安部譲二

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ナビゲーションに移動 検索に移動
安部 譲二
誕生 安部 直也
あべ なおや
(1937-05-17) 1937年5月17日
東京府東京市
現・東京都品川区
死没 (2019-09-02) 2019年9月2日(82歳没)
職業 小説家漫画原作者
俳優タレント
国籍 日本の旗 日本
活動期間 1986年 - 2019年
ジャンル 悪漢小説・犯罪小説・青年漫画
代表作塀の中の懲りない面々
RAINBOW-二舎六房の七人-
主な受賞歴 第51回小学館漫画賞一般部門
(『RAINBOW-二舎六房の七人-』)
デビュー作 『塀の中の懲りない面々』
配偶者 遠藤瓔子・安部まゆみ 他
子供 遠藤正二朗(瓔子との子)
親族 梶原仲治(母方の祖父)
公式サイト 大人気ないオトナ
Portal.svg ウィキポータル 文学
テンプレートを表示

安部 譲二(あべ じょうじ、1937年昭和12年〉5月17日 - 2019年令和元年〉9月2日[1])は、日本小説家タレント。本名は安部 直也(あべ なおや)。

暴力団員であり、自らの服役経験を基にした自伝的小説『塀の中の懲りない面々』などの著作がある[2]。また漫画原作者としても、第51回小学館漫画賞を受賞した柿崎正澄の漫画『RAINBOW-二舎六房の七人-』などの作品がある。血液型O型。

元妻は実業家エッセイストの遠藤瓔子で、ゲームソフトの原作・監督などを手がける遠藤正二朗は遠藤との子にあたる。

経歴[編集]

下記、ヤクザ時代の過去については「大体、10%だけがホントで、あとは膨らました脚色ですよ」、「作家は政治屋や役人と一緒で、ホントのことなんか言うわけがねぇんだよ」とも発言している[3]。しかし日本航空スチュワードであった経歴については、当時の同僚の夫である深田祐介により事実であったことが証言されている。

出生[編集]

日本郵船に勤務していた父・安部正夫、母・玉枝の次男(4人兄姉の末っ子)として、東京府東京市に生まれた。

母は岩谷松平の子孫であり、安部が1994年6月放送のNHKライバル日本史』~「激突!宣伝大王〜岩谷松平と村井吉兵衛」に出演した際に明らかにされた[4]。母方の祖父・梶原仲治明治の立志伝中の人物で、山形県の福浦村(現在の飽海郡遊佐町あたり)で生まれて苦学して東京帝国大学を卒業し、銀行家になった[5]。母の姉は、法学博士岸清一の長男の妻[6]。父方の祖父は造船技師で、東京帝国大学で夏目漱石正岡子規と同期であった。

父の転勤に伴い、ロンドンローマで育つ。第二次世界大戦が始まる前に日本へ帰国すると、池田山(現・品川区東五反田)の母の実家に育ち、森村学園幼稚園に通う。戦争中は熱海の祖母の別荘に疎開し、町内に松竹ロビンスの監督等を務めた新田恭一が住んでいて野球を教えてもらったという[7]。これが縁で成人した安部が安藤組のアマチュア野球チームにいたおり、安部の母が「プロ野球選手になれたらヤクザをやめてもいい」と言った息子の話を真に受け、足を洗って欲しいと新田から辿って新田の慶応野球部の後輩・別当薫に安部を紹介したことがあるという[8]

軍属としてシンガポールに出征した父の残した本箱にあったシェイクスピア全集や漱石全集、世界文学全集、プルターク英雄伝名将言行録などを国民学校低学年にして片っ端から読破。港区立麻布小学校では神童と呼ばれた。

