内山智之

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内山 智之
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 岐阜県美濃加茂市
生年月日 (1968-08-15) 1968年8月15日(52歳)
身長
体重
186 cm
82 kg
選手情報
投球・打席 右投左打
ポジション 投手
プロ入り 1990年 ドラフト5位
初出場 1992年6月3日
最終出場 1997年7月28日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

内山 智之(うちやま ともゆき、1968年8月15日 - )は、岐阜県美濃加茂市出身の元プロ野球選手投手)。

来歴・人物[編集]

高校3年夏は県大会準優勝も控え、大学では3年までに10勝[1]するが全国大会へは出場なしで無名。4年春に退部している。1990年のNPBドラフト会議西武ライオンズから5位で指名されて入団した。西武のスカウト網が見出した隠し玉といわれた。ストレートの球威と将来性を見込んでの指名だったが、入団後にメジャーリーグ(MLB)のトレーニング方法を研究した結果、ストレートの球速が150km/h近くにまで上昇した。銀縁の眼鏡をかけた風貌から想像できないパワーピッチングとインタビューでも独特の発言によって注目された。

西武では2年目の1992年に一軍公式戦へのデビューを果たしたが、翌1993年のシーズン終了後に、佐々木誠村田勝喜橋本武広との交換トレードで秋山幸二渡辺智男両選手と共に福岡ダイエーホークスに移籍[2]。移籍1年目の1994年には、レギュラーシーズンの開幕第2戦で先発を任されたほか、8月21日の対近鉄バファローズ戦(福岡ドーム)でプロ入り後初めての無四球完投勝利を記録した。その一方で、翌1995年には1試合4暴投の日本プロ野球最多記録を樹立してしまった。

1997年限りでダイエーを退団したことを機に、MLBへ挑戦。フィラデルフィア・フィリーズ傘下の2Aレディング・フィリーズでプレーを続けたものの、MLBへの昇格に至らないまま現役を引退した。

現在は沖縄県で農業手伝いの傍ら、少年野球チームの監督を務める。

「チームの敗戦と一緒に(責任投手として)名前の出る投手にとって、野球は団体競技ではなく個人競技」という考えと、強い責任感の持ち主。ダイエーへの移籍当初は、負けが込んでいる間に食欲が落ちたり、ストレス性のじんましんを発症したりしていた。また、かなりの潔癖症で、当時「数日間入浴しなくても平気」と豪語していたチームメイトの下柳剛としばしば対立。下柳が現役引退後に述懐したところによれば、この世代のプロ野球選手には珍しく、大の嫌煙家でもあったという[3]

詳細情報[編集]

年度別投手成績[編集]





















































W
H
I
P
1992 西武 11 0 0 0 0 0 1 0 -- .000 110 27.0 22 4 11 0 0 14 1 0 11 9 3.00 1.22
1993 31 6 0 0 0 3 4 0 -- .429 331 83.2 62 5 26 0 0 61 4 0 29 28 3.01 1.05
1994 ダイエー 24 22 3 0 1 6 11 0 -- .353 499 112.0 141 10 31 0 4 64 7 0 74 65 5.22 1.54
1995 14 11 0 0 0 2 3 0 -- .400 299 69.0 72 6 26 1 3 34 7 0 38 37 4.83 1.42
1996 28 6 0 0 0 3 2 0 -- .600 262 60.1 68 6 22 1 0 33 8 0 32 29 4.33 1.49
1997 17 0 0 0 0 1 0 0 -- 1.000 94 21.0 24 2 12 0 1 15 1 0 11 11 4.71 1.71
通算:6年 125 45 3 0 1 15 21 0 -- .417 1595 373.0 389 33 128 2 8 221 28 0 195 179 4.32 1.39

記録[編集]

  • 初登板:1992年6月3日、ロッテ戦(仙台)11-2 9回より登板、1回無失点
  • 初勝利:1993年5月15日、近鉄戦(ナゴヤ)4-3 6回より登板、4回無失点
  • 初完投:1994年6月4日、近鉄戦(福岡D)2-1 被安打6 奪三振3 四死球1

背番号[編集]

  • 53 (1991年 - 1993年)
  • 16 (1994年 - 1997年)

出典[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]