吉田豊彦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
Jump to navigation Jump to search
吉田 豊彦
高知ファイティングドッグス コーチ #84
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 大分県東国東郡武蔵町(現・国東市
生年月日 (1966-09-04) 1966年9月4日(51歳)
身長
体重
174 cm
78 kg
選手情報
投球・打席 左投左打
ポジション 投手
プロ入り 1987年 ドラフト1位
初出場 1988年4月10日
最終出場 2007年10月4日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
コーチ歴

吉田 豊彦(よしだ とよひこ、1966年9月4日 - )は、大分県出身の元プロ野球選手投手)、プロ野球コーチ。現在は、四国アイランドリーグplusに加盟する高知ファイティングドッグスの投手コーチ。

経歴[編集]

プロ入り前[編集]

小学3年時に野球を始める。大分県立国東高等学校に進学し、高校1年秋からエース。2年生時には1983年夏の甲子園県予選決勝に進出するが、中津工に延長11回2-4で敗退し、甲子園行きはならなかった。当時の監督は、内川聖一の父である内川一寛。1学年下には吉田と同じサウスポーの弓長起浩がいる。卒業後は本田技研熊本に進む。1987年都市対抗ニコニコドーの補強選手として出場[1]

同年のドラフト会議立浪和義を外した南海ホークスにドラフト1位で指名され、契約金5500万円、年俸600万円(いずれも推定)で入団[2]。契約金で実家の牛を買った。ドラフト1位指名であったものの、球団からは『1位で指名したが、君の評価は3位。だからウチは3位としての契約金や年俸しか払えない。それでもよかったらウチに来てくれ』と言われたという[3]

プロ入り後[編集]

南海・ダイエー時代[編集]

1988年は速球とチェンジアップを武器に、ルーキーながら一軍に定着し、主にリリーフとして登板し、防御率4点台と安定感を欠いたものの43試合に登板し、チームに貢献した。

1989年(2年目)は先発ローテーション入りし、初の2桁となる10勝を記録した。

1990年田淵幸一が監督に就任したが、この年は5勝10敗・防御率5.01と成績を落とした。

1991年も4勝6敗・防御率4・17と成績を落とした。

1992年は2度目の2桁勝利(11勝)で、初のオールスターゲームに出場した。

1993年からは根本陸夫監督の下福岡ドーム元年となったが同年は7勝14敗・防御率4.62の成績で終わってしまった。

1994年は開幕投手を務め、4月には月間MVP受賞、2度目のオールスターゲーム出場を果たした。同年は11敗を喫したものの自身最多の12勝を挙げた。またシーズン終了後、同期入団で3歳下の吉永幸一郎と共に最優秀バッテリー賞を受賞した。

1995年は新監督に王貞治が就任した。同年は8勝8敗の成績を残した。

1996年は不振に陥り、18試合の登板で1勝3敗・防御率5.41でシーズンを終えた。

1997年は先発での登板は3試合の登板に終わり、中継ぎで投げることが多かった。最終的に27試合に登板したものの防御率6.14と安定感を欠いた。オフにはFA権の行使を示唆するも、王監督らの慰留があり、行使せずに残留した。

1998年は入団以来の背番号11をエースナンバー18に変更し心機一転を図るが、開幕から1軍での登板はなくシーズン途中に金銭トレードで阪神タイガースに移籍した。この期間の吉田の様子を追った番組「にんげんドキュメント"二軍"」(NHK制作)が放送され話題となった。番組では、吉田が雁ノ巣球場で若手選手と共に汗を流す様子や、当時の二軍監督だった石毛宏典が二軍選手達を集めて吉田のトレードが決定したことを伝え、「野球選手である以上トレードはある意味で宿命である」と訓示を述べるシーンが登場した。

阪神時代[編集]

制球難を克服するために投球フォームをスリークォーターに改造した。移籍直後の1998年は主に中継ぎとして44試合に登板したが防御率5.19と安定感を欠いた。ちなみに阪神は1998年から野村克也が監督に就任した。

1999年は先発で14試合に登板した。同年の最終的な登板数は23試合だったが2勝8敗とこの年も成績を残せなかった。

2000年は再び中継ぎとなったが安定感を欠き、24試合しか登板できなかった。

2001年はわずか8試合の登板にとどまり、オフに戦力外通告を受けた。結局阪神時代の4年間はわずか7勝しか挙げられなかった。オフに大阪近鉄バファローズのテストを受けて近鉄に入団。

近鉄時代[編集]

移籍当初は敗戦処理に回ることが多かったものの、徐々に梨田昌孝監督からの信頼を得るようになり、シーズン終盤では試合の勝敗を左右する場面を任されるまでに至った。2002年は42試合に登板して防御率2.10を記録した。またこの年近鉄は2位となり自身初めてのAクラス入りを経験した。

