山内溥

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やまうち ひろし
山内 溥
生誕山内 博
(1927-11-07) 1927年11月7日
京都府京都市
死没 (2013-09-19) 2013年9月19日(85歳没)
京都府京都市左京区
出身校早稲田大学専門部法律科[1]
職業実業家
取締役会任天堂元代表取締役社長
子供山内克仁
山内鹿之丞(旧姓:稲葉)

山内 溥(やまうち ひろし、1927年昭和2年〉11月7日 - 2013年平成25年〉9月19日)は、日本実業家。出生名は山内 博(読みは同じ)。

玩具メーカーの任天堂株式会社代表取締役社長(個人商店の山内房治郎商店より数えて第3代、1949年 - 2002年)、同社取締役相談役(2002年 - 2005年[2][3]を経て、晩年まで同社の相談役を担った。任天堂を電子ゲームによって世界的な企業に押し上げた中興の祖として活躍した。

また、アジア人初の大リーグチームのオーナーとして、シアトル・マリナーズの共同オーナーを務めた人物としても知られる。

経歴[編集]

幼少期[編集]

1927年、京都市に生まれる。溥は任天堂創業家の生まれであり、創業者・山内房治郎の曾孫に当たる。

幼少時に、父・山内鹿之丞(婿養子。旧姓:稲葉)が近所の女性と駆け落ちして失踪した後、祖父母に育てられることになったこと以外は恵まれた環境で育つ。

社長就任[編集]

22歳で社長就任
早稲田大学専門部法律科で学んでいた1947年花札トランプ製造会社の合名会社山内任天堂の販売子会社であった株式会社丸福(丸福かるた販売などを経て、現在の任天堂)の設立時に取締役に就任。
跡継ぎとして育てられていた溥だったが、その2年後、1949年に祖父で二代目の山内積良が病気で倒れ、急遽祖父の後を継がざるを得なくなり、22歳で株式会社丸福かるた販売の代表取締役社長に就任。1950年大学卒業。
溥が会社を継ぐにあたって、「任天堂で働く山内家の者は自分以外に必要ない」とする条件を提示したため、前社長は会社にいた山内家の従兄弟達を会社から退けていた。
アイデアマンとして業界トップへ
社内の労働争議が悪化する中、積極的に社内改革を図った。1955年に労働争議は一応の決着がついたものの、争議の激しさで体を壊しかけるなどした経験から父を激しく嫌い、後に父が面会しに来た際には、門前払いしたという。
労働争議が収まる一因となったのは、山内のアイディアマンぶりである。1953年には日本初のプラスチック製トランプを開発、1959年にはディズニートランプを発売するなどし、任天堂の業績をかつてないほど上げたことにより、誰も社長に文句が言えなくなった。
特にディズニートランプに関しては、「ディズニーキャラクターを絵柄に使う」「遊び方の簡単な説明書を同梱する」という全く新しい手法により、それ以前は博打の道具としてしか認識されていなかったトランプを、「子供向け・家庭の団欒のための玩具」として再定義し、全く新しい層を新たに取り込んだ。任天堂のトランプは爆発的に売れ、1960年代前半には一躍業界トップに躍り出る。
多角経営に失敗
1958年のアメリカ視察では、世界的に高いシェアを有するトランプ会社U.Sプレイング・カード社に向かったが、最大手であるにもかかわらずオフィスも工場も想像以上に小規模だったことに衝撃を受け、「トランプだけではちっぽけな会社で終わってしまう」と悟り、多角経営の道を探ることになる。
親戚にタクシー会社の経営者がいたことから、1960年にタクシー会社のダイヤ交通株式会社[注 1]を設立したのを皮切りに、1961年には近江絹糸と共同出資で三近食品[4]を設立し、いずれも代表取締役社長に就任。その他にも任天堂本社でも他業種に進出した。
これらの多角経営は、総じてノウハウ不足などによりことごとく失敗。さらにトランプブームが一段落付いた1964年に任天堂は、一転倒産危機に直面することになる。山内は1965年に三近食品、1969年にダイヤ交通の経営から手を引いた。

玩具事業への舵切り[編集]

