中内功

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なかうち いさお
中内 功
生誕 1922年8月2日
日本の旗 日本 大阪府西成郡伝法町
死没 2005年9月19日(満83歳没)
日本の旗 日本 兵庫県神戸市中央区
国籍 日本の旗 日本
出身校 神戸三中

兵庫県立神戸高等商業学校
職業 実業家
配偶者 妹尾萬亀子
子供 長男・中内潤
次男・中内正
長女・中内綾
受賞 勲一等瑞宝章
食品産業功労賞
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中内 功(なかうち いさお、1922年大正11年〉8月2日 - 2005年平成17年〉9月19日)は日本実業家ダイエーを創業し、会長・社長・グループCEOを務める。日本チェーンストア協会会長(初代、10代、14代)・名誉会長(初代)、日本経済団体連合会副会長、自身が設立した流通科学大学学園長、理事長を歴任した。

戦後の日本におけるスーパーマーケット(GMS)の黎明期から立ち上げに関わり、近年の消費者主体型の流通システムの構築を確立させダイエーを中心とした商業施設の普及拡大、日本の流通革命の旗手として大きく貢献した。

生涯[編集]

生い立ち[編集]

大阪府西成郡伝法町(現・大阪市此花区伝法)に父・秀雄、母・リエの長男として生まれる。父は大阪薬学専門学校(現・大阪大学薬学部)を卒業後、鈴木商店に入社し、退社後大阪で小さな薬屋をはじめた。母は神社の宮司の娘であった。祖父・栄は高知県矢井賀村(現・中土佐町)の士族の家[1] に生まれ大阪医学校(現・大阪大学医学部)に学び卒業後、神戸で眼科医となった。ダイエーの(エイ)とは、祖父の名前の栄からとられたものである。

功は神戸三中(現・兵庫県立長田高等学校)を経て、1941年兵庫県立神戸高等商業学校(新制神戸商科大学の前身、現・兵庫県立大学)を卒業。ゲーテファウスト』のファウスト博士の嘆きを一部改変し、「神戸高商で努力して学んだ様々な哲学も、芸術も経済学も文学も、まったく役に立たなかった」という意味のドイツ語の文句を卒業アルバムに記す[2]。勉強はできる方ではなく大学受験に失敗。

戦争体験と奇跡の生還[編集]

受験に失敗した功は、1942年、日本綿花(のちのニチメン)に就職するも、ほどなく翌1943年、1月応召。広島にて訓練の後、幹部生として扱われる仲間を尻目に満州国とソビエトの国境綏南に駐屯、さらに1944年7月、フィリピンの混成五八旅団に所属。ルソン島リンガエン湾の守備に就く。彼の部隊は1月23日未明、玉砕命令が下された直後に、一四方面司令官山下奉文によるゲリラ戦の命令が下されたことで辛うじて生き延びる。

功が一兵卒として召集された理由は、神戸高商時代の配属将校に嫌われ(彼自身は「下駄をはいて殴打された」と述べている。[3])、「兵適」という最低の評価しか下されなかったからとされている。しかし、身体検査で「心臓が右にあるという『奇形』であることが判明したため」とも述べている[4]。また、ゲリラ戦では、米軍の基地を襲撃した時、ガソリン発動機でアイスクリームを作っていたことに衝撃を受けたと述べている。[5]このように彼にとって戦争体験は、1945年8月投降後、マニラの捕虜収容所を経て11月に奇跡的に神戸の生家に生還するまで、後の人生観にも影響を与えた。

後年、功は中央公論社から対談の謝礼を聞かれたとき、「キミとこ、大岡昇平さんの全集出してんねやな。もしよかったら、その全集くれへんやろか。」と頼んでいる。大岡は功と同時期にフィリピンで従軍した体験を持ち、「野火」「レイテ戦記」などの優れた戦記文学を残している。[6]

