田村藤夫

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田村 藤夫
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 千葉県習志野市
生年月日 (1959-10-24) 1959年10月24日(64歳)
身長
体重
182 cm
85 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 捕手
プロ入り 1977年 ドラフト6位
初出場 1981年9月27日
最終出場 1997年8月5日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
コーチ歴
  • 福岡ダイエーホークス (1999)
  • 日本ハムファイターズ
    北海道日本ハムファイターズ (2000 - 2005)
  • 中日ドラゴンズ (2007 - 2011)
  • 阪神タイガース (2012)
  • 福岡ソフトバンクホークス (2013 - 2016)
  • 中日ドラゴンズ (2017 - 2019)

田村 藤夫(たむら ふじお、1959年10月24日 - )は、千葉県習志野市出身の元プロ野球選手捕手)・コーチ解説者評論家

経歴[編集]

関東第一高校では、エースとして2年次の1976年に秋季東京大会で準決勝に進むが、弓田鋭彦(早大 - 日本石油)・谷田部和彦(早大 - 拓銀)・川又米利らを擁する早実に敗れる。3年次の1977年には捕手へ転向し、夏の全国選手権東東京大会でも準々決勝へ進出するが、またも早実に大敗したため甲子園出場には届かなかった。同年のドラフト6位で日本ハムファイターズに入団。

日本ハム時代[編集]

プロ入り後、加藤俊夫大宮龍男の存在で二軍イースタン・リーグ)暮らしやブルペン生活が続いた。

1980年には球団が業務提携していたニューヨーク・ヤンキース傘下のA級に留学。

1981年には初めて一軍の春季キャンプに参加したものの、オープン戦の途中に二軍落ち[1]。9月27日の対阪急ブレーブス戦(西宮球場)で途中ながら初出場を果たし、福本豊の盗塁を制している[1]

1982年には、大宮が死球禍で一時離脱したことによって出場機会を増やし、37試合の出場ながら打率.308を記録[1]。その後も徐々に出場機会を増やしていき、控え捕手として一軍に定着。

1986年には大宮から正捕手の座を奪うと、打撃でも巧みな右打ちが光り、最初は7番打者でスタートしたが一時は5番にも座る[1]。7月まで打率3割をキープするも疲れもあってか後半は失速するが[1]オールスター初出場と自身唯一の全試合出場を果たし、初の規定打席到達で打率.274(リーグ24位)、自己最高の19本塁打を記録。同年は盗塁阻止率.427を記録し、伊東勤の.345を上回って以降、盗塁阻止率)では5年連続で伊東を凌駕している[1]

1987年は自己最多の60打点と自己最高の打率.275(リーグ11位)を記録。

1988年は打撃こそ失速したものの、自己最高の盗塁阻止率.465を記録。同年の日米野球では、59回連続無失点を記録中であったオーレル・ハーシュハイザーから11月5日の第1戦(東京ドーム)で本塁打を放つ。

1989年には横浜大洋ホエールズから若菜嘉晴が移籍してきたが、正捕手の座を守った。同年10月1日の福岡ダイエーホークス戦(平和台球場)で史上41人目のサイクル安打を達成。

1990年4月25日の近鉄バファローズ戦(東京ドーム)では柴田保光ノーヒットノーランをアシスト。

1993年シーズンには自身初タイトルのベストナインゴールデングラブ賞を獲得したほか、金石昭人との最優秀バッテリー賞も受賞。同年のシーズンオフに「田村がFAするかもしれない」という噂が流れ、読売ジャイアンツ長嶋茂雄監督からもラブコールを貰ったが[2]、年俸9000万・功労金2000万という条件で球団に残留。

1995年は盗塁阻止率.390とリーグ二位の記録をしたものの打撃成績では自己ワーストとなり田口昌徳の台頭や、近鉄から移籍してきた山下和彦の活躍で9年ぶりに100試合を割る。それでも7月5日の西武ライオンズ戦(東京ドーム)では西崎幸広のノーヒットノーランをアシストしたが、同年のシーズンオフに日本ハムから戦力外通告を受け、金銭トレードで千葉ロッテマリーンズへ移籍。

ロッテ時代[編集]

