高津臣吾

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高津 臣吾
東京ヤクルトスワローズ コーチ #99
Shingo Takatsu on May 14, 2006.jpg
東京ヤクルトスワローズ時代
(2006年5月14日、スカイマークスタジアム
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 広島県広島市南区
生年月日 1968年11月25日(47歳)
身長
体重
180 cm
75 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 投手
プロ入り 1990年 ドラフト3位
初出場 NPB / 1991年4月24日
MLB / 2004年4月9日
KBO / 2008年6月24日
CPBL / 2010年3月23日
最終出場 NPB / 2007年10月9日
MLB / 2005年10月2日
CPBL / 2010年9月29日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督・コーチ歴
  • 新潟アルビレックスBC (2012)
  • 東京ヤクルトスワローズ (2014 - )

高津 臣吾(たかつ しんご、1968年11月25日 - )は、元プロ野球選手投手)・監督野球解説者評論家広島県広島市南区出身。主に抑え投手としてMLBNPBKBOCPBLの4ヶ国のプロ野球リーグで活躍し、NPB歴代2位の通算286セーブ[1]、史上2人目となる日米通算300セーブを記録している。 2014年シーズンより東京ヤクルトスワローズ一軍投手コーチを務める。

来歴[編集]

プロ入り前[編集]

幼少の頃から広島東洋カープのファンで、ミスター赤ヘルこと山本浩二の大ファンであった。広島工業高等学校では1986年に控え投手として春夏連続で甲子園に出場。第58回選抜は準々決勝に進むが宇都宮南高のエース高村祐に抑えられ敗退。第68回全国選手権は3回戦で鈴木健のいた浦和学院に敗れた。本大会での登板はなく代打での出場にとどまるが、広島大会では4試合に登板して2完封、準決勝でも尾道東高に完投勝利し、甲子園出場に貢献している。[2]

卒業後は亜細亜大学に進学。同期に小池秀郎がおり、投の二本柱として活躍。東都大学リーグでは1990年に春秋季連続優勝を飾る。同年の全日本大学野球選手権大会でも決勝で東北福祉大を降し優勝。リーグ通算40試合に登板し11勝15敗、防御率2.34、140奪三振。他の大学同期に川尻哲郎がいる。

1990年度ドラフト会議にてヤクルトスワローズから3位指名で交渉権を獲得し契約金5500万円、年俸700万円(金額は推定)で入団[3]

ヤクルト時代[編集]

入団当時は先発投手として期待されていた。特に目立った特徴のない投手だったが、プロ入り後、長い年月をかけてシンカーを熟成させ頭角を現す。1993年5月2日には、松井秀喜にプロ初ホームランを献上するも、チームのリードを守り切り、高津もプロ入り初セーブを記録。この年抑え投手に転向し、当時の球団記録を塗り替える20セーブを挙げてヤクルトのリーグ優勝、日本一に貢献。この年の日本シリーズでは3セーブを上げる活躍を見せ胴上げ投手になった。

1994年、熾烈なセーブ王争いに競り勝ちプロ入り初のタイトルとなる最優秀救援投手を獲得。

1995年、不動の抑えとして自身のセーブ記録を更新する28セーブを挙げリーグ優勝、日本一に貢献。日本シリーズでは二度目の胴上げ投手になった。

1996年、21セーブは挙げたものの年間通して今一つの調子でチームの不振に釣られる形になった。7月21日に行われたオールスターゲーム第二戦では、松井秀喜の代打として登場、相手投手イチローと対戦しショートゴロに討ち取られた。

1997年、シーズン序盤抑えとして結果を残せず、先発要員としても起用されるも先発でも3連敗と結果が出なかった。7月以降は中継ぎで徐々に安定感を取り戻し、抑えとして復活した伊藤智仁が復活はしたが故障明けで連投できないこともあり、左の加藤博人と共にセットアッパー兼抑えとしチームのリーグ制覇・日本一に貢献。日本シリーズでは三度目の胴上げ投手になった。この起用に関してはこのシリーズで伊藤の不調があったが、監督の野村克也からも「最後は伊藤より高津の方が似合う」の一言が高津の長年の信頼があることがわかる。

1998年、伊藤が先発投手に復帰したこともあり抑えを任されたが、シーズンを通して絶不調で抑え投手の座を失う。

1999年、監督の若松勉の就任とともに抑え投手として任命され、高津もその期待に答え自身のセーブ記録を更新するシーズン初の30セーブを挙げ最優秀救援投手のタイトルを獲得。