2003年は自身3度目となるオールスターゲームにも出場した。第1戦の9回に登板したが、読売ジャイアンツ高橋由伸に同点本塁打を打たれ、勝利に導けなかった。シーズンでは前年まで抑えを務めた大塚晶文中日ドラゴンズに移籍したこともあり、抑え投手不在となったことから、15年ぶりのセーブを記録するなど、自己最多の60試合に登板し、2年連続で防御率2点台を記録し、セットアッパー並びにストッパーとして好成績を収めた。

2004年は過去2年間の蓄積疲労からか、やや打ち込まれる場面が目立ち防御率こそ4点台に悪化したが、左のリリーフとして活躍した。この年は8月22日の対日本ハム戦で500試合登板、同月25日の西武ライオンズ戦では1500投球回数、9月22日のオリックス戦では1000奪三振、と節目の記録を続々と達成した年となった。なお、9月22日の試合では早川大輔から三振を奪ってゲームを締めてセーブ投手となったが、これは近鉄球団最後のセーブとなった。その後、11月に行われた選手分配ドラフトで新規球団の東北楽天ゴールデンイーグルスに移籍する。

楽天時代[編集]

2005年は楽天の初代監督田尾安志の下でプレー。この年の楽天は実績はあるものの他球団を戦力外となった選手や無償トレードで入団した選手などが多く、疲弊してきたベテラン選手も多かった。それらの選手が結果を残せず2軍降格する選手も多く、チームも100敗ペースで負け続けるなど、選手層の薄さが露呈していた。自身もベテランとなったが、主にセットアッパーとしてチーム最多の50試合に登板し、衰えを感じさせない投球を見せた。

2006年は阪神を戦力外となった時の監督でもある野村克也が監督に就任し、同一チームになった。野村監督が茶髪長髪ヒゲ禁止令を出したため、トレードマークであったヒゲを剃り落とした。9月5日の対オリックス17回戦で600試合登板を達成した。同年も前年に多くのベテラン選手を解雇したとはいえ、駒不足の解消には至らなかったが、弱体投手陣の中で41試合に登板、防御率3.19と安定感ある成績を収めたが、中でも31イニング投げ、被本塁打0は特筆すべき点である。

2007年は開幕1軍に入ったものの怪我の影響もあってか打ち込まれてしまい、開幕から20日ほどで2軍落ちした。その後、5月と8月に1軍に復帰。若手の台頭もあり出番は少なかったが、安定感ある投球が戻りつつあった。しかし、9月30日に現役引退を表明。

引退試合は同年10月4日の千葉ロッテマリーンズ23回戦(フルキャストスタジアム宮城)の9回からリリーフ登板、先頭打者の竹原直隆にセンター前ヒットを打たれるも今江敏晃から3球三振を奪い20年に及ぶ選手生活を終えた。この試合では野村克也に直訴し、かつてのトレードマークであったヒゲを復活させて登場した。引退セレモニーでは関川の後に引退挨拶をした。セレモニーでは大粒の雨の中、「まだまだ投げたい!!」と叫んだ。

吉田は南海ホークスで一軍出場した選手で最後の生き残りで、その後の移籍などの結果、南海→ダイエーへの身売り、近鉄球団消滅、楽天球団創設を全て経験した唯一の選手となった。吉田の引退後南海ホークス出身の現役選手は南海時代に一軍出場のなかった大道典嘉(2010年引退)だけとなった。この年の対読売ジャイアンツ戦(6月9日、東京ドーム)では8回裏に吉田がリリーフ登板すると代打大道がコールされ、元南海選手同士の最後の対決が実現した。結果は大道のライト前ヒットだった。

引退後[編集]

2007年の秋季キャンプからは楽天二軍投手コーチに転身し、11月2日に就任会見を行った。なお11月30日に自由契約公示された。2009年より同二軍育成コーチ(投手担当)に就任し2011年まで務めた[4]

2011年12月、2012年度より四国アイランドリーグplus高知ファイティングドッグスの投手コーチに就任することが決まった[5]

人物[編集]

  • 新聞や雑誌等で吉田豊と表記されることが多く[6]、ファンだけでなく、首脳陣や選手からも「よしだゆたか」と間違えて呼ばれることがよくあったと言う。逆に、中央競馬で吉田豊と言う騎手がいたことから、「俺、実は週末は騎手やってるんよ、騎手の欄に吉田豊と書いているやろ」と冗談で話すこともあったと言う。
  • 1996年5月9日、「生卵事件」が起きた試合の先発が吉田であった。
  • 楽天の本拠地・フルキャストスタジアム宮城では「鉄腕」と場内放送されていた。

詳細情報[編集]

年度別投手成績[編集]





















