1996年定詰雅彦から正捕手の座を奪って95試合に出場。しかし同年シーズンオフにFA権を行使してわずか1年で退団。ロッテ球団初のFA移籍選手となった。

ダイエー時代[編集]

1997年、FA権を行使してダイエーに入団。既に一線で活躍する選手としての能力は衰えていたが、「城島健司に手本を見せてやってくれ」という、ダイエーの一軍バッテリーコーチであった若菜の懇願で移籍。

1997年は城島の指導役として貢献し、城島も「田村さんからは実戦で学ぶことが多かった」と述べている[3]。試合終盤のリリーフ捕手的な役割を中心に22試合に出場した。

1998年は一軍出場がなく、同シーズン限りで現役を引退

引退後[編集]

引退後の翌1999年、ダイエーの2軍バッテリーコーチを務めた。

2000年に同年から監督に就任した大島の要請で、古巣・日本ハムに一軍バッテリーコーチとして5年ぶりに復帰[4]

2004年からは投手コーチを兼任[5]

2006年は現場を離れてスコアラーへ転身。25年ぶりのリーグ優勝と44年ぶりの日本一に貢献し、同年限りで退団した。

2007年からは中日ドラゴンズ一軍捕手コーチに就任し、2度のリーグ優勝と2007年の日本一に貢献。

2011年退団。

2012年には阪神タイガース二軍バッテリーコーチに就任したが、1年で辞任[6]

2013年からはソフトバンク一軍バッテリーコーチに就任[7]

2014年のリーグ優勝と日本一に貢献。

2015年から2016年には二軍バッテリーコーチを務めた。

2017年からは中日に一軍バッテリーコーチとして7年ぶりに復帰[8]するが、2年連続5位に低迷して正捕手を固定できなかった[9]

2019年退任。

2020年からは日刊スポーツ評論家として活動している[10]

選手としての特徴[編集]

日本ハム時代に同僚であった大島康徳は田村を「キャッチャーとしての技術は超一流でした」と評価している[4]武田一浩は「本当に上手い捕手」として田村を挙げている[11]。当時のパ・リーグには球界を代表する捕手だった伊東の存在があったため、ベストナインやゴールデングラブ賞といったタイトル獲得はかなり少なかった。オールスターの選出に関しては捕手枠が2 - 3名のため、毎年おおむね田村、伊東で決まり、中嶋聡オリックス)ら他チームの捕手の出番は少なかった。

詳細情報[編集]

年度別打撃成績[編集]

















































O
P
S
1981 日本ハム 1 1 1 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 .000 .000 .000 .000
1982 37 85 78 9 24 7 1 1 36 10 0 1 1 0 6 0 0 6 1 .308 .357 .462 .819
1983 40 80 70 6 19 1 0 1 23 6 1 0 4 2 4 0 0 10 2 .271 .303 .329 .631
1984 77 215 191 24 52 10 1 6 82 26 0 1 3 1 17 0 3 18 6 .272 .340 .429 .769
1985 104 386 336 45 96 10 0 9 133 45 0 2 7 2 36 2 5 52 7 .286 .361 .396 .757
1986 130 516 468 53 128 20 0 19 205 56 4 0 5 5 34 1 4 78 11 .274 .325 .438 .763
1987 125 498 454 49 125 16 1 12 179 60 5 2 5 0 37 2 2 70 20 .275 .333 .394 .727
1988 129 501 456 42 113 18 2 10 165 35 4 3 7 5 30 1 3 79 15 .248 .296 .362 .657
1989 123 408 366 35 91 23 2 11 151 45 5 7 10 1 28 1 3 73 5 .249 .307 .413 .719
1990 106 327 279 36 68 14 2 9 113 33 3 2 9 1 35 0 3 54 7 .244 .333 .405 .738
1991 122 386 334 36 82 11 2 11 130 38 4 1 15 3 32 1 2 56 6 .246 .313 .389 .702
1992 116 413 345 36 84 11 1 9 124 35 0 1 19 2 47 1 0 72 10 .243 .332 .359 .692
1993 129 473 401 37 103 14 1 5 134 40 6 6 20 2 45 0 5 85 4 .257 .338 .334 .672
1994 116 386 323 30 75 12 3 5 108 38 3 2 15 5 43 0 0 77 6 .232 .318 .334 .652
1995 80 197 156 9 29 6 0 1 38 9 0 0 13 1 26 0 1 31 8 .186 .304 .244 .548
1996 ロッテ 95 223 169 17 28 5 0 1 36 8 0 1 22 1 30 0 1 53 2 .166 .294 .213 .507
1997 ダイエー 22 31 25 3 6 0 0 0 6 2 0 0 3 0 3 0 0 5 1 .240 .321 .240 .561
NPB:17年 1552 5126 4452 467 1123 178 16 110 1663 486 35 29 158 31 453 9 32 819 111 .252 .324 .374 .697
  • 各年度の太字はリーグ最高

