PlayStation (ゲーム機)

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PlayStation
プレイステーション
Playstation logo colour.svg
PlayStation wordmark (1994-2009).svg
PSX-Console-wController.png
PlayStationの本体とコントローラー (DUALSHOCK)
メーカー ソニー・コンピュータエンタテインメント
種別 据置型ゲーム機
世代 第5世代
発売日 日本の旗 1994年12月3日
アメリカ合衆国の旗カナダの旗 1995年9月1日
欧州連合の旗 1995年9月29日
オーストラリアの旗ニュージーランドの旗 1995年11月15日
大韓民国の旗 1997年2月
CPU R3000A 33.8688 MHz
対応メディア CD
対応ストレージ メモリーカード
外部接続 シリアルポート
パラレルポート(SCPH-7500まで)
2G回線[補足 1]
オンラインサービス iモード
売上台数 日本の旗 1,900万台[1]
アメリカ合衆国の旗 3,967万台[2]
欧州連合の旗 3,961万台[2]
世界 1億240万台[3]
最高売上ソフト 日本の旗ドラゴンクエストVII エデンの戦士たち』/406万本[4]
世界グランツーリスモ』/1,085万本[5]
互換ハードウェア PS one
次世代ハードウェア PlayStation 2
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PlayStation(プレイステーション、略称: PS, PS1[補足 2])は、ソニー・コンピュータエンタテインメント(略: SCE)[補足 3]1994年12月3日に発売した家庭用ゲーム機

家庭で本格的なテクスチャ付き3Dグラフィックを実現した初めてのゲーム機である。また、据え置き型としては初めて累計出荷台数が1億台を突破した家庭用ゲーム機となった。

沿革[編集]

1990年代中期に「次世代機」と呼ばれた家庭用ゲーム機の一つ。開発を主導した久夛良木健の独特の技術論や、丸山茂雄らによる従来のゲーム機ビジネスとは異なるレコードビジネス仕込みの戦略で、セガ・エンタープライゼス(現・セガ)のセガサターン任天堂NINTENDO64と共に次世代機戦争と呼ばれた[6]市場競争に勝利し、ファミリーコンピュータのヒット以来任天堂が独占していた市場でトップシェアとなった。

CGワークステーションの仕様を縮小したような設計になっており、3Dゲームで最高の性能が発揮されるように作られた。当時は2Dゲームが数多く発売されていた時代であり、大多数のゲームメーカーが3Dの採用を時期尚早と捉え、2D描画性能を重視する中、3D専用設計のゲーム機を開発すること自体がリスキーな挑戦であったが、実際にプレイステーションが市場に投入されると、美麗かつ高速に動作する3Dグラフィックスは各界に大きな衝撃を与えることになった。特に、ローンチタイトルリッジレーサーはプレイステーションの性能を知らしめる上で、良いベンチマークソフトとして機能した。当時のゲームクリエイターは3Dという新たな表現手法を使って実験的な作品を世に送り出し、ゲームの幅を大きく広げて行った。

命名[編集]

仕事で使うコンピュータを「ワークステーション」と呼ぶことに対して、遊びで使うコンピュータという意味で「プレイステーション」に決めたというのが名前の由来とされている。ユーザー間では「プレステ」と略されることが多いが、CMや自社製品内での記載では一貫して「PS(ピーエス)」と略されている[補足 4]。「週刊ファミ通」の記事によると、盛田昭夫がプレステの「ステ」が「捨て」に通じることから避けさせたという[7]。「プレステと呼ぶなー」という新聞広告を出したこともある。

本来、プレイステーションは後述のスーパーファミコン互換のCD-ROMゲーム機で使われる予定だった名称であり、これを流用したものである。頓挫した商品と同一名は縁起が悪いという意見もあったが、既に全世界ベースで商標権を登録しており、新しい商標にするには調べるだけで半年かかるため、そのまま同一のプレイステーションの名称が採用された[8]

開発の経緯[編集]

任天堂との共同開発がスタート
任天堂スーパーファミコンPCM音源を提供する事業の仕掛け人だった久夛良木が、同事業に引き続き、スーパーファミコンのCD-ROMドライブ拡張機器「スーパーファミコン CD-ROMアダプタ」の共同開発事業の約束を取り付けたのに端を発する。‘92ファミコンスペースワールド会場でスーパーファミコンCD-ROMアダプタは発売延期が決まると同時に32ビットCPUを搭載する仕様変更が発表された[9]
久夛良木は1987年6月16日から2泊3日にわたるソニーと任天堂の合同合宿に、スーパーファミコン開発が一段落した1989年頃にも提案している。当時の任天堂はCD-ROMに消極的で「ソニーさんでやってください」と返答している。しかし丸山茂雄によれば久夛良木は京都の任天堂本社に通っている間中「CD-ROMでやるべきだ」と粘り強く進言し続けた結果、任天堂側が面倒くさくなって「どうにもならないと思うが、CD-ROMをやっていい」とOKを出したという[10]。この時期になるとCD-ROMドライブが十分安価に手に入る時代になっていた[11][12]
1989年4月にテレビゲームではなく液晶画面を持ったカセット式のハンディーゲームマシン「ゲームボーイ」が発売され大きな流行を出したがファミコンの人気がピークを過ぎかけている事が前年の実績から明らかになっていた。そして任天堂はファミコンの後継機(スーパーファミコン)の市場投入を決意した事で、そこからソニーとの関係が始まった[13]
当時の久夛良木は業務用のデジタルビデオエフェクタ「システムG」をゲームに転用してビジネス化出来ないかと考えていた。ただし、当時ソニー内ではソニーのイメージを損なうとしてゲーム事業への進出に反対する社員が多く、久夛良木自身も「異端児」と呼ばれており逆風が強かった。この事業にゴーサインを出したのが当時社長の大賀典雄である。
1989年10月から共同開発が始まり、翌1990年1月には大賀典雄(ソニー)と山内溥(任天堂)の間で両社の締結を確認する合意文書が作られた。開発コードネームは「プレイステーション」[14][15]であった。
計画では、CD-ROMアダプタは玩具流通で任天堂ブランドで発売し、スーパーファミコンとCD-ROMの一体型マシンは家電流通でソニーブランドで発売することとなっていた。価格は49800円を予定していた[16]
任天堂の共同開発の破棄
しかし、1991年6月のシカゴでのコンシュマー・エレクトロニクス・ショーにおいて、ソニーがプレイステーションの試作機を発表するものの、任天堂はソニーとの共同開発計画ではなく、フィリップスとの提携と、CD-iでのゲーム開発を発表した。これは、任天堂がソニーと進めていたプレイステーションプロジェクトの破棄を意味するものであり、ソニーにとっては屈辱的なもので前代未聞の離婚通知であった。計画中止について数日前に任天堂からソニーに伝えられたが久夛良木までは伝わらず、新聞報道で初めて知ったという。
スーパーファミコンCD-ROMソフトはスーパーディスクと名付けられ、任天堂ではなくソニーがライセンスを有することになっていた。当時のコンシューマー機のソフトはROMカセットが主流であり、CD-ROMは付属的な立場のメディアとして認識されていたため、任天堂はCD-ROMの権利を重視していなかった。しかし、任天堂米国法人社長だった荒川實がアメリカのコンピューター業界でのCD-ROMの躍進ぶりを目の当たりにしており、この契約のままだと任天堂がソニーの従属的立場になると危機感を抱き、山内溥にソニーとの提携を止めるように口説いたとされている[17]
この様な経緯がある為、フィリップスによるスーパーファミコンCD-ROMは任天堂がライセンスを持ち、同社のソフト管理システムを維持する契約内容であった[18]
また、当初ソニー側はハード開発のみを行うはずだった。しかし、ソニーが自前のソフトで試供品を実演していた。それを知った山内溥社長(当時)は激怒していたという[19]
ソニーは抗議したものの、任天堂の言い分は「契約は生きており、ソニーが「スーパーファミコン CD-ROMアダプタ」を発売するのは構わないが、任天堂は別の規格を採用する」というものであり[20]、その後も粘り強く交渉が続けられたものの任天堂の決定は覆らなかった。
ソニーだけの規格では市場が広がらないと判断されたことから、スーパーファミコン互換機は開発を中断することになり、既にゲームソフトの製作を進めていたソニー・ミュージックエンタテインメントは、マーク・フリントによる『フォルテッツァ』[6](5億円を投じていた)、『沈黙の艦隊』『フック』などを没企画にし、15億円の損失を出したとされる[21]
これらの騒動により、久夛良木ら開発陣は社内での居場所を無くすが、大賀典雄の判断により、丸山茂雄率いるソニー・ミュージックエンタテインメント(現:ソニー・ミュージックレーベルズ[22])のゲーム部門に一時的に避難させられることになった。
ソニー単独でのプロジェクト再始動
1992年6月24日のソニーの経営会議で、ゲーム事業への進出の是非が議論になり、大半の役員が反対意見を投じる中、経緯説明のために会議に参加した久夛良木が、「我々は本当にこのまま引き下がっていいんですか。ソニーは一生、笑いものですよ」と食ってかかり[23]、試作品はほぼ出来上がっている事を公表。最終的に大賀が久夛良木に「そんなに言うならやってみろ!」と叫び、「DO IT!」と声を張り上げながら机を叩いた事で[24]ゴーサインを出し、ゲーム事業への進出を決断した。
なお、大賀はプレイステーション製作にあたり、社内のコンセンサス形成のみならず、ゲーム機製作自体にも深く関わっており、業界標準とも言える任天堂型のコントローラからの脱却を図るグリップ型のコントローラーを作るように指示し、何度もダメ出しをしている[25](本体・コントローラーのデザインは後藤禎祐が担当)。
また盛田昭夫も、ゲーム事業のプレゼンを聞いた後久多良木の手を握って「これはおもしろい。こういうビジネスを望んでいたんだ」とチームを激励したという。ただ前述の通り、盛田は「プレイステーション」という名前を再検討するよう指示した(その後盛田は病に倒れた。内海州史は、あのまま盛田が健在であれば「プレイステーション」の名称は変わっていたかもしれないと記している[26])。
1993年初頭から正式に「PS-X」プロジェクトが立ち上がり、1993年11月16日にソニーの技術者と株式会社ソニー・ミュージックエンタテインメントのコンピュータゲーム製作部門のスタッフら65人で構成される株式会社ソニー・コンピュータエンタテインメントが設立。1994年5月10日に「PS-X」と呼ばれていたマシンの正式名称を「プレイステーション」と発表した。同時にコンピュータグラフィックで描かれたデモ映像を会場で流し、本体のモックアップを展示した。1994年11月にプレイステーションの価格を39,800円、発売日は1994年12月3日と発表し、「PlayStation」の発売に至った。