電子玩具のヒット
任天堂が苦境に陥っている最中、1965年に入社した横井軍平が暇つぶしで作っていた遊び道具を1966年にウルトラハンドとして商品化させたところ大ヒットを記録。任天堂のオリジナル玩具1号となったこの製品は、10万個売れれば大成功といわれていた時代に120万個以上を売る大ヒットとなった。
横井軍平を玩具商品開発の主任に据え、それ以降「電気・電子関係の技術」を使った目新しい玩具でヒットを出した。1968年の家庭用ピッチングマシン「ウルトラマシン」など、アイデア玩具を次々と開発し、1967年には17億円であった売上高が2年後には34億円にまで拡大した。その間、任天堂の売上の7割を占めていたカード類の割合は、わずか3割に減少していた。
さまざまな失敗
1968年、レゴブロックに対抗した「NBブロック」を発売したが、期待されたほどの売上は得られなかった。1969年には、2人で同時に遊べる画期的なフラフープを発売したが、画期的すぎたためかこれもヒットしなかった。さらに、ノートやサインペンなどの文房具類などを手がけたが、ノウハウが無かったため成功しなかった。左にしか曲がらないラジコンは、そこそこ売れたというが商業的な成功とは言い難かったという。
その他、交通事故保険付きのベビーカー「ママベリカ」を発売したり、1971年発売の家庭用コピー機「コピラス」は低性能だが低価格だったため、10万台くらい売れたもののその後に返品の嵐になるなど、様々なビジネスに挑戦しては模索していることが伺える。

ゲーム事業への模索[編集]

レーザークレー射撃場により倒産危機
デパートのおもちゃ売り場と得意の関係になったことなどから、1970年の光線銃SPのヒットを機に、山内は多角経営路線を諦めた。
しかし、光線銃SPの発展版ともいえる「レーザークレー射撃場」という施設を全国各地に展開させようともくろみ、一時は軌道に乗り掛けたものの、運悪く第一次オイルショックが起き、その影響で建設計画撤回が相次ぎ、任天堂は多額の負債を背負い、再び倒産危機に直面することになる。しかし、山内はアーケードゲームに可能性を見出し、その路線を突き進むことになる。
亜流スペースインベーダーでヒット
1978年に発売されたタイトースペースインベーダーの大ヒットにより、亜流のインベーダーゲームが氾濫していた際に、任天堂(任天堂レジャーシステム)は『スペースフィーバー』でこれに参戦。現在であれば違法なパクリゲームであるが、当時はそういう亜流ゲームの販売についての権利意識が低かったこともあり[5]、『ギャラクシアン』を制作していたナムコを除いた50〜80社が、亜流インベーダーゲームを販売していたという。
この『スペースフィーバー』について、1979年のテレビインタビュー[注 2]で山内は、「遊び方にパテントは無いわけです」「これからの娯楽業界の発展のためには、むしろこういった新たな技術(ソフトウェア)を互いに公開・交流することが大切」といった旨の発言をしていた。

家庭用ゲーム事業への参入[編集]

