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李鍾範

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
李 鍾範
Jong-Beom Lee
2015年3月24日
2015年MBCMLBKBO記者懇談会において
基本情報
国籍 大韓民国の旗 大韓民国
出身地 全羅南道光州広域市
生年月日 (1970-08-15) 1970年8月15日(55歳)
身長
体重
178 cm
80 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 外野手遊撃手一塁手三塁手
プロ入り 1992年 KBO1次ドラフト
初出場 KBO / 1993年4月10日
NPB / 1998年4月3日
最終出場 KBO / 2011年10月4日
NPB / 2001年4月30日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
指導歴
国際大会
代表チーム 大韓民国の旗大韓民国
WBC 2006年
イ・ジョンボム
各種表記
ハングル 이종범
漢字 李 鍾範
発音: イ・ジョンボム
日本語読み: り しょうはん
英語表記: Jong-Beom Lee
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李 鍾範(イ・ジョンボム、: 이종범1970年8月15日 - )は、大韓民国全羅南道光州広域市出身の元プロ野球選手外野手内野手)、野球指導者・解説者。右投右打。

韓国プロ野球起亜タイガース(旧:ヘテ・タイガース)では1990年代から2010年代にかけて中心選手として活躍し、韓国のイチローと呼ばれた。また1998年から2001年にかけてNPB中日ドラゴンズでプレーした。中日時代の登録名の読みは「リー・ジョンボム」(漢字表記は同じ)。本貫咸平李氏[1]

経歴

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1970年8月15日に光州市で生まれ、光州瑞林小学校朝鮮語版光州忠壯中學校朝鮮語版光州第一高等學校英語版を経て建国大学校に入学[2]。大学野球部在籍中の1992年にアマチュア野球の最優秀選手賞を受賞[3]。同年のドラフト会議ヘテ・タイガースから1位指名を受けて入団した[2]

ヘテ時代

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1年目の1993年から遊撃手のレギュラー選手として活躍し、「野球天才」の愛称で呼ばれた[2]。同年9月26日のサンバンウル・レイダース戦では1試合最多記録となる6盗塁を記録した[2]。同年は126試合に出場して打率.280(475打数133安打)、16本塁打、53打点、73盗塁を記録した[4]

1994年には124試合に出場して打率.393(499打数196安打)、19本塁打、77打点、84盗塁を記録した[4]。196安打、84盗塁はいずれも当時、韓国最高記録で、首位打者盗塁王朝鮮語版、最多安打、最高出塁率の4タイトルを獲得し、シーズンMVP(最優秀選手)にも選出された[2]。同年には145単打、113得点のシーズン最多記録を樹立している[2]

1995年は63試合に出場して打率.326(239打数78安打)、16本塁打、35打点、32盗塁を記録した[4]

1996年は113試合に出場して打率.332(449打数149安打)、25本塁打、76打点、57盗塁を記録し、2度目の盗塁王を獲得した[4]

1997年には125試合に出場して打率.324(484打数157安打)、30本塁打、74打点、64盗塁を記録し、3度目の盗塁王を獲得[4]、KBO初のトリプルスリーを達成した。30本塁打と60盗塁の同時達成は当時、MLBやNPBでも前例がなかった[2]。また1997年には29連続盗塁成功の韓国記録も樹立した[2]。1993年、1997年には韓国シリーズのMVPも受賞していた[2]

1994年10月から1996年4月まで兵役を経験したが、守備でも1993年から1997年まで、4年連続でゴールデングラブ賞を受賞している[2]。1997年までの韓国通算5年間で打率.332、310盗塁を記録していた[2]

中日時代

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1997年の韓国シリーズ終了直後にNPB球団への移籍を希望する[5]。ヘテは当初、李の流出は韓国球界全体の損失になるとして希望を拒んでいたが、韓国国内でも日本進出を求める声が強まったこと、そして李の高額な年俸がネックとなったことから移籍を認めた[5]。一時は移籍先の球団として読売ジャイアンツ(巨人)などの名前が挙がったが、ヘテは日韓プロ野球スーパーゲーム開催や、同じヘテ出身の宣銅烈の入団といった背景から中日ドラゴンズとの強いつながりがあり[5]、12月10日には李を中日にトレードすることを発表[2]、中日は同月22日に李の入団を正式に発表した[6][7]。韓国球界からNPB球団に移籍した選手としては、1995年オフに同じくヘテから中日へ移籍した宣の前例があったが、宣はヘテに所属したまま中日に期限付きという扱いで移籍したものであり、保有権そのものがNPB球団に移った事例は李が初であった[5]移籍金は4億5000万円で、契約金5000万円、1998年シーズンの年俸8000万円(推定)[2][8]背番号は、中日監督の星野仙一が「縁起の良い末広がり」という意味から8を希望し、当時8を着用していた彦野利勝の背番号を入団時と同じ57番に変更させた上で李に着用させた[4]ユニフォームの背ネームの表記はJ. LEE[6]、李本人はこの背ネームから「ジェリー」という愛称を発案していた[2]。本人は当初、1998年シーズンの目標として打率.270、30盗塁を掲げていた[2]