私立麻布中学校時代の同級生には元総理大臣の橋本龍太郎がいる。麻布中学の入学試験当日、頭のいい受験生の後席に座ればカンニングできると目論んだ安部は、他の受験生を品定めしたところ、橋本が一番頭がよさそうに感じその後席に座ることに成功したという。後年、橋本と同窓会で会った際、政界に身を置くようになっていた橋本に自身と似た匂いを嗅ぎ取り、互いに都合の悪い事だけは黙して語らないことを約束したといわれる。また、橋本政権下の時代、コメンテーターとしてトーク番組で政治問題のコメントする際はいつも『俺は龍ちゃんと同級生だったから』とのことでいつも自民党擁護の発言が目立った。しかし、これは安部自身が元ヤクザのベストセラー作家でありながら橋本と同級生だったことを言いたかったちょっとしたネタであり、一緒に出演していた他のコメンテーターからは特に問題視されることはなかった。

麻布中学2年時には江戸川乱歩主宰の雑誌にアブノーマルセックス小説を投稿し、乱歩から「この子は心が病んでいる」と言われ、北鎌倉の寺で写経をさせられたことがある[9]。また、中学在学中から安藤組大幹部・阿部錦吾の舎弟となり、安藤組事務所に出入りしていたため麻布高校への内部進学が認められなかった。

1952年には夏祭りの場で複数のテキ屋と争い、出刃包丁による傷害事件を起こす。困った父親により幼少期に育ったイギリスに留学させられ、ウィンブルドン寄宿制学校に進む。同校在学中には南ロンドン地区の少年ボクシング大会に出場し、ライトウェルター級選手として優勝した[10]。入寮から4ヶ月経った時、イタリアから留学中の女子生徒と全裸で戯れていたのを舎監に発見され退寮処分を受ける。16歳の時にカメラマンのアシスタントとしてオランダに渡り、ロバート・ミッチャム売春婦を巡り殴り合いをおこなったことがある[11]

暴力団構成員時代[編集]

日本に戻ると、慶應義塾高校に入学。同校では体育会拳闘部の主将となったが、16歳の時、本格的に暴力団構成員となった上、早稲田大学の学生たち16人に喧嘩を挑まれて3人で叩きのめしたことが問題となり、「はなはだしく塾の名誉を汚した」との理由で1955年春に除籍処分を受けた[12]

慶應義塾高校除籍後は神戸市立須磨高等学校逗子開成高等学校など6つの高等学校を転々とし、安藤組組員であった時期に保善高校定時制課程に入学した。この間、18歳の時に横浜市伊勢佐木町へ債権の取り立てに行き、不良外人のブローカーと争い、初めて銃で撃たれる経験をする[13]

19歳の時には横浜で不良外人の下へ借金の取り立てに行ったところ、用心棒から殺されそうになり、反撃して相手の拳銃と車を奪い逃走。このため強盗殺人未遂と銃刀剣法違反で逮捕され、少年院から大津刑務所に身柄を移される。1審で懲役7年の実刑判決を受けたが、接見に来た今日出海らの勧めで控訴。控訴審の弁護人の働きにより緊急避難が認められ、強盗殺人未遂から窃盗罪・遺失物取得罪・銃刀剣法違反に罪名変更され、懲役2年6月、保護観察付執行猶予5年の有罪判決を受ける[14]

以後、「幻の鉄」の二つ名を持つ中国道の大親分のもとに身柄を預けられ、大親分の一家を守ると共に、大親分の娘と恋仲になった[15]。また、若い時期はブラディー・ナオのリングネームで地下ボクシング活動もしており、海外を転戦していた時期もあった。世界王者・サンディ・サドラーの来日時のスパーリングパートナーも務めたといい、ハンブルクでは悪役プロレスラーとしてリングに登場し、力道山から「いつでも安藤組に頼みに行くから、ヤクザ辞めてレスリングやれ」と勧められたこともある[16]

日本航空勤務時代[編集]

1959年に22歳で保善高校定時制を卒業し、国際ホテル学校に入学。1961年1月に23歳で日本航空に入社し、客室乗務員として国内線や国際線に乗務する。スチュワードからパーサーまで出世するが、理不尽な要求をする乗客とのトラブルで殴ってしまったことをきっかけに、前科3犯(当時)で執行猶予中であることや暴力団組員であったことが露見し、安藤組解散(1964年)後の1965年1月に退社に追い込まれた。パーサー時代の勤務態度は真面目な反面、感情的になる事も多く、同僚の彼女をぶん取って交際したり、横柄な支店長を殴ったり、乗客を投げ飛ばしたこともあったと言われている。またこの頃は、安藤組の代紋を付けていたが、当然出勤する時は外していた。

