フリオ・ズレータ

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この名前は、スペイン語圏の人名慣習に従っています。第一姓(父方の)はズレータ第二姓(母方の)はタピアです。
フリオ・ズレータ
Julio Zuleta
基本情報
国籍 パナマの旗 パナマ
出身地 パナマ県パナマ市
生年月日 (1975-03-28) 1975年3月28日(42歳)
身長
体重
197 cm
113 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 一塁手指名打者
プロ入り 1993年
初出場 MLB / 2000年4月6日
NPB / 2003年6月23日
最終出場 MLB / 2001年6月25日
NPB / 2008年10月1日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
国際大会
代表チーム Flag of Panama.svg パナマ
WBC 2009年

フリオ・エルネスト・ズレータ・タビアJulio Ernesto Zuleta Tapia , 1975年3月28日 - )は、パナマ共和国パナマ市出身の元プロ野球選手内野手)。

経歴[編集]

メジャー時代[編集]

1993年、アマチュアFAでシカゴ・カブスと契約。

2000年メジャー初昇格を果たし、4月6日のセントルイス・カージナルス戦でメジャーデビュー。代打として出場したが凡退に終わった。

2002年10月15日にFAとなり、11月24日にボストン・レッドソックスと契約した。

2003年はAAA級ポータケット・レッドソックスで55試合に出場。6月7日、メジャー再昇格のないまま放出された。

ダイエー・ソフトバンク時代[編集]

2003年小久保裕紀の長期離脱による攻撃力不足を補うために、シーズン途中に福岡ダイエーホークスに入団。「サードを守れる大砲」という触れ込みで入団したものの、送球に難があり三塁手での起用は見送られた。日本での初出場は、6月23日の対日本ハムファイターズ戦(福岡ドーム)で8番・ライトスタメン出場したが、外野守備走塁コーチの島田誠が「想像を絶する守備のまずさ」と嘆くお粗末な守備を披露。ズレータは「まだシューズが届いていなかった」とスパイクシューズを履かずに外野の守備に就いたせいで思うように動けなかったことを主張したが、それ以降は指名打者に定着。当時スコアラーの金森栄治の打撃指導の下、持ち前のパワーを生かした特大本塁打を多数放ち、「パナマの怪人」と呼ばれる。チームのパシフィック・リーグ優勝・日本一に大きく貢献。日本シリーズ第1戦では阪神タイガース安藤優也からサヨナラヒット、第2戦では金澤健人からダメ押しの3ランを放っている。

2004年はレギュラーシーズン勝率1位に大きく貢献。2004年は3ラン本塁打を打つことが非常に多く、「ミスター3ラン」とも呼ばれた。

2005年交流戦以降、膝などに不安がある松中信彦に代わり一塁手に定着。一塁では無難な守備を見せており、2005年はゴールデングラブ賞を獲得した福浦和也よりも失策数は少なかった。打率.319、43本塁打、99打点といずれもリーグ2位の好成績を記録。またオフに、第1回ワールド・ベースボール・クラシックパナマ代表候補に選出されたが日本のシーズンを優先するため辞退した。

2006年7月27日の対千葉ロッテマリーンズ戦で0-1の9回裏1アウト一塁の場面で、小林雅英からレフトスタンド中段へ20号逆転サヨナラ2ランを放った。この後、ソフトバンクは勢いづき、ロッテは失速するという、その後の明暗を分ける大きな本塁打となった。10月9日のパ・リーグプレーオフ第1ステージ第3戦で、第2ステージ進出を決定づける特大本塁打をインボイスSEIBUドームのレフトスタンド最上段に放った。オフに複数年契約を求めるズレータ側と単年契約に固執する球団側とで折り合いが付かず、自由契約。球団側の契約条件に退場による罰金事項等が織り込まれていたことに対し嫌気が差したとも言われている。首脳陣からの要請もあり、球団側も最終的には複数年契約を提示したが同意には至らず。12月29日、獲得の意向を示していた千葉ロッテマリーンズと2年契約。

ロッテ時代[編集]

2007年3月24日開幕戦(対日本ハム戦)で、4番・指名打者で出場。それまで完封ペースだったダルビッシュ有から同点満塁本塁打を放った。9月22日の対東北楽天ゴールデンイーグルス戦(フルスタ宮城)において、第2打席に二塁打、第3打席に三塁打、第4打席に本塁打、第5打席に単打を放ち、サイクル安打を達成。ロッテの一塁手には守備も得意な福浦がいるため、主に指名打者としての出場(ただし、福浦の故障により一塁手での出場も数試合あった)。開幕当初は好調を維持していたが、死球による左手小指骨折で戦線離脱があったため規定打席の半分ほどしか立つことができず、77試合の出場に留まり打率.267、15本塁打に終わった。この15本塁打はチームトップだった。

2008年6月7日の対読売ジャイアンツ戦で、エイドリアン・バーンサイドから、ラルフ・ブライアント近鉄バファローズ)以来18年ぶりに東京ドームの懸垂物に当てる認定ホームラン(推定飛距離150m)を放った。しかし、この年も故障や調整不足などにより73試合の出場で打率.215、8本塁打、33打点、72三振と前年同様低調な成績に終わる。3億と高年俸に加えて起用法に対する不満を漏らしていたこともあり、11月に自由契約となった。

ロッテ退団後[編集]

