大豊泰昭
| 基本情報 | |
|---|---|
| 国籍 |
|
| 出身地 | 南投県埔里鎮[1] |
| 生年月日 | 1963年11月15日 |
| 没年月日 | 2015年1月18日(51歳没) |
| 身長 体重 |
185 cm 110 kg |
| 選手情報 | |
| 投球・打席 | 左投左打 |
| ポジション | 一塁手、左翼手 |
| プロ入り | 1988年 ドラフト2位 |
| 初出場 | 1989年4月9日 |
| 最終出場 | 2002年9月25日 |
| 経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
この表について
| |
| 陳 大豊 | |
|---|---|
| 各種表記 | |
| 各種表記(本名) | |
| 繁体字: | 陳 大豐 |
| 簡体字: | 陈 大丰 |
| 拼音: | Chén Dàfēng |
| 注音符号: | ㄔㄣˊㄉㄚˋㄈㄥ |
| 和名表記: | ちん たいほう |
| 発音転記: | チェン・ダーフォン |
| 英語名: | Chen Ta-Feng |
大豊 泰昭(たいほう やすあき、1963年11月15日 - 2015年1月18日)は、台湾(中華民国)南投県埔里鎮出身のプロ野球選手[1](内野手、外野手)。左投左打。本名は陳 大豊[2](チェン・ダーフォン、Chen Ta-Feng)。
現役時代は主にNPBの中日ドラゴンズで強打者として活躍、1994年にはセントラル・リーグの本塁打王・打点王を獲得、二冠王に輝いた[3]。通算成績は1324試合、4097打数、1089安打、打率.266、277本塁打、722打点、15盗塁[4]。
経歴
[編集]プロ入り前
[編集]埔里鎮郊外の閑静な農家の長男として生まれた[1]。父は祖先から受け継いだ土地3000坪余りを保有し、サトウキビやマコモを栽培していたが[1]、生活は貧しかったといい、大豊は幼少期から水牛の世話など力仕事をしていた[2]。地元の育英国民学校に進んだ頃にはかなり体が大きくなり、4年生になって野球部の監督から誘われて入団した[1]。野球部入部後は大柄な体格と左利きであることを買われ、一塁手になる[5]。育英国民学校卒業と同時に、野球に力を入れていた台中市の[5]東峰中学[6]に勧誘されて入学、青少棒球で活躍する[5]。当時は1969年に台東県の無名校からスカウトされた郭源治がエースとしてリトルリーグの世界制覇を達成したことを機に台湾で少年野球が流行しており、東峰中学は青少棒全国大会で優勝した[5]。この全国大会の決勝戦は1979年、中学3年生の時で、同い年であり後に中日でチームメイトになる陳義信と対戦し、決勝二塁打を放って1対0で勝利している[7]。中学2年生の時、尊敬する王貞治が表紙を飾っていた野球雑誌を買って読みふけったという[2]。その後、サンフランシスコで開催されたリトルシニア全国大会に出場し、その素質と超大型打者の将来性を華興高の野球部で監督を務めていた方水泉に見込まれ、勧誘を受けてスポーツ特待生として同高校に入学した[5]。同高は難関中高一貫校であり、高校からの途中入学は難しいという[5]。方曰く、言うことをなんでも聞く練習熱心な選手だったが、尊敬する王のような一本足打法で打ちたいという点だけは自説を曲げなかったという[5]。華興高の一学年後輩には呂明賜がいる。1981年には陳とともに高校ナショナルチームに選抜され、二番打者を担った[7]。王に憧れて日本行きを希望するが、20歳にならないと出国できないため[注釈 1]、卒業後に2年間浪人しながら母校でコーチを務めた[7]。渡日のきっかけは1982年4月、台北郊外の華興高校のグラウンドで練習していたところ、台湾からサイン用の野球ボールを輸入する仕事を手がけていた愛知県新城市の新聞販売店主・松井秀郎が野球部監督の紹介で練習を視察し、「日本に連れていって一流の打者にしたい」と考えたことである[9]。この時点で大豊は台湾の大学への進学が決まっていたが、松井は熱心に大豊を勧誘し、やがて大豊も反対する親を説得して進学を取りやめ、高校卒業後はアルバイトしながら母校で後輩とともに練習を続けた[9]。
1983年12月、大豊は新城市内で下宿生活を始め、練習場所まで往復6キロメートルを毎日のように走り、夜は下宿先の建物の屋上で素振りをするような生活を続けた[10]。NPBコミッショナー事務局の調査によれば、日本への入国は同月17日である[11]。1984年に名古屋商科大学へ入学[12]、1年生だった同年の春から愛知大学野球リーグで四番打者を担った[10]。同年春には43打数9安打6打点1本塁打、打率.209、秋には41打数11安打9打点1本塁打、打率.268を記録したが[12]、一時は日本文化に戸惑い、打撃成績も低迷、1年生を終えた時に台湾に帰国する[10]。再来日後は2年間同部屋だった先輩曰く「見違えるように打ちまくっていました」とのことで、実際に全日本の四番を任されるなどプロから注目される存在になっていたが、当時愛知工業大学のエースだった西崎幸広のスライダーを苦手としており、彼に4打席4三振に抑え込まれるなどした時にはかなり落ち込んでいたという[10]。
愛知大学野球リーグ通算で343打数120安打、打率.350、24本塁打、94打点[12]。敢闘賞2回、ベストナイン4回受賞。通算24本塁打はリーグ記録である。全日本代表にも2回選出された。2学年先輩に、後に中日ドラゴンズでもチームメイトとなる音重鎮がいる。
1985年春には49打数20安打14打点4本塁打、打率.408を記録、秋には44打数9安打8打点3本塁打、打率.205を記録した[12]。1986年春には48打数20安打15打点3本塁打、打率.417、同年秋には39打数19安打12打点3本塁打、打率.487を記録した[12]。大学4年となる1987年の春には52打数20安打15打点6本塁打、打率.385を、秋には27打数12安打15打点3本塁打、打率.444を記録[12]、同年のNPBドラフト会議前に「愛知大学野球リーグ史上最強のスラッガー」として注目され、同年10月下旬以降、中日ドラゴンズなど複数のNPB球団から球団職員として採用したとという打診があった[13]。戸部良也によれば、この時に大豊をスカウトした球団は地元球団の中日と、尊敬する王が監督を務める読売ジャイアンツ(巨人)の2球団で、いずれも1年間球団職員にして日本人扱いで入団させたいという打診だったという[14]。