黒木知宏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ナビゲーションに移動 検索に移動
黒木 知宏
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 宮崎県日向市
生年月日 (1973-12-13) 1973年12月13日(45歳)
身長
体重
178 cm
84 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 投手
プロ入り 1994年 ドラフト2位(逆指名)
初出場 1995年4月6日
最終出場 2007年4月27日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
コーチ歴
国際大会
代表チーム 日本の旗 日本
五輪 2000年

黒木 知宏(くろき ともひろ、1973年12月13日 - )は、宮崎県日向市出身の元プロ野球選手投手、右投右打)・コーチ野球解説者

闘志を前面に押し出したプレースタイルで、千葉ロッテマリーンズの「魂のエース」と称された。

愛称は「ジョニー」で、「ジョニー黒木」名義でも活動する。

経歴[編集]

プロ入り前[編集]

小学生時はソフトボールチームのエースとして活躍[1]。中学時代は野球よりボディービルに熱中しており、パワーリフティングの県大会で優勝した経験を持つ[1]延岡学園高等学校では3年生時に夏の甲子園に出場するも、初戦の2回戦、8月14日第2試合で井手元健一朗擁する四日市工三重県代表)に4-8で敗れた。延岡学園高時代の後輩に黒木純司がおり、投手・黒木知と捕手・黒木純としてバッテリーを組んでいたこともある。黒木純は2002年にロッテに移籍したため、再びチームメイトとなった。

高校卒業後、社会人野球新王子製紙春日井に入社、1994年都市対抗野球では本田技研鈴鹿の補強選手として森昌彦NTT東海から補強)と共に優勝に貢献した。

1994年のドラフト2位で千葉ロッテマリーンズ逆指名)に入団。

プロ入り後[編集]

1995年(1年目)は、先発、リリーフとフル回転し、6月30日の対日本ハムファイターズ戦で初勝利を完封勝利で挙げる。

1996年には開幕こそ1軍入りはできなかったが早々に先発ローテーションが崩れたため先発に入る。終盤先発では不振の投球が目立ったためリリーフに回ったが初めて規定投球回数に到達すると、1997年には初の開幕ローテーションに入りチームトップの12勝を挙げ初の防御率2点台を記録(しかし敗戦数はリーグワーストの15敗を記録)。240イニング以上投げ[2]、13完投とともにリーグ最多となるなど、エースの小宮山悟と共にチームのダブルエースとして活躍する。

1998年、チームは開幕から好調で4月を終えた時点では首位を走り黒木自身も4月は3勝負けなしと好スタート切った。しかし、守護神の河本育之が故障離脱しチームは低迷する。首脳陣はここまでチームトップの6勝を挙げていた黒木を抑えに配置転換し巻き返しを図ろうとしたが、黒木は連続で抑えに失敗し更にチームは負けが込み、16連敗を喫した。7月7日のオリックス・ブルーウェーブ戦では、二軍で先発に復帰するために再調整をして来た黒木が、連敗ストッパーとして先発登板。福澤洋一とバッテリーを組み、2点リードで9回2死まで打者を打ち取り、ハービー・プリアムを2ストライクと追い込んだが、同点2ランを浴びる。連敗脱出目前で同点を許した黒木はマウンド上に座り込み、悔し涙を流す。試合は延長で近藤芳久広永益隆からサヨナラ満塁ホームランを打たれ、ロッテは日本プロ野球ワースト記録の17連敗となった。

この敗戦は「七夕の悲劇」と呼ばれる。後日談として黒木は小宮山から「なぜ、マウンドにうずくまった?まだ試合が続いていたじゃないか。あそこでマウンドにうずくまっちゃいかん。あそこでマウンドを降りちゃいかん。最後まで、すべてが終わるまで、諦めちゃいかんよ、クロちゃん」と諭されたという[3]。後に黒木は自著にて「あの日から人は僕を『悲劇のエース』と持ち上げるようになったが、日本中でただ一人、小宮山さんだけが僕自身の甘さを喝破してくれた」と記しており、大変な感謝をしている。

