカープ入団は、日鉄二瀬の監督で、広陵中の先輩・濃人渉から白石への売り込みによるもの[23]。同年、ルーキーの長嶋茂雄が対広島戦で一塁ベースを踏み忘れ本塁打を取り消され、この1本でトリプルスリーを逃したが[24]、これは、カープの一塁手・藤井弘が指摘したもので、藤井は「白石さんに、常日頃から、ベースを踏んだかどうか確かめなさいと教えを受けていた」と話していた[25]

1960年に球団創設11年目で初めてシーズンで巨人に勝ち越し(17勝8敗1分)、勝率も5割台を達成(62勝61敗7分)すると、「わたしは地固めしかできないタイプ。家を造る人は他にいる」と言って監督を退任する[3]

広島監督辞任後の巨人復帰[編集]

1963年から再び監督に復帰。同年春からの宮崎県日南キャンプ日南市天福球場)は、カープ初代オーナー・松田恒次がカープ初の県外キャンプの実施を決め、白石が日南を探したもの[21]

1965年5月1日、球団創立以来初の首位に立つものの、1日天下で終わる。気力もなくなっていたこともあり監督を休養、プロ野球リーグ創設から30年間にわたるユニフォーム生活に別れを告げた。この年捕手として入団した衣笠祥雄を内野手に転向させた[26]。その後評論家をしていたが、川上の要請で1968年、V9時代に4年目の巨人にヘッドコーチとして復帰。1971年に二軍監督、1972年からは監督補佐に就任。1974年には寮長兼コーチとなり、その年の川上の監督勇退と共に退団した。なお、二軍監督時代には後の二軍監督→一軍ヘッドコーチ須藤豊(当時は二軍の守備コーチ)から投手交代を進言されるや特徴のあるデカ目をぎょろつかせ「最後まで投げさせるけぇ、わしゃー哲ちゃん(=当時監督の川上のこと)から言われておるけぇーのぉ」と凄み拒絶、さすがの須藤も迫力負けしたという[27]

詳細情報[編集]

年度別打撃成績[編集]

















































O
P
S
1936春夏 巨人 7 28 24 3 5 0 0 0 5 0 0 -- 1 -- 3 -- 0 3 -- .208 .296 .208 .505
1936秋 27 123 103 12 22 2 1 0 26 9 3 -- 5 -- 15 -- 0 14 -- .214 .314 .252 .566
1937 30 133 120 16 28 5 5 1 46 19 9 -- 0 -- 12 -- 1 13 -- .233 .308 .383 .692
1937秋 48 217 193 28 44 3 3 1 56 15 5 -- 4 -- 19 -- 1 17 -- .228 .300 .290 .591
1938 32 147 129 18 39 6 2 1 52 18 8 -- 3 -- 13 -- 2 11 -- .302 .375 .403 .778
1938秋 40 184 162 24 29 3 2 0 36 12 5 -- 2 -- 19 -- 1 28 -- .179 .269 .222 .491
1939 95 447 359 73 94 17 4 3 128 34 28 -- 3 0 82 -- 3 41 -- .262 .403 .357 .760
1940 104 478 390 70 103 17 6 1 135 40 24 -- 0 4 82 -- 2 46 -- .264 .391 .346 .737
1941 79 372 311 38 83 10 1 4 107 32 16 -- 3 -- 55 -- 3 42 -- .267 .382 .344 .726
1942 98 455 381 51 90 10 3 0 106 32 15 6 5 -- 67 -- 2 37 -- .236 .353 .278 .632
1943 81 367 298 39 74 6 2 0 84 30 12 1 6 -- 62 -- 1 23 -- .248 .380 .282 .661
1946 パシフィック 78 348 300 43 79 10 2 0 93 18 3 6 2 -- 41 -- 5 20 -- .263 .361 .310 .671
1948 巨人 117 443 392 46 86 10 2 3 109 15 7 8 6 -- 42 -- 3 39 -- .219 .300 .278 .578
1949 130 578 499 94 131 26 9 11 208 55 11 8 8 -- 65 -- 6 45 -- .263 .354 .417 .771
1950 広島 136 616 533 92 162 25 5 20 257 58 7 3 1 -- 77 -- 4 54 9 .304 .396 .482 .878
1951 97 451 385 73 111 21 1 12 172 36 12 5 4 -- 61 -- 1 38 12 .288 .387 .447 .834
1952 117 534 472 56 104 16 4 3 137 30 11 7 6 -- 54 -- 2 57 7 .220 .303 .290 .593
1953 130 513 424 60 113 22 4 7 164 40 19 11 8 -- 78 -- 3 65 4 .267 .384 .387 .771
1954 122 458 389 47 107 20 0 9 154 49 10 1 14 5 48 -- 2 52 3 .275 .354 .396 .749
1955 74 309 264 27 68 15 1 8 109 29 5 3 4 1 39 0 1 41 3 .258 .354 .413 .767
1956 9 25 23 1 2 0 0 0 2 0 0 0 0 0 2 1 0 2 1 .087 .160 .087 .247
通算:18年 1651 7226 6151 911 1574 244 58 84 2186 571 210 59 85 10 936 1 43 688 39 .256 .358 .355 .713
  • 各年度の太字はリーグ最高