しかし大豊は当時来日4年目で[13]、当時の野球協約では、外国人枠を外れる条件の1つである「日本に5年以上居住」を満たしておらず、仮に来日から5年経過の日となる1988年12月17日までにプロ入りすると外国人選手扱いとなり、現役引退するまで日本に帰化しない限り外国人選手扱いとなることとなっていた[11]。このように外国人選手扱いでドラフト指名対象になる選手はNPB史上初だった[11]。大豊本人は外国人扱いではプロ入りしない旨を表明していたため、同会議ではどの球団からも指名されず[15]、1988年は同年のNPBドラフト会議で指名を受け、日本人選手扱いとしてプロ入りすべく、中日の球団職員として1年間在籍することになった[13]。中日を選んだ理由は、「お父さん」と慕う松井秀郎(ジャパンボール社長)や名商大野球部の監督を務めていた杉浦計司ら「名古屋でお世話になった人たち」のためであり[13]、巨人は監督を王が務め、また高校の後輩である呂が入団を決めたこともあって迷っていたが、名古屋への愛着が勝ったという[14]。当時は背番号はなく、黙々とピッチングマシンを相手に打撃練習に打ち込んでいたと報じられているが[10]、1988年に串間市営球場で行われた二軍春季キャンプでは飛び入りで打撃ケージに入り、何本かバックスクリーンを越える推定飛距離140 mの打球を放ち、二軍選手らを驚かせていた[12]。ドラフト会議直前の浜松秋季キャンプには背番号95のユニフォームを着用して参加していた[16]。球団職員時代は屋内練習場を担当、毎夜500球ずつ特打を行っていた[17]。このころから日本風の名前を名乗ることになり、当初は松井秀郎の姓を貰い「松井大豊」とする考えだったが、語呂が良くないため「大豊」を姓にして「泰昭」とつけた[14]。本人曰く、球団職員として過ごした1年間は試合に出られないのが何より辛かったという[18]。
中日時代
[編集]1988年11月24日に開催されたNPBドラフト会議で中日から2位指名を受け[18][19]、同年12月22日に当時の球団史上最高となる契約金7000万円、年俸840万円で正式な選手契約を締結した[7]。当時有力選手を球団職員扱いで囲い込んだ場合はドラフトで1位指名という慣例があり(1981年に西武ライオンズから指名された伊東勤、大豊と同じく1988年に阪神タイガースから指名された中込伸)、大豊も1位指名確実と思われていたが、中日は慣例を破って中日希望を表明していた今中慎二(大阪桐蔭高)を1位で、大豊を2位で指名した[20][21][22]。本人は巨人が1位指名の抽選を外したと聞き[注釈 2]、強行で重複指名してこないか不安だったというが、結局は中日以外のどの球団も大豊を指名せず、大豊は中日の単独2位指名が確定した[18]。本人曰く、中日以外の11球団から指名された場合はもう1年球団職員を続けるつもりだったという[12]。背番号は、当時王が持っていたNPBシーズン最多本塁打記録55本を目標として55とした[24][14]。球団は当初、大豊の背番号を1桁にすることも検討していたが、身体が大きな大豊には大きな背番号の方が似合うとの理由から55に決まった[24]。当時の監督である星野仙一は大豊を翌1989年のオープン戦で全試合フルイニング出場させ、英才教育を施す意向を示していた[7]。
プロ1年目の1989年シーズンは、星野の下で開幕戦のスタメンとして起用される。以降も左翼手レギュラーで起用され、不調の5月に二軍(ウエスタン・リーグ)降格を経験するも6月半ばからレギュラーに返り咲き、ルーキーとしては上々の打率.233、14本塁打、36打点を記録した。同年8月23日の対阪神戦(ナゴヤ球場)では4-4の同点で迎えた9回二死一塁の打席で御子柴進からプロ初のサヨナラ打となるサヨナラ2点本塁打を放っている[25]。
1990年シーズンもほぼシーズンを通して左翼手レギュラーで起用され、9月29日の対読売ジャイアンツ戦(ナゴヤ球場)では斎藤雅樹からプロ初の満塁本塁打を放った[26]。最終的に打率.274、20本塁打、48打点を記録して長距離打者としての才能を開花させた。
1991年シーズンは、7月12日にオールスターゲームに外野手部門で監督推薦で初選出された[27]。同年は更に数字を上げ、打率.283、26本塁打、72打点を記録し、初めて規定打席に到達した。9月23日のヤクルトスワローズ戦で岡林洋一から逆転サヨナラ3点本塁打を放った[28]。
1992年シーズンには、高木守道が監督に就任し、秋季キャンプで臨時コーチとして訪れた張本勲の勧めで一本足打法を始める[29]。同年5月23日の対巨人戦(ナゴヤ球場)では4-4の同点で迎えた延長10回に石毛博史からサヨナラ本塁打を放った[30]。
1993年シーズンには25本塁打を放つと、1994年シーズンには落合博満が移籍したことにより一塁手専任となり打撃に集中できるようになった結果38本塁打、107打点で本塁打王と打点王の二冠を獲得した[31]。チームは10.8決戦で巨人に敗れてセントラル・リーグ優勝は逃したが、同年のチームで最も活躍した選手に贈呈されるドラゴンズクラウン賞の最優秀選手賞を受賞した。また、同年は対広島東洋カープ戦で18本塁打を記録し、年間カード別最多本塁打の日本記録を樹立(後述詳細)。
1996年シーズンは前年シーズンの不振と星野が再び監督に就任し、下位打線に打順を置かれたがそれに奮起し、開幕から驚異的なペースで本塁打を量産。同年4月11日の対阪神戦(ナゴヤ球場)では1回一死満塁の打席で竹内昌也から満塁本塁打を放った[32]。最終的に巨人の松井秀喜と同じ38本塁打を放つも、チームメイトで同じく下位打線でチームを引っ張った山﨑武司に1本及ばず、松井とともに本塁打王を逃した。5月29日時点で山﨑より10本多い本塁打数を記録していながら最終的に本塁打王を逃した要因としては、2ストライクに追い込まれてからの本塁打数が大豊は10本、松井は8本だった一方、山﨑は12本だったこと、また1994年にカード別新記録の18本塁打を記録した広島戦で5本塁打(山﨑は11本塁打)に終わり、同年に9本塁打を記録した両翼91.4 mの広島市民球場でも1本塁打に終わったことが挙げられている[33]。1993年シーズンから1996年シーズンまで4年連続で規定打席に到達したが、これが生涯最後の規定打席到達だった。