「人の幸せとは、まず、物質的な豊かさを満たすことです」杜の言葉は、この時に痛感した日本軍と米軍との物量の差と飢餓体験から出ている。

1945年11月、フィリピンから復員。復員を機に、神戸市兵庫区にあった実家(サカエ薬局)に、1948年、元町高架通に新たに開店した「友愛薬局」で、業者を相手に闇商売を行った。旧制神戸経済大学(現・神戸大学)に戦後設置された第二学部(夜間)に進学するも、商売に専念する為に中退。6年後の1951年8月には次弟の設立した「サカエ薬品株式会社」が大阪平野町に開店した医薬品の現金問屋「サカエ薬局」(店名は実家の屋号でありかつ祖父の名前から採用した)で勤務[7]

ダイエー設立・昇龍の頃[編集]

サカエ薬品を離れ、1957年4月10日に神戸市長田区を本店とする「大栄薬品工業株式会社」を末弟と設立し、製薬事業に参入。ただしすぐに撤退する。同年7月、九州のスーパー「丸和フードセンター」社長吉田日出男の要請を受けて小倉に向かい開店の援助をしたことから、吉田の提唱する「主婦の店」の名称を加盟費抜きで貰う。[8]9月23日に、この会社にて大阪市旭区京阪本線千林駅前(千林商店街内)に、医薬品や食品を安価で薄利多売する小売店『主婦の店ダイエー薬局』(ダイエー1号店。のちに千林駅前店に改称し1974年まで営業)を開店した。当初は今日のドラッグストアに相当する薬局で、後に食料品へと進出していった。

千林での開店の翌年1958年には、早くも、神戸三宮にチェーン化第1号店(店舗としては第2号店)となる三宮店を開店。既成概念を次々と打ち破り、流通業界革命をおこした。特に価格破壊は定価を維持しようとするメーカーの勢力の圧力にも屈せず、世の人の喝采を浴びた。1956年経済白書で「もはや戦後ではない」とされたが、戦時中の国家統制がさまざまな規制の形で残り、中内は「戦後はまだ終わっていない」とした。

1962年、大手商社日商(のちの日商岩井)の協力のもと、渡米。現地の流通業を研究する。そのときの功の仕事ぶりはそれこそ寝る間を惜しんでの流通業界研究と商取引にあたっていた。「とにかく、好奇心のかたまりでした。」[9]と同行した日商の入江義雄(のちダイエー副社長)は証言しており、入江は功の姿勢に感服して後年ダイエーに入社した。また、シカゴの大手流通企業「シテイ・プロダクツ・コーポレーション」(CPO)との提携を結ぶ代わりに、経営の知識情報をタダで教えろという無茶な要求を行い、ついにはCPO経営者のユダヤ人が「…眉間にしわを寄せたまま、両手をあげてもうお手上げだ、というジェスチャーをし、『わかった。何もかもみんなもっていけ』と、はきすてるように言った。帰りぎわ、老ユダヤ人は早口の英語で、通訳の入江にこう耳打ちした。『中内はいまにどえらい男になる。』」[10]というに至るほど精力的に活動した。

価格破壊[編集]

中内は「価格の決定権を製造メーカーから消費者に取り返す」ことを信念として、「いくらで売ろうとも、ダイエーの勝手で、製造メーカーには文句を言わせない」という姿勢を貫き、メーカーの協力が得られない場合は、「自らが工場を持たないメーカー」として、そのスーパーのオリジナルブランド「プライベートブランド(PB)」の商品開発を推進するようになるが、同時に既存大手メーカーとの対立を巻き起こした[11]

1964年、松下電器産業(現・パナソニック)とテレビの値引き販売をめぐってダイエー・松下戦争が勃発した。当時、ダイエーが松下電器の製品を希望小売価格からの値下げ許容範囲だった15%を上回る20%の値引きで販売を行ったことがきっかけとなり、松下電器が仕入れ先の締め付けを行い、ダイエーへの商品供給ルートの停止でダイエーに対抗した。この時の松下幸之助の考えは「儲けるには高く売ることだ。今後、高い水準に小売価格を設定するので、これを守りなさい。安売り店への出荷は停止する」であった。これを受けてダイエーは松下電器を相手取り、独占禁止法違反の疑いで裁判所に告訴した。