日本航空時代に同僚の遠藤瓔子と結婚した。その後作家となる、当時日本航空広報部社員だった深田祐介と知り合い、深田の妻とも客室乗務部で同僚であった。当時深田は安部を「帰国子女で典型的な山の手のお坊ちゃん風」と思っており、暴力団員でもあったことを退社に至るまで全く知らなかった。

この間、1963年4月17日から1967年8月25日に起きた第二次広島抗争では派遣された。映画「仁義なき戦い」の第四部「頂上作戦」の劇中、全国からケンカの助っ人が広島市に集結したくだりがあり、実際は全面戦争にはならず、安部は暇で野球に興じていた。ある日、商店街の野球大会に参加して、飛ばない軟式ボール広島市民球場の外野スタンドにたたき込んだら、商店街の会長から「親分にもよく話してやるから、広島カープの入団テストを受けてみなさい」と言われた[17][18]

1966年からは刑務所で服役するが、同年に三島由紀夫原作、田宮二郎主演で日本航空時代の安部をモデルとした映画『複雑な彼』が大映で制作、封切りされている。この話の主人公の名前「宮城譲二」は、その後安部が作家デビューするにあたりペンネームにもなった。三島とも親交があり、三島にボクシングジムを紹介するなどした。

実業家時代[編集]

安藤組解散・日本航空退社後は、新宿の小金井一家にヘッドハンティングされる。同時に妻とレストラン「サウサリート」の経営、キックボクシング中継の解説者、ライブハウス経営、プロモーター、競馬予想屋などの職を転々とした。親分の堀尾昌志の内妻とは古くからの知り合いであり、この女性と付き合ってからの堀尾はツキまくったとされるが、安部自身と内妻とは最後までギクシャクしてしまった。

1960年代後半から1970年代にかけて青山でジャズクラブ「ロブロイ」を経営していた時期は、本店を妻に任せ、赤坂六本木三田の支店をそれぞれ愛人に任せ、白いキャデラック・フリートウッドを乗り回し、ドーベルマンを飼い、大田区鵜の木の敷地700坪の豪邸に住むほどの勢いがあった[19]。「ロブロイ」では菅野邦彦も弾いたが、当時高校生の矢野顕子も弾いた。後に瓔子が当時を回想して書いた「青山『ロブロイ』物語」はテレビドラマにもなった。

1974年9月から半年間、ボリビア政府軍の砲艇の航海長として革命軍の村を掃射する任務にあたったこともあるという[20]。また、1975年には南ベトナム政府軍御用達のフランスメタンフェタミン25キログラム缶を安価に入手すべく、陥落直前のサイゴンに潜り込んだものの、一度は1500万円で購入したメタンフェタミンを群集に争奪され、命からがら脱出したこともあるという[21]

同年に拳銃不法所持や麻薬法違反で実刑判決を受け、同年秋から府中刑務所で4年間服役。府中刑務所収監中に知り合った囚人の中に赤軍派(後に日本赤軍)活動家・城崎勉がおり、安部の著作によると、ダッカ日航機ハイジャック事件が起きる直前、(既に獄外の日本赤軍と連絡を取り合っていた)城崎にオルグされかけたことがあったという。

1981年にヤクザから足を洗うが、それまでの安部の前科は暴行傷害、賭博、麻薬、青少年保護条例違反など日本国内だけで合計14犯、また国外でも複数回の服役を経験し、国外での前科は3犯、国内と国外での刑務所生活は通算8年間に及んだ。

小説家・テレビタレントとして[編集]

1983年から小説を書き始めたが、過去の犯罪歴ゆえに著書を出してくれる出版社が見つからなかった。1984年山本夏彦に文才を見出され、雑誌『室内』に『府中木工場の面々』と題した文章の連載を開始。文筆家としての道を歩むきっかけになった山本との出会いに関しては、著書等で事あるごとに「山本先生は自分の恩師、大恩人である」と触れている。