ナムコとの関係[編集]

ソニーがプレイステーションを開発していた時にナムコも同じように次世代ゲームマシンの開発を行っていた。ナムコのゲーム機開発は1980年代の終わりから始まっており、開発の中心にいたのはナムコの研究開発部隊を率いていた石村繁一。アーケードにおいては、最先端の3D技術分野でもあったが、家庭用ビジネスにおいては、ファミコンやスーパーファミコン参入当初の絶対的な優位性を失いつつあった。そんな当時のナムコにとって、独自のアーケードのヒット作を家庭に持ち込むことは悲願だった。1993年、ナムコの幹部数人はソニー本社に招かれプレイステーションの原型たるマシンスペックを見て驚きナムコの技術者は家庭用ゲーム機の開発を中止した。そして、ソニーが開発するハードに全面的に協力する意向が固まるまで時間はかからなかった。[27]
中村和幸も「ほかとは違うものを造りたがる人間は多いのは確か」と言うように、ナムコはもとより、音楽面、デザイン面で他社より自由な発想で抜き出ている作品が多い。数々のミュージシャン、アーティストなどナムコで働いていたエピソードを持っている。[28]

サードパーティーの取り込み[編集]

3Dゲームの可能性を体現
発売時には「全てのゲームは、ここに集まる」のキャッチフレーズを使っていたが、開発時は任天堂の黄金時代であり、当時印象の悪かったCD-ROM機というハード、3Dという未知のソフト開発に取り組まなければならないということ、さらにソニーがMSXパソコンで一度はゲームビジネスから撤退した過去があったこともあり[29]、ソフト会社は参入に難色を示していた。
パソコンで出されていた従来の恋愛育成がPSに移植された事で倫理規制の通らない描写やシーンがカットされる事と引き換えに声優起用によるボイス機能を加えたりイベントCGやシナリオが追加されたりなどのバランス調節が行われている。
しかし、1993年末、セガがアーケードゲーム『バーチャファイター』を発表し、3Dゲームの可能性を体現した直後から難色を示していたソフト会社が興味を持つようになったという[6][30][31][32][33]
格安の開発機材と独自ライブラリ
幅広くサードパーティーを招き入れようと、150万円という安価で開発機材を提供[34]したことで、新興ゲームメーカーが多数参入した[35][36]。また、サードパーティーのプログラマの負担を軽減するため、SCEでプログラムのライブラリを構築して開発者の支援を試みた[37]。当初このプログラムのライブラリは自分たちでプログラムを組みたがっていた技術者からは不評だったが、後に非常に便利なものであると認識されるようになり、続々とサードパーティーが参入するようになった。1994年夏には契約したサードパーティは200社を越えた[38]
人気ソフトのヒット連発
立ち上げ期においては、セガとはアーケードゲーム市場でライバル関係にあり、任天堂とは関係が悪化してゲーム機の自社開発を模索していたナムコがSCEと提携してプレイステーション陣営につき、ローンチタイトルとして『リッジレーサー』を発売し普及を牽引するキラーソフトとなった[6][39][40][41]
1995年5月27日、ライバルのセガサターンの値下げに対抗する形で10000円もの大幅値下げを発表。同時に新バージョンのSCPH-3000の発売日を1995年7月21日と発表し1995年5月4週時点で国内販売台数が100万台を突破した。
その後も初期にはナムコの『鉄拳』やタカラの『闘神伝』といった格闘ゲームソフトでハードの売り上げを伸ばした。更に1996年にナムコからガンコンを使ったタイムクライシスが発表された。1996年6月7日にはSNK(新社、旧社名:SNKプレイモア)から『ザ・キング・オブ・ファイターズ95』が発売。そして、これまで任天堂マシンで発売されていた日本を代表するRPGシリーズであるスクウェアの『ファイナルファンタジー』シリーズの参入が1996年2月に発表されて[42][43]1996年8月21日に発売された『TOBAL NO1』に『ファイナルファンタジーVII』の体験版が付属されていた。
プレイステーションの優勢が決定づけられ[44]、同年3月に発売された『鉄拳2』やカプコンの『バイオハザード』はリピートによるロングセラーに[45]。1996年8月9日にカプコンから『ストリートファイターZERO2』が発売。同じ年にセガサターン版、スーパーファミコン版も発売された。1996年年末商戦でプレイステーションは独り勝ちした[46]。翌1997年1月には『ファイナルファンタジーVII』が発売されて大ヒットし、エニックスの『ドラゴンクエスト』シリーズがプレイステーションに参入することが発表され、プレイステーションの次世代機戦争の勝利が確実なものになった。
クリエイターの発掘
また、レコード会社の発想で、ゲームクリエーターをアーティスト的存在として扱い[10][47]、ゲーム誌では積極的に開発者のインタビューを乗せるようになった[6]。アマチュアからクリエイターを発掘しようと、一般向けの開発環境「ネットやろうぜ!」を販売し、これとは別に「ゲームやろうぜ!」というゲームクリエイター志望者を一般から募集していた[48]。ユーザーの意見をメーカーやショップに直接伝える事で、ゲームを開発する上での主要な材料として扱うところも少なくなかった[49]
プレイステーション本体と携帯電話を専用通信ケーブルで接続して、メモリダイヤルや着信メロディの編集を行ったり譜面上でオリジナルの着メロを作成する機能を持った携帯エディターソフト、「ケータイ・エディ」 が2000年7月27日にインクリメントPから発売されている。また、オーケストラの指揮者となりバトン・コントローラーの振り方で演奏の評価が変わる体感音楽ゲーム『ザ・マエストロムジーク』が2000年7月27日にグローバル・A・エンターテイメントから発売された。
レコード会社が出資して設立されたSCEでは、プレイステーションでアーティストとレコード会社が一致協力して音楽を作る手法をゲームソフト制作も取り入れ、ライブラリ提供やゲームやろうぜなどでソフト会社やクリエーターを育てようとしたと言われる[50]
人材発掘
ソニー・ミュージック・エンターテイメントは1993年から"デジタル・エンターテイメント・プログラム"を開催していた。これはデジタルアーティストのオーディションを意味するもので応募資格に制限がなく、入選した人には育成を支援するプログラムが与えられることになっていた。入選者はワークステーションやプレイステーションの開発機材が提供され、そこで様々な学習が可能であり、コンテストは才能のある人材を一般から発掘して、自分たちで育成していこうという試みを持っていた[51]

流通改革[編集]

流通面においては、参入時に任天堂会社の蜜月関係による初心会流通を研究し、音楽CDの流通販売で多大なノウハウを有していたEPIC・ソニーレコード仕込みの流通改革を実施した[52]

これの流通改革により、既存のゲーム流通、特に任天堂の初心会流通は壊滅的なダメージを受け、多くの問屋が廃業に追い込まれ、初心会自体も1997年に解散している[補足 5]

安定的なソフト供給
従来のゲーム機のソフト媒体であるマスクROMはリピート生産に時間がかかるため、問屋は初回販売で品切れによって販売チャンスを逃すまいと見込み発注を行っていた。この見込み発注が、見込み違いにより売れなかったソフトが過剰在庫となり、投げ売りされたり、いわゆる抱き合わせ商法で人気ソフトとともに販売される原因となっていた[53][54]。一方で、「ドラゴンクエスト」などの人気シリーズは店先から直ぐになくなり、遊び終わった中古品が出回るという中古市場がないと成立しない業界になっていた[10]
このことに着目し、SCEは自らが直接小売店と取引をする問屋機能を担い、従来の投機的な見込み発注ではなく、適切な初回生産と小まめで迅速なリピート生産による安定的なソフトの供給路線を進めた[55]。CD-ROMの生産は設立母体であるソニー・ミュージックエンタテインメントのCD工場(現・ソニーDADCジャパン)で行い、追加生産が必要な場合でも最長で6日で小売店にソフトが届く体制を築いた[56][57]
廉価版の発売
利益が製作者に還元されない中古市場対策として、発売から一定期間が経過したソフトについて廉価版をリリースした[58]
これらの流通改革は、リピート生産が容易で生産が低コストであり、CD-ROMのメリットを活かしたものであった[59]