連敗を脱出した後は立ち直り、同年のオールスターゲームに初出場、最多勝最高勝率のタイトルを獲得するなど活躍した。

1999年オールスターゲームに選出されシーズンでも自己最多の14勝を挙げるなど、長らく小宮山と共に低迷時代を支え、2000年に小宮山が横浜ベイスターズに移籍したことから正真正銘のエースとして期待されるが、キャンプにて右足に怪我を負う。無理を押して開幕に備えるも、開幕戦の福岡ダイエーホークス戦で秋山幸二に史上最年長記録となる初回先頭打者本塁打を打ち込まれると、そのまま引きずってしまい、前半戦の防御率は10点台と絶不調に陥る。その後、前年から決まっていたシドニーオリンピック野球日本代表に向けて二軍で調整し、五輪でも活躍。後半戦はエースとして活躍するも、右肩の違和感を持ったままの投球が続いていた。9月13日には1000投球回数を記録した。

2001年3月24日、西武ドーム開幕投手として松坂大輔に投げ勝ち21世紀初の日本プロ野球公式戦勝利投手となり、以降も絶好調が続き前半戦だけで11勝を挙げオールスター前までリーグトップの勝利数だったが、前年の肩の違和感を引きずったままであり、ファン投票で選出されたオールスターゲーム、27日のオリックス戦に強行出場した後、後半戦からは姿を消す。この闘病のため「弁当の呪い」を受けた選手の一人とされている。

右肩の違和感に関して、当初は棘上筋炎症という比較的軽い怪我だという診断をされるも、肩腱板の内側靭帯を数本完全損傷する重傷だったことが後に判明したが、手術を選択せず自然治癒を選択。単調なウェートトレーニングやランニングを繰り返す日々が続き、また投球フォームを肩に負担のかからないサイドスローに近いフォームに改造するなど、2004年に一軍へ昇格するまで3年という長い月日がかかっている。6月に3年ぶりに勝利を飾る。オフの契約更改では自ら申し出て球団提示額より1,000万円減で契約を更改した。

2005年は右ひじを痛めて大幅に出遅れる。8月28日、千葉マリンスタジアムでの対オリックス・バファローズ戦で先発。3万人のマリーンズファンに支えられ自身1年2か月ぶり、本拠地では1,545日ぶりに勝利を挙げる。この勝利はロッテのパ・リーグプレーオフ進出と、10年ぶりのAクラスを確定するものだった。同年の日本シリーズでの登板機会は無かったが、アジアシリーズでは第3戦に先発し3回を自責点0で初代アジアチャンピオンに貢献した。

2006年7月28日、降格から1か月半ぶりに一軍出場選手登録され、その日のスカイマークスタジアムでの対オリックス戦でプロ12年目で初セーブを記録している。全盛期には1億8,000万円だった年俸が、2007年には10分の1以下にまで下がったものの、マリーンズファンから絶大な支持があり、登板時には誰よりも大きな声援を送られた。当時、「復活のマウンドで勝利投手となりお立ち台に立つのが今の目標」とコメントしている。

2007年は2001年以来の開幕一軍を得た。4月27日の対西武ライオンズ戦の7回裏2アウト一塁で登板し、G.G.佐藤を三振に仕留めた。8回も2アウト三塁のピンチを招くが、片岡易之をサードゴロで抑えた。この年はこの1試合のみの登板となり、4月30日に登録抹消されてからは一軍登録されなかった。

引退[編集]

2007年10月2日に戦力外通告を受けたが、現役続行を宣言した。しかし他球団からのオファーが掛からず、12月12日の記者会見で引退を表明した。記者会見で黒木は「1998年の七夕の日にグリーンスタジアム神戸(対オリックス戦)で9回裏同点本塁打を打たれた試合と、チームの18連敗が忘れられない想い出。こうした経験を基に、野球の素晴らしさ、怖さを伝えて行けたらと思っています」と語った。

2008年3月15日、千葉マリンスタジアムの対東北楽天ゴールデンイーグルスとのオープン戦の試合後に引退セレモニーが行われた。オープン戦としては異例の前売り券25,000枚が完売、当日券も発売10分で売り切れるなど、28,926人の満員の観客を集めて行われ、同期入団のサブロー、同級生の楽天・礒部公一、最後は福浦和也と対戦し、サブローを三振、礒部を三塁ゴロ、福浦も三振に打ち取った。挨拶の後、ライトスタンド前で胴上げが行われた[4]

現役引退後[編集]

2008年3月15日ニッポン放送の『師岡正雄ショウアップナイター編集部!』に出演し、ニッポン放送野球解説者として活動することが発表された。他にワールド・ハイビジョン・チャンネルTBSテレビと本数契約で出演。