1970年、メーカーの二重価格の撤廃を求める消費者団体が、強硬姿勢を崩さない松下に対して松下製品の不買運動も決議した。同年に、公正取引委員会が二重価格問題に対して、「メーカー(松下側)に不当表示の疑いあり」という結論を出している。同じ時期、ダイエーは13型カラーテレビを「BUBU」というブランド名で当時としては破格の安さである59800円で販売したことから、松下との対立が激化した[11]

松下幸之助は、1975年に中内を京都の真々庵に招いて、「もう覇道はやめて、王道を歩むことを考えたらどうか」と諭したが、中内は応じなかった[11]

この対立は、松下幸之助没後の1994年に松下電器が折れる形で和解となった。この対立は「30年戦争」とも呼ばれた。

その他、価格破壊では食品などが代表格とされている。中内は通信兵で出兵し、リンガエン湾の戦闘で敵から手榴弾の攻撃を受け、死を覚悟したとき、神戸の実家で家族そろってすき焼きを食べている光景が頭に浮かび、「もう一回腹いっぱいすき焼きを食べたい」と思ったという。この経験から中内は、ダイエーの企業テーマである「For the Customers よい品をどんどん安く」消費者に提供することを着想し、その実現に向け「既存価格を破壊することがダイエー(主婦の店・大栄)の存在価値にある」と考えて実行した。たとえば牛肉の場合、普通の店では100ℊ当たり一般で100円。安くても70円だったところを39円と思い切って値下げして販売したところ、牛肉コーナーには主婦らが殺到し売り切れ店が続出するほどだった。この欠品状態を補充すべく、生きた牛を買い取ってそれを枝肉に加工したり、さらには日本本土復帰前のアメリカ合衆国信託統治時代の沖縄県には輸入関税がかからないことを利用して、オーストラリア産の子牛を沖縄に輸入、飼育したうえで日本国内に輸入するというアイデアを生み出す[11]

グループ拡大に奔走[編集]

1972年には百貨店三越を抜き、小売業売上高トップにまでのしあげた。1980年2月16日に日本で初めて小売業界の売上げ高一兆円を達成した。

また、紳士服ロベルトファミリーレストランフォルクスハンバーガーチェーンウェンディーズドムドムハンバーガーコンビニエンスストアローソン百貨店プランタン銀座など子会社・別事業を次々と展開していった。また、イチケンやリクルート(現・リクルートホールディングス)、忠実屋ユニードなどを買収(その後1994年に忠実屋・ユニード・ダイナハを合併)、1981年には高島屋の株式を10.7%を取得。グループ内にデパートを欲していた中内は高島屋との提携を求めるが、ダイエーによる乗っ取りを警戒した高島屋側の白紙撤回により失敗する。ミシンの割賦販売で実績のあったリッカーの再建を引き受け、その割賦販売のノウハウを子会社のダイエーファイナンス(現・セディナ)に導入した。

一兆円達成から3年後の1983年から三期連続で連結赤字を出してしまい、ヤマハの社長であった河島博を総指揮官とし、業績をV字に回復させる通称「V革」を行う。

絶頂期[編集]

1988年にはパシフィック・リーグの南海ホークスの株式を南海電気鉄道から買収してプロ野球業界へも参入、福岡ダイエーホークスを誕生させ、更に東京ドームを凌ぐ大きさである福岡ドームの建設に着手するなど、グループを急拡大させた。このとき、中内はホークスについてよく知るためにホークスを扱った漫画「あぶさん」の作者、水島新司とホークスについて対談した。

1988年4月には神戸・学園都市に長年の悲願であった流通科学大学を開学。大学職員は全員当時のダイエーから出向させ、同時に理事長に就任した。同年9月には自らの故郷・神戸の玄関口である新神戸駅前に、ホテル・劇場・専門店街が一体となった商業施設新神戸オリエンタルシティを誕生させた。また、1991年には経団連副会長に抜擢。それまで、製造業や銀行などの、他業種より格下と見られていた流通業から初めて抜擢されるなど、名実共に業界をリードする存在となった。

しかし息子たちに跡を継がせたいことなどで、他社からヘッドハントした人材も含む部下を辞職に追い込み、周囲を自分に近いイエスマンで固めるなど、ワンマン体制の弊害が露呈してしまう一面もあった。

凋落[編集]