1997年シーズンは、本拠地がナゴヤ球場からナゴヤドームに移転したことで、打率.240、12本塁打、35打点、規定打席未到達と極度の不振に終わる。チーム自体も最下位に落ちたことで星野が広いナゴヤドームに対応した守備、機動力重視への転換を目指したことから[34]、同年のシーズンオフには矢野輝弘とともに関川浩一・久慈照嘉との交換トレードで阪神タイガースへ移籍[35][36]。
阪神時代
[編集]1998年シーズンには吉田義男監督の下で開幕から5番一塁手で起用されたが、極度の不振が続き、5月末から八木裕や平塚克洋にレギュラーを奪われ、代打起用が中心になった。この年の前半戦は5本塁打で前年のシーズン同様に苦しんだ。後半戦からは調子を取り戻し、8月18日の対広島戦から4番一塁手に固定されて16本塁打を放つ活躍をした。最終的に本塁打21本、打点61と長打力は健在だったが、スランプの期間が長く打率.231と苦しいシーズンになった。オフに年俸1億8000万から1億2600万円にダウンで契約更改した[37]。
1999年シーズンには野村克也が監督に就任し、8月末まで一塁にマーク・ジョンソンが起用されたため大豊は代打中心で起用された。8月24日と25日に2打席連続代打本塁打を放つと、次の試合でも代打で安打を放ち、8月31日からはジョンソンに代わって先発一塁で起用される。また8月24日から10月1日まで、当時の球団記録となる26試合連続安打も記録した[38]。結局、打率.341、18本塁打、歴代2位となるシーズン6本の代打本塁打を放つなど、結果を残した。古巣・中日戦では5月14日に落合英二から[39]、9月9日にサムソン・リーから計2本のサヨナラ本塁打を放っている[40]。
2000年シーズンには、同じ一塁手の広澤克実が入団したため[41]ポジション争いとなるが、広澤が不調だったこともあり大豊がシーズンを通して先発一塁で起用されることが多かった。 4月8日の広島市民球場での試合において、紀藤真琴から第1打席で通算250本塁打、続く第2打席で通算1000安打を達成した。7月20日の対巨人戦では退場処分を受ける。この問題の打席は、1ボール1ストライクから真鍋勝己球審に厳しい内角球をストライク判定され、少し口論となった。大豊は打席を外し、汗を拭った。真鍋球審に打席に戻るよう促された大豊は中々打席に戻ろうとせず、真鍋球審は高橋尚成に投球を指示。それを受け、大豊は一旦打席に戻ったが、再度打席を外し、投手に片手を上げ、「ちょっと待って欲しい」とアピールした。真鍋球審はこれを認めず、次の球をストライク、バッターアウトと判定した。呆気にとられた大豊は真鍋球審の胸を手で押してしまい、暴行を働いたとして退場処分を受け、7月28日から8月3日までの出場停止処分と制裁金20万円の処分が科せられた[42][43]。このシーズンは最終的に23本塁打を記録したものの、打率は.241と前年比較で大きな急落となる。
阪神在籍3年間は好不調の波が大きく、同じ一塁手には八木裕や平塚克洋、また毎年のように一塁を守れる新外国人が入団したことから不調時は試合から外されることが多く、出場試合数も100試合を一度も超えず、規定打席にも一度も到達せずに終わった。また野村監督時代の2年間は野村と相性が合わずに対立し、職場放棄をすることもあった[44][45]。この点について、大豊自身は「対話も少なかったし、誤解も生じた。でも、それは人生であり得ること。今は阪神と中日、両方を体験できてよかった」と後年振り返っている[46]。また、引退後は山﨑武司の仲介で野村、大豊、山﨑、北の湖の四人で食事の機会を設け、その場で打ち解け和解。以後は山﨑、野村らと一緒に韓国旅行に行ったり、大豊の店に野村が来て食事をするなど良好な関係になっていたという[47]。
阪神移籍後は契約更改が毎年難航した。様々な理由(「打率が低い」と指摘され、翌年打率を上げるものの、今度は「打点が低い」と指摘される等)を挙げられ、ダウン提示を受けることとなる。2000年は97試合に出場して打率.241、23本塁打、54打点を記録したが、公式戦が終了した10月6日に翌2001年シーズンの年俸として、野球協約で定められた野球協約いっぱいの30%減額を提示され、それを受け入れられなかった大豊は同月31日に球団へ自由契約を申し入れ、阪神を退団した[48]。
中日復帰
[編集]2000年12月2日に阪神から自由契約となった旨がNPBコミッショナーから公示され[49]、同月5日には1997年以来、4年ぶりに中日に入団することが発表された[50]。2001年シーズンの年俸は7500万円だった[50]。前回在籍時の背番号55は広島から移籍してきた紀藤真琴に決まっていたため、大豊の背番号は60となった。本人は55に愛着があったが、心機一転として空き番号の中から55を上回る数字として60を選んだと語っている[50]。2001年は大豊の本来のポジションである一塁手には山﨑が定着しており、また同年には台湾代表として第34回IBAFワールドカップに出場したこともあって、出場38試合、先発14試合に留まった。大豊の打撃成績は打率.171と上向かず、チームは5位に転落。星野が監督を退任した。同年オフには前年比3000万円減額となる年俸4500万円で契約更改した[51]。
2002年シーズンは山田久志が監督に就任し、大豊は開幕一軍スタートだったが、打撃不振ですぐに二軍へ降格、8月上旬には一軍に再昇格して4本塁打を放ったものの、27試合に出場して打率.213、4本塁打、11打点と不振に終わった[52]。三塁手だったレオ・ゴメスが一塁手にコンバートされ、ゴメスの故障離脱後は渡辺博幸が一塁手に起用されたため、大豊の出場は27試合、先発11試合にとどまった。同年のシーズンオフに戦力外通告を受けたが、当時福岡ダイエーホークス監督を務めていた王貞治から事あるごとに「君はプロ入りが遅かったんだから、40歳で満足してはいけない。43歳まで現役続行を目指しなさい」と声をかけられていたことから、現役続行を希望した[4]。しかし、10月16日に現役引退を表明した[2]。引退会見では、「ファンなくして大豊なし。ファンの皆様の応援のおかげで、ここまでやってこれました。」と、その人柄を滲ませるコメントを残した。2003年3月23日、ナゴヤドームでの横浜ベイスターズとのオープン戦で引退セレモニーが行われた。NPB通算14年の現役生活で、優勝経験は一度もなかった[53]。
引退後
[編集]引退後、中日球団のアジア地区担当スカウト兼少年野球指導担当を経て、2004年10月、名古屋市中区に中華料理店「大豊飯店」を開業。店の経営の傍ら、中京ローカル番組にゲスト出演するほか、東海地方を中心に各地へ野球教室や講演活動を行っていた。