バットコントロールの良さや盗塁王3回の実績を評して、打席は違えど「韓国のイチロー」と呼ばれた[4]。移籍1年目となる1998年の開幕戦にはスターティングメンバーで出場を果たした。俊足好打の一番打者であったが遊撃手の守備には問題が多くこの年67試合で12失策を数えた。しかし、守備範囲は広く打球を諦めない姿勢は星野好みであった。また、盗塁も開幕当初こそ自慢の足を発揮していたが、研究され出してからは日本の投手の技術の高さ(クイック投法など)を前に、ヘテ時代のようにはできなかった。6月23日に、阪神タイガース川尻哲郎から右肘に死球を受け、骨折し長期離脱。シーズン中に復帰したものの、死球への恐れからか以前のような思い切りの良さが消えてしまった。リハビリ中から守備の不安を解消するため、俊足を生かして外野手に転向。

1999年のリーグ優勝時にも主力選手として出場したが、外国人枠を使うことを考えると成績は芳しくなかった。同年の福岡ダイエーホークスとの日本シリーズでは最後の打者になった(第5戦、ロドニー・ペドラザから三振)。なお同年シーズン途中の7月には森野将彦と背番号を交換し、背番号を8から韓国時代と同じ7に変更している[9]

2000年は開幕を二軍だったが、新外国人ディンゴの不調を受けて一軍に昇格。

2001年は外国人枠の問題から一軍で8試合の出場に終わり、自ら退団を申し入れ、5月31日付でウェイバー公示された[7]。韓国では相変わらず人気が高く、復帰を待望する声が多かった一方、本人は親しい関係者に「韓国には、ちょっと帰りづらい」と話しており、NPBの他球団からのオファーを待っていると報じられたが[7]、NPBには獲得球団はなかった。またMLBの複数球団から獲得の意思表示があったが、家族の反対を受けてMLB移籍は断念し、韓国球界に復帰することとなった[10]。同年6月20日に離日し、韓国に帰国した[11]

起亜時代

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起亜タイガース時代

帰国後の2001年途中から、ヘテ・タイガースを買収した起亜タイガースに復帰した。

ポジションはヘテ時代の遊撃手ではなく、日本での経験を生かし外野へ転向し、主力として活躍した。2003年にはオールスターゲームの最優秀選手 (MVP) に選出され、韓国球界ではタイロン・ウッズ以来史上2人目の「トリプルクラウン」(レギュラーシーズン・韓国シリーズ・オールスターゲームのすべてでMVPを受賞すること)達成者となった[12][13]2004年には7年ぶり4回目の盗塁王のタイトルを獲得。

2006年WBC韓国代表に選出されて主将を務め、大会での活躍が認められ外野のベストナインに選ばれた。しかし、シーズン中は考えられない大不振に陥ってしまい、二軍落ちも経験してしまう。結局この年は打率.242、本塁打1本、打点21と打撃三部門だけでなく、盗塁(10)・長打率・出塁率などが、入団以来最低の記録となった。

2007年は、シーズン当初は2番だったが、調子が上がらず打率も1割台に低迷して9番に降格となった。5月17日の現代ユニコーンズ戦で実に1年ぶりの本塁打を放った。しかし調子は一向に上がらず、このシーズンを84試合、打率.174、1本塁打、18打点、3盗塁と、前年の成績を更に下回り、いよいよ引退かと囁かれた。

2008年の契約を、前年から60%もの大幅ダウンとなる2億ウォンで結んだ。同年5月の月間MVPを獲得。計110試合に出場し復活をアピールしたが、オフには引退し指導者への転身を球団から勧められた。

2009年も前年と現状維持の年俸2億ウォンで契約を結んだ。

2009年は123試合に出場し、12年ぶりの公式戦、韓国シリーズ優勝を飾ったチームの快進撃に貢献し、韓国プロ野球史上2人目の通算500盗塁を達成した。起亜が優勝を決めた韓国シリーズ第7戦では、試合後に選手達から胴上げされた。