年度別守備成績[編集]



捕手










1981 日本ハム 1 1 0 1 1.000
1982 36 23 16 7 .304
1983 38 19 12 7 .368
1984 71 76 52 24 .316
1985 101 91 60 31 .341
1986 128 82 47 35 .427
1987 124 103 66 37 .359
1988 129 86 46 40 .465
1989 123 79 49 30 .380
1990 105 60 40 20 .333
1991 121 76 49 27 .355
1992 116 89 63 26 .292
1993 129 99 65 34 .343
1994 114 70 52 18 .257
1995 75 59 36 23 .390
1996 ロッテ 95 71 57 14 .197
1997 ダイエー 21 11 10 1 .091
通算 1527 1095 720 375 .342

表彰[編集]

記録[編集]

初記録
節目の記録
  • 1000試合出場:1992年4月11日、対千葉ロッテマリーンズ2回戦(東京ドーム)、8番・捕手として先発出場 ※史上299人目
  • 100本塁打:1993年7月1日、対千葉ロッテマリーンズ13回戦(千葉マリンスタジアム)、9回表に前田幸長から2ラン ※史上175人目
  • 1000本安打:1994年4月30日、対福岡ダイエーホークス2回戦(東京ドーム)、9回裏に吉田豊彦から ※史上176人目
  • 1500試合出場:1996年8月9日、対近鉄バファローズ16回戦(千葉マリンスタジアム)、9番・捕手として先発出場 ※史上117人目
その他の記録

背番号[編集]

  • 35(1978年 - 1981年)
  • 22(1982年 - 1996年)
  • 29(1997年 - 1998年)
  • 75(1999年)
  • 72(2000年 - 2005年、2007年 - 2011年、2017年 - )
  • 82(2012年)
  • 86(2013年 - 2016年)

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e f 田村藤夫 「伊東より実力は上」とも言われた名キャッチャー/プロ野球1980年代の名選手”. 週刊ベースボールONLINE (2019年5月20日). 2021年12月17日閲覧。
  2. ^ 田村藤夫プロフィール”. 2023年1月5日閲覧。
  3. ^ 打たれた球をどう生かすか、です”. Number Web (2004年5月6日). 2021年12月17日閲覧。
  4. ^ a b 週刊ベースボール 2019年2月25日号、大事なのは愛ですよ、愛!【大島康徳の負くっか魂!!第95回】68-69頁
  5. ^ 現役時代投手ではなかった選手が投手コーチに就任することは異例である。
  6. ^ 田村藤夫氏のファームコーチ就任について”. 阪神タイガース (2011年11月21日). 2011年11月21日閲覧。
  7. ^ 2013年 コーチングスタッフについて”. 福岡ソフトバンクホークス (2012年10月29日). 2012年10月29日閲覧。
  8. ^ 中日・土井打撃コーチが就任会見「1点をもぎ取る野球を、ちょっとずつ選手に植え付けていきたい」”. サンケイスポーツ (2016年10月26日). 2021年12月17日閲覧。
  9. ^ 【セ・リーグ】キャンプ最注目の若手選手はだれ?”. 週刊ベースボール (2019年1月28日). 2021年12月17日閲覧。
  10. ^ 佐々木朗希に修正点も…素質ダル/新加入・田村藤夫”. 日刊スポーツ (2020年1月11日). 2021年12月17日閲覧。
  11. ^ 「本当にうまい野球選手」をプロとOBが選んだらこんな結果になった”. 週刊現代 (2018年3月23日). 2021年12月17日閲覧。

関連項目[編集]