中日球団のアジア地区担当スカウトとして、台湾から陳偉殷(チェン・ウェイン)を2004年に中日入団へ導いた[54]。その後は「中日球団台湾地域情報提供員」という肩書きで活動していた。
プロ野球マスターズリーグの名古屋80D'sersに、2005年度と2006年度の2シーズン参加した(ポジション登録は内野手、背番号は55[55])。参加当時、中日が1996年まで使用したヘルメット(筆記体の「D」が入ったもの)を着用していた[56]。
2009年3月、急性骨髄性白血病を患い、入院[57]。闘病生活の末に同年8月に退院したものの、2010年3月に再発。実妹からの骨髄移植を受け、同年9月上旬に退院[58][59]。
2011年3月26日に体力的に経営が困難となった「大豊飯店」を閉店。5月25日、岐阜県海津市のお千代保稲荷参道内に「大豊ちゃん」として移転オープンしている(体調を考慮してオーナーは関係者が務め、自身は雇われ店長扱いであった)[60][61]。
2012年、大豊飯店時代の顧客女性と再婚。
2014年から急激に体力が低下し、歩行困難となったため、10月から店をスタッフに任せ、治療専念の療養生活に入った[62][63][64]。
人物
[編集]右足
[編集]9歳のときに裸足でターザンのまねをして着地した際に、たまたま地面に転がっていた釘が右足の裏に刺さってしまう。当時の大豊の実家周辺では医療レベルが低かったため満足な治療が受けられず、その後度々傷跡が膿むようになった。名商大1年のときに完全な治療を受けることができたが、本人曰く「9歳の時からずっと、その部分をかばっていたため、そこだけ筋肉がつかなかった」とのことで、右足裏はその後も大豊の弱点となり、足の踏み込みが十分にできないなどの問題を抱え続けることとなった[67]。
アメリカ人審判帰国の発端
[編集]1997年6月5日、対横浜戦(長良川球場)の打席で、アメリカ人審判のマイク・ディミュロが下したストライク判定に、大豊は「ホワイ、ストライク?」と言いながらストライクゾーンから外れているのではないか、というジェスチャーを行った。この言動をディミュロは「審判に対する暴言」とし、退場を命じる。なお上記の大豊の行動には布石があり、この打席でディミュロは再三にわたり打者不利ともとれる判定を下していた。これを不服とした監督の星野仙一およびコーチらがベンチから飛び出し、ディミュロを集団で取り囲みながら猛抗議を行う大騒動に発展。その後、ディミュロは集団的な威圧的行為により「身の危険を感じた」と辞職、帰国している。
この事件により、審判の権威についての議論が湧き起こった。さらには、この騒動から間もない同年7月3日の試合終了後、観客の「台湾へ帰れ!」のヤジに激昂してフェンスの金網にバットを投げつけ、3日間の謹慎処分を受ける。当時のセントラル・リーグ会長であった川島廣守は「ファンの方も挑発的、侮辱的なヤジは控えてもらいたい」と声明の中で触れている。
私生活
[編集]3男1女の4人兄弟の長男にして長子であり、長弟(次男)は元プロ野球選手の大順将弘[1]。次弟(三男)は1988年12月時点で21歳、中国文化大学4年生の砲丸投げ選手であり[7]、彼は1996年時点で、郭泰源の出身高校である長栄高校(台南市)の教師だった[1]。1996年時点でもシーズンオフには実家に帰り、農作業を手伝っていた[14]。
1990年に元女優の古荘弘子と結婚し[68][69]、妻との間に1991年9月24日に長女が、1993年に次女が誕生したが[14]、弘子は2009年2月時点で既に故人である[70]。長女は宝塚歌劇団星組男役のひろ香祐[70][53][71](本名・古荘祐子[70])で、出身校は愛知工業大学名電中学校である[72]。
1999年9月21日に発生した台湾大地震の復興支援活動として、募金やチャリティーゲームに出場するなどの活動を行った。
引退後に開業した大豊飯店では大豊自ら積極的に接客し、野球談義に花を咲かせていた。長者町繊維街にある店のビル正面には、中日時代の一本足打法の全身像が掲げられていた。2011年5月に移転開業した「大豊ちゃん」でも自ら店頭に立ち、屋外で名物の棒餃子を焼く姿が見られた。一本足打法の全身像も縮小されたものの、引き続き店舗正面に掲げられていた。
2014年9月19日の『爆報! THE フライデー』(TBS系)の中で、同年10月末を以って「大豊ちゃん」を妻とスタッフに任せ、自身は白血病の後遺症の治療に専念することを発表していた[73]。
この発表からわずか4ヶ月後、大豊は死去。ちなみに、大豊は現役時代から亡くなるまで、日記を毎日欠かさず書き続けていたという。
「大豊ちゃん」は大豊亡き後も店舗運営を続けたが、2015年6月5日を以って閉店した。Webサイト上では「一旦閉店の上再開する」となっているが、現地ではすでに全身像を含めた設備が撤去され、別の店舗が利用している。再開時期や再開場所については未定である[74]。その後、インターネット通販も2017年12月27日を以って終了し[75]、現在は「大豊ちゃん」のイベント出店のみこれまで通り継続している他、白血病治療に向けての骨髄バンクへの登録呼びかけなどの社会貢献活動を行っている。
その他
[編集]現役時代は大変な大食漢で、同僚のプロ野球選手も驚くほどだった[76][77]。
中日時代のチームメイト愛甲猛は、大豊は自分に合わないコーチの指導は聞き入れない我の強い性格であったと評している[78]。
プレースタイル
[編集]1988年のドラフト会議前、井上弘昭は大豊について、木製バットで左中間まで本塁打を飛ばせる左打者は珍しく、手首の強さは左手の押しの強さ、懐の深さゆえにできる芸当であると評し、またホームランバッターにしては珍しくボール球に手を出さないため、すぐにプロで通用するだろうと評していた[12]。
中日時代の1996年に使っていたバットは重さ950グラムだった[79]。
一本足打法
[編集]王貞治へのリスペクトから、一本足打法にこだわりを見せていたが[80]、それ故にバッティングを崩すことも多く、阪神在籍時の1999年に野村克也監督のアドバイスにより、一本足打法からすり足打法に変更した。ただし、本人が後に語ったところによると、打法の変更は「一本足打法では試合で使ってもらえないため、試合に出るためのやむを得ない選択だった」とのことで、本当は一本足打法を貫きたかったという[81]。しかしながら打法の変更は功を奏し、1999年は打率.341の好成績を記録している。翌2000年は一本足打法に再転向した。一本足のメリット・デメリットについて、大豊自身は後年「一本足のおかげで二冠王を穫ったのはいい思い出だけど、逆に一本足のせいで選手寿命も縮まりました。一本足打法は足への負担だけじゃなくて、目も疲れるんです。足を上げるタイミングを図るために常にピッチャーを凝視しなければならない。二本足のときの数倍も目が疲れるんです」[82]と振り返っている。
