伊原春樹

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伊原 春樹
Lions Haruki Ihara.png
第二次西武監督時代(2014年4月24日)
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 広島県甲奴郡上下町(現:府中市
生年月日 (1949-01-18) 1949年1月18日(67歳)
身長
体重
184 cm
82 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 三塁手
プロ入り 1970年 ドラフト2位
初出場 1971年7月4日
最終出場 1980年6月30日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督・コーチ歴

伊原 春樹(いはら はるき、1949年1月18日 - )は、日本広島県出身の元プロ野球選手内野手)。1971年から1973年の登録名は「伊原 春植」(いはら しゅんしょく)。ニックネームは「ハル[注 1]

選手としては西鉄・太平洋・クラウン・西武巨人でプレーした。現役引退後は指導者に転身して西武(コーチ・監督)、オリックス(監督)、阪神、巨人(コーチ)の各球団に所属した。


来歴[編集]

プロ入りまで[編集]

広島県甲奴郡上下町(現:府中市)生まれ[2]。6人兄弟の次男で女4人、男2人の4番目だった[2]

上下中学校から広島県立北川工業高等学校(現:広島県立府中東高等学校、監督は古葉毅の実弟古葉福生)に進む。1966年夏の甲子園県予選では、三塁手、四番打者として活躍。準決勝で本塁打を放ち決勝に進出するが、広島商山本和行に完封を喫し、甲子園出場を逸する。

卒業後は東京都芝浦工業大学へ進学。東都大学リーグ加盟の同野球部では在学中2度優勝。1970年春季リーグでは、同期の投手・前野和博(東芝)とともに芝工大の3度目の優勝に貢献、三塁手としてベストナインにも選ばれた。大学の1年下に捕手道原裕幸がおり、三番道原、四番伊原が打の中心であった。同年の秋季リーグでは、大学紛争の影響もあり部員が急減する中、監督兼主将をつとめ、リーグ5位ながら一部残留を決める[注 2]。一部リーグ通算49試合出場、128打数29安打、打率.227、3本塁打、14打点の成績を残した。

プロ選手時代[編集]

1970年度新人選手選択会議西鉄ライオンズから2位で指名され、入団・プロ入りする。当時、学生運動で大学がロックアウトされ授業が受けられなくなったことと、入団先が福岡県であったことから卒業に要する単位が足りず、中途退学扱いでの入団だった[注 3]

初年度の1971年から控え三塁手として一軍に定着、一方で二軍のジュニアオールスターゲームにも選出される。翌1972年には竹之内雅史の外野コンバート、船田和英ヤクルト移籍が重なり、レギュラー三塁手として118試合に出場。しかし、太平洋クラブライオンズとなった1973年には内野の再編もあって定位置を菊川昭二郎に譲った。同年、アメリカマイナーリーグ1A級に属するローダイ・ライオンズに野球留学。その後は徐々に出場機会が減る。

1976年関本四十四玉井信博とのトレードで加藤初と共に読売ジャイアンツ(巨人)へ移籍。2年間在籍したがあまり出番はなく自由契約となる。1978年にクラウンライターライオンズ(1976年に太平洋クラブから球団名変更)へ復帰。ここでは準レギュラーとして活躍するが、西武となって[注 4]から二年目の1980年には出場機会が減り、同年限りで現役を引退する。

コーチ・監督時代[編集]

引退後は、1981年二軍守備走塁コーチ補佐を皮切りに、1982年から1984年二軍打撃コーチ。1985年、一軍守備走塁コーチ補佐となるが1年でチームスタッフに降格し、1987年、一軍守備走塁コーチに復帰。1999年オフ、監督・東尾修との野球観の違いやフロントの首脳陣若返り策により解任。2000年阪神タイガースの守備走塁コーチへ就任するが1年で退団し、翌2001年、西武に作戦・走塁コーチとして復帰。同シーズン限りで東尾が勇退し、次期監督と目された伊東勤が現役続行を望んだため、監督に就任するよう要請され、これを受諾する。