2001年、三度目の最優秀救援投手を獲得、チームのリーグ優勝および日本一に大きく貢献。日本シリーズでは四度目の胴上げ投手になった[4]日本シリーズでは自身の持つ日本シリーズの通算セーブ記録を8に更新して連続無失点も継続した。これが高津にとっての現役での最後の日本シリーズ登板となり無失点のまま現役を終えている。2003年佐々木主浩の持つ通算229セーブのプロ野球記録を更新。最優秀救援投手を獲得。オフにはFA権を行使。ジョー・アーボンを代理人とし、11月にシカゴ・ホワイトソックスと年俸75万ドルの1年契約(2年目は球団オプション)を結ぶ。

ホワイトソックス時代[編集]

2004年4月9日のニューヨーク・ヤンキース戦でメジャー初登板を果たし、最初の打者として松井秀喜と対戦。その後はビリー・コッチに代わりクローザーを務める。開幕から無失点を続け、6月3日の対ミネソタ・ツインズ戦まで24試合連続無失点を記録し、監督のオジー・ギーエンは「マリアノ・リベラでも連れてこない限り、シンゴは我々にとって最高のクローザーだ」とコメント[5]。9月にはESPNの選出した「お買い得だったFA選手ベスト10」では大塚晶則に次いで7位にランクイン。最終的にリリーフ投手中リーグ3位のWHIP0.98と同8位の防御率2.31を記録する投球で19セーブを記録した。10月28日には球団がオプションを行使し年俸250万ドルの1年契約を結んだ。

2005年も開幕からクローザーとして起用されるも、4月7日の対クリーブランド・インディアンス戦で1イニング3本塁打を浴びるなど序盤から救援失敗が続いた。特に5月までの14.1回で7被本塁打を喫し、6月は防御率0.96、WHIP0.75と復調したものの、7月には防御率12.60、WHIP2.20と再び打ち込まれ、18日にDFAとなり、8月1日に解雇された。

メッツ時代[編集]

2005年8月12日にニューヨーク・メッツとマイナー契約を結び、9月1日にメジャー昇格を果たすが、オフにFAとなり退団。このシーズンのホワイトソックスはワールドシリーズを制したため、チャンピオンリングを入手した。

ヤクルト復帰[編集]

2006年古田敦也が監督に就任したこともあり、入団テストを経て3年ぶりにヤクルトに復帰。シーズン当初は中継ぎを任されたが、石井弘寿五十嵐亮太が故障離脱した後は主に抑えを務めた。10月7日の対広島戦(神宮)で日米通算300セーブを達成。このシーズン、チーム最多の13セーブを挙げた。日米合計で通算300セーブを達成した日本人選手は佐々木主浩に次いで史上2人目。

2007年は前年同様、抑え投手を任された。6月30日の対中日戦(秋田)に登板したその夜に宿舎のホテルで入浴中に足を滑らせて転倒し、左足親指を剥離骨折(全治3週間)し戦線離脱。夏場には救援失敗を繰り返し、8月半ばから再び二軍に降格。約1か月後に一軍へ復帰し抑えに復帰。最終戦翌日の10月10日、戦力外通告を受けた。現役続行の意向を表明していたものの、12球団合同トライアウト(同年オフに2回実施)については「自分にもプライドがあるし、考えていない」と否定し、結局2回とも参加せず獲得の連絡を待ったが獲得する球団はなく、11月30日付で自由契約公示された[6]

カブス傘下時代[編集]

2008年1月18日にシカゴ・カブスとマイナー契約を結び、スプリングトレーニングに招待選手として参加。しかし、オープン戦で登板した5試合で4回1/3を投げて防御率9.64と結果を残せなかった。3月11日に戦力外通告を受けたが、現役続行を表明。16日に古巣のシカゴ・ホワイトソックス監督のオジー・ギーエンから勧められて入団テストを受けるも不合格となった。

韓国時代[編集]

2008年6月に韓国野球委員会ウリ・ヒーローズと契約金6万ドル、年俸12万ドルで契約。

KBOでは4人目の日本人選手となった。6月24日に初登板、6月29日には1回2/3を無失点に抑え初セーブを挙げた。最終的に18試合に登板し1勝0敗8セーブ、防御率0.86だったが、12月17日に外国人野手を獲得する球団方針のため退団。

SFジャイアンツ傘下時代[編集]

2009年5月、ロサンゼルス郊外でメジャー球団のスカウトが見守る中でトライアウトを受験し、サンフランシスコ・ジャイアンツとマイナー契約を結んだ。40歳7か月は日本人最高齢での契約となり、7月にAAA級フレズノに合流したが、メジャーに昇格することはなかった。

台湾時代[編集]

2010年1月に中華職業棒球大聯盟興農ブルズと契約。MLBNPBKBOCPBL世界4ヶ国(地域)のプロ野球リーグを経験した初の日本人選手となった。背番号もヤクルト時代と同じ22。6月12日に球界トップの13セーブ目を挙げ、所属の興農ブルズが前期優勝を決め、胴上げ投手になる。11月26日、興農ブルズから契約打ち切りを告げられたことを発表[7]

