新浦壽夫

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索
新浦 壽夫
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 東京都世田谷区
生年月日 1951年5月11日(62歳)
身長
体重
183 cm
80 kg
選手情報
投球・打席 左投左打
ポジション 投手
プロ入り 1968年 ドラフト外
初出場 NPB / 1971年4月13日
KBO / 1984年
最終出場 NPB / 1992年9月23日
KBO / 1986年
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

新浦 壽夫(にうら ひさお、1951年5月11日 - )は、東京都世田谷区出身、静岡県育ちの元プロ野球選手投手)。現在は東北放送野球解説者(かつては日本テレビ福岡放送でも解説を担当)、韓国への縁から東亞日報グループの「スポーツ東亞」の日本駐在通信員を兼任している。

出自は在日韓国籍で、韓国名「金日融(キム・イリュン、김일융)」。NPB入り後の1978年に長男が誕生したことを機に知己の国会議員である稲葉修立川談志の協力を得て日本国籍帰化して韓国日本人となったことを自ら明かしている[1]

来歴・人物[編集]

静岡商高定時制の1年次を修了後、同高校普通科の1年次に編入。1968年夏の甲子園で準優勝。当時新浦は韓国籍であり、この頃のドラフト制度では、日本の学校を卒業しても外国人選手はドラフト会議にかける必要がなかったため[2]、国内の6球団およびメジャーリーグも巻き込んだ争奪戦となった。この結果、新浦は同年に高校を中退して読売ジャイアンツドラフト外入団した。これがきっかけとなり、その後「日本の学校に所属する選手はすべてドラフトにかける」というルールに変更された。当の新浦は後年、「日本語しか分からない俺が日本人じゃないと意識した数少ない機会がこのときだった」と回想している。

実は入団時に肩を痛めており、年齢も17歳と若かったことから最初の2年間は一切ボールを握らず、ランニングのみの指令が川上哲治監督から出ていたという(YOMIURI GIANTSホームページ、「おやG」コーナーの本人談話より)。1971年に一軍に昇格し、V9最終年の1973年先発ローテーション入り。威力のある速球とカーブを武器に、翌年も順調に成績を伸ばしていたが、1975年に就任した長嶋茂雄監督初年度には、最下位に低迷するチーム状態の中、先発でも救援でも失敗、2勝11敗と低迷した。大量リード時にリリーフしても打ち込まれて逆転されるなど、「ノミの心臓」が話題となり、マウンドを囲んだ王貞治が「(リードしている)スコアボードを見ろ」と指さし叱咤するエピソードもあった。

しかし翌1976年以降は1979年まで202試合に登板(そのうち77試合に先発)し、大車輪の活躍で4年連続2桁勝利と2桁セーブポイントを同時に挙げ、さらにそのうち1977年1978年は2年連続で最優秀防御率最多セーブを同時に記録した(1978年には最優秀救援投手ベストナイン、1979年には当時タイトルではなかった時代だが、最多奪三振も獲得している)。絶対的な「左のエース兼リリーフエース」として長嶋監督に重用された。一説には川上監督の評価は制球面などからもともと低く、1975年に長嶋監督が打たれても打たれても登板させ続けたことが新浦を一気に成長させたという。

1977年5月31日の対中日戦で、相手の戸田善紀投手から12球連続してファウルボールを打ったことがあった(カウント2-2から17球目で三振に終わる)[3]

1980年以降は無理な登板がたたり成績を崩し「ガラスのエース」などとも呼ばれる。先発専任で引き続きチームに貢献するが、肘痛など故障にも悩まされる。チームの中心も西本聖定岡正二江川卓などのいわゆる「長嶋チルドレン」にうつっており、出番も減っていた。長嶋のすすめもあり、当時新設されたばかりの韓国プロ野球への移籍を決意し、1983年シーズン限りで巨人を退団し渡韓。韓国の三星ライオンズへ移籍。