2010年、日韓通算2000安打を達成した。

2011年からは韓国プロ野球界最年長選手となった。

2012年は海外春季キャンプも順調に消化し、示範競技(日本で言うところのオープン戦に相当)にも出場していたが、宣銅烈監督など首脳陣は開幕一軍から外れ、二軍でプレイングコーチに就任することを提案した。しかしこれを拒否し、公式戦開幕の1週間前の3月31日、突如現役引退を発表した。起亜入団後引退までつけていた背番号7は、宣銅烈に次いで球団史上2人目となる永久欠番となった。4月5日、起亜からの指導者研修の提案を断り、引退後は当面の間解説者など目立った活動をしないことを公式記者会見の場で明らかにした。2012年5月26日、起亜の本拠地・光州無等総合競技場野球場引退セレモニーが行われた。既に引退の手続きを取っていたため試合には出場しなかったが、この日すべての起亜の選手が背番号7の李鍾範の名前が書かれたユニフォームを着用した。

現役引退後

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2012年10月10日、ヘテ時代の監督だった金應龍が新監督に就任したこともあり、ハンファ・イーグルスの走塁コーチに就任した。

2014年10月、金應龍監督の退任によりハンファを退団。

2015年より韓国のスポーツ専門チャンネルで野球解説者として活動する。

2017年第1回アジアプロ野球チャンピオンシップ2018年アジア競技大会野球韓国代表の外野兼走塁コーチに就任。

2019年LGツインズの二軍統括コーチに就任。

2020年、2月28日から古巣である中日ドラゴンズでコーチ研修を受けるため来日[14]。9月18日にコーチ研修を終えて帰国した[15]

2021年、LGツインズの一軍作戦コーチに復帰[16]、2022年は二軍監督、2023年は一軍走塁コーチに配置転換[17]。同年限りで退団した。

2025年、KTウィズのコーチとなる[18]。しかし、6月27日に芸能番組出演を優先する為としてコーチを辞任し退団した[19]

選手としての特徴

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中日入団当時の監督であった星野仙一からは当時、中日にはいない走攻守三拍子揃った選手であると評していた[20]。また木俣達彦は李の中日入団が決まった当時、打撃では立浪和義とほぼ同等で打率3割は計算でき、守備・走塁面では立浪以上だろうと評していた[2]

100メートル走の自己最高記録は11秒2[20]

人物

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ヘテ時代の先輩である宣銅烈を慕って中日ドラゴンズへ移籍。同時期に在籍した韓国人左腕・サムソン・リーと共に韓国三銃士とも呼ばれた。宣銅烈もそうであったように、将来は日本で指導者の勉強がしたいとも語っている。

「李範」と名前を誤記されることが多いが、正しくは金偏に重の「李範」である。通常NHKでは朝鮮名に対し漢字表記はしないため、NHKでは「リー」とカタカナ表記だったのに対して、民放各局では「李」と漢字表記だった。

起亜での応援歌の原曲は、アントニン・ドヴォルザークの「新世界より」。

息子の李政厚(イ・ジョンフ)は中日在籍時の1998年8月20日に名古屋市内で誕生し、徽文高等学校朝鮮語版野球部で内野手として活躍後、2016年7月、韓国プロ野球新人ドラフト一次指名でネクセン・ヒーローズから指名を受け、2017年からネクセンに所属し、同年高卒新人ながらレギュラーシーズン全144試合に外野手として出場、最優秀新人(新人王)を受賞した。

日常生活では左利きで鉛筆や箸を左手で持つ[21]が、幼い頃に左利き用のグラブが身の回りになかったため野球選手としては右投げ右打ちとなった[21]。息子の政厚は父とは逆に右利きだが、左打ちの優位性を知る鍾範からの助言によって左打ちで野球を始めた[21]

2018年アジア競技大会野球韓国代表のコーチを務めた際は、李政厚も韓国代表に選ばれた。韓国代表はこの大会で優勝したため、自身の2002年アジア競技大会に続いて親子での金メダル受賞となった。さらに2021年と2022年、李政厚は、首位打者のタイトルも獲得したため、KBO史上初めて父子での首位打者となり、2022年にはKBO史上初めて父子でシーズンMVP(最優秀選手)を受賞した。李政厚は2024年よりMLBサンフランシスコ・ジャイアンツへ移籍する。

娘婿は高佑錫である[22]

