タニマチ

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タニマチ(谷町)とは相撲界隠語で、ひいきにしてくれる客、または後援してくれる人、無償スポンサーのこと。現在では相撲界以外に野球界プロレス界などの他のスポーツ、また歌舞伎界演歌界を中心に芸能界でも幅広く使われる。

概要[編集]

主にひいきにしている力士スポーツ選手、歌手などの芸能人に多額の援助という形で後援し、後見人的立場となっている人物のこと。援助の形態としては繁華街等での豪遊から、本業における多人数分のチケット費負担及び人数動員による客集め、私生活での金銭援助や副業への協力、異性問題等の不祥事処理など多岐にわたる[1]。その見返りに一緒に食事をしたり結婚相手の推薦や評価をした上で結婚式の仲人を務めたりする等して、有名人と特に親しい仲であることを周囲にアピールできる。また、相撲界ではタニマチから提供されるものは相手を精査せずに何でも頂く「ごっつあん体質」が存在する。

特に近年では個人後援会ファンクラブなどの組織が多く普及している。昨今の経済情勢からか、個人後援会やファンクラブの多数台頭に伴い、慣例のタニマチ的行為は少なくなっている。

「タニマチ」の語源は諸説あるが、有名なのが、1889年明治22年)に大阪市南区(現中央区谷町6丁目で外科「薄病院」を開業した薄恕一(すすき・じょいち 1866-1956年)。幕下力士のために、病院内に土俵を設けるほどの相撲好きで、幕下力士を無料で治療したり、小遣いを与え、「貧乏人は無料、生活できる人は薬代一日四銭、金持ちは二倍でも三倍でも払ってくれ」と言う方針を貫いたと伝えられている[2]。なお薄恕一は、直木賞のもととなった作家直木三十五を幼少期から面倒みており、19歳のころの直木に学費のために薄病院でアルバイトさせたほか、「薄恕一氏の紹介で、小学校の代用教員に」させたりしており、直木も「殆ほとんど育つか、育たぬか分らなかった私が、とにかく、四十三まで、生きて来られたのは、この人が居られたからである。」と自叙伝「死までを語る」で綴るほどのタニマチぶりをだった[3]。また、薄恕一は、直木の弟「清二」の名づけ親にもなっている。

ほかにも、明治初期に谷町7丁目の医師が同じく相撲好きで、力士から治療費を受け取らなかったことから来ている、という話があり[4]平成になって、この医師・萩谷義則(1847 - 1902年)の孫で国文学者萩谷朴が著書で名乗り出たことにより[5]、話題となった。谷町で1887年所得税を納税し、選挙権・被選挙権を有していたのは、萩谷のみであったという[5]

この薄恕一と、萩谷義則の婿養子・萩谷理平治(1870年 - 1949年)とで、「大阪市醫師會の紛擾」収拾のため「南区谷町松屋町を中心として医師萩谷理平治氏、医学士薄恕一氏、医師長山泰春氏外百五十七名」とともに連判状を提出したといい、「報知新聞」(大阪版)(大正3年12月19日)に掲載されているという[1]

ほかにも、谷町の大手呉服問屋の主が相撲好きで、何かと力士を支援したからという話もあるという。ただし、この語源説が出される以前、先に「タニマチ」という言葉があって後からこうした美談が創作されたと見る説もある。

実際、かつて春場所において相撲部屋が多く谷町の界隈に宿舎を構えたのは事実である。ただ、土俵が減ったこともあり、現在では多くの部屋が大阪府内の堺市東大阪市岸和田市に宿舎を置き、特に貴乃花部屋は京都府、田子ノ浦部屋は和歌山県に宿舎を置くなど、分散が進んでいる。

実在のはっきりしている「タニマチ」としては、愛知県一宮市の森家がある。江戸時代から力士によくつかわれた膏薬「浅井万金膏」の販売元であり、昭和の半ば頃まで大相撲の力士の怪我の治療には何かと便宜をはかった。相撲協会でも、一時期国技館升席を森家とその縁者のために無料開放して、この恩に報いていた。

有名なタニマチ[編集]

出典[編集]

  1. ^ 暴力団から一流企業社長まで、芸能人、スポーツ選手"裏の後見人"の素顔 日刊サイゾー 2011年2月18日
  2. ^ 医師 薄恕一| 古賀有名人名鑑| はじめようコガ生活| 古賀市オフィシャルページ - 古賀市役所
  3. ^ 直木三十五 死までを語る - 青空文庫
  4. ^ 最初のタニマチはお医者さんだった!? 大相撲コラム集(大相撲あんなこと・こんなこと) - goo 大相撲[リンク切れ]
  5. ^ a b 谷町萩谷朴『語源の快楽』新潮文庫、2000年8月1日刊行、ISBN 4101375313 p198-201(『おもしろ奇語辞典』新潮社、1990年12月刊行を改題)

関連項目[編集]