1990年代後半になってバブル景気の崩壊により地価の下落がはじまり、地価上昇を前提として店舗展開をしていたダイエーの経営は傾きはじめた。また、店舗の立地が時代に合わなくなり、業績も低迷。さらに展開していたアメリカ型ディスカウントストアのハイパーマートが失敗、当時の消費者の意識が「安く」から「品質」に変わったこと、家電量販店などの専門店が手広い展開を始めたことなどから、ダイエーは徐々に時代の流れに遅れをとった。

90年代後半には、ジャスコを経営するイオン、ローソンのライバルであるセブン-イレブンの当時の親会社イトーヨーカ堂などが業界をリードするようになっており、当時の世間からは「ダイエーには何でもある。でも、欲しいものは何もない」と揶揄されるようになった。中内自身も晩年、「消費者が見えんようなった」と嘆くこともあった。

阪神・淡路大震災[編集]

バブル崩壊後の不況の中、1995年1月17日5時46分、阪神・淡路大震災が発生。東京田園調布の自宅で知った中内は、ただちに物資を被災地に送るよう陣頭指揮。国より速くフェリーやヘリを投入して食料品や生活用品を調達したことで、一部で見られた便乗値上げに対し、物価の安定に貢献した。そのため、大災害が起きた際には暴動が起こる例も世界中には少なくないが、ダイエーが根付く神戸ではそうした騒ぎが起きなかった。しかし一方で、この地震により、被災地神戸にあったダイエー7店舗のうち、半数以上の4店舗が全壊、コンビニのローソンを始めとするダイエー系列店約100店もの店舗が被災するなど、関西発祥のダイエーの金銭的被害は甚大で、バブル崩壊のさなかで業績が低迷しつつあったダイエーの凋落に拍車をかけることとなった。判明しただけでダイエー社員も、この震災により30名以上亡くなっている。

スーパーはライフライン[編集]

「スーパーはライフラインである」中内のこの哲学により、阪神・淡路大震災では、地震発生3日後には自ら被災地神戸に乗り込み、自前のネットワークを駆使して必要な物資の輸送をおこない、営業時間の延長、被災した店舗前での物販販売などを特例的に行政当局に認めさせ、被災地への迅速な物資の供給・販売を実現した。

『 店の明かりをつければ、それだけで被災者たちは力が出る。』

「被災者のために明かりを消すな。客が来る限り店を開け続けろ。流通業はライフラインや。」の号令の元、電力供給が出来ているダイエー、ローソンなどの照明を24時間点灯し被災地を勇気づけた。この中内の哲学が現在のダイエーにも例外なく引き継がれており、東日本大震災でも、東京のダイエー本社(東京都江東区)が地震発生後すぐに対策本部を設置、東北の被災地に所在するダイエー仙台店は迅速に営業再開することが可能となった。

晩年[編集]

2001年に「時代が変わった」としてダイエーを退任。しかし遅すぎた決断であり、あらゆる部門で問題が露呈していた。最後の株主総会では厳しい質問が続き、2時間36分の大荒れ総会となった。その中で、勇退の辞として過ちを認め謝罪した後、まだ総会が終わっていないにも関わらず壇上を降りて去ってしまう一幕があり、会場はあっけにとられたが、株主から「議長、中内さんがあんまり寂しすぎる!拍手で送ってあげたい」との声があがり、再登壇した中内に満場の拍手が鳴り止まなかった。その午後、退任する中内と新経営陣の高木邦夫がそろって記者会見を開いた。その席上、中内は完全に経営から退くことを表明。

その後は、自身が私財を投じて設立した流通科学大学を運営する学校法人中内学園学園長に専念。2000年に流通科学大学では職員が大学籍になり、新神戸オリエンタルシティも、2004年に売却されダイエーの手から離れた。

2004年12月には芦屋と田園調布にあった豪邸や所持する全株式を売却処分、私財からダイエー関連資産を一掃し、名実ともにダイエーと決別した。翌年の2005年8月26日、流通科学大学を訪れた後神戸市内の病院で定期健診中に脳梗塞で倒れ、療養中の9月19日に転院先の神戸市立中央市民病院において死去した。倒れてから亡くなるまで、意識が戻ることはなかったという。享年83。