就任1年目の2002年、90勝[注 5]を挙げて4年ぶりのリーグ優勝に貢献。翌2003年は、後身の育成のため清水雅治に監督就任後も続けていた三塁コーチを任せ、好成績の2位で終わるものの、当初から予定されていた伊東の監督就任を受け辞任。

2004年オリックス・ブルーウェーブの監督に就任(変則3年契約=2年契約 + オプション1年)。2年連続最下位に沈んだチームの再建を期待されるが、負けが込むに従って選手・コーチとの間に軋轢が生じ、最下位に終わる。また再編問題大阪近鉄バファローズとの合併のあおりを受け、契約年数を残して1年限りで退任した。

解説者時代[編集]

2005年よりニッポン放送J SPORTS(CS衛星テレビ)のプロ野球解説者[注 6]日刊スポーツ評論家、ベースボール・マガジン社顧問[注 7]。また、2005年・2006年には、横浜対西武交流戦でテレビ神奈川(tvk)の中継解説者も務めた(2005年は5月20日[9]、2006年は5月19日[10]を担当)。

巨人復帰後[編集]

巨人コーチ時代(2010年)

2007年、巨人のヘッドコーチ[注 8]兼三塁コーチに就任(監督の原辰徳に電話をかけて「OBとして立て直したい、私にやらせて欲しい」とコーチを申し出た結果実現した)。2008年、兼任していた三塁コーチを緒方耕一に任せ、ヘッドコーチに専念する。

2009年、原がWBC日本代表監督に就任した関係で、3月のオープン戦において監督代行を務めた。シーズンでは再びコーチを務め、最終的にリーグ優勝・日本一に貢献した。

2010年、リーグ4連覇と日本一連覇を逃した責任を取ってコーチを辞任するが、球団の慰留を受け球団編成本部シニアアドバイザーに異動した[11][12]

2012年1月、2011年12月31日付けで球団編成本部シニアアドバイザーを辞職したことが発表された[13]


第2次解説者時代[編集]

2012年からは東京スポーツ評論家(専属[14][15]のほか、J SPORTS、この年から西武主催公式試合の中継放送を始める朝日ニュースター2013年からはテレ朝チャンネル2。いずれもテレビ朝日直営CS放送)、BS朝日(テレビ朝日系BS放送)各衛星テレビ局の野球解説者を務めた[注 9]

第2次西武監督時代[編集]

2013年シーズンオフ、11月3日に辞任した渡辺久信の後を受けて再び埼玉西武ライオンズの監督として指揮を執ることになった[16]。背番号は73[17]

2014年、開幕から3連敗スタートで、両リーグ最速の30敗となるなど序盤から最下位に低迷。6月3日に伊原は球団の休養を申し入れ、翌4日に了承され、開幕から53試合目となる同日の対横浜DeNAベイスターズ戦(西武ドーム)の試合後に伊原の休養と、監督代行に打撃コーチの田辺徳雄が就任することが発表された[18]。6月27日、球団に監督の辞任を申し入れ、了承され、7月1日付で球団本部付アドバイザーに就任したが[19]、同年末で退団した[20]

第3次解説者時代[編集]

2015年2月からは野球解説者・評論家に復帰[注 10]。東京スポーツ専属評論家[21]をはじめ、各放送局で解説者を務める[注 11]。同年7月3日文化放送で放送された西武対ロッテ戦中継へのゲスト解説が復帰後初解説となった[注 12]

指導者として[編集]

機動力の鬼才[編集]

西武コーチ時代、三塁ベースコーチとして的確な走塁判断を行い、西武の頭脳と呼ばれた。緻密な西武野球は伊原の手腕によるものと評価は高い[26]。対戦チームの選手の癖を見抜き、見抜いた癖をベンチでメモ帳に書き留めていく姿は対戦相手に脅威を与えた。

伝説の走塁[編集]