ゲーム&ウオッチの大ヒット
その一方、家庭用テレビゲーム機も数多く手掛け、1980年には携帯型ゲーム機「ゲーム&ウオッチ」が大ヒットとなる売り上げを記録。多角経営時代とレーザークレーの負債を完全返済しても、ありあまるほどの規模となる利益を任天堂にもたらした(横井によると5000万台売れたという)。
ゲーム&ウオッチ」は「ゲームボーイ」の原型となった携帯ゲーム機であり、マリオやドンキーコングといった後に任天堂を代表することになるキャラクター達は、この時期に生まれている。
ファミコンにより社会的ヒット
この直後、「アーケードゲームを家庭で」という目的に据え置き型ゲーム機「ファミリーコンピュータ」の開発が始まる。この際、山内の「アーケードはもうやめや」の一言で、アーケードゲームの事業規模を急激に縮小させ、家庭用テレビゲームに専念する体制が取られた。宮本茂は「こんなことしていいのかと思った」という。
1983年7月に「ファミリーコンピュータ」を発売し、当初はゲーム&ウオッチのキャラクターが登場する『マリオブラザーズ』『ドンキーコング』や、『ゴルフ』『ベースボール』『テニス』『サッカー』と言ったスポーツゲームや、『麻雀』などの大人向けゲームなどが人気を得ていた。
1984年7月に発売されたハドソンの『ロードランナー』が140万本、同年11月に発売されたナムコの『ゼビウス』が127万本を販売されると、タイトーコナミカプコンといった現在まで続く有名メーカーが相次いで参入した。
その後、1985年9月に『スーパーマリオブラザーズ』が売上681万本という超人気ソフトとなり、1986年には『ドラゴンクエスト』、1987年には『ファイナルファンタジー』、1988年には『スーパーマリオブラザーズ3』『テトリス』などが発売され、こうした大ヒット作に恵まれる形でファミコンは世界的な大ヒットを記録して、任天堂は世界的な企業へと成長していく。
ゲームボーイ、スーファミの発売
1989年には携帯型ゲーム機「ゲームボーイ」を発売し、ファミコン程ではなかったがこちらも大ヒットとなり、以降ゲームボーイシリーズが発売されるに至った。
ゲームボーイ開発時には、横井軍平に対し厳しく注文をつけた。なお、「最終デモ機が完成し受け取った際にわざと床に落として強度のテストを行った」という逸話が流布しているが、これについて任天堂広報室は「いつの間にか、そのような話ができあがった」とコメントしている[6]
1990年にはファミコンの後継機である「スーパーファミコン」を発売し、ファミコンを遥かに超える映像と、拡大縮小などのエフェクト機能を駆使したソフトが開発可能となり、ゲーム業界のトップ企業として君臨した。

業界トップからの陥落[編集]

次世代ゲーム機競争に敗れる
1996年には「NINTENDO64」を発売したが、1994年にソニーから発売されたPlayStationが、次世代ゲーム機競争を制して爆発的ヒットを記録しており、大手ゲームメーカーは「大容量CDによるムービー映像」「ボーカル楽曲や高音質のBGM」「3DCGによるゲーム制作」に魅力を感じていたことから、任天堂離れが加速していき、やがて業界トップの座をソニーに譲る結果となってしまう。
ソニーとは本来、スーパーファミコン用の「CD-ROMアダプタ」である開発コードネーム『プレイステーション』を共同開発する関係であったが、任天堂側がCD-ROM搭載を見送りフィリップスと契約して、ソニーとの契約を半ば一方的に破棄したことから、ソニーは独自ゲーム機の開発にシフトした経緯があった。結果論ではあるが、ソニーのゲーム業界への進出をさせる結果になったことは、山内の経営判断において「最大の失敗」であったと言える。
また、理由は明らかにされていないが、スクウェア作品が任天堂でのゲーム販売を許諾されなくなり、1996年から山内退任の2002年に至るまでPlaystationをメインに販売することになった事も、任天堂が苦戦することになった大きな理由であり、山内の経営判断の大きな失敗と言える[7]
GBアドバンス、ゲームキューブも苦戦
2001年には「ゲームボーイアドバンス」、初のディスクを採用した「ニンテンドーゲームキューブ」を発売したが、プレステを上回るヒットにはなり得なかった。

社長退任後[編集]

相談役に就任
2002年ハル研究所から同社取締役へと呼び寄せていた岩田聡に社長職を譲り、取締役相談役に就任[2]。岩田を社長に任命する直前、一対一で3時間経営哲学を語り、この際に「異業種には絶対手を出すな」と言い残した。また会社の意思決定は社長への一任ではなく、取締役会での集団指導体制へと移行を促した。さらには、ゲーム&ウオッチで好評であった「二画面」のゲーム機開発を促し、これが後のニンテンドーDSになった[8][9]
DSとWiiの大ヒット
任天堂が巻き返しをして空前の大ヒットとなるのは、2004年12月に発売された「ニンテンドーDS」、2006年12月に発売された「Wii」である。これらの製品の企画開発は、山内が社長時代から動いており、取締役~相談役になってからも貢献している。

晩年[編集]

2005年に取締役を退任し、役職は相談役のみとなる。その際、任天堂側からは長年の功績に対する慰労金として12億3600万円を提示されていたが、山内は「それよりも社業に使ってほしい」と、この申し出を断っている[3][10]

2013年9月19日肺炎のため京都市左京区京都大学医学部附属病院で死去した[11][12]。85歳没。葬儀は任天堂本社で社葬として執り行われた[13]

死後[編集]