以上のように、流通改革はおおむね軌道には乗って成功したものの、その改革すべてが上手く機能したわけではない。下記のような改革の失敗も存在した。

メーカー側の流通参入
SCEの主張する初回生産枚数とサードパーティーの主張との隔たりも発生し、そのことが原因でプレイステーションで発売予定のソフトが他社ハードへ移籍するエネミー・ゼロ事件が起きた[60]。このように自主的な生産本数の決定を望むサードパーティーが現れて、1997年夏にSCEの完全買い上げは終了し、コナミなど有力メーカーは独自の流通を開始した[61]
定価販売の断念
SCEは、同じソフトでもゲームショップによって価格が2割も3割も異なるという従来のゲーム流通も問題視し、再販売価格維持制度で定価販売が認められている音楽ソフトのように、どこの店でも同じ価格で購入できるように事実上の定価販売を目指した[62]
しかし、 公正取引委員会から1998年1月20日に「プレイステーション用ソフトウェアの販売について、小売業者に対し希望小売価格で販売するように、圧力を加えた」として独占禁止法に基づく排除勧告を受けた。SCEは一貫して容疑を否認していたが、2001年8月1日、SCEが圧力を加えていた事実を認定する審決が下され[63]、2001年11月20日に排除勧告を受諾した[64]
公取委の摘発により定価販売は不可能となり、目指していたリピートビジネスも発売タイトルが膨大になったことできめ細かな対応が不可能となって徐々に初動型のビジネスとなって崩れ去り[65]、また発注の失敗による不良在庫で値引きやワゴンセールは相変わらず発生するなど、流通改革については必ずしもうまくいかなかった[66][67]
なお、インターネットが普及してからの後継機では、Playstation Storeによるダウンロード販売に力を入れるようになり、限定的ながら価格維持を実現できるようになった。

販売戦略[編集]

ゲーム専用機をアピール
同時期に発売された他社のゲーム機と販売競争が繰り広げられた。特にセガサターンとの販売台数争い・値下げ競争はマスメディアによって「次世代ゲーム機戦争」などと呼ばれ、このことはプレイステーションの宣伝にも繋がった[6][68]
この次世代ゲーム機戦争ではCD-ROMがメディアとして採用されており、松下電器産業三洋電機金星電子3DOで、日立がHiサターン、ビクターがVサターンというセガサターン互換マシンで参入して、マルチメディアマシンを標榜していたが、プレイステーションはあくまでゲーム専用のゲームマシンであることをアピールした[69]
アーティストへの無料配布
ミュージシャンとSMEの繋がりを利用して音楽番組の出演者にプレイステーションを無料で配布した[10]。多くのミュージシャンがプレイステーションに熱中し、その事を音楽番組内で話してもらうことで宣伝へと繋げた。また、これは結果としてゲームをプレイする層の拡大にも繋がった。世界共通規格のCDプレーヤーを開発したソニーはミュージシャンを活用しながら興味を持つ層を広げた。「クライム・クラッカーズ」のエンディングテーマを穴井夕子が歌い、その曲をミュージックCDとして発売する。ゲーム中の音楽をサウンドトラックとして販売するケースは多かったが歌謡曲として発売するのはまれだった。[70]
本体価格の段階的値下げ
プレイステーションは発売時の希望小売価格は39,800円だったが、39,800円から29,800円、24,800円、19,800円、18,000円と段階的に値下げをしていき、最終的に15,000円まで価格が下がった。
この値下げは、開発者の久夛良木の戦略であり、後に技術の進歩により安価な値段で代替が効くパーツが生まれることを前提に、代替される可能性のある部分を最初からシステマティックにまとめて設計していたことにより可能になった。実際にプレイステーションはバージョンを重ねることに部品点数が削減されている。ただし、親会社であるソニーは家電業界的な発想から値下げに関しては反対であったという[要出典]
ソフト価格の低価格化
スーパーファミコン時代には1万円近くまで高騰していたゲームソフト価格に関しても、CD-ROM採用によるソフト生産のコストダウン、生産スピードの向上と前述の流通改革による短期大量出荷、ロイヤリティの削減などを行い、5800円からと低価格化させ[71]、ソフト購入の敷居を大幅に下げるなどした。ただし小売店と特約店契約を結び「定価販売の強制」を前提とした価格設定だったために大量の売れ残りが生まれる問題が起こり、一部行っていた返品制度も縮小に追い込まれた。結果的に流通企業、メーカー、小売店が赤字を出すほど経営を圧迫し、シェア獲得には成功したものの流通改革は失敗に終わった。デジキューブ破綻後はソフト生産コストも定価も上昇に転じている。
これまでにもPCエンジンメガCDなどCD-ROMを採用したゲーム機があったが、それらのマシン以上にCD-ROMの低コストの利点を活用して、体験版の無料配布やレンタルショップでの無料レンタル、本体への添付、雑誌への付録などで新作ソフトに触れる機会を増やし、価格面では「PlayStation the Best」などの廉価版の再発売ソフト、新作ソフトで1,980円のパンドラMAXシリーズや1,500円のSIMPLE1500、950円のスーパープライスシリーズが誕生した[72]。中でもSIMPLE1500シリーズは104タイトルを数える人気シリーズとなり、その中からは150万本のロングセラーとなった『THE 麻雀』も生まれた[73]
ゲーム内容のリアル化
1999年3月25日にチュンソフトからサウンドノベルエボリューション1『弟切草 蘇生篇』が発売。1998年12月3日に『かまいたちの夜 特別編』が発売。どちらもスーパーファミコン版からのリメイク移植。伊集院光は「マシンのスペックが上がって、音質が良くなって、画面が良くなって、CGがリアルになったのに、本質的なところはまったく変わっていない所がすごいと思うんですよ」と述べている。[74]
ゲーム内容に関しても、3D化により、従来のゲームよりリアルな表現が可能になり、子供のおもちゃというイメージを持ち合わせたうえで、ゲームから離れていた青年・中年層の支持を得ることにも成功した。
テレビCM
テレビCMでは、冒頭や最後にプレイステーションのCMであることを示すサウンドロゴを採用している他、ユニークなことで定評があった「いくぜ100万台」「いくぜ(1996年)年内200タイトル」「よい子とよいおとなの」などのキャッチフレーズを活用[75][76]、CM内ではマスコットとして「プレステマン」、「クラッシュ・バンディクー」、「パラッパラッパー」、「ピポサル」といったキャラクターも使用していた。またいわゆるタレントを積極的には起用せず、小学生やサラリーマンなど市井の人々をプロモーションに積極的に取り入れた。初期のCMでは「1、2、3」を連呼するだけの一見意図が読み取れない内容のものもあった[77]。また1997年クリスマス商戦期には、多数のゲームソフトの体験版を収録した2種類の体験版を一部の店舗にて100万枚無料配布するなど派手な広告展開を行った。
有償会員サービス
ゲームの体験版や最新デモ映像などを盛り込んだCD-ROMを年に数回発行する有償会員サービス「PlayStation CLUB」を1995年より運営していた。発行物以外にはゲームイベントの優先入場権、独自開催イベントへの参加権などの特典もあった。なお、2001年4月からはPlayStation 2向けの会員サービスへと移行している。
ソフトの販売本数
プレイステーションの絶頂期は1996年から1999年であり、特に『FFVII』を発売した1997年は、本体の日本国内出荷台数が1月時点で500万台を突破するも年末までには更に500万台を上乗せして1000万台突破を達成、ソフトでもスクウェアのゲームをはじめミリオンセラーが5本と続発し、SCEのソフトではロングヒットにより最終的にダブルミリオンを達成するソフトも出てきた(『グランツーリスモ』、『みんなのGOLF』)[78]
PlayStationのゲームタイトル一覧も参照。
エミュレータに対するSCEの対応
世界中で大ヒットとなった本機種ではあるが、それに比例してシェアウェア、フリーウェア問わず多数のエミュレータが登場した。その中のシェアウェアソフトの一部に対し、SCEは積極的に訴訟を繰り返し販売停止を求める戦略を取っていた。
米Connectix社により作られたMacintosh向け(後にWindows版も発売)エミュレータソフト"Virtual Game Station"に関して、ソニー・コンピュータエンタテインメントは提訴しSCEI側の敗訴に終わった[79]が、最終的には提携という形ながら実質的に買い取っている[80]。逆にbleem社が販売していたbleem!については米国でのエミュレータをめぐる訴訟で連邦地裁がSCEの販売差し止め請求を却下、合法ソフトとして販売され続けていたが国内外にてSCEよりショップに対して繰り返しの販売停止要請が行われた結果、bleem社の事業閉鎖とエミュレータの販売停止に至った[81]

CD-ROM[編集]

PlayStation用CD-ROM XAの裏面は、黒色になっている。
大容量、低価格、量産時間の短縮
ソフトウェア媒体として採用したCD-ROMは従来のROMカートリッジと比較してデータへのアクセス速度が劣るが(ローディング時間が生ずる)、大容量、低価格、量産時間の短縮といった利点があり、コンピュータゲームの表現方法から流通にまで幅広く影響を与えた[82]
当時のCD-ROM機は大容量メディアという反面、それゆえにローディングに非常に時間がかかるのが難点とされていたが、PlayStationはローディング時に読み込むデータは3D映像自体ではなくデータコードであり、それを本体内で処理・展開させて3D映像を作り出すという構造にすることで、当時としては高速なローディングを実現していた[補足 6]
黒い記録面
PS規格のCD-ROMは一般的な音楽CDやCD-ROMメディアとは異なり、記録面の樹脂が黒く着色されていることが特徴である(厳密には、光を透かすと濃い青色に見える)。この黒い樹脂の光学的な特性自体は通常の音楽CDやCD-ROMメディアと相違ないものであり、例えばBGMをCD音源として収録しているタイトルのディスクならば、楽曲収録トラックを通常のCDプレーヤーでも再生することが可能である。
開発時には通常のCD-ROMのままでCDマットを付ける事が検討されていたが、久夛良木のコストカット路線により、CDマットをやめ、記録面の色を変えるという方向に落ち付いた[83]。記録面を黒いものとする導入当初の目的は、正規流通商品と海賊版や偽造品を容易に見分けられるようにするためとされていた。
ただし、この記録面の着色については、後継機であるPS2ではPS2規格のCD-ROMの記録面が青く着色されているのみで、CD・DVDなどの各種ディスクメディアでの汎用的な規格としての採用実績はなく、事実上PS規格CD-ROM特有の仕様となっている。
海賊版対策
非正規ソフトの対応については、CD-ROMのコピープロテクトを解除するための「MODチップ」と呼ばれるICチップが世界規模で出回り、それに対してソニー・コンピュータエンタテインメントは「レッドハンドプロテクト」で対抗した。