韓国では韓国名金日融(キム・イルユン、김일융)として、三星のエースとして1984年から3年間活躍。3年間で54勝20敗、1985年には25勝6敗と圧倒的な成績を残す。かつては速球派投手であったが、韓国球界在籍時に技巧派へと変身した。しかし、日本語しか話せなかったためにチームでは苦労を重ねた。チームメイトからも年長者に対する敬称である「ヒョン」(hyeong=「兄」)と呼ばれることはなく、終始よそ者扱いされていたと、「みのもんたの朝ズバッ!」(2006年3月20日放送)において告白している。

1987年横浜大洋ホエールズで日本球界に35歳で復帰。かつての球威は成りをひそめたが、韓国球界でおぼえたチェンジアップと多種類の変化球による老練な投球をみせ11勝(4完封、107奪三振)をあげカムバック賞を受賞、翌年10勝、翌々年8勝と大洋の左のエースとして活躍した。1989年8月4日には、横浜スタジアムで古巣の巨人を相手に13安打を浴びながらも完封勝利を挙げる。これは最多被安打完封のプロ野球記録である。しかもこの試合で新浦は5回まで11安打を打たれていた(公式戦以外では、1981年の日本シリーズ第5戦で巨人の西本聖も13被安打完封を記録している)。

1992年大塚義樹との交換トレードで福岡ダイエーホークスに移籍。同年のシーズン途中にヤクルトスワローズに移籍し、同年限りで現役引退。引退後はプロ野球マスターズリーグの札幌アンビシャスにも参加している。

2013年7月からスポーツニッポン紙上で「我が道」を連載。

韓国球界時に糖尿病を発症し、インシュリン注射が毎日欠かせない生活になったが、現役時代は糖尿病であることを知られないために、ホテルのトイレなど一切人目につかない場所で注射を打っていた。しかしいつしか注射器を持っていることがばれ、さらに病気の影響で痩せていたこともあって「新浦は覚醒剤を打っている」という噂になったこともあった。2013年放送の番組で、現在も糖尿病と格闘している姿が放映された。

若い頃の好物はご飯とサイダーで、サイダーを横に置いてご飯を食べていたところ、チームメイトに「ご飯にサイダーをかけて食うのか?」と冗談で言われた話に尾ひれがつき、「サイダーをご飯にかけて茶漬けにして食べる」という噂が流れたほどの甘いもの好きだった(糖尿病の原因もこれではないかといわれた。なお、糖尿病の正しい原因は「インシュリン分泌の異常な少なさ」や「インシュリン抵抗性」であって、「糖分の過剰摂取」はあくまで病気を助長する行為である)。

エピソード[編集]

詳細情報[編集]

年度別投手成績[編集]





















