伊原の名前を全国区にしたのは、1987年の日本シリーズ第6戦であった。8回裏2対1と西武1点リードで迎えた二死一塁、秋山幸二がセンター前ヒット。通常は一、二塁、あるいは一、三塁の場面であるが、一塁ランナー辻発彦は一気にホームイン。後に「伝説の走塁」と呼ばれる走塁であり、このとき辻に突入を指示したのが、当時コーチだった伊原であった。

対戦チームである巨人の中堅手ウォーレン・クロマティは返球が緩慢であり、中継プレーに入る遊撃手川相昌弘には「二塁進塁を警戒して打者走者を見るために右回転し、結果先の走者を見ない」という癖があった。伊原は2人の癖を看破し、かつ巨人ベンチがこの癖に気付いていないと見抜き[注 13]、辻に突入を指示したのである。この走塁指示により、伊原の洞察力と走塁判断の確かさは全国に知れ渡ることになる。

伊原は著書の中で1987年はセ・リーグでは巨人が独走しており「間違いなく巨人が来るな」と家でも遠征先でも巨人の試合をマメに見ていたという[27]。「中継を見ているとクロマティのところにフライが上がった時、ランナーがいなければクロマティは必ずホワーンとした投げ方で内野に返す[27]。ランナーがいたらどうかというと、普通に投げる事は投げるんです[27]。ただ、弱肩なのかクセなのか、ランナーなしの場面より素早く投げるものの、それでも私から見ればホワーンとしたボールを返してます」[27]「これは生かせるな」とあの走塁が生まれたという[27]

もっとも、このプレーがあまりに有名だがそれに限らず、オリックス監督時代や巨人コーチ時代などに何度かシングルヒットでの一塁走者の本塁生還をサードコーチャーとして成功させている。

鬼軍曹[編集]

伊原は「コーチは嫌われ者でなければならない。選手に好かれようと思ったら、お互い成長が止まる」と発言しており、どのチームでも鬼軍曹として非常に厳しい指導を行った。また味方を擁護するため、対戦相手となる他チームの選手や監督、コーチらに対しても容赦ない振る舞いを見せた。2013年11月の西武監督復帰時には、鬼が帰ってきたと一部では揶揄された。ただし、そのような誰が相手でも容赦なく歯に衣着せぬ発言をすることが原因で舌禍騒動を引き起こしたり、その妥協なき硬派な指導方針が原因で第二次西武監督時代においては選手との確執が相次ぎチームが低迷したとの見方もある(後述)。

西武コーチ時代[編集]

佐々木誠は「尊敬していたのは伊原さん。誰にでもはっきりとモノを言うし、ゴマをすったりしませんから」と語っている[28]

オレステス・デストラーデは「伊原さんは厳しくて、いつも怒っていたよ」と述べている[29]

第2次西武監督時代[編集]

シーズン開幕後は成績が上がらず、敗戦後に選手を名指しで痛烈に批判する場面も増えていたため、それが原因で一部選手との確執が報じられた[30]。報道陣に対して「監督に敗戦後のインタビューは控えて欲しい。士気の低下を招く」と要望した選手や、「あの人(伊原)は勝ったら自分の手柄、負けたら選手の責任にする」と言い放った選手もいたとの一部報道もある。

秋田への遠征中、5月16日に同市内で行われた全体練習で暴風雨だったにも関わらず、屋外での全体ランニングを強行。長期の遠征中だったこともあり、一部の選手から反発の声が上がった[31]。伊原は報道陣に「これで負のオーラを流すことが出来る」と語り、低迷するチームへの発奮を促すためであると強調したが、選手たちからは不満の声が続出したという見方もあり[32]、「これが決定的な関係悪化を招いた」と証言した関係者もいたとされ、約2週間後の休養も「事実上の解任」との噂も囁かれている。

野村克也との確執[編集]

1年限りで阪神から西武に復帰したことから、野村克也とは不仲とされている。阪神退団の理由は家庭の事情によるものとしているが、当時阪神のチーフスコアラーだった三宅博は確執が原因で辞任したと記している[33]