詳細情報

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年度別打撃成績

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O
P
S
1993 ヘテ 126 525 475 85 133 16 4 16 205 53 73 19 8 4 32 2 6 35 11 .280 .331 .432 .762
1994 124 561 499 113 196 27 5 19 290 77 84 15 1 4 51 14 6 31 2 .393 .452 .581 1.033
1995 63 272 239 41 78 10 2 16 140 35 32 3 0 3 28 4 2 20 5 .326 .397 .586 .983
1996 113 525 449 94 149 28 1 25 254 76 57 12 0 2 67 15 7 39 4 .332 .425 .566 .990
1997 125 577 484 112 157 28 3 30 281 74 64 15 0 3 87 30 3 49 9 .324 .428 .581 1.009
1998 中日 67 290 244 38 69 11 3 10 116 29 18 8 3 1 36 2 6 33 4 .283 .387 .475 .862
1999 123 484 424 76 101 20 5 9 158 33 24 7 13 2 38 1 7 62 6 .238 .310 .373 .683
2000 113 465 414 58 114 26 2 8 168 37 11 8 13 2 28 0 8 70 6 .275 .332 .406 .738
2001 8 13 13 2 2 1 0 0 3 0 0 0 0 0 0 0 0 4 0 .154 .154 .231 .385
起亜 45 214 188 45 64 14 1 11 113 37 7 5 2 3 20 0 1 16 5 .340 .401 .601 1.002
2002 123 546 485 93 142 25 2 18 225 59 35 5 4 1 43 5 13 63 7 .293 .365 .464 .829
2003 132 595 524 110 165 43 1 20 270 61 50 10 1 4 59 5 7 58 8 .315 .389 .515 .904
2004 133 577 493 100 128 29 0 17 208 52 42 7 12 2 53 1 17 50 9 .260 .350 .422 .772
2005 118 495 430 69 134 25 2 6 181 36 28 5 7 0 47 2 11 49 8 .312 .393 .421 .814
2006 93 379 339 41 82 18 1 1 105 21 10 7 11 0 24 2 5 43 3 .242 .302 .310 .611
2007 84 282 253 23 44 6 0 1 53 18 3 2 10 4 13 0 2 25 6 .174 .217 .209 .426
2008 110 362 317 38 90 19 4 1 120 38 9 3 9 3 32 0 1 26 11 .284 .348 .379 .727
2009 123 449 385 63 105 21 1 6 146 40 11 1 12 6 41 1 5 50 9 .273 .346 .379 .725
2010 97 289 265 36 65 16 1 4 95 29 2 2 6 0 15 0 3 33 5 .245 .293 .379 .619
2011 97 273 235 27 65 15 1 3 91 24 3 2 12 3 22 1 1 35 6 .277 .337 .387 .724
KBO:16年 1706 6921 6060 1100 1797 340 29 194 2777 730 510 113 95 42 634 82 90 622 108 .297 .372 .458 .830
NPB:4年 311 1252 1095 174 286 58 10 27 445 99 53 23 29 5 102 3 21 169 16 .261 .334 .406 .741
  • 2011年度シーズン終了時
  • 各年度の太字はリーグ最高、赤太字はKBOにおける歴代最高
  • ヘテ(ヘテ・タイガース)は、2001年途中に起亜(起亜タイガース)に球団名を変更

タイトル

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KBO

表彰

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KBO
起亜タイガース永久欠番である李鍾範の背番号7

記録

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NPB

背番号

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  • 7(1993年 - 1997年、1999年7月 - 2012年)
  • 8(1998年 - 1999年7月)[23]
  • 73(2013年 - 2014年、2025年)
  • 77(2017年 - 2019年、2021年 - 2023年)
  • 79(2020年2月28日 - 同年9月18日)

関連情報

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[編集]