山内は発行済株式10%を保有する筆頭株主であったがそれらは遺族4人が相続した[14][15]。相続税の納税のために遺族は株式の一部を売却。任天堂は自社株950万株を1142億円で取得した[15]

投資家・篤志家としての山内溥[編集]

MLB球団のオーナー[編集]

1992年、MLBシアトル・マリナーズが経営危機に瀕し、シアトルから移転されることも考えられていた。それを知った山内は、「長い間、米国任天堂を置かせてくれたシアトルへの恩返し」として、MLB球団をシアトルに留めるために、山内がポケットマネーでマリナーズ運営会社の株式を購入した。

しかし、MLB機構(コミッショナーはフェイ・ヴィンセント)が日本企業がMLB球団を丸々買収することに難色を示したため、「他の出資者も募る形で山内の株保有率は49%に抑える」「マリナーズで重要問題を決める時は共同オーナー7人の投票によって最終意思決定がされ、山内の意向を受けた任天堂の票は2票とする[16]」等の配慮をした上でマリナーズの筆頭オーナーとなり、MLB史上初の非白人・アジア人オーナーとなった。

2002年の任天堂社長退任後も個人出資分として、暫くは共同オーナーに名を連ねていた。山内の出資分は2004年8月までにNintendo of Americaがそれらを買い取って持株比率が55%を超えることとなり、マリナーズ運営会社The Baseball Club of Seattle, L.P.は任天堂の持分法適用会社となった。

社長をしていた当時、マリナーズの日本人大リーガーの佐々木主浩イチローが、任天堂のコマーシャルに登場したこともある。イチローがMLB挑戦を表明した時には、「何が何でも獲れ」と厳命を下している。山内がマリナーズに対して口出しをしたのはこれっきりであり、基本的には金だけ出し、口を出すことはない。それどころか「飛行機が嫌いだから」という理由で、マリナーズの本拠地セーフコ・フィールドに一度も行くことはなかった。2005年には、個人保有していた任天堂の株式5000株をイチローの年間最多安打達成のお祝いとして贈呈した[17]

山内の死去が明らかになった直後の2013年9月23日にはセーフコ・フィールドにおいてマリナーズの試合前に、オーナーであった山内の死去を悼んで黙祷が捧げられた。大型スクリーンに山内の姿が映し出される中で1992年の球団買収でチーム移転を食い止めたことなどが紹介され、マリナーズの選手は2013年シーズン終了までユニホームにイニシャルの「HY」をデザインした喪章を着けてプレーすることになった[18]

なおNOAは2016年にThe Baseball Club of Seattle, L.P.の株式を10%を残して他の共同オーナーたちへ売却し、筆頭株主ではなくなっている(経緯はシアトル・マリナーズ#運営に記した)[19]

小倉百人一首[編集]

小倉百人一首をテーマとして、京都文化や京都観光の発展に貢献するために設立された「公益財団法人小倉百人一首文化財団」の理事長を務めた。同文化財団が運営する百人一首のテーマパーク「時雨殿」建設の際には、建築費用21億円すべてを個人で負担し、2012年まで時雨殿運営に任天堂関係者が関与していた。

投資ファンド[編集]

2002年1月に「ファンドキュー」というベンチャーのゲーム会社を支援する投資ファンドを設立している。「ゲームキューブとゲームボーイアドバンスの連携」、「開発期間は一年」、「任天堂による審査」など条件はあったが、無担保で融資を行うという零細ベンチャーには魅力あるものであり、全額山内のポケットマネーで行われた。

京大附属病院新病棟[編集]

2006年2月、京都市左京区の京都大学医学部附属病院に「大学病院の使命にふさわしい病棟を建設してほしい」と約70億円の個人資産を寄附。これにより京大では地上8階・地下1階で延べ床面積約2万平方メートル・病床約300の新病棟「積貞棟」を建設した[20]。工事の着手は法的問題の解決が難航したため1年半遅れ2008年7月に着工[21]、2010年5月に完成した[22]

なお上記の通り山内は同病院で生涯を閉じている。

経営哲学[編集]