CDプレーヤー[編集]

トラックの再生・一時停止・早送りといった基本的な機能に加えて3つのトリックプレーが可能で、当時の一般的なオーディオ機器に搭載されていたものが用意されている。

シャッフル機能 トラックの順番がランダムで決まる為、毎回違った順番でトラックが再生できる。
プログラム機能 トラックを再生する順番を決められる。
リピート機能 同じトラックを繰り返し再生できる。

また、SCPH-7000以降はサウンドスコープ機能が搭載されている(コントローラーで映像に影響を与えられるオーディオビジュアライザー)。

メモリーカード[編集]

ROMメディアがディスクになったため、ゲームのセーブデータは外部記憶装置であるメモリーカードを使用する。コントローラー接続部の上部に差込口があり、そこに差し込むことで使用する。PS規格ソフトを挿入せずにPSを起動した場合、メモリーカードの管理画面に移行し、移動・コピーや削除[補足 7]が行える。

セーブデータのサイズを「ブロック」という単位で管理しており、メモリーカード1枚につき15ブロックまで保存することができる。ゲームタイトルによって使用ブロック数は異なる(パッケージに記載されている)。複数のブロックを一括で確保するタイトルや、データ作成によって逐一ブロックを確保するタイトルが存在するため、ブロックによっては使用ブロック数が多くなり、1枚では足りずに2枚3枚と買い足すプレイヤーも多かった。のちにHORIなどから廉価な互換品が発売されると、売れ筋はそちらに移った[84]

セーブデータの保存形式がバッテリーバックアップではなくなったことで、データ保存先の本体内部、もしくはカセットのバッテリーがなくなると同時にセーブデータが消失してしまう事がなくなった。バッテリーがなくなった時にセーブデータが消える事を防ぐために、別のメディアに移行させて電池交換を行う必要もなくなった。

セーブ、ロードの時には、Now Loadingの画面が開いてソフトとメモリーカードの間で処理を行う。ブロック内に保存されたセーブデータタイトル判別および未使用領域のための管理用の1ブロック[補足 8]と、ゲームタイトルごとに使用するブロック数が変動するセーブデータ用の15ブロック(計16ブロック)が用意されており、使用するブロック数によるが1枚につき最低1ゲーム分、最大15ゲーム分のゲームデータを保存することが可能。

ソフト開発メーカーの中で周辺機器の活用度を予想するアンケート調査では「対応させたい」と回答していたメーカーが多く、ハイスコアやボタン設定などを記録したりなど”あると便利”な機能に対応しているソフトは多いが、メモリーカードがなくても困らないソフトも多い。[85]

プレイステーション3の周辺機器などのメモリーカードアダプターを利用する事で、PS3に搭載された仮想メモリーカードにバックアップを取る事でPSNからダウンロード購入したアーカイブス版のセーブデータと従来のディスク版のセーブデータは両方に適用が可能になっている。ただしPS/PS2との互換性がある一部モデルのみに限る。

業務用汎用筐体の「サイバーリードⅡ」ではスロットリンクシステムが搭載されておりスーパーワールドスタジアム2000などの限られた業務用ビデオゲームにはメモリーカードの使用が可能な物もあった。[86]

コントローラー[編集]

一番の利点はスーパーファミコンやPCエンジン、メガドライブ等、他ハードのコントローラーよりも強度を増した内ゴムの劣化に対する耐久性にある。

ロゴマーク[編集]

PSのロゴマークは、当時ソニーのクリエイティブセンターに所属していた坂本学によるものである[87]。当初は4色で構成されていたロゴだったが、のちにモノトーンのバリエーションも登場した。

サウンドロゴ[編集]

PS起動時のサウンドロゴは藤澤孝史によるものである。藤澤は2週間ほどで起動音を作り上げた[88]。また、CMにおけるサウンドロゴをムーンライダーズのメンバーである岡田徹が担当しており、同グループが手がけているCMソングなどを収めた『MOONRIDERS CM WORKS 1977-2006』にはCM始めとCM終わりの2つのサウンドロゴが収録されている。

ハード・ソフト台数[編集]

2004年5月18日に全世界累計での生産出荷台数の累計が1億台を突破した[89]

日本でのソフトウェアの累計生産出荷本数は約2億8600万本であり、全世界では9億6200万本(2006年12月31日現在)。新作タイトルはPlayStation 2発売以降も登場し、日本では2004年まで発売され続けた。公式サイトのソフトウェア製品情報に登録された日本国内のタイトルは2005年11月現在4324タイトルである(廉価版、初回限定版などによる重複も含む)。

性能、開発環境など[編集]

PAL規格のDebugging Station

R3000を独自にカスタマイズしたものをメインCPUに採用。また3DCGの描画を支えるベクトル演算専用LSIGPU)を別途搭載する。非常に高価なグラフィックスワークステーションでのみ実現できた[90]ポリゴンによる3次元コンピュータグラフィックスを比較的簡単にプログラミングできることを特徴とする。

3Dに特化したハード
ハードウェアの性能としては3Dポリゴン描画に特化したアーキテクチャが最大の特徴である。 座標変換専用チップの搭載で1秒間あたり、150万ポリゴンの演算が可能。ポリゴンの頂点演算や座標変換を行うジオメトリエンジンを搭載し、さらにフレームバッファにポリゴンやテクスチャマップドポリゴンを転送する機能をハードウェアで備えるため、これらの演算を全てソフトウェア処理させる(CPUに膨大な量の演算を強いる)ことが多かった当時のパソコンや他のゲーム機と比較して格段に高い性能を引き出せた。以後主流となる、3Dに特化したハードウェアと言える。しかし、プロセッサに集積できるトランジスタ数の制約から、空間座標は固定小数点数で扱うこととなったため、ポリゴンやテクスチャにカクカクとした歪みが出る問題があった。
一方、旧来のゲーム機では常識であったラインバッファ方式のスプライトBG機能は搭載しておらず、2Dの表現は苦手である。例えば、2Dゲームでは当たり前に用いられているラスタースクロール特有の画像変形を行うことが難しい。
動画の再生
JPEGデコーダのMDECを内蔵しており、この機能を活用して当時の水準としては高画質なMotion JPEGによる動画(ムービー)の再生が可能であった点も特筆される[91]。『ファイナルファンタジーVII』をはじめとするこの機能を活用したコンテンツの登場により、プリレンダリングされた3DCGムービーとネイティブの3Dゲーム操作シーンを連結して多用することで場面と時間を繋ぎ物語性を補完する表現手法が確立された。またゲーム導入時のデモムービーやエンディングムービーなど、ゲームをプレイするための動機付けとしても広く活用されるようになった。
サウンド能力
プレイステーションはPCM音源24チャンネルのサウンド能力を持っている。この音源の量子化ビット数は16ビット、サンプリング周波数は44.1キロヘルツ。この数値はオーディオCDと全く同じものが使われている事で同等のリアルな音が再生可能。他にも音を色々変化させられるデジタルエフェクト機能を持っている。高度なサウンド能力は、パラッパラッパーを筆頭とする音楽ゲームの登場にも大きく寄与している。
内製化による低価格化
主要な半導体は、自社で独自設計ないしカスタム化したもの(開発の主体はLSI Logicであった[92])を用いていたため、製品発売後もこれらを改良できた。半導体プロセス技術の進歩などにより、再集積化(複数の半導体を一枚のシリコンにまとめる)やシュリンク化(LSI面積を縮小し、一枚のシリコンウェハーからより多くのLSIを生産する)や、さらなるカスタム化などを行った。
結果的に数度にわたるコストダウンを実現し、PlayStationの販売価格は最終的には発売開始時の半分以下まで下がった。このようにPlayStationは当初から製造技術の進歩による集積化で最終的にハードだけで黒字を得られることを目標とした。実際に1000万台を超えた段階でハードのみで黒字化を達成。1台あたり数十ドルの利益を得られるようになり、ライバル機種のセガサターンに対して優位な戦いが出来たのである。
セガサターンはCPUを始めとして複数社からの半導体の採用による影響でコストカットやワンチップ化がしにくい複雑なハード構成に加え外注による生産であったこともあり、大幅なコストダウンが効かず、ソニーなどの競合機による価格競争に対抗して値下げを続けた結果、多額の赤字を計上することとなりセガは体力を消耗していった[93]
生産
当時の国内生産には、ソニー木更津、ソニー美濃加茂など(現:ソニーグローバルマニュファクチャリング&オペレーションズ)が担当。最終版のPSOneのみ中国製が見られる。
一方で、後期PSは当初の半導体と違う半導体が用いられたため、互換性が完全に維持されず、初期に発売された一部のゲームソフトが「後期のハードウェアできちんと動作しない」という問題が生じ、サードパーティーは型番毎に動作チェックすることを余儀なくされた。

各モデル比較[編集]