脚注

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  1. ^ 가문을 빛낸 인물 - 함평이씨대종회」『www.hampyeonglee.com』。2022年8月31日閲覧
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 中日スポーツ』1997年12月11日付第5版1頁「李鍾範 イ・ジョンボム 中日に入団 遊撃手任せろ 瞬発力とパワーで勝負 移籍金4億5千万円 契約金5千万円 年俸8千万円」(中日新聞社
  3. ^ ko ic건대 내야 이종범 아마야구 MVPon (朝鮮語) 中央日報 1992年12月10日付記事
  4. ^ a b c d e f g 『中日スポーツ』1997年12月10日付第5版1頁「きょう移籍調印式 李鍾範 イ・ジョンボム 韓国のイチローが来る 竜入り内定 背番号「8」 通常トレードで年内にも正式契約」(中日新聞社)
  5. ^ a b c d 『中日新聞』1997年12月10日夕刊第2社会面10頁「【ソウル10日栗田秀之】「中日の李鍾範」誕生 移籍料は4億5000万円 年俸8000万円、背番号8」(中日新聞社)
  6. ^ a b 『中日新聞』1997年12月23日朝刊運動1面19頁「「敵の守備崩す」 中日・李鍾範の入団発表 星野監督「スピード、ガッツ期待」」(中日新聞社)
  7. ^ a b c 増田護「「風の子」李 自由契約 働き場所求め自ら申し出」『中日スポーツ』中日新聞社、2001年6月1日。オリジナルの2002年10月8日時点におけるアーカイブ。
  8. ^ 元中日・李鍾範の息子・李政厚がジャイアンツと契約合意、6年総額164億円、名古屋市生まれ、父より早い25歳で海を渡る」『中日スポーツ・東京中日スポーツ』2023年12月13日。2024年9月26日閲覧
  9. ^ “背番号”譲り剥がされ計6回…21年間の現役振り返った森野さんのホンネ「やっぱり1つの方が良かった…」」『中日スポーツ・東京中日スポーツ』2020年4月30日。2021年10月29日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年10月30日閲覧
  10. ^ 李がヘテ復帰へ 来週中にも韓国へ」『中日スポーツ』中日新聞社、2001年6月17日。オリジナルの2002年10月8日時点におけるアーカイブ。
  11. ^ 李 古巣でV目指す 韓国へ帰国」『中日スポーツ』中日新聞社、2001年6月21日。オリジナルの2002年10月5日時点におけるアーカイブ。
  12. ^ 김양희 (2022年11月1日). “[단독 KBO ‘레전드 40인’ 타이론 우즈 “김동주·김민호 그립다” 〈한겨레〉에 레전드 선정 소감 전해와”] (朝鮮語). 한겨레 (한겨레신문사). オリジナルの2025年10月12日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20251012141607/https://www.hani.co.kr/arti/sports/baseball/1065225.html 2025年10月12日閲覧。 
  13. ^ 이재국 (2023年8月7日). “[이재국의 베팬알백] <62편> 정규시즌+올스타전+KS MVP…역대 최고 외국인타자 타이론 우즈 이야기” (朝鮮語). 두산 베어스. 2025年4月19日時点のオリジナルよりアーカイブ。2025年4月19日閲覧。
  14. ^ 李鍾範さんが中日ナインにあいさつ 19年ぶりのナゴヤドーム 今季は研修コーチで主に2軍に同行「考えることを教えたい」『中日スポーツ』2020年2月28日。2020年2月28日閲覧※インターネットアーカイブ2020年2月28日付保存キャッシュ
  15. ^ http://osen.mt.co.kr/article/G1111436618
  16. ^ https://search.naver.com/search.naver?where=nexearch&sm=top_hty&fbm=0&ie=utf8&query=%EC%9D%B4%EC%A2%85%EB%B2%94+%EC%BD%94%EC%B9%98
  17. ^ 日本と縁深い“韓国のイチロー”がWBC解説に就任!天才息子が代表入りの元中日ドラゴンズ李鍾範」『スポーツソウル日本版』2023年2月17日。2024年9月26日閲覧
  18. ^ https://www.instagram.com/p/DBfElkwzkH7/
  19. ^ シーズン中のプロ野球コーチ、芸能番組出演を優先し突然退団…韓国で元助っ人に集まる批判「責任感とプロ意識がない」」『Yahoo!ニュース』2025年6月27日。2025年6月28日閲覧
  20. ^ a b 『中日スポーツ』1997年12月23日付第5版1頁「「闘魂リーダー」になれ、 李 正式に契約 星野監督 精神力に期待」(中日新聞社)
  21. ^ a b c <野球>元中日・李鍾範の息子、ロールモデルはイチロー」『中央日報日本語版』2018年9月11日。2024年3月31日閲覧
  22. ^ 「高速守護神」がイ・ジョンフの妹と結婚 イ・ジョンボム(元中日)の義理の息子に(室井昌也) - エキスパート」『Yahoo!ニュース』2022年10月10日。2024年9月25日閲覧
  23. ^ 1998年に中日に入団した際の背番号8だったが、翌1999年のシーズン中に本人の希望で森野将彦と背番号を交換し、7となった。
  24. ^ 丸目蔵人『アジオン・ラヴァーズ』、1996年12月、大村書店、P170

関連項目

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外部リンク

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