W
H
I
P
1971 巨人 19 10 2 1 0 4 3 -- -- .571 239 58.1 43 4 26 1 2 43 2 0 17 13 2.01 1.18
1972 5 0 0 0 0 0 0 -- -- ---- 23 3.2 7 1 3 0 0 1 0 0 9 7 17.18 2.73
1973 21 17 1 1 0 3 3 -- -- .500 356 83.2 61 7 53 3 0 78 0 1 36 32 3.44 1.36
1974 26 17 4 1 0 7 6 1 -- .538 492 119.2 96 14 52 9 2 102 2 0 42 35 2.63 1.24
1975 37 14 2 1 0 2 11 0 -- .154 450 108.0 93 9 46 8 1 82 0 1 47 40 3.33 1.29
1976 50 25 10 3 3 11 11 5 -- .500 818 197.1 156 20 81 2 2 162 2 0 82 68 3.10 1.20
1977 44 15 5 1 2 11 3 9 -- .786 549 136.0 104 10 60 6 1 96 2 1 38 35 2.32 1.21
1978 63 9 5 0 6 15 7 15 -- .682 777 189.0 160 21 75 6 5 152 3 1 66 59 2.81 1.24
1979 45 28 12 3 4 15 11 5 -- .577 961 236.1 211 24 68 7 6 223 1 0 94 90 3.43 1.18
1980 18 11 1 1 1 3 4 1 -- .429 297 69.0 64 11 24 0 2 58 1 0 42 29 3.78 1.28
1981 14 8 2 0 1 0 5 0 -- .000 248 58.1 55 8 19 3 1 44 1 0 32 22 3.39 1.27
1982 27 16 4 1 1 6 6 0 -- .500 499 117.0 119 18 38 0 3 89 1 0 58 53 4.08 1.34
1983 31 7 0 0 0 3 2 0 -- .600 292 67.1 71 8 25 2 3 52 2 0 26 24 3.21 1.43
1984 三星 38 23 14 3 -- 16 10 3 -- .615 907 222.0 191 7 78 4 6 155 5 1 68 56 2.27 1.21
1985 34 28 11 3 -- 25 6 0 -- .806 920 226.0 200 13 77 6 5 107 4 0 87 70 2.79 1.23
1986 19 19 7 2 -- 13 4 0 -- .765 573 138.2 120 8 45 4 2 60 1 0 47 39 2.53 1.19
1987 大洋 25 25 7 4 0 11 12 0 -- .478 645 152.0 151 20 47 3 2 107 0 0 78 72 4.26 1.30
1988 29 28 7 1 0 10 11 0 -- .476 681 160.1 147 14 66 6 3 110 6 0 83 77 4.32 1.33
1989 28 28 6 2 0 8 13 0 -- .381 763 175.0 176 20 75 8 5 130 3 1 79 66 3.39 1.43
1990 42 15 0 0 1 6 10 2 -- .375 603 140.0 121 11 68 2 7 107 2 0 66 59 3.79 1.35
1991 47 0 0 0 0 0 1 1 -- .000 220 53.1 49 4 19 3 3 42 3 0 19 19 3.21 1.28
1992 ダイエー 7 1 0 0 0 0 1 0 -- .000 42 9.0 14 2 5 0 0 4 0 0 8 6 6.00 2.11
ヤクルト 14 4 0 0 0 1 3 0 -- .250 116 25.1 33 6 9 0 1 24 1 1 22 21 7.46 1.66
'92計 21 5 0 0 0 1 4 0 -- .200 158 34.1 47 8 14 0 1 28 1 1 30 27 7.08 1.78
NPB:19年 592 278 68 20 19 116 123 39 -- .485 9071 2158.2 1931 232 859 69 49 1706 32 6 944 827 3.45 1.29
KBO:3年 91 70 32 8 -- 54 20 3 -- .730 2400 586.2 511 28 200 14 13 322 10 1 202 165 2.53 1.21
  • 各年度の太字はリーグ最高

タイトル[編集]

NPB
KBO
  • 最多勝:1回 (1985年)

表彰[編集]

NPB

記録[編集]

NPB初記録
NPB節目の記録
  • 1000奪三振:1981年4月9日、対大洋ホエールズ3回戦(横浜スタジアム)、3回表に前泊哲明から ※史上60人目
  • 100勝:1988年7月18日、対読売ジャイアンツ16回戦(横浜スタジアム)、9回1失点完投勝利 ※史上97人目
  • 1500奪三振:1989年8月29日、対中日ドラゴンズ22回戦(ナゴヤ球場)、2回裏に中村武志から ※史上31人目
  • 500試合登板:1990年8月5日、対中日ドラゴンズ18回戦(横浜スタジアム)、9回表2死に3番手で救援登板・完了、1/3回無失点 ※史上63人目
NPBその他の記録

背番号[編集]

  • 42 (1968年)
  • 40 (1969年 - 1972年)
  • 28 (1973年 - 1983年、1987年 - 1992年途中)
  • 49 (1992年途中 - 同年終了)

登録名[編集]

  • 新浦 壽夫(にうら ひさお、1968年 - 1970年、1981年 - 1983年、1987年 - 1992年)
  • 新浦 寿夫(にうら ひさお、1971年 - 1979年)
  • 新浦 壽丈(にうら ひさお、1980年)
  • 金 日融(キム・イリュン、김일융、1984年 - 1986年)

関連情報[編集]

著書[編集]

現在の出演番組[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 2013年7月23日付のスポーツニッポン「我が道」より
  2. ^ 【8月31日】1975年(昭50) 0勝7敗左腕新浦寿夫の突然変異!1安打完封勝利”. スポーツニッポン (2007年8月31日). 2012年7月5日閲覧。
  3. ^ 宇佐美徹也『プロ野球データブック'84』(講談社文庫、1984年)P105

関連項目[編集]