型番 特徴・スペックや販売形式の違い
SCPH-1000 初代型番
SCPH-3000 S端子によるビデオ出力が削減
SCPH-3500 コントローラーが2個付属
SCPH-5000 バグ修正
SCPH-5500 RCA端子によるAV出力が削減
SCPH-7000 付属コントローラーがDUALSHOCKに変更、画像処理プロセッサがGTE-2に改良。CDコントローラーLSIが集積化
SCPH-7500 サウンドチップ、CDコントローラー集積化
SCPH-9000 パラレル入出力端子が削減
SCPH-100 最終型番。メニュー画面のリメイク、専用液晶モニターが搭載可能。電源ユニットがACアダプターに外部化

本体機能[編集]

SCPH-1000 SCPH-3000 SCPH-5000 SCPH-5500 SCPH-7000 SCPH-7500 SCPH-9000 SCPH-100
(PS one)
AV出力 RCA端子
S端子
AVマルチ
RCA端子
AVマルチ
AVマルチ
パラレル入出力端子 ×
画像演算コプロセッサ GTE GTE-2
GPU CXD8514 CXD8514
もしくは
CXD8561
CXD8561 CXD8561
もしくは
CXD9500Q
サウンドスコープ ×
付属コントローラー 初期型 DUALSHOCK
電源 ACケーブル ACアダプター
消費電力 10.5W 9.8W 9W 9.5W 9W 6.5W
質量 1.5kg N/A 1.4kg 1.2kg 560g

仕様[編集]

CPU/GTE CXD8606BQ
SCPH-9000に実装
GPU CXD8561CQ
SCPH-9000に実装
SPU CXD2938Q
SCPH-9000に実装

概要

外形寸法(幅、高さ、奥行き)
SCPH-1000~9000 270×60×188mm
SCPH-100 193×38×144mm

CPU

MIPS R3000A ベース 32ビット RISCプロセッサ (R3051)
クロック周波数: 33.8688MHz
4KB 命令キャッシュ
1KB データキャッシュ
命令処理能力: 30 MIPS
バス帯域: 132 MB/s
ベクトル演算コプロセッサ: GTE (Geometric Transfer Engine)
ジオメトリエンジン
演算能力(描画性能): 最大150万ポリゴン/秒(SCE公表値)
ポリゴン表示能力: 最大36万ポリゴン/秒(SCE公表値)[補足 9]
スプライト描画性能: 最大表示4000個(1/60秒、SCE公表値)
可変長の整数演算
テクスチャマッピンググーローシェーディングフォグ 半透明処理機能搭載
描画が1/60秒を超えた場合に垂直同期を待たずに表示を切り替えることができ、処理落ちを最小限に抑えられる。
GTEの演算誤差(当時の半導体プロセスの制約から浮動小数点演算の実装は困難であり、高速化のために整数演算を用いている)の影響で、ポリゴンの間にPS特有の「継ぎ目」ができる。またパースペクティブ補正処理を省いているため、テクスチャマッピングにも独特の歪みが出る。他にも、Zバッファ法処理も省いているため、ポリゴンが循環的に重なると背面に隠れるはずのポリゴンが一番手前に現れる現象が起きる。
テクスチャバッファとして使用できるメモリが少なく、テクスチャ伸長の際にピクセル境界やバンディングが露見する部分をカバーするため、後期のゲームでは展開後のテクスチャにディザリングをかける手法が多用された。
後期PSではジオメトリエンジンのアーキテクチャが改良されており、そのためプロセッサも「GTE」ではなく「GTE-2」と呼ばれた。
画像伸張エンジン MDEC
JPEGデコーダチップ。動画再生エンジン兼テクスチャ展開。
Motion JPEG動画の再生能力は、320x240ドット時で秒間30フレーム。これは動画再生を売りにしたPC-FXと同等スペックである。640x240ドット時は、秒間15フレームの再生能力となる[91][94]
ダイサイズ: 128平方mm(初期型)
集積トランジスタ数: 100万個
半導体製造プロセス: 0.6μm(初期型)

GPU

最大 1677 万色(24 ビット)
レンダリング解像度/最大解像度: 256 × 224 - 640 × 480
CXD8514の場合は4Mbit60nsのVRAM2個、CXD8561の場合は8Mbit12nsまたは10nsのSGRAM1個
(PS oneの後期型)CXD9500QではGPUとSGRAMをワンパッケージ化
表示画素数: 256ドット×224ライン(ノンインターレース)〜640ドット×480ライン(インターレース[補足 10]
表示画面: 1面

サウンド SPU

再生時粒子化ビット数: 16bit ADPCM (デジタルフェクト搭載)
サンプリング周波数: 最大44.1kHz
同時発音数: 2.0chステレオ 24チャンネル
リニアPCM2.0chステレオ出力(音楽CD再生時のみ)
メモリ: 512KB
スーパーファミコンのサウンド用DSPSPC700」の後継LSIである[6][補足 11]

メモリ

メインメモリ: 2 MB EDO DRAM
4Mbitチップ4個搭載のパターンと16Mbitチップ1個搭載のパターンがある。
ビデオメモリ: (VRAM): 1 MB
オーディオメモリ: 512KB[95]

メディア

倍速CD-ROMドライブ搭載
コンパクトディスク - CD-ROM (CD-DA, CD-XA)
専用CD-ROMメディアの裏面は基本的に黒色

コントローラ(プレイステーションコントローラ / アナログコントローラ / DUALSHOCK)

コントローラ端子×2(最大2台。マルチタップ使用時は最大8台)
通信
モバイルネットワーク: 2G mova(別途増設が必要)

AV出力

アナログ映像出力: コンポジット端子×1(~SCPH-5000)、S端子×1(SCPH-1000のみ)
アナログ音声出力: RCA端子×1(~SCPH-5000)
アナログ出力: AVマルチ×1(RGBコンポジット端子、S端子、RF端子に変換可能)

I/O

メモリーカード差込口×2
通信(シリアル)×1
外部拡張(パラレル)×1(~SCPH-7500)
DC出力×1

本機の発売後に登場した周辺機器で実現できるスペックを含む。

年譜[編集]

  • 1994年12月3日 - 希望小売価格39,800円で発売、初回出荷10万台を完売。
  • 1995年1月19日 - ソニー・コンピュータエンタテイメント・ヨーロッパを設立。
  • 1995年5月第4週 - 日本国内の生産出荷台数が100万台達成(同年内に200万台達成)。なお、100万台達成はライバルのセガサターンが先に達成。
  • 1995年7月21日 - 日本国内価格を29,800円に値下げ。
  • 1995年9月9日 - アメリカで299ドル(約30,000円)で販売開始。
  • 1995年9月29日 - ヨーロッパでプレイステーションが発売。
  • 1996年5月末 - アメリカで販売価格を199ドルに値下げ。
  • 1996年5月11日 - 会員のみ専用で開発機材としても使える"黒いプレイステーションとネットやろうぜ"が12万円で発売。
  • 1996年6月22日 - 新型モデル(SCPH-5000)を発売し、本体は19,800円に値下げの発表。(the Best)シリーズ。既存ソフトを低価格ソフトとして再発売。
  • 1996年11月30日 - 世界で生産出荷台数が1000万台突破。
  • 1997年1月9日 - 日本国内500万台達成。
  • 1997年12月31日 - 日本国内1000万台達成。
  • 1998年1月20日 - ソニー・コンピュータエンタテインメント、公正取引委員会から「PlayStation用ソフトウェアの販売について、小売業者に対し希望小売価格で販売するように、圧力を加えた」として独占禁止法に基づく排除勧告。
  • 1998年2月5日 - 世界で3000万台突破。
  • 1998年8月21日 - 世界で4000万台突破。
  • 1998年12月21日 - 世界で5000万台突破。
  • 1998年12月23日 - ポケットステーション発売開始[96]
  • 1999年2月15日 - SCEJと東芝が次世代チップ、Emotion Engine(128ビット、コンピューターチップ)を共同開発。
  • 1999年12月2日 - 世界で7000万台突破。
  • 2000年2月1日 - プレイステーション・ドットコム・ジャパン設立
  • 2000年3月4日 - プレイステーション2発売
  • 2000年7月7日 - 「PS one」発売。
  • 2000年9月19日 - 北米で「PS one」発売。価格は99ドル(当時で約10,000円)
  • 2000年10月26日 - 北米でプレイステーション2発売。DVD再生機能が搭載済みでハードディスクの拡張ベイも付いているなど日本と仕様が異なる。
  • 2000年11月24日 - 欧州でプレイステーション2発売。
  • 2001年10月12日 - PS one 専用液晶モニターが14800円で発売。
  • 2001年12月13日 - PS one 専用カーアダプターを発売。
  • 2002年 - アメリカ合衆国イマージョン社がPlayStation、およびPlayStation 2のコントローラー振動技術(バイブレーション機能デュアルショック)の特許権をめぐる訴訟を起こす。
  • 2002年7月 - ポケットステーションの生産終了[97]
  • 2003年5月11日 - アメリカで行われたE3のプレスカンファレンスにて、PSPの詳細スペックが公開。日本国内のメーカー34社、43タイトルが明らかにされた。
  • 2004年5月18日 - 全世界累計でPS oneも含めた生産出荷台数が1億台突破。
  • 2005年3月24日 - イマージョン社との訴訟で、カリフォルニア州オークランド連邦地裁がソニー・コンピュータエンタテインメントなどに対し、アメリカでのPlayStationおよびPlayStation 2の販売差し止めと約9,070万ドル(日本円で約96億円)の損害賠償を命じる判決。ソニー・コンピュータエンタテインメントは再審理を請求。
  • 2005年9月30日 - 3Dゲームの技術進歩に大きく貢献したとして、技術・工学エミー賞(Technology & Engineering Emmy Award)を受賞。
  • 2006年3月14日 - イマージョン社との訴訟で、再審理請求が棄却。
  • 2006年3月 - PS oneの生産終了をもって初代規格のPlay Stationマシンの生産終了[98]
  • 2007年3月1日 - イマージョン社との訴訟で、請求金額に応じる形で和解。和解金は非公開。
  • 2014年3月31日 - アフターサービス受付終了[99][100]