年度別監督成績[編集]

年度 球団 順位 試合 勝利 敗戦 引分 勝率 ゲーム差 チーム
本塁打
チーム
打率
チーム
防御率
年齢
1953年 広島 4位 130 53 75 2 .414 36.0 73 .242 4.00 35歳
1954年 4位 130 56 69 5 .448 29.5 55 .245 3.81 36歳
1955年 4位 130 58 70 2 .453 33.5 64 .226 3.29 37歳
1956年 5位 130 45 82 3 .358 37.5 60 .213 3.04 38歳
1957年 5位 130 54 75 1 .419 21.0 65 .214 2.78 39歳
1958年 5位 130 54 68 8 .446 19.5 80 .222 2.92 40歳
1959年 5位 130 59 64 7 .481 17.0 71 .218 2.62 41歳
1960年 4位 130 62 61 7 .504 6.5 84 .230 2.70 42歳
1963年 6位 140 58 80 2 .420 25.0 92 .253 3.83 45歳
1964年 4位 140 64 73 3 .467 16.5 98 .242 3.30 46歳
1965年 5位 140 59 77 4 .434 31.0 72 .230 2.84 47歳
通算:11年 1359 581 736 42 .441 Bクラス11回

※通算成績は実際に白石が指揮を執った試合での成績

表彰[編集]

記録[編集]

  • 通算1000試合出場:1950年5月6日(3人目)
  • オールスターゲーム出場:1回 (1953年)
  • 1イニング2本塁打:1950年5月28日、対西日本パイレーツ戦(甲子園)、8回に先頭打者でソロと、2死一、二塁で3ラン(2人目)[28]
広島球団史上初

背番号[編集]

  • 8 (1936年 - 1943年、1946年)
  • 1 (1948年 - 1953年途中)
  • 30 (1953年途中 - 1957年)
  • 60 (1958年 - 1960年、1963年 - 1965年)
  • 75 (1968年 - 1974年)

関連情報[編集]

出演番組[編集]

広島テレビ[30] 解説者時代の出演番組(現行タイトル)

脚注[編集]