独立リーグ・新潟時代[編集]

2011年1月24日に新潟アルビレックスBCへの入団が発表される[8]。名球会会員が独立リーグでプレーするのは史上初[9]。また、4月より並行してフジテレビすぽると!』の毎週火曜のレギュラー野球解説者も務めることとなった(シーズン開幕後は試合日程に差支えがない範囲での出演)。BCリーグ1年目となる2011年のシーズンは27試合に登板し、0勝2敗16セーブ防御率2.16でセーブ数はリーグトップであった。2012年より新潟の選手兼任監督に就任[10]。8月31日、同年限りでの現役引退を表明[11]。9月22日の長岡市悠久山野球場の新潟対信濃戦が引退試合となり、9回2アウトから登板し原大輝をレフトフライに打ち取った。試合後には「終球式」が行われ、ヤクルト時代にバッテリーを組んだ古田敦也に対して「最後の1球」を投じている[12]。 監督としてはBCリーグ初優勝、四国アイランドリーグplus王者の香川とのグランドチャンピオンシップは3連勝し制した。同年限りで監督を退任。背番号22番は、新潟の永久欠番に制定された。

引退後[編集]

2013年より、『すぽると』に加え、ニッポン放送ショウアップナイター』解説者も務めることとなった。J SPORTSの解説者、スポーツニッポンの評論家も務める[13]

同年10月23日、2014年シーズンより一軍投手コーチとして東京ヤクルトスワローズに復帰することが発表された[14]。2015年は投手陣が安定し、救援防御率リーグ1位を記録リーグ優勝に貢献した[15]

詳細情報[編集]

年度別投手成績[編集]





















































W
H
I
P
1991 ヤクルト 13 2 1 0 0 1 1 0 -- .500 120 27.2 34 4 6 0 2 25 1 0 15 13 4.23 1.45
1992 23 11 3 0 0 5 3 0 -- .625 362 82.2 84 10 36 2 3 63 1 1 48 43 4.68 1.45
1993 56 1 0 0 0 6 4 20 -- .600 324 78.1 69 3 24 5 5 72 1 0 28 20 2.30 1.19
1994 47 0 0 0 0 8 4 19 -- .667 298 72.1 63 7 30 7 1 54 1 0 25 23 2.86 1.29
1995 39 0 0 0 0 1 3 28 -- .250 197 48.1 42 2 14 1 3 36 0 0 14 14 2.61 1.16
1996 39 0 0 0 0 2 6 21 -- .250 215 50.0 56 7 16 4 1 35 1 0 18 18 3.24 1.44
1997 51 3 0 0 0 7 4 7 -- .636 313 79.1 55 9 20 4 5 68 0 0 20 18 2.04 0.95
1998 42 0 0 0 0 2 3 3 -- .400 212 45.1 54 6 26 3 2 32 1 0 29 28 5.56 1.76
1999 40 0 0 0 0 1 1 30 -- .500 164 41.1 32 6 8 3 0 38 1 0 11 10 2.18 0.97
2000 35 0 0 0 0 0 1 29 -- .000 139 34.2 32 4 8 0 1 29 0 0 8 8 2.08 1.15
2001 52 0 0 0 0 0 4 37 -- .000 212 51.2 49 3 13 3 0 39 1 0 17 15 2.61 1.20
2002 44 0 0 0 0 0 2 32 -- .000 174 41.2 37 6 11 1 3 28 1 0 19 18 3.89 1.15
2003 44 0 0 0 0 2 3 34 -- .400 185 42.0 42 7 21 7 0 26 2 0 18 14 3.00 1.50
2004 CWS 59 0 0 0 0 6 4 19 4 .600 245 62.1 40 6 21 3 2 50 1 0 17 16 2.31 0.98
2005 31 0 0 0 0 1 2 8 3 .333 130 28.2 30 9 16 1 0 32 1 0 19 19 5.97 1.61
NYM 9 0 0 0 0 1 0 0 1 1.000 38 7.2 11 2 3 1 0 6 0 0 2 2 2.35 1.83
'05計 40 0 0 0 0 2 2 8 4 .500 168 36.1 41 11 19 2 0 38 1 0 21 21 5.20 1.65
2006 ヤクルト 48 0 0 0 0 1 2 13 8 .333 173 42.2 33 3 15 1 1 31 0 1 15 13 2.74 1.13
2007 25 0 0 0 0 0 5 13 0 .000 110 23.1 32 4 7 2 0 15 0 0 17 16 6.17 1.67
2008 ヒーローズ 18 0 0 0 0 1 0 8 0 1.000 85 21.0 16 1 5 0 4 18 0 0 2 2 0.86 1.00
2010 興農 40 0 0 0 0 1 2 26 2 .333 168 43.0 29 0 8 0 2 32 1 1 13 9 1.88 0.86
NPB:15年 598 17 4 0 0 36 46 286 8 .439 3198 761.1 714 81 255 43 27 591 11 2 302 271 3.20 1.27
MLB:2年 99 0 0 0 0 8 6 27 8 .571 413 98.2 81 17 40 5 2 88 2 0 38 37 3.38 1.23
KBO:1年 18 0 0 0 0 1 0 8 0 1.000 85 21.0 16 1 5 0 4 18 0 0 2 2 0.86 1.00
CPBL:1年 40 0 0 0 0 1 2 26 2 .333 168 43.0 29 0 8 0 2 32 1 1 13 9 1.88 0.86
  • 各年度の太字はリーグ最高