バリエーション[編集]

北米地域用 NTSC U/C 型の裏面
北米地域用 NTSC U/C 型の裏面

PlayStationは製造時期、販売地域によって異なる型番が付けられており、仕様が異なっている。その違いは主に入出力端子の有無によるものだが、ハードウェアの内部が変更されたことによるものもある。ソニー・コンピュータエンタテインメントは、型番による動作の違いはないとしているが、実際には1996年以降のバージョン「SCPH-5000」以降、グラフィックスの処理能力が向上したり、バグが改善されたり、逆に新たなバグが発生したり、動作しないゲームソフトが発生したりしている。そのため、古いハードウェアでは正常にプレイできないゲームソフトが数百タイトル存在する。

型番はSCPH-XXXYの形式で付けられている。ここではXXXが型式、Yが発売地域を表している。Yは日本用([NTSC J]、AC100V)が0、北米地域用([NTSC U/C]、AC110V - 127V)が1、ヨーロッパ・オセアニア地域用([PAL]、AC200V - 240V)が2、アジア地域用([NTSC J]、AC110V - 240V)が3である。

コンシューマー向け[編集]

特記がない場合、日本における概要について記述する。

SCPH-1000
1994年12月3日発売。
初代型番。39,800円で登場。日本では「イチ・ニ・サン」の掛け声のCMが放映された。
発売日は、ワン、ツー、スリーの語呂とともに大安吉日であるところから12月3日となった。

北米地域用 NTSC U/C 型の裏面
北米地域用 NTSC U/C 型の裏面
ビデオ端子、S端子、外部電源端子、パラレル入出力端子が装備され、ビデオ端子ケーブルが同梱。
SCPH-3000が発売され値下げされた後も市場に出回っており、後期は29800円で購入できた。
通気口が少ないため長時間の稼動で熱暴走を起こす、内部ソフトウェアのバグなど、ハード面での不具合が多い。特にディスクが純正かつ日本向けであるかどうかのチェックが1回しかなく、またこの際ディスクの回転も止まることから、ハード起動時にPlayStationのロゴが表示されたタイミングでディスクを入れ替えることによって、海外用ディスクやCD-Rにバックアップコピーしたソフトが簡単に起動した。
北米向けに発売された最初期型SCPH-1001はこのSCPH-1000とほぼ同じ物である。
SCPH-3000
1995年7月21日発売。
29,800円に値下げ。ほとんどの店で実売価格26,800円に統一された。
S端子が削除される。
通気口が改善される。
北米地域用 NTSC U/C 型 SCPH-7501の裏面
北米地域用 NTSC U/C 型 SCPH-7501の裏面
描画に使用される画像処理プロセッサ「GTE」がバージョンアップ。エフェクト(フォグ)のかかり具合が違う。
この型番以降は基板が変更されBIOSの仕様も変更された。またCDチェックの回数が2回に増え、海外用のソフトやコピーソフトが起動しづらくなった(ただし、一部ロットではSCPH-1000と同等の基板が使用されたものもあり、その場合はSCPH-1000と同様の方法で起動するものがあった)。その結果、闇市場において「MODチップ」が開発され、日本国内でも出回ることとなった。
しかし根本的な解決方法とまでは至らず、プロアクションリプレイなどの「製品自体は純正品だが、ゲームデータは後ほど読み込ませる」形式のメディアを用い、無理やりゲームソフトを入れ替えるとバックアップCDが起動してしまう状況だった。
SCPH-3500
1996年3月28日発売。
24,800円に値下げ。
ナムコの『鉄拳2』の発売に合わせ、「ファイティングボックス」と銘打ってコントローラー2個が付属(通常は1個)。
SCPH-5000
1996年6月22日発売。
19,800円に値下げ。
MADE IN JAPAN PAL 型 SCPH-9002の裏面
PAL 型 SCPH-9002の裏面
5000番以降はバグをなくすとして、さまざまな目立った改良が施されているため、この型番の登場以降のゲームソフトは、その弊害で3500番台以前のハードウェアでは不具合を起こすゲームソフトがまれにある。
バックアップCDの起動、海外版起動の起動対策として本体のオープンスイッチの機構が改良され、またセキュリティも上昇。一部のチートツール等が利用できなくなった。
一部ロットに5500番以降で搭載されている新型のGPUが搭載されているものが存在する。
次の日の6月23日にはライバル機のNINTENDO64が発売されている。
なお、このSCPH-5000までのPlayStationはCD-ROMドライブの読み取り(ピックアップレンズ)部分の設計の欠陥により、ピックアップレンズが随時動くことによるレールの磨耗によりピックが沈み込み、データをきちんと読み取れなくなってしまうという欠陥があった。そのため、SCPH-5000、あるいはそれ以前の型番のプレイステーションを重用するユーザーは、本体を縦に立てて置く、裏返して置く、斜めに傾けるなどの延命策を講じていた。
SCPH-5500
1996年11月15日発売。
ビデオ端子(RCA規格)が削除され、新たにAVマルチ出力端子から各種専用ケーブルによる出力となる。ビデオ端子がないテレビのRF端子に接続して映像を映すための(DC出力端子)も削除された。
「PU-20」という基板になり、メインメモリの変更やGPUなどがバージョンアップされ、画質と処理能力が若干向上。発熱も殆どなくなった。
CD-ROMドライブの読み取り部分の設計が改められる。これにより、縦置き術などの努力が不要になる。
また、日本以外のアジア市場向けのPlayStationも発売された。
SCPH-7000
1997年11月13日発売。
18,000円に値下げ。
それまでのコントローラーに代わり、振動機能付きコントローラー「デュアルショック」を同梱。
画像処理プロセッサ「GTE」が「GTE-2」にバージョンアップ。ポリゴン描画性能が向上する(ただし、ソニー・コンピュータエンタテインメントの公称では変わっていないとされる)。
SCPH-5500にて改善されたCD-ROMドライブの読み取り部分の設計が再度見直され、更に改良されている。
音楽CD再生機能が更新され、新たに『サウンドスコープ』というアプリケーションがハードウェアに搭載される。これは1997年6月20日に発売されたゲームソフト『BABY UNIVERSE』の一部機能を取り込んだものである。
2チップ構成だったCDコントローラーを司るLSIが1チップに集積化。
SCPH-7500
1998年12月1日発売。
15,000円に値下げ。
サウンドCPUとCDコントローラーの2チップが統合されて1チップに集積化。
SCPH-9000
1999年5月28日発売。
外観はSCPH-1000と変わらないが、内部の基板はそれまで幾度の改良・再構成を経て最終世代に近づいていた時期でもあり、SCPH-1000の半分程度の大きさにまでシュリンクされている。
この機種よりパラレル入出力端子が削除された。日本では最後までこの端子を利用した周辺機器が開発されなかったためであるが、非公認メーカーによるゲームのデータを改造するツール(PS向けプロアクションリプレイなど)、または違法コピーCDを動作させるツールの接続端子として用いられる例が多かったため、そういった非公認ツールに対処するためとも言われる[要出典]。なお機能自体は基板に残ったままであったため、コネクタと配線を自力で付ければ使用可能。
SCPH-100(PS one
2000年7月7日発売。PS1世代最後のハードである。
希望小売価格15,000円(2001年9月12日に9,980円へ、2002年5月16日にオープン価格へと改定)。
1994年の発売時から変わっていなかったハードウェアの外観が一新され、小型化。体積比は従来機の約1/3まで縮小。色はライト・グレー。2001年度、グッドデザイン賞を受賞した。丸みを帯びた暖かみのあるデザインは女性にも好評だった[要出典]
内部的な性能・機能はSCPH-9000と同等。
SCPH-1000で付いていた数多の外部端子も殆ど省かれ、電源入力と映像出力のみになってしまった。
登場時期が「PlayStation 2」の発売と前後していたこともあり、ユーザー間にはPlayStation 2に搭載されているいわゆる『ワンチップPS』を使用しているのではないかという憶測があったが、(文字通り)蓋を開けてみればほとんどSCPH-9000そのものであった。
以前までハードウェア内部に搭載されていた電源部分は内部から除外され、ACアダプターによる駆動に変更された。ACアダプター駆動となったため、自動車の電源で駆動するためのカーアダプタも発売された。
SCPH-5903
1997年発売。日本以外のアジア圏では「ビデオCD」の文化が栄えており、東アジアや東南アジア市場で展開するため、それに対応しビデオCDも見られるようにしたもの。本体は白色で、本体の右上に「Video CD」の表記がある。ソフトウェア再生ではなく、専用のMPEGデコーダを搭載している。ビデオ端子がAVマルチ端子に一元化されたSCPH-5500が発売された後の機種ではあるが、本機種のビデオ端子はSCPH-5000以前と同じく、RCAピン端子を装備する。

開発者及び出版社向け[編集]