逝去した際、田園調布の自宅・芦屋の別宅が差押となっていたため、一度も中内の亡骸を自宅へ戻すことができずに大阪市此花区の中内家が眠る正蓮寺にそのまま搬送され、ごく近親者だけでの密葬となった。本葬儀は流通科学大学の学園葬で行われ、林文子会長(当時)ら経営陣は参列したが、ダイエーは、当時の状況(産業再生機構入りし再建中)も踏まえた上で社葬を行わなかった。

しかし、逝去して7日後の9月27日に、中内がオーナーを務めたダイエーホークスの後身、福岡ソフトバンクホークスと、対戦相手であった東北楽天ゴールデンイーグルスの選手・関係者が福岡Yahoo! JAPANドーム(当時)でのプレー前にファン・観戦者と共に感謝の意を込め1分間の黙祷を行った。当日の試合ではソフトバンクが勝利している。なお、中内の死に関して福岡ドームの電光掲示板にはこう表示された。

ありがとう!! 中内功さん 福岡はあなたを忘れません 安らかにおやすみください

更に、日本の流通業界の先頭を走った中内の社葬が行われなかった事により、このまま終わるのは忍びないと、イトーヨーカ堂創業者の伊藤雅俊イオン創業者の岡田卓也、日本におけるスーパーマーケットの育ての親でもあった渥美俊一、自身も立ち上げに携わった日本チェーンストア協会等、好敵手でもあり中内と共に戦後における流通業界の黎明期を築いた戦友が発起人となって、同年12月5日ホテルニューオータニにて「お別れ会」が開かれた。約2300人が献花に訪れ、生前親交のあった安倍晋三二階俊博小池百合子小沢一郎冬柴鐵三神崎武法などの政界人も参列した。

評価[編集]

功績[編集]

事実上、ダイエーグループを経営不振に陥らせたとはいえ、欧米型のスーパーマーケットを中心とする大型商業施設・外食産業を戦後日本で普及させ、消費者主体の流通経営、神戸や福岡など日本各地の都市計画への尽力、災害時のフォロー(阪神・淡路大震災、東日本大震災)などで、日本社会に大きく貢献した点は現在でも高く評価されている。 また家業であった小さな薬局店から身を興し、一代でダイエーを創業し、一時はダイエーを連結売上高3兆円超、関連企業を含んで6万人以上の従業員を抱えた、売上日本一の商業集団に育て上げたのも事実である。中内とほぼ同年代で親交があったライフコーポレーション創業者の清水信次や、衣料品に価格革命を起こしたユニクロ社長の柳井正等を筆頭に、現在でも中内の考えに影響を受け、中内を尊敬する経営者や起業家は多い。

1960年代に中内ダイエーが紆余曲折しながら大規模な流通システムを構築するまでは、「市場流通価格」はメーカーが完全に操作しており、消費者の立場は弱く「価格」は生産者であるメーカーが勝手に決めるのが基本であった。今では当たり前の「良い品を安く買えるお店がいつもそこにある」「良い品を安く売ってくれる店こそが消費者の味方」というような発想さえなかった。 メーカーにしか価格決定権がなく、メーカー以外の小売業や消費者の立場が大変弱かった時代の1960年代から、中内は独自のやり方で良い品、高所得者でないと買えない高級品(テレビなど)や一般主流品を、消費者の為にメーカー製造品と同じレベルの品質で、通常の市場価格よりずば抜けた低価格でプライベートブランドから販売した。

今では当たり前になり種類も豊富になったプライベートブランドは、ダイエーが1961年に日本で初めて製造販売し当時も大人気を博した。

そして、「For the customers」(お客様のために)というダイエーのスローガンと共に、死去するまで消費者の権利、庶民への豊かさの提供、小売業の流通革命の存在意義と価値上昇に奔走し続けた。

福岡ダイエーホークス発足に際し、福岡にホームグラウンドを移し、当時は話題性の薄かった九州、福岡市の都市開発にも大きく貢献した。日本で初の開閉型ドーム球場を建設し九州にホークスの人気を定着させた。

