金村曉

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金村 曉 (金村 秀雄)
阪神タイガース コーチ #73
HT-Satoru-Kanemura20100509.jpg
現役時代の金村暁(2010年5月9日)
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 宮城県気仙沼市
生年月日 (1976-04-19) 1976年4月19日(41歳)
身長
体重
187 cm
83 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 投手
プロ入り 1994年 ドラフト1位
初出場 1995年10月4日
最終出場 2010年6月20日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
コーチ歴
  • 阪神タイガース (2016 - )

金村 曉(かねむら さとる、本名:金村 秀雄(かねむら ひでお)、1976年4月19日 - )は、宮城県気仙沼市出身の元プロ野球選手投手)。

現役時代は、NPB日本ハムファイターズ北海道日本ハムファイターズ阪神タイガースでプレー。日本ハム時代には、1997年シーズンに登録名2001年シーズンにへ変更している。

2011年に、ベースボール・チャレンジ・リーグ信濃グランセローズで現役を引退。2016年からは、阪神の一軍投手コーチを務める[1]

経歴[編集]

プロ入り前[編集]

小学生の頃から日本ハムファイターズのファンで、当時のエースだった西崎幸広に憧れていたという。

仙台育英高等学校進学後、1994年第76回全国高等学校野球選手権宮城大会決勝で桜井幸博を擁する仙台工高を破り優勝。第76回全国高等学校野球選手権大会ではベスト8まで進む。

同年のドラフト会議で、ファンであった日本ハムファイターズから1位指名を受け入団。この時日本ハムは甲府工高山村宏樹を1位指名する予定だったが、直前になって金村へ変更。入団記者会見ではハムをほおばるパフォーマンスを見せた。

日本ハム時代[編集]

ルーキーイヤーの1995年に1軍に昇格するもわずか1試合の登板に終わった。

1996年は1軍登板なしに終わった。

3年目の1997年から頭角を現し始める。その後日本ハムのエースに成長したが、かつては怪我がちで「ガラスのエース」とも呼ばれていた。

1998年、開幕から中継ぎとして一軍に定着、初のオールスターゲーム出場を果たす。後半戦は先発ローテーションに入り、5完投も記録。135イニングでぎりぎりで規定投球回に到達し、防御率2.73で4年目、22歳にして最優秀防御率を獲得。

1999年、開幕ローテーションに入り、開幕から2試合連続完封勝利、3試合連続完投勝利。3戦目の9回にイチローに史上最速1,000本安打となる本塁打を浴びるまで開幕から26イニング連続無失点を記録。この3試合の登板のみで初の月間MVPを獲得したが、3試合目の直後に右肩の痛みを訴え離脱、9月まで復帰できなかった。

2000年、2年連続で4月に月間MVPを獲得し、順調な滑り出しを見せたが、直後に再び右肩痛で離脱。

2001年は初の開幕投手を務めた。故障がちだったため監督の大島康徳が完投させず起用した結果、故障なく初めて1年ローテーションを守りきり、規定投球回にも到達という最低限の役割を果たしたものの、7勝13敗、防御率4.89と不振。故障のリハビリでウェイトトレーニングなどで肩を鍛え、この年から故障での離脱はしなくなった。

2002年は開幕からしばらくはチームの方針で中継ぎだったが、すぐにローテーションに戻る。安定感も戻ってシーズン通して活躍し、初の2桁勝利をマーク。フォークがさえ、自己最多の143奪三振を記録。2005年まで4年連続2桁勝利を記録し、日本ハムのエースとして活躍。

2003年は前半戦で3勝どまりと不振だったが、後半戦7勝と巻き返し2年連続の10勝に滑り込む。

2004年、日本ハムの本拠地移転1年目の札幌ドームの初戦で先発。勝利投手となり、ヒーローインタビューでは北海道弁を取り入れ「なまら最高です!」と叫び、北海道のファンを沸かせた。この言葉はその後、金村のトレードマークにもなり、「なまら最高タオル」などのグッズも発売される。このセリフは自身の公式ブログのトップにも記されている。自己最多の13勝をマーク、6年ぶりにオールスターにも出場。シーズンオフには、札幌グランドホテルで開催した「日ハム選手ディナーショー」に出演し、自慢の歌を披露した。