詳細情報
[編集]年度別打撃成績
[編集]| 年 度 | 球 団 | 試 合 | 打 席 | 打 数 | 得 点 | 安 打 | 二 塁 打 | 三 塁 打 | 本 塁 打 | 塁 打 | 打 点 | 盗 塁 | 盗 塁 死 | 犠 打 | 犠 飛 | 四 球 | 敬 遠 | 死 球 | 三 振 | 併 殺 打 | 打 率 | 出 塁 率 | 長 打 率 | O P S |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 1989 | 中日 | 101 | 353 | 309 | 37 | 72 | 18 | 0 | 14 | 132 | 36 | 2 | 3 | 4 | 1 | 36 | 0 | 3 | 86 | 9 | .233 | .318 | .427 | .745 |
| 1990 | 105 | 291 | 259 | 34 | 71 | 13 | 0 | 20 | 144 | 48 | 2 | 0 | 6 | 2 | 23 | 3 | 1 | 63 | 5 | .274 | .333 | .556 | .889 | |
| 1991 | 121 | 461 | 396 | 50 | 112 | 23 | 1 | 26 | 215 | 72 | 2 | 3 | 3 | 2 | 53 | 7 | 7 | 84 | 13 | .283 | .376 | .543 | .918 | |
| 1992 | 81 | 280 | 251 | 24 | 67 | 18 | 1 | 11 | 120 | 39 | 0 | 2 | 0 | 0 | 27 | 3 | 2 | 52 | 7 | .267 | .343 | .478 | .821 | |
| 1993 | 117 | 437 | 367 | 53 | 95 | 14 | 0 | 25 | 184 | 59 | 0 | 1 | 0 | 1 | 66 | 6 | 3 | 117 | 4 | .259 | .375 | .501 | .877 | |
| 1994 | 130 | 560 | 477 | 83 | 148 | 24 | 2 | 38 | 290 | 107 | 1 | 2 | 0 | 9 | 71 | 10 | 3 | 97 | 6 | .310 | .396 | .608 | 1.004 | |
| 1995 | 106 | 444 | 389 | 49 | 95 | 14 | 1 | 24 | 183 | 65 | 1 | 0 | 0 | 1 | 51 | 3 | 3 | 81 | 7 | .244 | .336 | .470 | .806 | |
| 1996 | 129 | 537 | 462 | 69 | 136 | 19 | 1 | 38 | 271 | 89 | 3 | 1 | 4 | 2 | 68 | 8 | 1 | 106 | 10 | .294 | .385 | .587 | .971 | |
| 1997 | 95 | 341 | 296 | 33 | 71 | 12 | 0 | 12 | 119 | 35 | 0 | 1 | 2 | 2 | 38 | 2 | 3 | 78 | 5 | .240 | .330 | .402 | .732 | |
| 1998 | 阪神 | 99 | 346 | 307 | 41 | 71 | 17 | 0 | 21 | 151 | 61 | 0 | 0 | 1 | 2 | 34 | 1 | 2 | 94 | 5 | .231 | .310 | .492 | .802 |
| 1999 | 78 | 181 | 164 | 20 | 56 | 13 | 0 | 18 | 123 | 39 | 0 | 2 | 0 | 0 | 16 | 2 | 1 | 56 | 5 | .341 | .403 | .750 | 1.153 | |
| 2000 | 97 | 337 | 303 | 38 | 73 | 9 | 2 | 23 | 155 | 54 | 4 | 1 | 0 | 3 | 26 | 3 | 5 | 93 | 2 | .241 | .309 | .512 | .820 | |
| 2001 | 中日 | 38 | 77 | 70 | 6 | 12 | 4 | 0 | 3 | 25 | 7 | 0 | 0 | 0 | 1 | 6 | 1 | 0 | 34 | 1 | .171 | .234 | .357 | .591 |
| 2002 | 27 | 54 | 47 | 7 | 10 | 2 | 0 | 4 | 24 | 11 | 0 | 0 | 0 | 0 | 7 | 0 | 0 | 16 | 1 | .213 | .315 | .511 | .825 | |
| 通算:14年 | 1324 | 4699 | 4097 | 544 | 1089 | 200 | 8 | 277 | 2136 | 722 | 15 | 16 | 20 | 26 | 522 | 49 | 34 | 1057 | 80 | .266 | .352 | .521 | .873 | |
- 各年度の太字はリーグ最高
タイトル
[編集]表彰
[編集]- ベストナイン:1回(一塁手部門:1994年[83])
- 月間MVP:3回(1994年6月[84]、1994年9月[85]、1996年5月[86])
- IBMプレイヤー・オブ・ザ・イヤー賞:1回(1994年)
- 優秀JCB・MEP賞:1回(1994年)
- 愛知トヨタドラゴンズトヨタ・クラウン賞(1994年)
記録
[編集]- 初記録
- 初出場・初先発出場:1989年4月9日、対横浜大洋ホエールズ1回戦(ナゴヤ球場)、「5番・左翼手」として先発出場
- 初打席・初三振:同上、1回裏に斉藤明夫から
- 初安打:同上、7回裏に斉藤明夫からシングル
- 初本塁打・初打点:1989年4月22日、対広島東洋カープ1回戦(広島市民球場)、5回表に北別府学から
- 節目の記録
- 100本塁打:1994年4月29日、対広島東洋カープ4回戦(長良川球場)、4回裏に川口和久からソロ ※史上177人目[87]