野村率いる楽天との交流戦(2008年5月29日)で、楽天2点リードの9回二死一塁で矢野謙次が盗塁を失敗しゲームセットになる。試合後、野村はバッカじゃなかろかルンバ、巨人は面白い野球をするね、野球は意外性のスポーツ」とコメントし、これをマスコミは総じて「巨人ベンチの凡ミスを野村が指摘」という論調で取り上げた。翌日、野村のその言動を知った伊原は激怒し「うちの監督(原辰徳)を侮辱するな」と発言、マスコミに対して猛烈な反論を展開。伊原は野村がとった一連の言動を「選手が成功すれば自分の手柄にし、失敗すれば責任を他人へ押し付ける。そういう悪い癖は昔から何ひとつ変わっていない」と批判し、更に「年寄りだから仕方がない。考えを正す、思い直すということをしないのだろう」「年長者だからとみんな許してしまい、大抵の理不尽はまかり通ってしまう」などと厳しい言葉を続けた。野村も負けじと「先日の走塁ミスは原(辰徳)の策じゃないのはわかっている。彼は賢い男だから、その程度のミスは絶対に犯さない」と発言、伊原のコーチとしての采配能力についても触れ「(阪神コーチ時代の伊原は)どんな場面でも、誰が走者でも関係なく走らせた」「あまりにもチャンスを潰すものだから、最終的に伊原から走塁に関する指示の権限を取り上げるしかなかった」と語った。さらに野村は「昔から先輩に対するマナーがなっておらず、無礼で非常識な男」という伊原の人物評を明らかにし、マスコミの前で散々に皮肉った。伊原はなおも「自分の非を認めず、常識がない人間の言うことに耳を傾ける必要はない」とコメントしたが、その頃には各種マスコミで原や伊原自身がバッシングに晒されていた[注 14]

翌2009年の交流戦で巨人が楽天に4戦全勝すると、伊原は報道陣の前で「野村監督さま、今年の交流戦は4連勝させていただき、ありがとうございます。これもひとえに『ノムラの考え』のおかげでございます。昨年いただいたお言葉は非常に参考になりました。今日は1年間お預かりしていた、あのお言葉をそっくりそのままお返しさせていただきます。バッカじゃなかろうか〜、ルンバ!」と野村をこき下ろした[34]

人物[編集]

2003年、中退扱いになっていた芝浦工業大学へ再入学し[35]、残っていた単位を取得して2004年に卒業[3]。卒業式は当時学長の江崎玲於奈らを交えてマスコミにも紹介され話題となった[3]

現役時代、宅地建物取引士の資格試験を一発で合格。これは当時の伊原の居住先の大家が、大学卒業を果たせず、特に資格も持たなかった伊原に「ユニフォームを脱いでも職に困らぬよう」受験を薦めたためである。伊原は後年この大家の娘と結婚した。

1985年から1994年までは背番号78であったが、東尾修が監督就任時に78を希望した為[36]1995年より背番号73を着けた[36]。これは夫人からのアドバイスにより、夫人の名前との語呂合わせから採用したため[36]であり、西武[36]、オリックスの監督就任時にもこれを貫いたが、2007年より巨人の野手総合コーチに就任すると78を着けた。これは緒方耕一が恩師藤田元司の背番号の73を既に着けていたことと、自身が8回日本一になったゲンのいい番号であるからという理由である。西武監督再任時には再び73番を着けた[36]

1978年の所沢への球団移転に対しては、東尾、竹之内雅史らと共に最後まで反対していたが、西武監督時代にはトミー・ラソーダの「俺にはドジャーブルーの血が流れている」に倣って「俺にはライオンズブルーの血が流れている」とまで発言している。巨人ヘッドコーチ就任後も、当時守備が上達しなかった西武の中島裕之を「ナカジはどうしてる? あいつはサードが一番向いているんだが…」と案じていた。