2005年、自己最多の174イニングを投げ、2年連続で13勝を挙げる。オールスター出場も果たすが、チームのローテーションの関係で登板はなかった。

2006年4月16日の対福岡ソフトバンクホークス戦のフリオ・ズレータとの第4打席で、投球直前に2度マウンドを外してじらした後に腹部に死球を与えたことから、ズレータは激昂して金村のいるマウンドに突進した。金村は逃げずにズレータの暴行を受けて負傷。4月後半を棒に振ったが、5月7日の楽天戦で復帰登板して勝利投手となった。その後、後述の騒動により2軍降格となるが、日本シリーズで復帰。第4戦(札幌ドーム)に先発投手として登板し、勝利投手になる。また、アジアシリーズでも勝利に貢献した。オフには財政再建団体になった夕張市を応援しようと、市民を毎試合札幌ドームに招待する「金村・夕張シート」を設けた[2]

2007年は、肘の不安で諦めていたカーブの習得に励み、数少ない先発の柱として2桁勝利を目指すも、5月に故障のため戦線離脱。交流戦終了後に復帰し、7月11日に完投で5勝目を挙げた時点で防御率も2点台と成績を残していたが、前半戦最終戦の対ソフトバンク戦でプロ最短の0回2/3を4失点でノックアウトされ、後半戦の対千葉ロッテマリーンズ戦でも2試合連続でKO[3]で2軍へ降格。結局そのままレギュラーシーズンで1軍に再昇格することはできず、日本シリーズではベンチ入りは果たすも登板はできなかった。11月9日、中村泰広との交換トレード阪神タイガースへ移籍。この時点で金村はすでにプロ通算80勝を記録しており、一方の中村はそれまでに3勝しか挙げていなかったため、この両投手が1対1で交換トレードされることが話題になった。

阪神時代[編集]

移籍1年目の2008年は先発ローテーションの一員として期待を受けるも、オープン戦前の投球練習の際に左太腿を痛め、開幕1軍を逃し出遅れる形となる。7月3日に一軍に昇格し移籍後初登板、勝ち投手こそ逃したものの1失点の好投を見せる。だがこの試合以外は精彩を欠き1軍定着には至らず降格。結局この年は8試合登板するも1勝もできないままシーズンを終えた。

2009年7月17日の対読売ジャイアンツ戦に岩田稔の代わりに登板し6回1失点の好投を見せた。同年9月6日の対広島東洋カープ戦で5回から3番手投手として登板し、1イニングを無失点に抑え、阪神移籍後初の白星をあげた。その後は手薄となった中継ぎ陣に加わり、リリーフとして活躍した。

2010年は出番に恵まれずわずか1試合の登板に終わり、オフの10月1日に球団から戦力外通告を受けた[4]。12月10日、韓国プロ野球三星ライオンズと年俸2,000万円の契約に合意したが、メディカルチェックを通らず破談となった[5]2011年1月、今度はSKワイバーンズのテストを受けたが、SKが他の外国人投手と契約することになったため入団に至らなかった[6]。なお、この契約解除に対して金村は三星ライオンズを相手に年俸や契約金を払うよう民事訴訟を起こしているが、2012年11月、韓国・大邱地方法院より敗訴の判決が下された。

信濃時代[編集]

2011年2月に信濃グランセローズの春季キャンプに参加し、その後は6月頃まで韓国球界などからのオファーを待つ予定だったが[7]、結局4月2日に信濃と正式契約した[8]。しかし、右肩の状態が安定せず現役引退を決断し[9]、同年10月5日、球団との来季の契約を結ばないことが決まり退団[10]

現役引退後[編集]

2012年から2015年までは、北海道を拠点に、日刊スポーツ専属の野球評論家野球解説者として活動。解説者として、北海道文化放送テレビ北海道GAORAの日本ハム主催試合中継や、地元・宮城県の民放局である東北放送[11]制作の楽天対日本ハム戦中継や、東日本放送制作の楽天主催試合中継に出演していた。その一方で、2月の春季キャンプ期間中には、古巣・阪神の宜野座キャンプを毎年のように視察[12]。また、札幌市内のフィットネスクラブで、週に1回野球の個別指導を担当していた。

2016年からは、阪神の一軍投手コーチに就任[1]。同球団での現役時代のチームメイトだった金本知憲新監督の下で、主にブルペンを担当する[12]

人物[編集]

愛称は名前が金村であること、その漢字をあかつきと読めることから「あかつき」、「キンソン」。

座右の銘は、「弱気は最大の敵」。

元タレントの亜也子夫人との間に男の子の双子がいる。

舌禍事件[編集]