  1. ^ “闘将”ただ感慨 カープ元監督 白石勝巳さん(61)
  2. ^ 『日本プロ野球50年史』 - 1984年、ベースボール・マガジン社発行(ISBN 4583024568)〕より。
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v 『日本プロ野球偉人伝 1934-1940編プロ野球誕生期の37人の豪傑たち』、ベースボール・マガジン社、2013年、30-31、102-103頁
  4. ^ a b c d e “【球界高校人脈】広島県勢の“王者”に上り詰めた広陵高”. ZAKZAK (夕刊フジ). (2012年3月18日). オリジナル2013年5月14日時点によるアーカイブ。. http://web.archive.org/web/20130514133621/http://www.zakzak.co.jp/sports/baseball/news/20120318/bbl1203180805000-n1.htm 2017年2月4日閲覧。 
  5. ^ a b c d e f g h 中国新聞 カープ50年選手列伝 第2部 1950 ~ 52 (3) 白石勝巳 球団救った逆シングル 解散回避へ弾みつく
  6. ^ a b c d 殿堂一覧 白石勝巳|財団法人野球体育博物館白石勝巳、デジタル版 日本人名大辞典+Plus
  7. ^ a b 球団創設60周年 ~歴代名選手のレリーフを球場に~ 白石勝巳
  8. ^ #天敵対決、74頁「第三章 巧みのワザで奇襲攻撃 怪物ごろしの達人たち 野球界の絶対王者 王貞治に挑んだ男たち」
  9. ^ 1500試合出場 - 日本野球機構
  10. ^ レジェンドが語るプロ野球史 【ありがとう八十年(10)】王貞治、流し打ちせず真っ向勝負
  11. ^ 伝説-スポーツ王国日本 歴史を作った者たち- 【王貞治 すべてがアン・ビリーバブル(6)】- nikkansports.com
  12. ^ 【プロ野球】ささやき、背面投法、目くらまし……。昭和プロ野球、驚きの“王貞治”対策
  13. ^ a b c d e 関三穂『プロ野球史再発掘 7 』ベースボール・マガジン社、1987年、93-148頁
  14. ^ 井上章一『阪神タイガースの正体』、太田出版、2001年、118、119頁
  15. ^ #立石、107–108頁
  16. ^ #立石、22–23頁
  17. ^ #立石、40–42頁
  18. ^ a b 阿部牧郎『素晴らしきプロ野球』中央公論新社、1994年、53-54頁
  19. ^ 岡田実『白球列伝 マイク越しの戦後プロ野球史』晩聲社、1982年、18-24頁
  20. ^ 自著『背番号8は逆シングル』、ベースボール・マガジン社、1989年、160、161頁
  21. ^ a b 1963年、日南から始まったカープのVドラマ - 東スポWeb
  22. ^ 参考・河口豪著『栄光の広島カープ風雪25年』(恒文社、1975年)P117-119より
  23. ^ 私と赤ヘル. 1980年に2年連続日本シリーズ制覇を果たした古葉竹識. プロ野球 カープ25年ぶりV/4 今も昔も市民が監督 山本浩二さん/古葉竹識さん
  24. ^ 【9月19日】1958年(昭33) ミスター、幻の28号本塁打でトリプルスリーを逃す”. スポーツニッポン (2007年9月19日). 2015年9月15日時点のオリジナルよりアーカイブ。2017年4月7日閲覧。
  25. ^ 中国新聞、2010年4月4日29面
  26. ^ 「捕手」か「野手」か、森友哉・近藤健介強打者故の可能性 | ベースボールチャンネル
  27. ^ 越智正典『ひとり淋しき名監督』ダイヤモンド社、1994年、102-103頁
  28. ^ 講談社刊 宇佐美徹也著「日本プロ野球記録大鑑」410ページ
  29. ^ a b 中国新聞社刊「カープの歩み 1949-2011」77ページ
  30. ^ 1975年まで広島テレビは、日本テレビ系とフジテレビ系のクロスネットだった。

著書[編集]

参考文献[編集]

  • 『プロ野球三国志』(大和球士著 1975年 ベースボール・マガジン社)
  • 『真説 日本野球史』(大和球士著 1977年11月 ベースボール・マガジン社)
  • 『野球殿堂物語』(神田順治著 1992年9月 ベースボール・マガジン社)
  • 『プロ野球 豪傑伝』(大道文著 1986年 ベースボール・マガジン社)
  • 『広島東洋カープ球団史』(1976年 中国新聞社
  • 『広島カープ球団史 燃える赤ヘル球団』(関三穂著 1979年 恒文社
  • 『カープ30年』(冨沢佐一著 1980年 中国新聞社)
  • 『球心』(津田一男著 1981年 中国新聞中国会)
  • 『カープ50年 夢を追って』 (1999年 中国新聞社)
  • 『「文藝春秋」にみるスポーツ昭和史』(1988年 文藝春秋
  • 『プロ野球風雪三十年の夢』(藤本定義著 1963年 ベースボールマガジン社)
  • 別冊宝島1517号 プロ野球情念の天敵対決』 宝島社2008年ISBN 978-4-7966-6289-5
  • 『プロ野球史再発掘 7 』(関三穂著 1987年5月 ベースボール・マガジン社)
  • 立石泰則 『魔術師 三原脩と西鉄ライオンズ』 文藝春秋1999年。ISBN 4–16–355100–X。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]