- 150本塁打:1995年8月22日、対阪神タイガース17回戦(阪急西宮球場)、6回表に藪恵壹から左越ソロ ※史上101人目[88]
- 200本塁打:1997年5月11日、対広島東洋カープ8回戦(ナゴヤドーム)、8回裏に佐々岡真司から中越逆転決勝3ラン ※史上67人目[89]
- 1000試合出場:1998年4月22日、対横浜ベイスターズ5回戦(阪神甲子園球場)、「5番・一塁手」として先発出場 ※史上342人目[90]
- 250本塁打:2000年4月8日、対広島東洋カープ2回戦(広島市民球場)、2回表に紀藤真琴からソロ ※史上39人目[91]
- 1000安打:同上、4回表に紀藤真琴から右前安打 ※史上199人目[91]
- 1000三振:2000年9月17日、対広島東洋カープ27回戦(広島市民球場)、6回表に佐々岡真司から ※史上27人目
- その他の記
- オールスターゲーム出場:3回(1991年、1994年、1996年)
- 26試合連続安打(1999年8月24日 - 10月1日)
- 5試合連続本塁打(1996年4月11日 - 4月16日)
- 同一カードシーズン最多本塁打(1994年広島戦)
| 1994年広島戦本塁打 | ||||
|---|---|---|---|---|
| # | 日付 | 回戦 | 投手 | 球場 |
| 1 | 4月16日 | 2 | 高橋英樹 | 広島市民球場 |
| 2 | 4月17日 | 3 | 川口和久 | 広島市民球場 |
| 3 | 4月29日 | 4 | 川口和久 | 長良川球場 |
| 4 | 4月30日 | 5 | 北別府学 | ナゴヤ球場 |
| 5 | 5月1日 | 6 | 紀藤真琴 | ナゴヤ球場 |
| 6 | 6月19日 | 12 | 近藤芳久 | 広島市民球場 |
| 7 | 6月28日 | 13 | 紀藤真琴 | ナゴヤ球場 |
| 8 | 7月29日 | 15 | 前田耕司 | 広島市民球場 |
| 9 | 7月31日 | 17 | 秋村謙宏 | 広島市民球場 |
| 10 | 7月31日 | 17 | 前田耕司 | 広島市民球場 |
| 11 | 7月31日 | 17 | 井上祐二 | 広島市民球場 |
| 12 | 8月23日 | 18 | 近藤芳久 | ナゴヤ球場 |
| 13 | 8月23日 | 18 | 佐々岡真司 | ナゴヤ球場 |
| 14 | 8月24日 | 19 | 紀藤真琴 | ナゴヤ球場 |
| 15 | 8月25日 | 20 | 大野豊 | ナゴヤ球場 |
| 16 | 9月13日 | 21 | 高山郁夫 | 広島市民球場 |
| 17 | 9月14日 | 22 | 近藤芳久 | 広島市民球場 |
| 18 | 9月25日 | 26 | 佐藤貞治 | ナゴヤ球場 |
背番号
[編集]- 55 (1989年 - 2000年)
- 60 (2001年 - 2002年)
登場曲
[編集]他
関連情報
[編集]出演
[編集]CM
[編集]著書
[編集]- 『大豊:王貞治に憧れて日本にやってきた裸足の台湾野球少年』(ソフトバンクパブリッシング、2004年発行、240頁)ISBN 4797329122
関連書籍
[編集]- 『中日ドラゴンズ名選手の時代:テレビマンが描いたドラゴンズ痛快伝説』(浅野芳光著、名古屋丸善出版サービスセンター、2007年11月、ISBN 9784895973854)
- 『プロ野球、伝説の表と裏:語り継がれる勝負の裏に隠された真実の物語』(長谷川晶一著、主婦の友社、2015年1月、ISBN 9784072990162)
連載
[編集]- 「大豊泰昭・八転び七起き」(2008年頃、東京スポーツ)
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- 1 2 3 4 5 6 7 戸部良也 1996, p. 34.
- 1 2 3 4 『中日新聞』2002年10月17日朝刊運動2面30頁「さよなら竜の一本足 王めざした努力の大豊 妥協せず常に追求」(中日新聞社 末次秀行)
- ↑ 『スポーツニッポン』2002年12月配信「惜別球人2002 第8回 中日 > 王にあこがれ「一本足」で2冠王」(スポーツニッポン新聞東京本社)
- 1 2 『日刊スポーツ』2002年12月26日付第7版4頁「さよならプロ野球(8)中日編 大豊泰昭 王から受け継いだ〝第2の自分〟探し」(日刊スポーツ新聞東京本社【吉富康雄】)
- 1 2 3 4 5 6 7 戸部良也 1996, p. 35.
- ↑ 『中日ドラゴンズ2001ファンブック』中日ドラゴンズ(発行)・中日新聞本社(発売)〈中日ドラゴンズファンブック〉、2001年3月9日、23頁。ISBN 978-4806204251。 NCID BN1330555X。国立国会図書館書誌ID:000000059519・全国書誌番号:00065070。
- 1 2 3 4 5 6 『中日スポーツ』1988年12月23日付第5版1頁「大豊入団 中日新人最高額 契約金7000万 年俸840万 オープン戦、フル出場 星野指令 ドラフト補強完了 義信と6年ぶり再会 さぁ一軍出世競争」「四番候補に英才教育 練習の姿勢にほれた星野監督」(中日新聞社)
- ↑ “ずっと忘れない。大豊泰昭選手の愛される人柄を。”. CBCラジオ (2018年3月25日). 2024年3月4日閲覧。
- 1 2 『中日新聞』2024年8月6日朝刊東三河版12頁「岐路 その後 大豊泰昭さん(1) 18歳 日本の父との出会い 体から湯気 「一目ぼれ」」(中日新聞社 伊東誠)
- 1 2 3 4 5 『中日新聞』2024年8月7日朝刊東三河版12頁「岐路 その後 大豊泰昭さん(2) 来日、大学、そしてプロ入り 下宿で素振り 家が揺れた」(中日新聞社 伊東誠)
- 1 2 3 『中日スポーツ』1987年11月18日付第5版2頁「外人扱いでドラフト対象 台湾籍の大豊 名商大」(中日新聞社)
- 1 2 3 4 5 6 7 8 9 『中日スポーツ』1988年11月1日付第5版1頁「中日 24日ドラフト会議 大豊1位指名 四番候補 ケタ外れのパワー 球団職員、野球やれぬ悔しさをマシンにぶつけた1年 中日以外は行かない」(中日新聞社)
- 1 2 3 4 『中日スポーツ』1987年11月20日付第5版1頁「大豊(名商大)〝中日入り〟決断 球団職員で来年のドラフト待ち」(中日新聞社)
- 1 2 3 4 5 6 戸部良也 1996, p. 36.