タイトル[編集]

NPB

表彰[編集]

NPB
MLB

記録[編集]

NPB初記録
NPB節目の記録
  • 100セーブ:1999年4月17日、対阪神タイガース2回戦(福岡ドーム)、9回表に3番手として救援登板・完了、1回無失点 ※史上10人目
  • 150セーブ:2000年9月6日、対阪神タイガース20回戦(明治神宮野球場)、9回表に3番手として救援登板・完了、1回無失点 ※史上3人目
  • 200セーブ:2002年4月28日、対阪神タイガース6回戦(阪神甲子園球場)、9回裏に4番手として救援登板・完了、1回無失点 ※史上2人目
  • 500試合登板:2003年6月20日、対横浜ベイスターズ12回戦(明治神宮野球場)、9回表に3番手として救援登板・完了、1回無失点でセーブ投手 ※史上71人目(同時に通算270セーブポイントの日本プロ野球記録を達成)
  • 250セーブ:2003年8月16日、対中日ドラゴンズ19回戦(ナゴヤドーム)、9回裏に5番手として救援登板・完了、1回無失点 ※史上初
  • 日米通算300セーブ:2006年10月7日、対広島東洋カープ20回戦(明治神宮野球場)、9回表に3番手として救援登板・完了、1回無失点 ※史上2人目

独立リーグ時代の成績[編集]










































W
H
I
P
2011 新潟 27 0 0 2 16 .000 98 25.0 20 1 7 2 18 1 0 6 6 2.16 1.08
2012 1 0 0 0 0 ---- 1 0.1 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0.00 0.00
通算:2年 28 0 0 2 16 .000 99 25.1 20 1 7 2 18 1 0 6 6 2.15 1.08
  • 太字はリーグ最高。

背番号[編集]

  • 22 (1990年 - 2003年、2007年、2010年 - 2012年)
  • 10 (2004年 - 2005年)
  • 11 (2006年)
  • 33 (2008年)
  • 99 (2014年 - )

関連情報[編集]

著書[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 歴代最高記録 セーブ 【通算記録】”. 2011年6月29日閲覧。
  2. ^ 当時の主戦投手は、後に明大から中国放送に入社(報道記者→営業部→編成部)した上田俊治だった。
  3. ^ 『朝日新聞』1990年12月6日付朝刊 (14版、23面)
  4. ^ なお、この年は初のシーズン優勝時の胴上げ投手にもなっている。1993年、1995年、1997年のシーズン優勝決定時には、いずれも当該試合の先発投手が完投して胴上げ投手となっている。
  5. ^ 『月刊スラッガー』2004年9月号、日本スポーツ企画出版社、雑誌15509-9、52頁。
  6. ^ 2007年 度自由契約選手
  7. ^ 残念...”. 高津臣吾Official Blog (2010年11月26日). 2011年12月16日閲覧。
  8. ^ 高津臣吾投手入団決定のお知らせ”. 新潟アルビレックス・ベースボール・クラブ (2011年1月24日). 2011年12月16日閲覧。
  9. ^ 旅は終わらず 高津 BC新潟入り“名球会”選手で初!”. スポーツニッポン (2011年1月24日). 2011年2月2日閲覧。
  10. ^ 新監督決定のお知らせ”. 新潟アルビレックス・ベースボール・クラブ (2011年12月16日). 2011年12月16日閲覧。
  11. ^ 高津臣吾選手兼任監督現役引退のお知らせ”. 新潟アルビレックス・ベースボール・クラブ (2012年8月31日). 2012年9月5日閲覧。
  12. ^ 高津 10歳次男の言葉に涙こらえきれず…引退試合 - スポーツニッポン、2012年9月23日
  13. ^ サブマリン高津氏 スポニチ評論家就任 - スポーツニッポン、2013年1月23日
  14. ^ 2014年コーチングスタッフについて
  15. ^ ヤクルトの14年ぶり優勝に張本氏「ごめんなさいだね」
  16. ^ Baseball Digest Rookie All-Star TeamsBR Bullpen 2015年9月16日閲覧。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

  • 選手の各国通算成績 KBOCPBL