2012年11月23日北海道日本ハムファイターズ一軍投手コーチへの就任が発表された[5]

2017年10月9日、北海道日本ハムファイターズ一軍投手コーチから退任することが発表された[6]

2018年からはNHK-BS1日テレNEWS24J SPORTSに野球解説者として、本数契約で出演している。

詳細情報[編集]

年度別投手成績[編集]





















































W
H
I
P
1995 ロッテ 20 10 1 1 0 5 7 0 -- .417 331 80.0 72 7 26 2 2 58 3 1 35 33 3.71 1.23
1996 28 19 0 0 0 8 7 0 -- .533 576 135.2 119 11 57 3 4 90 4 0 58 54 3.58 1.30
1997 32 31 13 1 3 12 15 0 -- .444 995 240.2 206 24 86 5 2 179 13 1 98 80 2.99 1.21
1998 31 28 8 2 3 13 9 0 -- [注 1].591 831 197.0 185 14 89 2 1 124 12 0 78 72 3.29 1.39
1999 29 29 7 0 1 14 10 0 -- .583 850 212.2 164 14 68 3 1 171 8 0 67 59 2.50 1.09
2000 26 24 5 1 0 10 12 0 -- .455 698 160.0 181 21 48 1 1 134 2 0 103 92 5.18 1.43
2001 17 17 4 1 1 11 4 0 -- .733 499 125.0 102 12 30 0 0 89 5 0 44 42 3.02 1.06
2004 7 7 0 0 0 1 3 0 -- .250 157 34.2 35 9 21 0 1 20 1 0 21 17 4.41 1.62
2005 3 3 0 0 0 2 1 0 0 .667 78 17.2 21 3 3 0 2 9 1 0 9 9 4.58 1.36
2006 5 0 0 0 0 0 0 1 0 ---- 20 4.0 5 1 4 0 0 3 0 0 3 3 6.75 2.25
2007 1 0 0 0 0 0 0 0 0 ---- 5 1.1 0 0 1 0 0 2 0 0 0 0 0.00 0.75
通算:11年 199 168 38 6 8 76 68 1 0 .528 5040 1208.2 1090 116 433 16 14 879 49 2 516 461 3.43 1.26
  • 各年度の太字はリーグ最高

タイトル[編集]

表彰[編集]

NPB
  • 月間MVP:2回 (投手部門:2000年9月、2001年5月)
その他

記録[編集]

初記録
節目の記録
  • 1000投球回:2000年9月13日、対福岡ダイエーホークス25回戦(福岡ドーム)、7回裏1死目に小久保裕紀を三塁ゴロで打ち取って達成 ※史上286人目
その他の記録

背番号[編集]

  • 54 (1995年 - 2007年)
  • 87 (2013年 - 2017年)

関連情報[編集]

書籍[編集]

出演[編集]

解説者活動
テレビ出演
CM
  • ロッテリア(1999年) 加藤あいと“間接”共演した。当初は実際に共演する予定だったが、スケジュールの都合で不可能となり、それぞれの出演シーンを別々に撮影して編集でまとめた。
  • アサヒ スーパーモルト(2000年)
ラジオ番組
ゲーム

脚注[編集]

[ヘルプ]
  1. ^ a b 公式記録の勝率1位は石井貴の.750(9勝3敗)だったが、当時のパ・リーグの最高勝率の条件が13勝を越えた投手のみだったのでタイトルは.591(13勝9敗)の黒木が獲得。
  1. ^ a b 『日本プロ野球偉人伝 vol.14 2000→2005編』ベースボール・マガジン社、2014年、56-57頁。ISBN 978-4-583-62118-0
  2. ^ この年以降で240と2/3回の投球回を超えた投手は2019年現在NPBでは現れていない
  3. ^ あと1球が悲劇に…ジョニーが泣き崩れた日本新記録スポーツニッポン[リンク切れ]
  4. ^ 魂の17球でジョニーの勇姿焼き付けたスポーツニッポン2008年3月16日
  5. ^ 2013年1軍コーチングスタッフについて北海道日本ハムファイターズ(2012年11月23日)
  6. ^ コーチ退任のお知らせ|北海道日本ハムファイターズ”. 北海道日本ハムファイターズ (2017年10月9日). 2018年1月20日閲覧。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]