2006年9月24日の対ロッテ戦では、5年連続2桁勝利と6年連続規定投球回到達の記録がかかっていたが、立ち上がりから投球が安定せず、4-1で日本ハムの3点リードで迎えた5回裏に2死満塁のピンチを迎えるとトレイ・ヒルマン監督に交代を命じられた。この後のレギュラーシーズン中の登板予定がなかったため、シーズン成績9勝6敗、投球回数134回2/3(規定に1回1/3不足)が確定し、記録が共に途切れることとなってしまった。

試合後、怒りの収まらない金村は降板させられたことについて「絶対に許さない。外国人の監督だから個人の記録は関係ないのでしょう。顔も見たくない」とヒルマン監督を激しく批判。これが原因で、球団は「出場選手登録抹消」「翌25日に行われるチーム練習への参加禁止」を即日決定し、25日には「罰金200万円」と「プレーオフ終了までの出場停止」という厳しい処分を下した。ヒルマン監督は当初「(金村は)プライドの高い投手。あそこで交代させたのは少し軽率だった。だがチームのムードを壊す行為は許されない。私や選手が3年間通して作りあげたものを壊されたような感じだ。この件で使いづらくなった」とコメント。ただ、その日のうちには金村を許すことを決め、球団にも「シーズン中にリベンジの場を与えたい」と話していたという。

一方、金村も冷静になって事の重大さに気付き、チームOBの岩本勉に泣きながら電話をかけている。日本ハム時代の先輩だった片岡篤史下柳剛からも直接「俺らはお前にそんな事を教えたか!目を覚まさせてやる!」と厳しい叱責を受けたが、最後には「こういう経験がないと大きくなれない。いい勉強と思って前向いてやれ。成長するステップと思って頑張れ」という言葉をかけられた。金村はレギュラーシーズン終了後に選手・首脳陣などに謝罪し、事態は収拾された。ヒルマンも金村に対し「君の9勝がなければ、我々はこの位置にいられなかった」とし、謝罪を受けて「わだかまりはない。来るべき時の準備を進めてほしい」とエールを送り、決して金村を責めることはなかった。

日本シリーズでの復帰が決まり、10月25日の第4戦(札幌ドーム)に先発投手として登板、マウンドに向かう時にスタンドから歓声が起きた。そしてマウンドに上がると、1塁側、本塁側、3塁側、そして左翼席と5度頭を下げた。この試合では5回を5安打、2奪三振、2四球、82球で無失点に抑え勝ち投手となった。試合後のヒーローインタビューでは「全国のファンの皆様、この場をお借りして改めて謝罪したいと思います、本当にどうもすいませんでした」と深々と頭を下げ、インタビュー終了後にヒルマン監督と抱き合った。このシリーズを制覇した日本ハムが日本代表として参加したアジアシリーズでは11月12日の対チャイナスターズ(中国野球リーグ選抜チーム)戦に先発し、5回で6安打1四球84球ながらも7三振を奪うなど要所を締め、勝利に貢献した。なお、翌年に阪神タイガーストレードされた。

詳細情報[編集]

年度別投手成績[編集]





















































W
H
I
P
1995 日本ハム 1 0 0 0 0 0 0 0 -- ---- 8 1.1 3 0 2 0 0 1 0 0 3 3 20.25 3.75
1997 14 7 1 0 0 1 4 0 -- .200 215 52.1 38 5 18 1 5 38 0 0 23 23 3.96 1.07
1998 31 15 5 1 2 8 8 1 -- .500 556 135.0 124 12 37 0 4 85 0 0 46 41 2.73 1.19
1999 8 5 3 2 0 3 1 1 -- .750 169 43.0 31 5 15 1 0 27 0 0 12 11 2.30 1.07
2000 17 16 3 0 0 9 5 0 -- .643 426 101.1 91 11 42 0 4 61 2 0 46 45 4.00 1.31
2001 25 23 0 0 0 7 13 0 -- .350 639 141.2 164 20 66 0 2 94 7 0 81 77 4.89 1.62
2002 32 23 2 1 0 10 6 0 -- .625 693 167.2 153 19 53 1 3 143 4 0 65 59 3.17 1.23
2003 26 25 2 0 1 10 8 0 -- .556 665 157.0 149 24 56 0 1 103 6 0 79 74 4.24 1.31
2004 25 25 1 1 0 13 8 0 -- .619 717 167.1 157 20 71 2 4 114 7 1 79 73 3.93 1.36
2005 25 25 4 0 1 13 10 0 0 .565 730 174.0 186 21 54 3 2 96 3 1 73 70 3.62 1.38
2006 23 23 1 1 0 9 6 0 0 .600 591 134.2 158 14 43 1 2 57 0 2 68 67 4.48 1.49
2007 13 13 3 0 0 5 6 0 0 .455 341 78.0 88 9 30 1 1 33 1 0 44 41 4.73 1.51
2008 阪神 8 8 0 0 0 0 5 0 0 .000 186 41.1 49 5 11 1 2 38 3 0 25 19 4.14 1.45
2009 22 2 0 0 0 1 1 0 0 .500 135 32.2 34 3 8 1 0 23 1 0 12 10 2.76 1.29
2010 1 0 0 0 0 0 0 0 0 ---- 16 2.0 6 1 3 0 0 0 0 0 6 5 22.50 4.50
通算:15年 271 210 25 6 4 89 81 2 0 .524 6087 1429.1 1431 169 509 12 30 913 34 4 662 618 3.89 1.36
  • 各年度の太字はリーグ最高