DTL-H1000など
開発用のSCPH-1000などに相当する。
DTL-H1200など
開発用のSCPH-3000などに相当する。
通称「リビジョン-C」と呼ばれ、ライセンシー(ライセンス契約した法人)は前記のDTL-H1000と、両方で正常に動作することを確認させられる。本体が緑色だったため、「緑ステ」("みどすて")と呼ばれることもある。
DTL-H2000
IBM-PC/ATバスタイプの開発用ボード。DTL-H2000 CPU2ボードにはCPU(GTE)とGPU,SPUが、またPIOボードにはCD-ROM用制御LSIが実装されている。
DTL-H200 GRAPHICS ARTIST BOARD
IBM-PC/ATバスタイプの開発用ボード。GPUと画像出力回路のみ実装されている。
DTL-H201A GRAPHICS ARTIST BOARD
IBM-PC/ATバスタイプの開発用ボード。GPUと画像出力回路のみ実装されている。
DTL-H3000
ネットやろうぜ!」用。「ネットやろうぜ!」とは、ソニー・コンピュータエンタテインメントが一般人に向けてインターネット上で情報交換をしながらオリジナルのソフトウェア開発環境を提供するシステムで、12万円でスターターキットが通信販売された。国籍プロテクトがかかっていないため、日本国内のゲームソフトだけでなく、日本以外で販売されたゲームソフトも動作する。募集締め切りの後、現在は学校関係者にのみ8万円で販売されている。黒い外観から「黒ステ」と呼ばれることがある。なお本機器についてはメーカー向けの開発機材ではないためコピーCDやリージョンが異なるソフトの起動は行えない[101]

本シリーズはソニー・コンピュータエンタテインメントとPlayStation専用ソフトウェア開発におけるライセンス契約した法人(「ライセンシー」。サードパーティーやゲーム開発会社などが該当)[補足 12]、ゲーム関連業務を行う出版社のみが同社から直接提供されるものであり、門外不出。本体裏に通し番号があり、売り払ったりすると誰が売ったか分かる仕組みになっている。開発用なだけあり、CD-Rにコピーしたソフトを動かす事が可能。本体の色が一般の灰色と違い、青色だったため「青ステ」と呼ばれることもある。また、販売価格も非常に高額となっており、万が一破損した場合についてのサポートも販売した会社、関連会社以外からの依頼以外は一切受け付けて居ない。

本体形状がコンシューマー向けのものと同じで本体色が異なるPlayStationは「デバッギングステーション」、「デバステ」と呼ばれることがある。これはゲームソフトを開発するために設計された機種であり、世代ごとの動作やコネクタ有無も含め、コンシューマー向けのPlayStationとは機能が大きく異なる。

インターネットオークションや店頭にてデバステと称した品が販売されていることがあるが、本来では一般市場に流通するものではなく、一般向けの機材にMODチップ搭載などの改造を施して塗装し直したものが存在するために注意を要する。(前述の通り開発機器には1台ごとに番号が振られており、背面シールに型番と製造時期、通し番号が記載されている事からある程度推測は可能。シールにSCPH-xxxxと記載されていたり、製造時期やシリアルが記載されていなかったりするものは確実に偽物)

互換機種[編集]

PlayStationのアーキテクチャは家庭用のみならず、アーケードゲーム機としても活用された。PlayStation互換及びPlayStation上位互換の業務用システム基板は大手ゲームメーカー各社で採用され、業務用ゲームの家庭用への移植に貢献した。

周辺機器[編集]

SCE純正、ソニーグループより発売[編集]

型番 名称 発売日 備考
SCPH-1000 PlayStation 1994年12月3日 本体。
SCPH-1010 コントローラー SCPH-1000/3000シリーズの本体に付属。デジタル入力のみのコントローラー。海外版と異なりケーブルが短く、日本人に合わせて外形寸法が小さい。
SCPH-1020 メモリーカード ゲームのセーブデータを保存しておくための補助記憶装置。記憶媒体として1Mbit(128KB)のフラッシュメモリを採用している。保存領域は15ブロックだが、PS2のメモリーカード管理画面では消費容量が1ブロック辺り8KBで表示されている。それによると8KB(1ブロック)が未使用になるが、これはメモリーカード自身のデータ管理用の領域で1ブロック消費されているためであり、それも含めて16ブロック、128KBの記録領域がある。
SCPH-1030 マウスセット 1994年12月3日 PlayStation規格ソフト専用のボール式2ボタンマウス。マウスパッドもセットに含まれる。PlayStation 2規格ソフトには使用できない。
SCPH-1040 対戦ケーブル PlayStationを2台接続して対戦ができる。2台のTVを使用することが前提となる[102]。PSoneやPlayStation 2には使用できない。
SCPH-1050 RGBケーブル 1995年3月17日 音声・映像を出力するためのケーブル。RGB21ピン端子付きのテレビで利用できる。PlayStation 2でも使用可能。
SCPH-1060 RFUアダプタキット 1995年3月17日 音声・映像を出力するためのケーブル。RF出力でアンテナ線に接続できる。SCPH-5500以降の本体には使用できない。
SCPH-1070 マルチタップ 1995年11月22日 PlayStation規格ソフトを3人以上でプレイする際に使用する。PlayStation 2規格ソフトには使用できない。形状はL字型。コントローラーを4台まで接続できる。なお、PS2用のものは使用不可。
SCPH-1080 コントローラ 1996年4月2日 SCPH-5000シリーズの本体に付属。SCPH-1010の改良版。コードが長くなり、接続部近くにノイズフィルターがついた。機能的には変わらないと公開している[103]
SCPH-1090 マウスセット(ロングケーブル) 1998年5月7日 SCPH-1030の改良版。ケーブルが長くなっている。
SCPH-1100 S端子ケーブル 1995年11月22日 音声・映像を出力するためのケーブル。S端子付きのテレビで利用できる。
SCPH-1110 アナログジョイスティック 1996年4月26日 フライトシューティングゲーム向けにアナログスティックが2本ある大型のジョイスティック
SCPH-1120 RFUアダプターキット 1996年11月22日 RF出力をするためのキット。
SCPH-1130 電源ケーブル PlayStationに電源を供給するケーブル。本体に付属。
SCPH-1140 AVケーブル 1997年3月14日 PlayStationをテレビに接続する、映像/音声一体型のケーブル。本体に付属。
SCPH-1150 アナログコントローラ 1997年4月25日 アナログスティック2本と、振動機能を搭載している。のちに発売された「デュアルショック」と形状は似ているが、グリップのサイズがやや大きい。また、コントローラーの振動機能に強弱の区別がない。SCPH-1110の互換モードを持っている。
SCPH-1160 AVアダプター PlayStationを通常のAVケーブルでテレビに接続することができるキット。SCPH-5500以降の本体にガンコンを接続する際にも使用する。
SCPH-1180 Analog Controller 日本未発売。アナログコントローラに似ているが、振動機能未搭載。
SCPH-1200 アナログコントローラ DUALSHOCK 1997年11月20日 SCPH-7000/7500/9000の本体に付属のコントローラー。SCPH-1150にあったSCPH-1110互換モードは省かれた。
SCPH-1210 メモリーカードケース 1998年3月19日 メモリーカードを収納するケース。当初はメモリーカードとセットであったが、後に別売りになり、その時に型番がついた。
SCPH-3000 PlayStation 1995年7月21日 本体。
SCPH-3500 1996年3月28日 本体。
SCPH-4000 ポケットステーション 1999年1月23日 モノクロ液晶画面付きのメモリーカード。ちょっとしたゲームを遊ぶことも可能。
SCPH-4010 Vpick ギターのピックを模した入力機器
SCPH-4020 ロングストラップ 1999年1月23日 ポケットステーション用のロングストラップ。
SCPH-4030 ハンドストラップ 1999年3月25日 ポケットステーション用のハンドストラップ。
SCPH-5000 PlayStation 1996年6月22日 本体。
SCPH-5500 1996年11月15日 本体。
SCPH-7000 1997年11月13日 本体。
SCPH-7500 1998年12月1日 本体。
SCPH-9000 1999年5月28日 本体。
SCPH-100 PS one 2000年7月7日 本体。
SCPH-110 アナログコントローラ DUALSHOCK PS one付属のコントローラー。
基本のボディカラーは本体に合わせた白。コネクタ部分は丸みを帯びている。
  • AVマルチケーブルVMC-AVM250(ソニー株式会社テレビ事業部)
  • ステレオテレビ(ソニー株式会社テレビ事業部)
    • 上記のAVケーブル一本で接続できる21型トリニトロンカラーテレビ。他の機種でも接続出来るテレビはラインナップされているが、本品は特にゲームプレイに特化している。スタイルもPlayStationのイメージに合わせている。品番はKV-21SP1[104]

他社発売(ライセンス商品)[編集]