チームの低迷期には「同好会は終わった」と書かれた横断幕を送った。福岡Yahoo!JAPANドームには以前のダイエーのスローガンでもあった「For the customers」と書かれた中内直筆の色紙が今でも飾ってある。

流通業界出身初の勲一等瑞宝章を受章しており、「流通王」、「カリスマ」とも呼ばれた。

ホークス株[編集]

長年、ホークスのオーナーを務めた中内だが、ダイエーグループの経営から完全に手を引いた時期に、次男の中内正に、自身が所有していたホークス株を1株1円にて譲渡した。その当時、「非上場株式であることを利用し不当に安く見積もった課税逃れではないか」といった批判などが各メディアで報道された。

人物[編集]

人物像[編集]

神戸高等商業高校在学時は目立たない性格で、俳句の同好会に所属していた。戦後、商売を始め出してからは、同級生を捕まえては「ゼニ貸してくれるとこ知らんか」とすごい目つきで聞いてまわったので、友人たちは人間が変わったと驚いた。

新婚旅行先の宿から電話で薬の取引をするなど、家庭よりも仕事を優先した。 反面、かなりの家族思いで、部下に愛娘のことを話した時「忙しいて全然構ってあげへんかったなあ」と涙を流した。

怒ると手がつけられないほどであったが、反面大変人情深い面も持ちあわせ、社長という身分でありながら、大みそかの深夜まで売り場に立ち続けた中内は、部下から早く帰るよう促された時に、売り場の女子店員を指差して「あの子たちは正月の用意もしないで頑張っているのにわしが帰れるもんか。」と断ったり、部下が億単位の損失をした時は叱るどころか、「そうか。お前、ええ勉強したなあ。これから気をつけろ。」とやさしく励まして相手を感激させた。

座右の銘は「ネアカ、のびのび、へこたれず」

この座右の銘は、自身が設立した流通科学大学の校歌の歌詞にも「ネアカでのびのび、へこたれないよ」という歌詞で使用されている。

晩年は謙虚な好人物となり、林文子CEOによるダイエーの新方針を評価したり、堀江貴文を見て「若いもんは元気があってええなあ。」と漏らした。

自動車免許を取得したときはいかにもうれしそうに知人に免許証を見せびらかし、いずれは米大陸のハイウェイを走りたいと言っていた。ただ、高齢なのでなかなか運転させてもらえず、業を煮やした中内はタクシーを捕まえ「金払うさかい、かわりに運転させろ。」と運転席に乗り込んできたという。だが、ダイエーが産業再生機構入りした時は「無念という一言しかありません。」とのコメントを関係者に送ってきた。

なお、新神戸オリエンタルシティの建物の一角に現在も取り付けられている石板には、彼の直筆で次の言葉が刻まれている。

よい品を どんどん 安く より豊かな 社會を 一九八八年 中内功

右胸に心臓があるために戦争で最前線に送られることになった中内だが、のちに心臓だけでなく全ての内臓が逆になっている内臓逆位と判明している[4]

ダイエー創業に至る中内の生涯は、連続テレビ小説おしん」の主人公のモデルとなったと言われている[12]

語録[編集]