タイトル[編集]

表彰[編集]

  • 月間MVP:2回 (投手部門:1999年4月、2000年4月)

記録[編集]

初記録
投手記録
  • 初登板:1995年10月4日、対西武ライオンズ26回戦(西武ライオンズ球場)、6回裏無死に4番手で救援登板、1回1/3を3失点
  • 初奪三振:同上、6回裏に安藤真児から
  • 初勝利・初先発勝利・初完投勝利:1997年9月28日、対西武ライオンズ26回戦(西武ライオンズ球場)、9回2失点
  • 初セーブ:1998年4月19日、対千葉ロッテマリーンズ3回戦(長崎ビッグNスタジアム)、7回表に2番手で救援登板・完了
  • 初完封勝利:1998年9月12日、対西武ライオンズ23回戦(西武ドーム)
打撃記録
節目の記録
その他の記録

独立リーグでの投手成績[編集]













































2011 信濃 17 2 7 0 3 .222 76.0 312 69 6 45 16 4 37 22 1 1 5 2.61
通算:1年 17 2 7 0 3 .222 76.0 312 69 6 45 16 4 37 22 1 1 5 2.61
  • 各年度の太字はリーグ最高

背番号[編集]

  • 16 (1995年 - 2007年、2011年)
  • 13 (2008年 - 2010年)
  • 73 (2016年 - )

登録名[編集]

  • 金村 秀雄 (かねむら ひでお、1995年 - 1996年)
  • 金村 暁 (かねむら さとる、1997年 - 2000年)
  • 金村 曉 (かねむら さとる、2001年 - )

関連情報[編集]

解説者時代に出演したテレビ番組[編集]

脚注[編集]

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  1. ^ a b 阪神タイガース (2015年10月30日). “2016年度 監督及びコーチについて”. 2015年10月31日閲覧。
  2. ^ YOMIURI ONLINE (2007年2月1日). “金村投手が夕張シート 札幌ドームに8席市民を招待”. 2011年2月19日閲覧。
  3. ^ 2戦目は自己ワーストの12失点
  4. ^ 阪神が金村暁、庄田ら6人に戦力外通告 - ウェイバックマシン(2010年10月2日アーカイブ分) - デイリースポーツ(2010年10月2日)
  5. ^ 중앙일보 (2011年1月12日). “SK, 가네무라 테스트 열흘 뒤로 연기”. 2011年2月19日閲覧。
  6. ^ 「SKが助っ人獲得」、『週刊ベースボール』第8号、ベースボール・マガジン社2011年、 79頁。
  7. ^ スポニチアネックス (2011年3月1日). “オファー待ち 元日本ハムドラ1 BCリーグ信濃キャンプ参加”. 2011年3月1日閲覧。
  8. ^ BCリーグ (2011年4月2日). “信濃 新入団選手のお知らせ”. 2011年4月2日閲覧。
  9. ^ 信濃毎日新聞 (2011年10月6日). “金村投手が自主退団 給前ら4選手も”. 2011年10月11日閲覧。
  10. ^ 信濃グランセローズ (2011年10月5日). “退団選手のお知らせ”. 2013年3月1日閲覧。
  11. ^ 2014年9月20日は岩本勉が金村の代役として解説者として出演した。2016年からは岩本勉が出演している。
  12. ^ a b 日刊スポーツ (2015年10月27日). “金村暁氏が阪神一軍投手コーチへ ブルペン担当就任”. 2015年10月31日閲覧。
  13. ^ 阪神投手コーチ就任後は岩本勉が登場。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]