- ↑ 『中日スポーツ』1987年11月19日付第5版2頁「指名もれバンザイ 外人扱い免れた大豊」(中日新聞社)
- ↑ 『中日スポーツ』1988年11月24日付第5版3頁「大豊 競合お断り 耐えた1年〝満額回答〟待つ ボクには中日のユニホームが似合う 不安払い 打撃ガンガン」(中日新聞社)
- ↑ 『中日スポーツ』1988年11月6日付第5版3頁「ドラ番記者 好青年・大豊の願いかなえ」(中日新聞社)
- 1 2 3 4 『中日スポーツ』1988年11月25日付第5版1頁「目指すは王さん 大豊『指名順位関係ない』 それでも〝確定〟までヒヤヒヤ」(中日新聞社)
- ↑ 過去のドラフト 第24回(1988年)
- ↑ 【1988年ドラフト】最大の目玉は断固プロ拒否。1位クラスを3人獲った中日/ドラフト全史1965-2018 | 野球情報 - 週刊ベースボールONLINE
- ↑ 制度として無い『逆指名作戦』…中日は今中慎二の"一本釣り"にこうして成功した 2位で大豊獲得の会心ドラフト:中日スポーツ・東京中日スポーツ
- ↑ 【第7話】日ハムスカウトと大喧嘩で今中家が不幸な家庭崩壊。初共演・今中慎二と中村武志の極みバッテリー。 - YouTube
- 1 2 『中日スポーツ』1988年11月25日付第5版3頁「巨人、ヤクルトに完敗 川崎(1位)だ岡(2位)だ 片岡スカウト、連続アーチ 希望通り、うきうき川崎」「さびた黄金の右腕 藤田さん 吉田(巨人1位)心はマウンド 落合さんと勝負したい」(中日新聞社)
- 1 2 『中日スポーツ』1988年12月24日付第5版3頁「大豊 背番号55 王さん超えるゾ シーズン最多本塁打 中日ルーキー強烈第一声 座右の銘『野望』」(中日新聞社)
- ↑ 「大豊4打点にサヨナラ7号」『読売新聞』(縮刷・関東版) 1989年(平成元年)8月24日付朝刊、19面(スポーツ面)。
- ↑ 「斎藤6失点も19勝」『読売新聞』(縮刷・関東版) 1990年(平成2年)9月30日付朝刊、17面(スポーツ面)。
- ↑ 「オールスターゲーム出場メンバー」『読売新聞』(縮刷・関東版) 1991年(平成3年)7月13日付朝刊、19面(スポーツ面)。
- ↑ 「平成ナゴヤ球場の逆転劇」ドラゴンズ・サヨナラ男列伝!CBC
- ↑ 元中日の大豊泰昭氏を追悼 ── 無骨な努力の人「トイレも1本足で」
- ↑ 「中日"反攻"へのろし 大豊10回サヨナラ弾 巨人3連敗」『読売新聞』(縮刷・関東版) 1992年(平成4年)5月24日付朝刊、22面(スポーツ面)。
- 1 2 3 「セ・リーグ全日程終了 個人賞は中日勢ズラリ 大豊が2冠 38本塁打 打点107 19勝山本昌2年連続最多勝」『読売新聞』(縮刷・関東版) 1994年(平成6年)10月10日付朝刊、25面(スポーツ面)。
- ↑ 「竜打線大噴火 立浪1号 大豊連発・・・・16点」『読売新聞』(縮刷・関東版) 1996年(平成8年)4月12日付朝刊、21面(スポーツ面)。
- ↑ 『報知新聞』1996年12月20日付大阪版第7版4頁「'96記録スペシャル(11) 中日 大豊との10差逆転 山崎10年目キング」(報知新聞社 蛭間豊章)
- ↑ 星野SA 大豊さんの早すぎる死悼む「オレより先に逝きやがって…」
- ↑ 『ハードプレイ・ハード 勝利への道』(文藝春秋、2000年)P84。星野は著書で「このトレードは、両球団にとって非常によい結果をもたらしたと思う」と記している。
- ↑ 星野が泣いた大豊も泣いていた ドーム野球へ覚悟のトレード
- ↑ 野村克也「チームに迷惑だ」批判された選手のボイコット…名将はなぜ阪神で苦しんだのか? 致命的だった“誤算”「(次は)星野がいいと思う」 - プロ野球 - Number Web - ナンバー
- ↑ 「阪神・大豊が球団新の26試合連続安打」『読売新聞』(縮刷・関東版) 1999年(平成11年)10月2日付朝刊、21面(スポーツ面)。
- ↑ 「大豊代打サヨナラ弾 ノムさん最敬礼『神様や』」『読売新聞』(縮刷・関東版) 1999年(平成11年)5月15日付朝刊、16 - 17面(スポーツ面)。
- ↑ 「中日延長11回サヨナラ負け 大豊一発 古巣一喝」『読売新聞』(縮刷・関東版) 1999年(平成11年)9月10日付朝刊、20面(スポーツ面)。
- ↑ 広澤克実氏回想 矢野が大豊先輩を怒鳴る姿、後輩には偉ぶらず
- ↑ セリーグHistoryセ・リーグ公式サイト
- ↑
- ↑ 虎戦士に愛された大豊さん急死…急性骨髄性白血病と戦って6年
- ↑ 元中日の大豊泰昭氏を追悼 ── 無骨な努力の人「トイレも1本足で」(THE PAGE) - Yahoo!ニュース
- ↑ ノムさんとの誤解もいい思い出…ジェンヌの長女の活躍楽しみにしていた 大豊さん志半ばで
- ↑ 【東海テレビ公式】ドラHOTpress (2021-10-25), 山本昌&山﨑武司 プロ野球 やまやま話「大豊泰昭伝説」(毎週月曜配信) 2024年10月12日閲覧。
- ↑ 『中日新聞』2000年11月1日朝刊運動1面27頁「阪神・大豊が自由契約」(中日新聞社)
- ↑ 『東京新聞』2000年12月3日朝刊運動3面21頁「ガルベスら自由契約 保留選手名簿を公示」(中日新聞社)
- 1 2 3 『中日新聞』2000年12月6日朝刊運動2面22頁「中日・大豊「ただいま帰ってきました」 涙枯れた3年 ゼロから出発 心機一転 背番『60』 年俸7500万円」(中日新聞社)
- ↑ 『中日新聞』2001年12月7日朝刊運動1面23頁「岩瀬 球団最速 3年で1億円 落合保留、大豊は大幅減 中日更改」(中日新聞社)
- ↑ 『中日新聞』2002年10月16日朝刊運動1面31頁「中日 大豊が現役引退へ きょう会見 プロ14年で277本塁打」(中日新聞社)
- 1 2 3 「波瀾万丈1本足打法」大豊さん死去51歳/復刻