西武監督時代、2002年オフに放出した鈴木健ヤクルトスワローズに移籍した翌2003年のシーズンに大活躍。オールスターに選出され、前年リーグ優勝チーム監督としてパ・リーグを率いる伊原のもとに挨拶に行ったが理不尽に怒鳴られ退散せざるをえなかったという。

強面の反面リップサービスも嫌いではない。ニッポン放送の解説者時代、中継開始前に野村克也の物まねをしたこともある。

好きな食べ物はカレーライスで、それも普通の人ならとても食べられないレベルの激辛が好み。2010年の巨人春季キャンプでは、宿舎となったホテルで提供されるカレーライスが伊原のリクエストで日を追うごとに辛さを増し、他の選手・スタッフがとても食べられないほどになってしまったため、キャンプ後半には普通の選手用の「中辛」と伊原用の「激辛」の2種類が用意されたという[37]

携帯電話が大嫌い。西武時代に首脳陣が持たせようとしたが「携帯電話で、自身の行動範囲を縛られる感覚が理解できない」と拒否、以後も持っていない。伊原への伝言は全て夫人が管理していると言う。

2008年、萩本欽一が巨人のキャンプを訪れ、ファンの前で“欽ちゃん走り”をするよう伊原に振った。伊原は「イメージ壊すからね~…」と初めは拒んだものの、「イメージを壊して違うところへ行く巨人が見たい」という一歩も引かない萩本の態度に屈し、欽ちゃん走りを披露した。

自伝によると二軍のコーチ時代から監督時代も含め、20年間、攻撃時には三塁コーチを担当する事が多かったが、最初に一軍のコーチに配置転換した際には、一塁コーチを務めていた時期もわずかにあったと言う[38]

詳細情報[編集]

年度別打撃成績[編集]

















































O
P
S
1971 西鉄
太平洋
39 123 115 13 31 6 0 2 43 8 3 0 2 1 3 0 2 24 2 .270 .298 .374 .671
1972 118 366 332 23 80 15 1 7 118 32 2 2 1 0 20 0 13 41 11 .241 .310 .355 .665
1973 32 55 48 4 13 0 1 0 15 2 0 0 0 0 5 0 2 2 1 .271 .364 .313 .676
1974 44 80 78 5 19 3 0 1 25 8 0 1 0 1 1 0 0 12 2 .244 .250 .321 .571
1975 22 25 24 4 3 0 0 0 3 0 0 1 0 0 0 0 1 0 2 .125 .160 .125 .285
1976 巨人 9 5 5 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 1 0 .000 .000 .000 .000
1978 クラウン
西武
80 90 83 10 21 1 0 2 28 5 2 1 0 0 5 0 2 13 1 .253 .311 .337 .648
1979 85 102 93 7 22 2 0 0 24 3 0 1 2 1 5 0 1 13 2 .237 .280 .258 .538
1980 21 6 6 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 1 0 .000 .000 .000 .000
通算:9年 450 852 784 66 189 27 2 12 256 58 7 6 5 3 39 0 21 107 21 .241 .294 .327 .621
  • 西鉄(西鉄ライオンズ)は、1973年に太平洋(太平洋クラブライオンズ)、1977年にクラウン(クラウンライターライオンズ)、1979年に西武(西武ライオンズ)に球団名を変更

年度別監督成績[編集]

年度 球団 順位 試合 勝利 敗戦 引分 勝率 チーム
本塁打
チーム
打率
チーム
防御率
年齢
2002年 西武 1位 140 90 49 1 .647 183 .278 3.20 53歳
2003年 2位 140 77 61 2 .558 191 .271 4.43 54歳
2004年 オリックス 6位 133 49 82 2 .374 112 .283 5.66 55歳
2014年 西武 6位 53 20 33 0 .377 28 .244 3.82 65歳
通算:4年 466 236 225 5 .512 Aクラス2回、Bクラス1回
  1. 2001年から2003年までは140試合制
  2. 2004年に限り135試合制(ただし、2試合ストライキのため中止のため133試合で打ち切り)
  3. 2014年は6月4日限りで休養、6月24日に正式に退任。監督代行は田辺徳雄。成績は2014年6月4日終了時点