1987年、刑務所服役中の体験を書いたこの連載がまとめられ、『塀の中の懲りない面々』として文藝春秋より出版される。『塀の中の懲りない面々』はベストセラーとなり映画化され、以後人気作家としての地位を築く[22]

バブル崩壊で負債を抱え、妻の遠藤瓔子とも離婚し、借金の形や慰謝料として大半の財産と一緒に愛車のポルシェも持って行かれた代わりに、安価なオートザム・レビューを渋々購入したが、実用性が高く気に入っていると後にNAVI誌上で評した。都内某ディーラーにて新車購入の際、購入した車の値引の代わりにその車(オートザム・レビューと思われる)のCMキャラクターだった小泉今日子を「4人ばっか乗っけて持ってきてくれ」と(本人は冗談のつもりで)発言。担当営業と営業所長を困らせたことがある。本人曰く「4人なんてありえねぇんだから、等身大の看板でも乗っけてくりゃ笑えたのに」とのことである(雑誌のインタビューにて本人談)。

作家以外に、後に漫画作品の原作にも携わるようになり、2005年には『RAINBOW-二舎六房の七人-』で第51回小学館漫画賞一般部門を受賞した。その他に、エッセイなどの連載や、『追跡』(日本テレビ系)のコメンテーターを皮切りにタレントとしても活動していた。『追跡』にレギュラー出演していた縁で、青島幸男を深く敬愛していた。青島の東京都知事選出馬時もこれを支持している。

2005年頃より、新聞などに掲載される禁煙グッズの広告に登場。「私は楽して煙草をやめました」として大々的に広告されているが、本人は煙草をやめていないことを自身のブログなどで告白している。

執筆にはパソコンを使用し、ときおり2ちゃんねるウィキペディアを見ていることを明らかにしている[23]

また、選挙ではいつも日本共産党に投票していたが、2009年第45回衆議院議員総選挙では民主党に投票し、後悔しているとも述べている[24]日本社会党日本共産党の支持を受け、庶民派の東京都知事として在任中であった美濃部亮吉が、高級ホテルとして知られるホテルオークラで朝食を摂っているのを目撃した安部は、美濃部と一悶着起こしたと自著にて記している。

2019年9月2日、急性肺炎で死去した[25]。なお葬儀は内縁のもの同士で済ませた。

交友関係[編集]

  • 交際のあった著名人は『俺が痺れた男たち―日本快男児列伝』で紹介しているだけでも[26]安藤昇石原裕次郎和泉宗章江夏豊、大川幸介、大野伴睦金平正紀黄金井光良、越田利成、サッド・サム・イチノセ(ダド・マリノのマネージャー)、島田丈、ジョージ川口高本公夫畑山隆則花村元司ピストン堀口(中村信一、玄海男から間接的に話を聞く)、マック鈴木、宮沢邦明、村田勝志、森田雅、山手勝、由佐嘉邦、渡辺正人とそうそうたる面々が顔を揃えている。また裏街道の人物・団体としては「海原清平」、「岩田幸雄」、「森脇将光」、「闘鶏協会」といった名前も著書に登場する。浅草妙清寺で兄貴分を庇って死んだ桑原を知っており、チンピラ時代に仲間と「俺達もマアちゃん(正昭)みたいに死にたいな」と語っていた。
  • 永田雅一に大変な恩義を感じており、雅一の孫でTBSラジオディレクタープロデューサーを歴任した永田守の頼みは断れないらしい。そのため永田守が初代プロデューサー兼ディレクターを担当した『伊集院光 深夜の馬鹿力』の番組内では、他所ではありえない扱いをされることが何度かあった(内田有紀遠藤久美子シャロン・ストーンの物真似を延々させ続けられる、出会い系サイトに登録してどれくらいモテるか他の出演者と競う、など。詳しくは該当記事参照)。
  • 同学年の梅宮辰夫とは「辰ちゃん」「譲二」と呼び合う仲である。
  • 大の岡田奈々ファンとして知られ、自身が原作の映画作品に出演させている。
  • 野球については、阪神タイガースのファンで、子供の頃に吉田義男のボールさばきを見て大ファンになった。
  • 趣味の将棋はアマ有段者の腕前で、1989年には日本将棋連盟が発刊していた『将棋マガジン』誌上で、当時のA級棋士・タイトルホルダーとの二枚落ち自戦記『負けても懲りない十二番』を連載。大山康晴に勝利したときは人目も憚らず涙を流したという[27]。この時の連載は後に『突撃将棋十二番 トップ棋士との二枚落ち奮戦記』として書籍化されている。
  • 大の猫好きで知られる。猫の絵のはいったシャツを着ていて親分に嫌がられたこともある。