  • 「日用の生活必需品を最低の値段で消費者に提供するために、商人が精魂を傾けて努力し、その努力の合理性が商品の売価を最低にできたという事が何で悪いのであらうか?」(1960年、当時のダイエー三宮店の事務所に掲出した、取引先に対するメッセージ/原文ままのため旧仮名遣いである)[13]
  • 「三つのどれをやっとっても、金は儲かったと思うね。 パチンコ王とか、ソープランド王とか、サラ金王になっていただろう。しかし、僕はいちばん儲からんスーパーを選んだ。 心がまったく動かなかったと言えばウソになるが、でも、それではあまりにロマンがないやろ。  それと、死んだ戦友に対して、なにか後ろめたさがあってね。」  (大塚英樹『流通王 中内功とは何者だったのか』 講談社 2007年より)   
  • 「この資源のない国で、世界一豊かな暮らしを提供するためには、もっと使命感に燃えた人が必要だ」
  • 「我々はダイエーでしかできないことを、この国が本当に豊かさを実現するために、あえてリスクを冒しても実行していかなくてはならない」
  • 「馬鹿と天才とは、この世に存在することはまれである。全てが我々凡人の世界である。その中で半歩前に踏み出すことのできる勇気を持つ事が大切である。」
  • 「売り上げだけが日本一というのではあまり意味がない。それは手段であって本当の目的はそれを通して新しいシステムを作ることだ。」
  • 「時代の流れから言って、かつてのような需要過剰、売り手市場の時代は二度と来ないと思います。景気は今、デフレ局面にあると言われていますが、これからは供給過剰、買い手市場が常態になる。そのような中で企業が存続していくには、買い手市場を前提とした新しいシステムを構築して、徹底的に消費者の理論に立って経営を推し進めていく以外にはありません。」
  • 「もはや手本はない。いまこそ主体的に変革を実行していくときである。企業家精神を大いに発揮し、痛みを伴いながらも、創造的で活力のある新時代を切り開いていく。それが日本経済を再生し、透明度の高い経済社会を作ることになる。」
  • 「こいつはなかなか眼力ある。刑期終えて娑婆に出たらうちに来てもらお。」(自宅が盗難に遭い、値の張る名画ばかり盗まれた時の言葉)
  • 「消費者以外に頭を下げるのは嫌だ。」
  • 「日本は全然豊かじゃないですよ。たしかに家庭用電気製品とかはいっぱい部屋にあるけれど、本当に生活をエンジョイするような時間的、空間的なゆとりがあるだろうか?日本人は何か後ろから追いかけられているような感じで、周囲が気になり自分自身を見失っています。」
  • 「売上げはすべてを癒す」
  • 「消費者のためなら、どんなことでもするつもりやが、死んだおやじに対しては親不孝な息子だったと思う」
  • 「借金と元気だけはあるんやで。」
  • 「松下(幸之助)さんを経営者として非常に尊敬している。しかし価格決定権に対する考え方や、お客様の利益についての考え方は、私とは根本的に違っている」
  • 「国には絶望した。何でこんな国に高い税金を払いつづけていたんやろうかと思うと、あらためてむかっ腹がたった。」(阪神・淡路大震災時の政府の初期対応の遅さについて)
  • 「あの頃は若かった。青雲の志や坂の上の雲はもうなくなってしまった。」(1998年、日本チェーンストア協会会長に31年ぶりに再就任した時の記者団の質問に対して)
  • 「これまでの人生で楽しいことは何もありませんでした。」(1999年、1月、会長に退いた時に、人生を振り返っての問いに対して)

家族・親族[編集]

ダイエーに関係する職に就いたのは祖父の栄、妻の萬亀子、長女の綾を除く全員である。

中内家[編集]

  • 祖父・栄
高知県矢井賀村(現・中土佐町)の士族の家に生まれ大阪医学校(現・大阪大学医学部)に学び卒業後、神戸で眼科医となった。
  • 父・秀雄(サカエ薬局創業者→ダイエー初代会長)
功が後に創業するダイエーの前身ともなったサカエ薬局の創業者。
功がダイエーを創業した際にはダイエー会長職に就任した。
功がダイエーを創業し、所属していたサカエ薬局から移籍し、ダイエーに入社したが功と経営方針で対立しダイエーを退社し食品工場に入社。
2012年12月15日に急性心不全の為に死去。81歳。
  • 弟(三男)・傅(サカエ薬局社長)
  • 弟(四男)・守(ロベルト会長)
  • 中内氏
 ∴
中内栄
 ┃
 ┃
 ┃
中内秀雄
 ┃
 ┣━━━┳━━━┳━━━┓
 ┃   ┃    ┃    ┃
中内功 中内力 中内傅 中内守
 ┃
 ┣━━━━┳━━━┓
 ┃     ┃    ┃
中内潤  中内正   綾

主な著書[編集]

この本は1969年に初版が発売され19刷を重ねベストセラーとなったが、財界のご意見番三鬼陽之助から 「物書きになるのか」と指摘・忠告され自ら絶版にした経緯があった。
 復刊を望む声が多数あり、三周忌とダイエー創業50年を機に、流通科学大学(神戸市)が中心になり復刊した。

主な評伝評論[編集]