  • 『チョーきれいだね!』アップスキャンコンバーター SLPH-00016(WAKA製作所)
    • AVマルチ端子のRGB出力で31kHzの一般PCモニターへ接続用ラインダブラー
  • マルチアウト変換ジャック SLPH-00091(株式会社HORI
    • 純正AVアダプターの廉価版とも言える商品。
  • ネジコン株式会社ナムコ)SLPH-00001
    • コントローラーそのものをねじってアナログ入力できる。レースゲームだけでなく、野球ゲーム『ワールドスタジアム2』などにも対応している。
  • ブラックネジコン(株式会社ナムコ)SLPH-00069
    • 新フォルム、新カラーリングのネジコン。
  • ジョグコン(株式会社ナムコ)
    • 「反発力」の再現を実現した、新しいタイプのコントローラー。中央のダイアル部分が電気的に制御されて回転し、ステアリング操作とよく似た反発力を生み出す。PS本体から電力供給がされるので電池不要。
  • ガンコン(株式会社ナムコ)
    • ナムコの独自開発による銃型コントローラー。映像出力端子を利用した、命中精度の高さが魅力とされている。映像出力端子を持たないPS(型番:SCPH-5500以降)に接続する場合は、別売りのAVアダプター(SCE/標準価格1,200円)が必要。
  • ハイパーブラスター(コナミ株式会社
  • 『コックピットBIGショック』振動ステアリングコントローラ SLPH-00101(OPTEC)
  • 電車でGO!専用コントローラ(株式会社タイトー
    • 型番はSLPH-00051だが、以降発売の色替えバージョン及びワンハンドルタイプ等はSLPHはついていない(TCPP-200XX等の品番となっている)。
  • beatmania専用コントローラ(コナミ株式会社)
    • アスキーが発売したものの型番はASC-0515BM、コナミが発売したDJ Station PROはCT013と、どちらもSLPHはついていない。
  • ダンスダンスレボリューション専用コントローラ(コナミ株式会社)
    • 型番はそれぞれRU017(本体のみ・初期版)/RU023(マット内蔵のデラックス版)/RU026(ハンドコントローラ)/RU031(ディズニー版)/RU039(本体のみ・後期版)と、どれもSLPHはついていない。
  • ギターフリークス専用コントローラ(コナミ株式会社)
  • ドラムマニア専用コントローラ(コナミ株式会社)
    • ギターフリークス用がRU018、ドラムマニア用がRU021。ドラムマニアはPlayStation 2用ソフトとして発売。後にGuitarFreaksV & DrummaniaVと同時発売された廉価版は型番の後ろに-J2が付く。尚、ドラムマニア用のRU021-J2はスタンドがデスク用ミニ脚になっている。
  • 『SANKYO N・ASUKA』パチンコハンドル型コントローラ SLPH-00007(ティー・イー・エヌ研究所)
  • TWIN JOYSTICK ツインジョイスティック (BLAZE)
  • キッズステーション専用コントローラ(株式会社バンダイ

PlayStation Classic[編集]

SCPH-1000RJ

2018年12月3日発売。PlayStationの小型復刻版。

価格は9,980円(税抜)。内蔵しているソフト20作品のみプレイが可能。

コラボレーション商品[編集]

プラモデル

2020年3月にBANDAI SPIRITSより、過去のヒット商品をプラモデル化する「BEST HIT CHRONICLES」の第1弾ならびに第2弾として、「2/5 PlayStation(SCPH-1000)」が「2/5 セガサターン(HST-3200)」と共に発売されている[105]

脚注[編集]

[脚注の使い方]

補足[編集]

  1. ^ 周辺機器による。
  2. ^ 後継機に対するレトロニムとして。
  3. ^ 現社名はソニー・インタラクティブエンタテインメント(略: SIE)。
  4. ^ ただし、一部のテレビCMなどでは「プレステ」という表現が使用されている。
  5. ^ 初心会は後に別名で復活するが、その影響力は皆無に近くなった。
  6. ^ ローディング速度に関しては、同時代のCD-ROM機『ネオジオCD』と比較すると顕著。
  7. ^ 実際はブロック内の実データは消去されず、削除処理にしたブロックを未使用領域として管理用ブロックに認識させた上で、該当ブロックをロード不可・上書き可能の状態にすることで、他のセーブデータの書き込みができるようにしている。参照:データの完全消去
  8. ^ 管理ブロック内のセーブデータ2ブロック目の参照設定がゲームBと設定されることで、そのゲームで遊ぶ際にセーブデータ2ブロック目のタイトルをゲームBとして読み込む。仮に管理データがセーブ中のリセット等によって参照設定がゲームAになった場合、セーブデータ2ブロック目がゲームBのままでもゲームAとして読み込む。
  9. ^ テクスチャ・半透明処理・シェーディングを施した時の実測値。
  10. ^ RAM容量の関係からこの解像度のグラフィックをリアルタイムで動かす事は難しく、主に「一枚絵」と呼ばれる画像の表示に用いられた。
  11. ^ スーパーファミコンの「SPC700」はソニーが開発していた。
  12. ^ 「ライセンシー」。サードパーティーやゲーム開発会社などが該当。対義語にはライセンスを許諾したメーカーを指す「ライセンサー」があり、ソニー・コンピュータエンタテインメントのことを指す。

出典[編集]

  1. ^ 「プレイステーション 2」価格引下げ SONY COMPUTER ENTERTAINMENT INC.
  2. ^ a b GAME.Watch. “SCEJ、PSおよびPS oneの本体出荷台数が全世界で累計1億台を突破と発表”. インプレス. 2015年2月3日閲覧。
  3. ^ 「第11章 CESAゲームアーカイブス」『2014 CESAゲーム白書』、CESA、159頁。
  4. ^ DRAGON QUEST VII REACHES QUADRUPLE PLATINUM IGN
  5. ^ ポリフォニー・デジタル. “『グランツーリスモ』シリーズ タイトルリスト”. ポリフォニー・デジタル. 2015年2月3日閲覧。
  6. ^ a b c d e f g 初代プレイステーションを救ったのは『バーチャファイター』!? SCE創業メンバーたちがその成功の背景を語った”. ファミ通.com (2012年9月1日). 2012年9月6日時点のオリジナルよりアーカイブ。2019年10月22日閲覧。
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  10. ^ a b c d 「久夛良木が面白かったからやってただけ」 プレイステーションの立役者に訊くその誕生秘話【丸山茂雄×川上量生】” (日本語). 電ファミニコゲーマー – ゲームの面白い記事読んでみない?. 2020年8月11日閲覧。
  11. ^ 麻倉怜士『ソニーの革命児たち〜世界制覇を仕掛けた男たちの発送と行動〜』IDGコミュニケーションズ、1998年、p.48,132、滝田誠一郎『ゲーム大国ニッポン 神々の興亡 2兆円市場の未来を拓いた男たち』青春出版社、2000年、p.195、幻のスーパーファミコン用CD-ROMアダプターと単独路線 CNET Japan、2012/09/10)
  12. ^ ハドソンがソニーへ接触を試みたことがあるが、新ゲーム機の企画提案ではない(平林久和急にハドソンのことが語りたくなった -』、滝田誠一郎『ゲーム大国ニッポン 神々の興亡 2兆円市場の未来を拓いた男たち』青春出版社、2000年、p.180-184)。
    また「PCエンジンの成功を見たソニーは、ロムカセットの代わりにCD-ROMを用いたゲームを採用するように任天堂に提案。」という仮説がネット上に掲載されたことがある(山田俊浩『プレステ4巻き返しへの課題 栄枯盛衰の家庭用ゲーム機市場東洋経済新報社、2013年3月21日)
  13. ^ 山下敦史『プレイステーション 大ヒットの真実』日本能率協会マネジメントセンター、1998年7月15日。
  14. ^ 麻倉怜士『ソニーの革命児たち』IDGコミュニケーションズ、1998年、pp.44-48
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  16. ^ 山下敦史『プレイステーション 大ヒットの真実』日本能率協会マネジメントセンター、1998年、p.52
  17. ^ 大賀典雄『SONYの旋律(私の履歴書)』(2003年 日本経済新聞社)
  18. ^ 馬場宏尚『ゲームソフト戦争』ぱる出版、1997年、pp.108-111
  19. ^ 任天堂 再浮上の条件(上) 次なる敵はアップル 日本経済新聞 1990年代初頭、ソニーと任天堂はPSの原型となったゲーム機を共同開発する計画を進めていた。だがハードのみを担当するはずのソニーが自前のソフトで試作品を実演したことに当時の山内溥社長が激怒。共同開発はお蔵入りになった。
  20. ^ 大賀典雄『SONYの旋律(私の履歴書)』(2003年 日本経済新聞社)
  21. ^ 馬場宏尚『ソニーが任天堂に食われる日』エール出版社、1993年、pp.146-149
  22. ^ 2014年4月1日よりSMEJは中間持株会社になったため、本来の事業はSMLへ移管されることとなった。
  23. ^ 大賀典雄『SONYの旋律(私の履歴書)』(2003年 日本経済新聞社)
  24. ^ 週刊ファミ通 no.800. 株式会社エンターブレイン. (2004年4月16日 2004). p. 50 
  25. ^ 大賀典雄『SONYの旋律(私の履歴書)』(2003年 日本経済新聞社)
  26. ^ [1]
  27. ^ WEEKLYファミ通 No.800 PlayStation誕生前夜. 株式会社エンターブレイン. (2004年4月16日 2004). pp. 51,52 
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  34. ^ 参考までに、1986年時点で米Sun Microsystems社のワークステーションが1000万円以上、ソニーのワークステーション「NEWS」の最上位機種は低価格で市場に衝撃を与えたがそれでも275万円であった(https://xtech.nikkei.com/it/article/COLUMN/20060912/247835/ )。
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参考文献[編集]

  • 情報処理学会編『新版 情報処理ハンドブック』(オーム社、1995年11月、ISBN 4-274-07832-9
  • 朝日新聞ウィークリー AERA 1997年1月27日号、10-12頁(朝日新聞社、1997年1月20日発売)
  • 麻倉怜士『ソニーの革命児たち』IDGコミュニケーションズ、1998年
  • 大賀典雄『SONYの旋律(私の履歴書)』(2003年 日本経済新聞社)

関連項目[編集]

書籍[編集]

プレイステーション 大百科[編集]

  • 最新版 ヤングセレクション プレイステーション 大百科 実業之日本社(1997/8/1)(ISBN 978-4408614441
  • 最新版 ヤングセレクション プレイステーション 大百科 実業之日本社(1998/12/1)(ISBN 978-4408614809
  • 2000年最新版 プレイステーション 大百科 実業之日本社ISBN 978-4408615172
  • 2001年最新版 プレイステーションソフト オールカタログ 実業之日本社ISBN 978-4408615455

ソフト一覧[編集]

ハードウェア・周辺機器等[編集]

本体製品
  • PS one - 本機の小型版。
  • PlayStation 2 - 全製品において PlayStation との上位互換機能を持つ。
周辺機器

その他[編集]

外部リンク[編集]