著作[編集]

  • 『塀の中の懲りない面々』文藝春秋、1986年、のち文庫
  • 『塀の中のプレイボール』講談社、1987年、のち文庫
  • 『極道渡世の素敵な面々 28年間、この男たちに魅せられて』祥伝社(ノン・ブック)、1987年
  • 『極道の恩返し 安部譲二ワルの馬券学』ネスコ、1987年、のち集英社文庫
  • 『塀の外の男と女たち』ワニブックス、1987年
  • 『ぼくのムショ修業』講談社、1987年 のち文庫
  • 『殴り殴られ』集英社、1987年、のち文庫
  • 『さらば、極道』角川書店、1987年
  • 『泣きぼくろ』講談社、1988年 のち文庫
  • 『安部譲二の侠気塾』マガジンハウス(平凡パンチの本)、1988年
  • 『塀の中の懲りない面々 2』文藝春秋、1988年 のち文庫
  • ジェット・ストリーム』講談社、1988年、のち文庫
  • 『曇りのち晴れ舞台 懲りないジョージのエンドレス・ライブ』(対談集)徳間書店、1988年
  • 『怪傑ゾロ目』文藝春秋、1988年、のち文庫
  • 懲役絵図師光文社、1988年、のち文庫
  • ちんぴら渡世実業之日本社、1988年
  • 『塀の上の曲芸師たち』祥伝社(ノン・ブック)、1989年
  • 『スゴめ、サラリーマン!』徳間書店、1989年
  • 『賞ナシ罰アリ猫もいる』文藝春秋、1989年、のち文庫
  • 『プロ野球死んでもらいます 元極道の私だから言える』学習研究社、1989年
  • 『黄金の悪夢』祥伝社、1989年
  • 『つぶての歌吉』朝日新聞社、1989年、のち文庫
  • 『女にすがって極道渡世 わが愛しの愚妻・悪妻・聖女・魔女…たち』主婦と生活社、1989年
  • 『みみずのハナ唄』文藝春秋、1990年、のち文庫
  • 俺達は天使じゃない』講談社、1990年、のち文庫
  • 『男の条件 もっと強い男になりたい』ごま書房(ゴマブックス)、1990年
  • 『きのこ』中央公論社、1991年
  • 『時速十四ノット、東へ』講談社、1992年、のち文庫
  • 『謀られた騎手』祥伝社(ノン・ノベル)、 1992年
  • 『塀の外の懲りない二人』実業之日本社、1992年
  • 『いつも命がけ! 小説ジョージ川口物語』日本テレビ放送網、1992年
  • 『心の塀は自分で越えろ 安部譲二の好かれたい人に好かれる法』アズ・コミュニケーションズ、1992年、のちPHP文庫
  • 『懲役の達人。「アメリカ版」塀の中の懲りない面々』集英社、1992年
  • 『大列車旅行 オリエント・エクスプレス15000キロ』文藝春秋、1992年
  • 『突撃将棋十二番 トップ棋士との二枚落ち奮戦記』日本将棋連盟、1992年
  • 囚人道路』講談社、1993年、のち文庫
  • 『風の向こうに』角川書店、1993年
  • 『欺してごめん 私が舌を巻いた五人の詐欺師たち』クレスト社、1993年