表彰[編集]

  • パ・リーグ優勝監督賞(2002年[39]

記録[編集]

背番号[編集]

  • 7 (1971年 - 1975年)
  • 56 (1976年 - 1977年)
  • 30 (1978年 - 1980年)
  • 78 (1981年、1985年 - 1994年、2007年 - 2010年)
  • 91 (1982年 - 1984年)
  • 73 (1995年 - 1999年、2001年 - 2004年、2014年 - 同年途中)
  • 87 (2000年)

登録名[編集]

  • 伊原 春植(いはら しゅんしょく、1971年 - 1973年)
  • 伊原 春樹(いはら はるき、1974年 - 2004年、2007年 - 2010年、2014年 - 同年途中)

関連情報[編集]

出演番組[編集]

※いずれも、解説者として出演したプロ野球中継

著書[編集]

脚注[編集]

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注釈[編集]

  1. ^ 西武コーチ時代のプロ野球名鑑[1]
  2. ^ 後年のプロ野球名鑑内プロフィールでも、大学の選手兼任監督時代を思い出に挙げている[1]
  3. ^ 学生運動の影響で授業が受けられず3単位を残したまま、西鉄入り旨の情報は、次の資料より確認できる[3]
  4. ^ 併せて、本拠地も埼玉県に移転。
  5. ^ これは球団史上最多勝利記録であり、かつ新人監督勝利数の日本プロ野球新記録であった。
  6. ^ 最初の解説者時代のプロ野球名鑑より、
    • 『週刊ベースボール』プロ野球名鑑号では2005年にニッポン放送[4]、2006年にニッポン放送・J SPORTS(Jスポーツ表記)[5]の解説者として紹介。
    • 『12球団全選手カラー百科名鑑』シリーズでは2005年[6]・2006年[7]ともにニッポン放送解説者として紹介。
  7. ^ 最初の解説者時代も、ベースボール・マガジン社顧問の肩書入りで『週刊ベースボール』にてコラムを担当していた[8]
  8. ^ 当初は「野手総合コーチ」という肩書きだったが、開幕前に変更された。
  9. ^ 『プロ野球&メジャーリーグ解説者名鑑』より、2013年現在のJ SPORTS、テレ朝チャンネル2各局プロ野球解説者リストにそれぞれ明記。
  10. ^ 2015年2月14日付東京スポーツウェブ記事より、仕事始めと明示の上、原辰徳との対談が掲載[21]。また、同年3月11日付サンケイスポーツウェブ記事より、同年2月から評論家へ復帰したことが明記[22]
  11. ^ 2015年3月11日付サンケイスポーツウェブ記事より、同年シーズンから文化放送の解説者へ復帰予定としている[22]
  12. ^ a b 参考:
    • 初解説の告知記事…[23]
      • 文化放送公式サイト内週間番組表…[24]
    • 初解説の後記…[25]
  13. ^ この試合の2回裏、俊足とは言えない二塁ランナー清原和博がセンターフライ(クロマティの捕球)によるタッチアップでホームインした。伊原は巨人ベンチで誰ひとりクロマティに注意しないのを見て、巨人ベンチが癖に気付いていないと確信した。
  14. ^ 盗塁については、楽天のキャッチャー藤井彰人がすでに腰を浮かせていたという意見があり、野村が「伊原ならここで走らせてくる」と見抜いていたという説、もしくはバッターボックスにいたキャリアの浅い短距離打者隠善智也にサポートの意図でエンドランのサインを出したのを隠善が見逃したという説がある。
  15. ^ 参考:2005年…9月24日の西武対ソフトバンク戦(西武のプレイオフ進出決定試合)を担当(11月9日も、『J SPORTS STADIUM2005 ベストゲーム』として再放送[40])。

出典[編集]