- ↑ 51歳で逝った大豊泰昭さん 野球をこよなく愛し、オリオールズ「エース」発掘の確かな「眼力」
- ↑ 2006年度の名古屋80D'sers内野手リスト - プロ野球マスターズリーグ公式サイト内(インターネットアーカイブ2007年6月3日付保存キャッシュより)
- ↑ 2007年当時、プロ野球マスターズリーグ公式サイトトップページに掲載されていたバナー - ※バナー中央に大豊(胸番号55の左打者)の写真が掲載(インターネットアーカイブ2007年6月13日付保存キャッシュより)。
- ↑ 台湾の妹と白血球の型が一致したとき、これで生きられると思いました 急性骨髄性白血病になり、抗がん剤治療と骨髄移植を経験した 元プロ野球選手・大豊泰昭さん|がんサポート 株式会社QLife
- ↑ 2010年9月22日付中日新聞朝刊34面(社会欄) 『竜が舞う 2010秋 チェン快投 闘病の力』
- ↑ 2010年11月18日付日刊スポーツコラム 『元中日、阪神・大豊泰昭「大豊飯店」/引退後記』
- ↑ 大豊飯店 錦店閉店と新店舗「大豊ちゃん」オープンのお知らせ|大豊泰昭オフィシャルサイト
- ↑ 新店舗「大豊ちゃん」5/25にお千代保稲荷の参道にオープンのお知らせ|大豊泰昭オフィシャルサイト
- ↑ 大豊泰昭さん 歩行困難も誓っていた病気克服「強い意志で闘います」
- ↑ 大豊泰昭さん死去 元中日の本塁打王 51歳白血病で 最近は歩行困難に
- ↑ 元中日・大豊泰昭氏死去
- ↑ 大豊泰昭さん死去、51歳、元中日、強打者で活躍|2015年1月19日中日新聞
- ↑ 元中日・大豊さんの遺骨が海へ 死去から4年 本人の望みどおりに
- ↑ 東京スポーツ・2008年12月4日付 3面「大豊泰昭・八転び七起き」第18回
- ↑ 『中日新聞』1990年7月27日朝刊運動2面24頁「大豊あつあつアーチ 女優の古荘弘子さんと婚約」(中日新聞社)
- ↑ 『中日新聞』1990年12月2日朝刊運動1面25頁「〝開眼〟大豊2200万円 挙式で飛躍誓う」(中日新聞社)
- 1 2 3 『中日新聞』2009年2月28日夕刊第二社会面12頁「大豊さんの長女タカラジェンヌに 4月、祐子さん初舞台」(中日新聞社)
- ↑ “故・大豊氏の娘ら2世勢揃いの新人公演”. デイリースポーツ (2015年2月24日). 2022年12月3日閲覧。
- ↑ 『中日新聞』2022年7月5日夕刊文化面5頁「華・宝塚 ひろ香祐 星組 故郷 名古屋が出発点」(中日新聞社 山岸利行)
- ↑ 直筆による休養の発表(大豊公式HP)より
- ↑ 大豊ちゃん店主よりお客様へメッセージ
- ↑ ~大豊ちゃん通販サイト閉鎖のお知らせ~
- ↑ 立浪氏「大豊さんとしゃべる時が一番安らげた」 | 東スポWEB
- ↑ ⑤【悲劇】松井秀喜との熾烈なホームラン王争いに…やってはいけない事をやってしまった…そして星野さんに…【中日ドラゴンズ】【本塁打王】【三冠王】 - YouTube
- ↑ 代打の切り札・大豊泰昭の早すぎる死|愛甲猛コラム
- ↑ 戸部良也 1996, p. 33.
- ↑
- ↑ 『東京スポーツ』2008年2月11日付「大豊泰昭・八転び七起き」
- ↑ 野茂の奪三振、福本の盗塁、伊藤の魔球、そして早逝した大豊泰昭の一本足打法『プロ野球、伝説の表と裏
- ↑ 「新人王、藪(阪神)と渡辺秀(ダイエー)」『読売新聞』(縮刷・関東版) 1994年(平成6年)11月1日付朝刊、19面(スポーツ面)。
- ↑ 「6月MVP イチローが初受賞」『読売新聞』(縮刷・関東版) 1994年(平成6年)7月7日付朝刊、17面(スポーツ面)。
- ↑ 「月間MVPに中日勢」『読売新聞』(縮刷・関東版) 1994年(平成6年)10月4日付朝刊、25面(スポーツ面)。
- ↑ 「月間MVP、西口とブリトーが初受賞」『読売新聞』(縮刷・関東版) 1996年(平成8年)6月8日付朝刊、21面(スポーツ面)。
- ↑ 「中日・大豊一塁手が通算100号本塁打」『読売新聞』(縮刷・関東版) 1994年(平成6年)4月30日付朝刊、13面(スポーツ面)。
- ↑ 「中日・大豊が通算150本塁打」『読売新聞』(縮刷・関東版) 1995年(平成7年)8月23日付朝刊、15面(スポーツ面)。
- ↑ 「中日・大豊が200号」『読売新聞』(縮刷・関東版) 1997年(平成9年)5月12日付朝刊、16面(スポーツ面)。
- ↑ 「記録メモ 大豊(阪神)通算1000試合出場」『北海道新聞』(縮刷版) 1998年(平成10年)4月23日付朝刊、17面(スポーツ面)。
- 1 2 「阪神・大豊が通算250本塁打、1000本安打」『読売新聞』(縮刷・関東版) 2000年(平成12年)4月9日付朝刊、23面(スポーツ面)。
- ↑ 月刊タイガース2000年5月号45p
参考文献
[編集]- 戸部良也「プロフェッショナルの原風景 燃えよドラゴン! 大豊泰昭〈中日〉白球よ東シナ海を越えろ 王のホームラン記録を目指して付けた背番「55」座右の銘も「王貞治」」『週刊ベースボール』第51巻第24号、ベースボール・マガジン社、1996年6月10日、33-36頁、NDLJP:7909992/17。 - 通巻:第2175号(1996年6月10日号)。
関連項目
[編集]- 台湾の人物一覧
- 中日ドラゴンズの選手一覧
- 阪神タイガースの選手一覧
- 兄弟スポーツ選手一覧
- おれたちゃドラゴンズ - 中日を題材とした漫画作品。登場選手第1号が大豊だった。
- アジア・オセアニア・アフリカ出身の日本プロ野球外国人選手一覧
外部リンク
[編集]- 個人年度別成績 大豊泰昭 - NPB.jp 日本野球機構
- 選手の各国通算成績 Baseball-Reference (Japan)
- 大豊.com(大豊泰昭公式メモリアルサイト)