  • 『塀の中の懲りない面々 3』文藝春秋、1994年
  • 『懲りない男と言われても…』広済堂出版、1994年
  • 『不時着』サンドケー出版局、1994年
  • 『同伴賭博』実業之日本社、1994年
  • 『猫のいいぶん、猫のみかた』河出書房新社、1995年、のち文庫
  • 『博奕・ギャンブル・旅烏』プレイグラフ社、1995年
  • 『僕は百獣(110)の王』南雲堂、1995年
  • 『仕合証文 忠臣蔵外伝』有楽出版社、1996年
  • 『起きろ、寝ぼけトラ! 愛しているから言う。』ソニー・マガジンズ、1996年
  • 『こいつだけは許せねえ 世間に代わってワルを撃つ』日本文芸社、1996年
  • 『アメリカ東海岸・談論風発』広済堂出版、1996年
  • 『解決!ゴルフに懲りた人がうまくなる』PHP研究所、1997年
  • 『ジョージから愛をこめて』廣済堂出版、1997年
  • 『想い出のゴロニャン』どうぶつ出版、1997年
  • 『天下御免の13人』PHP研究所、1998年
  • 『ああ!!女が日本をダメにする』中経出版、1998年、のち徳間文庫
  • 『秋は滲んで見えた』PHP研究所、1998年
  • 『仁侠でござる』有楽出版社(Joy novels)、1999年
  • 『ファイナル・ラウンド』講談社、1999年
  • 『きりとりブルース』徳間文庫、1999年
  • 『幸福のすすめ “勇気"と“信念"で生きる』大和出版、2000年
  • 『塀の外の同窓会』文藝春秋、2000年
  • 『お金持ちは国の宝です 腹がたつこんな社会をどう生きる』ぱるす出版、2000年
  • 『俺が痺れた男たち 日本快男児列伝』双葉社、2001年
  • 『八ヶ岳あかげら日誌』PHP研究所、2001年
  • 『母さん、ごめんなさい 母とグレた息子の物語』PHP文庫、2001年
  • 『六十歳からのやんちゃ道』ワイアンドエフ、2001年
  • 『記憶に残る拳豪たち』小学館、2001年
  • 『オレの借金地獄 デフレ・リストラ、どんとこい!』祥伝社、2002年
  • 『日本怪死人列伝』扶桑社、2002年、のち文庫
  • 『塀の内外喰いしんぼ右往左往』講談社+α新書、2003年
  • 『猫のシッポ』講談社、2003年
  • 『ナンバーワンにならない生き方』日本実業出版社、2004年
  • 『藍色の海』PHP研究所、2004年
  • 『渡世の学校』リイド社 2004年
  • 『馬主だけに儲けさせるな-ウラ側から見た馬券術』ハルキ文庫、2005年
  • 『「頭のいいワル」だから、人生うまくいく!』三笠書房、2006年
  • 『裏も表もあるもんか。 格差社会を出し抜く行動学(リイド文庫) 2008年
  • 『絶滅危惧種の遺言』講談社文庫 2009年
  • 『もう、猫なしでは生きていけない。』青志社 2013年