  1. ^ a b 『週刊ベースボール』1985年2月25日号「'85プロ野球全選手写真名鑑」掲載のプロフィール(西武ライオンズの名鑑ゾーンより、守備走塁コーチ補佐と紹介)を参照。「大学(芝浦工大)時代選手兼任監督でプレーしたこと」と記載。
  2. ^ a b 伊原春樹著、二流選手から一流指導者へ―三塁コーチの視点-誰も書かなかった「勝利の方程式」、ベースボール・マガジン社、2011年、P134
  3. ^ a b c 『スポーツ報知』公式サイト野球ニュースポータル(インターネット・アーカイブ=以下、IA 2004年4月1日付保存キャッシュ)→2月1日 - 4月12日付オリックス関連記事一覧(IA同13日付保存キャッシュ)<→3月18日付記事『伊原監督が芝浦工大を卒業』(※配信月日は、先述記事一覧に明記。 IA同17日付保存キャッシュ)
  4. ^ 『週刊ベースボール』2005年2月26日増刊号「2005プロ野球全選手写真名鑑」(第60巻第7号通算2679号。同日、ベースボール・マガジン社発行)掲載の評論家・解説者名鑑(P148-149)を参照(伊原はP148)。
  5. ^ 『週刊ベースボール』2006年2月25日増刊号「2006プロ野球全選手写真名鑑」(第61巻第7号通算2737号。同日、ベースボール・マガジン社発行)に掲載された評論家・解説者名鑑(P140-141)を参照(伊原はP140)。
  6. ^ 『12球団全選手カラー百科名鑑2005』(『ホームラン』2005年3月号増刊。同31日、日本スポーツ出版社発行)
  7. ^ 『12球団全選手カラー百科名鑑2006』(『ホームラン』2006年3月号増刊。同31日、日本スポーツ出版社発行)
  8. ^ 参考:『週刊ベースボール』2006年5月8日号(第61巻第19号通算2749号。同日、ベースボール・マガジン社発行)P106掲載『Baseball Column「2×2」』でのプロフィールに「現小社顧問」と記載。
  9. ^ 該当試合含む放送予定リスト(2005年4月8日 - 6月8日) - インターネットアーカイブ2005年11月9日付保存キャッシュ
  10. ^ 該当試合含む放送予定リスト(2006年5月19日 - 7月15日) - インターネット・アーカイブ2007年2月6日付保存キャッシュ
  11. ^ 伊原シニアアドバイザーが就任会見(2010年10月28日時点のアーカイブ) - 読売ジャイアンツ公式サイト 2010年10月25日付ニュース
  12. ^ 巨人・伊原氏がアドバイザー就任 篠塚コーチらとは契約せず - 『47NEWS』2010年10月24日22時24分付配信(ソース:共同通信)
  13. ^ 時事ドットコム[1] [リンク切れ]
  14. ^ 『東京スポーツ』2012年2月18日付1面・裏1面紹介ページ(『東スポWEB』より)から、裏1面記事『和田阪神に提言「金本外せ」』に専属評論家として紹介。
  15. ^ 週刊ベースボール、2012年2月24日号、p36
  16. ^ 西武、伊原監督を発表 11シーズンぶり古巣復帰”. スポーツニッポン (2013年10月22日). 2013年10月22日閲覧。
  17. ^ 背番号のお知らせ 2013年11月3日配信。
  18. ^ 西武 伊原監督が休養 残り試合は田辺コーチが代行スポーツニッポン2014年6月4日配信
  19. ^ 西武・伊原監督が辞任、7月からアドバイザー就任 田辺監督代行は変わらず - サンケイスポーツ・2014年6月27日
  20. ^ 西武・伊原アドバイザーが退団 今後は野球評論家に - サンケイスポーツ・2014年12月31日
  21. ^ a b 原監督 澤村の能力を新天地で生かしたい - 『東スポWEB』2015年2月14日9時付配信 ※「前西武監督の伊原春樹氏が1年の時を経て本紙専属評論家に復帰。」という記述あり。