W
H
I
P
1988 南海
ダイエー
43 4 1 0 0 4 4 3 -- .500 379 87.2 82 17 45 4 0 64 4 0 53 43 4.41 1.45
1989 26 24 6 0 0 10 8 0 -- .556 664 149.0 172 27 59 7 3 88 4 0 95 88 5.32 1.55
1990 18 16 9 0 0 5 10 0 -- .333 481 111.1 109 15 50 5 1 96 4 0 67 62 5.01 1.43
1991 20 14 2 1 1 4 6 0 -- .400 405 95.0 105 17 27 0 1 36 2 0 48 44 4.17 1.39
1992 23 23 11 3 0 11 9 0 -- .550 702 165.2 159 23 53 1 7 81 3 2 70 67 3.64 1.28
1993 24 24 6 0 1 7 14 0 -- .333 678 157.2 149 18 60 1 11 103 2 0 88 81 4.62 1.33
1994 30 29 11 1 0 12 11 0 -- .522 841 190.2 197 15 82 0 3 129 9 0 94 80 3.78 1.46
1995 26 24 3 0 0 8 8 0 -- .500 704 160.1 155 17 73 0 9 99 2 1 77 74 4.15 1.42
1996 18 6 0 0 0 1 3 0 -- .250 185 41.1 47 6 17 0 2 28 1 0 25 23 5.01 1.55
1997 27 3 0 0 0 1 2 0 -- .333 202 44.0 53 6 20 0 2 27 6 0 30 30 6.14 1.66
1998 阪神 44 2 0 0 0 4 3 0 -- .571 238 52.0 50 4 27 4 6 41 0 0 34 30 5.19 1.48
1999 23 14 0 0 0 2 8 0 -- .200 371 81.1 85 10 43 7 8 49 4 2 46 44 4.87 1.57
2000 24 1 0 0 0 1 3 0 -- .250 127 27.1 34 4 12 0 2 24 0 0 18 17 5.60 1.68
2001 8 0 0 0 0 0 0 0 -- ---- 40 8.1 11 0 4 0 1 5 1 0 9 9 9.72 1.80
2002 近鉄 42 0 0 0 0 2 1 0 -- .667 124 30.0 26 3 9 1 3 21 0 0 7 7 2.10 1.17
2003 60 0 0 0 0 3 3 8 -- .500 247 58.0 48 3 25 6 1 66 1 1 16 15 2.33 1.26
2004 56 0 0 0 0 3 6 4 -- .333 200 47.2 47 8 14 2 2 43 0 0 24 22 4.15 1.28
2005 楽天 50 0 0 0 0 2 2 1 12 .500 201 47.2 48 2 7 2 5 43 3 0 22 18 3.40 1.15
2006 41 0 0 0 0 1 1 1 10 .500 137 31.0 32 0 10 1 4 24 1 0 11 11 3.19 1.35
2007 16 0 0 0 0 0 0 0 1 ---- 55 10.0 22 2 3 0 0 8 0 0 11 11 9.90 2.50
通算:20年 619 184 49 5 2 81 102 17 23 .443 6981 1596.0 1631 197 640 41 71 1075 47 6 845 776 4.38 1.42
  • 各年度の太字はリーグ最高
  • 南海(南海ホークス)は、1989年にダイエー(福岡ダイエーホークス)に球団名を変更

表彰[編集]

記録[編集]

初記録
節目の記録
  • 1000投球回数:1995年6月6日、対千葉ロッテマリーンズ10回戦(宮城球場) ※史上260人目
  • 500試合登板:2004年8月22日、対北海道日本ハムファイターズ24回戦(大阪ドーム)、7回表に5番手で救援登板、1回無失点 ※史上74人目
  • 1500投球回数:2004年8月25日、対西武ライオンズ25回戦(西武ドーム)、7回裏3死目に柴田博之を左飛で達成 ※史上154人目
  • 1000奪三振:2004年9月22日、対オリックス・ブルーウェーブ25回戦(大阪ドーム)、9回表に早川大輔から ※史上113人目
  • 600試合登板:2006年9月5日、対オリックス・バファローズ17回戦(フルキャストスタジアム宮城)、9回表に救援登板、2/3回無失点 ※史上32人目
その他の記録

背番号[編集]

  • 11 (1988年 - 1997年)
  • 18 (1998年)
  • 91 (1998年途中 - 2001年)
  • 49 (2002年 - 2007年)
  • 82 (2008年 - 2011年)
  • 84 (2012年 - )

脚注[編集]

  1. ^ 「都市対抗野球大会60年史」日本野球連盟 毎日新聞社 1990年
  2. ^ なお、南海では最後のドラフト1位指名選手である。
  3. ^ 【ダイエーホークス創世記(1)】薄給ブラックさも日本一…南海から脱皮”. サンケイスポーツ (2015年2月1日). 2015年2月1日閲覧。
  4. ^ 【楽天】高浦氏ら4コーチと契約結ばず”. 日刊スポーツ (2011年10月20日). 2011年10月21日閲覧。
  5. ^ 高知FD 新投手コーチ決定のお知らせ 四国アイランドリーグplusニュースリリース(2011年12月17日)[リンク切れ]
  6. ^ 南海・ダイエー在籍時は1988-1990年は吉田博之、1994年途中-1998年途中は吉田修司、阪神在籍時は全期間吉田浩および2000年-2001年に吉田剛が同時に在籍していたため
  7. ^ ベースボール・レコード・ブック1991」ベースボール・マガジン社 1990年12月発売 808p

関連項目[編集]

外部リンク[編集]