共著編[編集]

  • 『夢を、実現する。足を洗った俺の生き方、人生の拓き方 痛快語り下ろし』経済界、1989年、佐藤正忠との共著
  • 『日本の名随筆』別巻 56 賭事(編)作品社、1995年
  • 『大勝負 野村阪神VS長嶋巨人 男のプライドを賭けた最後の闘い』中経出版、1999年、江夏豊との共著
  • 『人はなぜ生きるのか 生きていてよかったと思えるために』文芸社、2001年、濤川栄太との共著
  • 『塀の中から見た人生』 カナリア書房、2004年、山本譲司との共著
  • 『人生相談劇場』山田詠美共著 中央公論新社 2014年

訳書[編集]

  • ロナルド・リチャード・ロバーツ『エディソン郡のドブ』扶桑社、1994年
  • ジョージ・フォアマン『敗れざる者』角川春樹事務所 1995年

漫画原作作品[編集]

その他[編集]

  • 『ライバル日本史3』(NHK取材班編、角川書店) 

連載コラム[編集]

出演[編集]

テレビ

テレビドラマ

テレビアニメ

ラジオ

映画

音楽作品[編集]

  • 伝説の“赤い玉”(1991年2月5日、テイチク) - さやま友香と共演

論文[編集]

脚注[編集]

[脚注の使い方]
  1. ^ 安部譲二 オフィシャルページ”. www.abegeorge.net. 2019年9月7日閲覧。
  2. ^ “安部譲二さん死去 「塀の中の懲りない面々」”. 産経新聞. (2019年9月8日). https://www.sankei.com/life/news/190908/lif1909080021-n1.html 2020年2月18日閲覧。 
  3. ^ 吉田豪『人間コク宝』コアマガジン、2004年、52頁
  4. ^ 安部は岩谷松平の立場でその生涯を解説している 『ライバル日本史3』NHK取材班/編 角川書店 1995 p177-216
  5. ^ 梶原仲治とその家族梶原仲治(神奈川県立歴史博物館)
  6. ^ 『昭和・平成日本「黒幕」列伝』宝島社、2005年、58頁
  7. ^ 無題ドキュメント
  8. ^ デイリースポーツ、2009年10月21日、5頁
  9. ^ 吉田豪『人間コク宝』コアマガジン、2004年、44頁
  10. ^ 安部譲二OFFICIAL WEB 手配写真?? 第29回 ヘンリーレガッタ
  11. ^ 吉田豪『人間コク宝』コアマガジン、2004年、46頁
  12. ^ 吉田豪『人間コク宝』(コアマガジン、2004年、72頁)では、親同士に交流のあった石原慎太郎が慶應義塾高校ボクシング部をテーマにして『太陽の季節』を書いたため、甚だしく学校の名誉を傷つけたボクシング部員の一人として川口浩などと共に退学処分を受けたと説明している。
  13. ^ 『ブルータスたちの芳醇な自叙伝 この人を見よ。』マガジンハウス、1988年、251頁
  14. ^ 『ブルータスたちの芳醇な自叙伝 この人を見よ。』マガジンハウス、1988年、252頁-253頁
  15. ^ 『ブルータスたちの芳醇な自叙伝 この人を見よ。』マガジンハウス、1988年、253頁
  16. ^ 吉田豪『人間コク宝』コアマガジン]、2004年、48頁)
  17. ^ 仁義総研『訓録「仁義なき戦い』徳間書店、2004年、46頁
  18. ^ 『プロ野球死んでもらいます』学習研究社、1989年、38頁-139頁)
  19. ^ 安部譲二OFFICIAL WEB 手配写真?? 第28回“人畜有害的無頼漢”
  20. ^ 『ブルータスたちの芳醇な自叙伝 この人を見よ。』マガジンハウス、1988年、255頁
  21. ^ 『ブルータスたちの芳醇な自叙伝 この人を見よ。』マガジンハウス、1988年、256頁
  22. ^ 日本で刑務所のことを「塀の中」と表現するようになったのは、この著作の影響である。
  23. ^ 安部譲二OFFICIAL WEB あんぽんたんな日々 第84回 『ゼニボケ日本』
  24. ^ 安部譲二OFFICIAL WEB あんぽんたんな日々 第174回 『第二自民党の醜態』
  25. ^ “作家の安部譲二さん死去 「塀の中の懲りない面々」”. 朝日新聞 (朝日新聞社). (2019年9月8日). https://www.asahi.com/articles/ASM983CXRM98UCLV001.html 2019年9月8日閲覧。 
  26. ^ 本記事記載の「交友」は、暴力団員による不当な行為の防止等に関する法律(暴対法)の制定より相当前のものが殆どである。
  27. ^ 田丸昇. “棋士たちの盤上盤外 将棋好きだった安部譲二さん 大山15世名人に勝ち嬉し泣き”. 日刊ゲンダイ. 2020年6月17日閲覧。

参考文献[編集]

  • 遠藤瓔子『青山ロブロイ物語 安部譲二と暮らした七年間 瓔子と譲二とジャズ』世界文化社、1987年
  • 『昭和・平成日本「黒幕」列伝』宝島社、2005年、56-59頁

関連項目[編集]

外部リンク[編集]