2009年開幕前の3月に、第2回WBCのパナマ代表に選出された[1]。同大会では、プエルトリコ戦ドミニカ戦に「5番・一塁」でスタメン出場した。

その後、メキシカンリーグレイノサ・ブロンコスでプレーをしていたが、打率2割台前半と不振にあえぎ、5月半ばで所属チームを解雇された。

その後、ソフトバンク時代に師匠として慕っていた金森栄治の打撃コーチ就任に伴い、ロッテの秋季キャンプにテスト参加が決定した[2]。しかし、入団に至ることはなかった。

2011年ごろは、フォートマイヤーズバッティングセンターを経営し、有料で野球指導も行なっていた[3]

2014年現在は、フォートマイヤーズ在住で日本球界復帰を目指してトレーニングを行っている[4]

プレースタイル[編集]

真ん中から外のボールに強い[5]。2005年は内角のボールは5本塁打だったのに対し、真ん中、外角はいずれも19本塁打を記録した[6]。引っ張りが基本であるが、右に打つこともうまい[6]

人物[編集]

  • 投手の持ち球や配球などをノートに細かくメモしていた[7]
  • 「チョップ、チョップ、パナマウンガー!」というパフォーマンスは、故郷であるパナマ日本を合体させたもの[8]。2006年には博多華丸から伝授された「よかろうもん!」も付け加えられている[9]
  • 2006年10月12日、ソフトバンクがプレーオフ第2ステージで敗退した瞬間、マウンド上で崩れ落ちた斉藤和巳ホルベルト・カブレラと共に真っ先に駆け寄った。ズレータは「あの時、和巳が笑われたり、さらし者になったりするのが許せなくて、一目散にマウンドに駆けつけたんだ。なぜなら、彼は俺の大切な兄弟なのだから」と語っている。同年自分のことを優先する外国人選手2人(ズレータ、カブレラを指している)に対して特別扱いする空気があったが、選手会長を務めていた斉藤から「あなたたちの力が必要だから、力を貸してくれ」と強く迫られ意識が変わったという[10]
  • パナマ工科大では自動車のエンジン研究を行っていた[7]

詳細情報[編集]

年度別打撃成績[編集]

















































O
P
S
2000 CHC 30 73 68 13 20 8 0 3 37 12 0 1 0 0 2 0 3 19 2 .294 .342 .544 .887
2001 49 118 106 11 23 3 0 6 44 24 0 1 0 1 8 1 3 32 3 .217 .288 .415 .703
2003 ダイエー
ソフトバンク
67 250 214 33 57 14 0 13 110 43 0 1 0 2 24 0 10 62 7 .266 .364 .514 .878
2004 130 542 455 60 129 18 0 37 258 100 1 2 0 5 63 4 19 121 20 .284 .389 .567 .956
2005 131 526 461 80 147 20 1 43 298 99 0 1 0 6 44 6 15 119 14 .319 .392 .646 1.038
2006 126 532 466 59 131 22 0 29 240 91 1 2 0 6 47 10 13 112 17 .281 .359 .515 .874
2007 ロッテ 77 326 277 36 74 10 1 15 131 51 2 0 0 3 38 1 8 88 9 .267 .368 .473 .841
2008 73 263 241 21 52 15 1 8 93 33 1 1 0 2 16 1 4 72 14 .216 .274 .386 .660
MLB:2年 79 191 174 24 43 11 0 9 81 36 0 2 0 1 10 1 6 51 5 .247 .309 .466 .775
NPB:6年 604 2439 2114 289 590 99 3 145 1130 417 5 7 0 24 232 22 69 574 81 .279 .365 .535 .900
  • ダイエー(福岡ダイエーホークス)は、2005年にソフトバンク(福岡ソフトバンクホークス)に球団名を変更

表彰[編集]

記録[編集]

NPB初記録
その他の記録
2004年限りで消滅した大阪近鉄を含む13球団からの本塁打は、史上2人目

背番号[編集]

  • 15 (2000年 - 2001年)
  • 42 (2003年 - 2008年)、(2009年WBCパナマ代表で出場時)

代表歴[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 2009 Tournament Roster[リンク切れ] The official site of World Baseball Classic (英語) 2016年3月2日閲覧 [リンク切れ]
  2. ^ ズレータ選手 テスト合流のお知らせ - 千葉ロッテマリーンズ・オフィシャルサイト
  3. ^ 西岡、相棒候補と初競演も「まだよく分からん」 スポニチ Sponichi Annex
  4. ^ 幕張ファイヤー 渡辺俊介オフィシャルブログ「俊介の“旬”な話」
  5. ^ 『野球小僧 世界野球選手名鑑2005』 白夜書房、2005年、29頁。ISBN 4-86191-015-3
  6. ^ a b 『野球小僧 世界野球選手名鑑2006』 白夜書房、2006年、29頁。ISBN 4-86191-134-6
  7. ^ a b 『激闘!!逆襲の予感 HAWKS 2006』 西日本新聞社、2006年、30-31頁。ISBN 4-8167-07-07-7
  8. ^ 『応援ありがとう!2005福岡ソフトバンクホークス激闘の軌跡』 ソフトバンククリエイティブ、2005年、76頁。ISBN 4-7973-3331-6
  9. ^ 『応援ありがとう!2006福岡ソフトバンクホークス激闘の軌跡』 ソフトバンククリエイティブ、2006年、90頁。ISBN 4-7973-3840-7
  10. ^ 球史に残る大エース・斉藤和巳が外国人選手に直談判し生まれた熱き友情 ライブドアニュース 2014年1月9日閲覧。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]