  22. ^ a b 伊原春樹前監督が今季の西武を大予想!/球界ここだけの話(112) (1/2ページ) - 野球 - SANSPO.COM(サンスポ) 2015年3月11日13時付配信
  23. ^ 7・3西武-ロッテ戦のゲスト解説に前監督の伊原氏 - 『nikkansports.com』2015年6月29日18時3分
  24. ^ 文化放送公式サイト内で配信された、2015年6月30日 - 7月6日分の週間番組表(インターネット・アーカイブ同6月30日付保存キャッシュ) ※左から5列目(右から3列目)にあたる7月3日金曜日の列を参照。18:00からの『文化放送ライオンズナイター』に、松沼博久とのダブル解説として伊原の名が明記。
  25. ^ 【球界ここだけの話(229)】西武・伊原前監督が手術を前にソフトバンク攻略法を伝授 (1/2ページ) - 野球 - SANSPO.COM(サンスポ2015年7月8日13時
  26. ^ 東京スポーツ 2009年8月8日 3面。
  27. ^ a b c d e 二流選手から一流指導者へ―三塁コーチの視点-誰も書かなかった「勝利の方程式」、P62-P64
  28. ^ 『野球小僧』2012年6月号(白夜書房発行)、p.130
  29. ^ デストラーデが語る「西武黄金時代と日本野球」(3/4ページ目) - 集英社『スポルティーバ』公式サイト 2015年7月28日配信分(文:島村誠也)
  30. ^ 伊原監督“休養”ナゼ?前近代的な指導や規律にナインの心が離反 ― スポニチ Sponichi Annex 野球
  31. ^ 払拭できなかった西武・伊原監督と選手の「距離感」 チームに一体感なく産経ニュース2014年6月4日配信
  32. ^ 選手にそっぽ向かれた西武・伊原監督「休養」 「暴風雨でも屋外ランニング」で亀裂決定的に : J-CASTニュース
  33. ^ 三宅博著、虎の007 スコアラー室から見た阪神タイガースの戦略 角川マガジンズ、2012年、P139-P140
  34. ^ 伊原ヘッド雪辱「バッカじゃなかろ~か」 - nikkansports.com 2009年6月9日8時22分 『日刊スポーツ』紙面から
  35. ^ 西武伊原監督、芝浦工大に復学 オフに受講、卒業目指す - 47NEWS・2003年2月18日
  36. ^ a b c d e 『サンケイスポーツ』(東京本社発行版)2013年11月4日付 5面 6版
  37. ^ 東京スポーツ 2010年2月25日付・2面
  38. ^ 『二流選手から一流指導者へ―三塁コーチの視点-誰も書かなかった「勝利の方程式」』
  39. ^ 2002年度 表彰選手 (パシフィック・リーグ)
  40. ^ J SPORTS公式サイト内『J SPORTS STADIUM2005 ベストゲーム「【劇的サヨナラで西武プレイオフ進出決定!】 西武 vs. 福岡ソフトバンク(09/24)」』番組告知ページ(インターネット・アーカイブ同10月27日付保存キャッシュ)
  41. ^ 文化放送公式サイト内で配信された、2015年9月14 - 20日分の週間番組表(インターネット・アーカイブ同12日付保存キャッシュ) ※左から6列目(右から2列目)にあたる土曜日の列を参照。午後5:57からの『文化放送ホームランナイター』の部分に「ゲスト」の肩書付きで伊原の名が明記。

参考資料[編集]

  • 古矢徹著『プロ野球&メジャーリーグ解説者名鑑 ただいま放送席の音声のみでお送りしています』(2013年7月1日、メタモル出版発行)ISBN 978-4-89595-8448
    • P158-159掲載の解説者リスト(P159に、同年6月20日現在の情報である旨が明記)
  • 週刊ベースボール』バックナンバー(ベースボール・マガジン社発行)
  • 『12球団全選手カラー百科名鑑』シリーズ
  • 別冊宝島『プロ野球選手データ名鑑』シリーズ(宝島社発行)
  • 各種外部リンク

関連項目[編集]

外部リンク[編集]