  • 大下英治『中内功のダイエー王国』 講談社→現代教養文庫 
  • 城山三郎価格破壊光文社角川文庫。※各ダイエー全盛時の評伝と小説
  • 佐野眞一カリスマ―中内功とダイエーの「戦後」』 日経BP社→増補版 新潮文庫上下→完本 ちくま文庫上下
  • 佐野眞一編 『戦後戦記―中内ダイエーと高度経済成長の時代』 平凡社 2006年。ルポ+評論+対談での中内像
  • 緒方知行『二人の流通革命 中内功と鈴木敏文』 日経BP社 1999年
  • 大友達也『わがボス 中内功との一万日』 中経出版 2006年
     著者はダイエー幹部の中で最も長く側近として仕え、亡くなる直前まで、ただ一人そばにいた部下。広報担当者としてもダイエー関連の記事・書籍に回答や応対している。
  • 大塚英樹『流通王 中内功とは何者だったのか』 講談社 2007年
     著者は「カリスマ」中内功に、約20年間密着したジャーナリスト
  • 中内潤御厨貴編『中内功 生涯を流通革命に献げた男』 千倉書房 2009年
     長男・潤や愛弟子、ライバル経営者の伊藤雅俊岡田卓也清水信次西川俊男、川一男が語る中内像。
  • 恩地祥光『昭和のカリスマと呼ばれた男 中内功のかばん持ち』 プレジデント社、2013年9月。最側近による回想記

脚注[編集]

  1. ^ 『阿陽旧蹟記』によると、「池田村(大西町ニ城跡有)、当城ハ長曽我部元親ノ家老中内善助籠城之処、天正十三酉年家政公御討入之砌責寄給フ処、城主善助ヲ始軍勢共降参シテ土州へ落行、是ニ依テ与州讃州ノ押トシテ牛田亦右衛門ニ御手勢三百騎ヲ御差添被成後ニ亦右衛門ハ掃部ト改ム」とある。中内氏は近江の中原氏の支流といわれ、中世後期に土佐に入り、長岡郡江村郷に居住した。中内藤左衛門。中内源兵衛尉。中内三安。中内三由。中内左近衛門尉がいる。
  2. ^ 佐野眞一、『カリスマ 中内功とダイエーの「戦後」』(日経BP社、一九九八年)、九九頁。
  3. ^ 佐野真一「カリスマ」上巻 新潮文庫p・137
  4. ^ a b 朝刊5面『〈証言そのとき〉ボス、ときどき僕:2 すべて自己責任』”. 朝日新聞社 (2012年9月17日). 2013年4月25日時点のオリジナル[リンク切れ]よりアーカイブ。2012年9月18日閲覧。
  5. ^ 佐野真一「カリスマ」上巻 新潮文庫 p・166
  6. ^ 佐野真一「カリスマ」上巻 新潮文庫 p・159
  7. ^ 会社としてのサカエ薬品株式会社はのちに「株式会社サカエ」に商号変更し、ダイエーと同じくスーパーマーケットに発展。2001年11月1日会社分割にて同名の新設法人株式会社サカエに事業を承継するまで、「サカエ」の店名でスーパーマーケットを展開していた
  8. ^ 佐野真一「カリスマ」上巻 新潮文庫p・238~239
  9. ^ 佐野真一「カリスマ」上巻 新潮文庫p・337
  10. ^ 佐野真一「カリスマ」上巻p・337~338
  11. ^ a b c d 松下幸之助と中内功の信念 日本総研、2006年07月24日、竹内祐二。
  12. ^ 雪国舞台 日本人の苦難体現読売新聞 2011年11月9日配信 2013年3月7日閲覧)
  13. ^ ダイエーグループ35年の記録 p.30

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

先代:
創業
ダイエー社長
初代:1957年 - 1999年
次代:
鳥羽薫
先代:
中内秀雄
ダイエー会長
2代:? - 1999年
次代:
雨貝二郎
先代:
創設
小林敏峯
小林敏峯
日本チェーンストア協会会長
初代:1967年 - 1976年
第10代:1993年 - 1994年
第14代:1998年 - 1999年
次代:
岡田卓也
鈴木敏文
鈴木敏文