娯楽に徹せよ

任天堂がやることは、任天堂が『一番強みを発揮できる部分』に絞るべき。これは私が山内から教わったことですけど、上手に捨てられるから少ない人数でも大きな所と戦えるわけで、絞ってなければ、ソニーさんやマイクロソフトさんのようなジャイアントカンパニーを向こうに回して競争なんかできないわけですよ。ですから、事業を分散させない。それを前提にすると、自分たちではできないことは他社さんと組まないといけないわけで、その組み方もどんどん変わっていくんだろうなと思います。(岩田聡 談)

「任天堂“驚き”を生む方程式」 - 井上理(著)
面白いと思うものをつくれ

商品が売れるか売れないかは、正直いって誰もわからんよ。しかし、面白いか、面白くないかは誰にでもわかる。おもしろいものをつくれば会議で検討したり、市場調査をしたりする必要もないわけや。事実、ゲームソフトで370万本売って超ベストセラーになった「スーパーマリオブラザーズ」など、100人中90人までがおもしろいと評価していたよ。

「他社の類似品は出すな」「面白いと思うものをつくれ」任天堂・山内溥社長の経営哲学
類似品は出すな、独創的であれ

娯楽というものは、独創性を持たないで、人のやったことをやっていたって仕方がないんや。独創性を発揮して、それが認められるような商品でなかったら新しい市場は成立しない。新薬の開発のように、何かを深く掘り下げて、その技術の上に立って戦略を考えるというのとは根本的には違うんです。
だから、今までこんな遊びがあった、これを改良、改善すればなんとか商売になるのでは……という発想では絶対うまくいかん。だからこそ、他社の類似品は出さんというのが、任天堂のモットーなんです。

「他社の類似品は出すな」「面白いと思うものをつくれ」任天堂・山内溥社長の経営哲学
必需品と区別せよ

何よりも大事なことは、娯楽というのは飽きられるものだということ。ここが必需品と根本的に違うわけです。そして必需品ならば二番手でも安いほうが売れます。しかし娯楽は二番煎じではダメです。たとえ安くても売れない。トップランナーでないといけません。だから、二番煎じで安いものを作るというやり方でやってきた大手の必需品メーカーには、娯楽のソフトウエアを作るのは無理ですよ

任天堂3代目「娯楽は二番煎じではダメ」の真意
身の丈を知れ
異業種には絶対手を出すな

山内の名言[編集]

失意泰然 得意冷然
山内の父の残した言葉として、「失意泰然 得意冷然」を挙げている。明代の中国の崔後渠中国語: 崔銑 (明朝)という人物による『六然』にある言葉で、「得意のときに驕り高ぶることなく、失意の時にはゆったりと構えていなさい」という意味である。
実力だけではなく運も認める
運を認めないといけない。運を実力だと錯覚するということは、これほど愚かなことはないんです。経営者としてね。ところが、人間ですからついつい運の存在を無視して「俺の力だ。俺のやり方が良かったんだ」と言いたいんですわ、人というものはね。それは駄目。
世間にはよく成功した人間を尊敬する人がいるけれど、それが僕には不思議でしようがない。たまたま運が良かっただけの人を、どうして尊敬できるんでしょうかね。
ヒット商品をつくる秘訣はない
ヒット商品をつくる秘訣なんてない。ただいえることは、ある種の能力があって、ひたすら目的に向かってそればかり考え続けておれば、いつか花がひらくときがくる。気持ちを持続しておくことが大切。
非常識なインスピレーション
全くの新製品を作るためには、常識的な発想では人々を納得させることはできない。新製品に必要なのは、社会通念や習慣を変えるようなものでなければならない。そのためには非常識の発想が必要なんです。みんながこうするから自分もそうするなんていうのは論外です。我が道を行くという考え方、そのためには、他人に煩わされないで、自分の時間を多く持つことが大切だ。人と同じことをやっていたのでは、同じ考えしか出てこないんです。
物事に100%ということはあり得ない
僕個人の意見を言うとね、およそ物事に100%ということはあり得ない。人間ですから。だから「99%駄目だ」ということは言えても「100%駄目だ」ということは言えないんですよ。人間ですから。そこで僕は100%駄目だと思った時、「あれは、99.99%駄目だ」と言っているんです。
消去法でやってみる
僕らみたいな仕事をしていると、いろいろ迷うんです。これしようとか、あれしようとか。ところが、あれしてもだめ、これしてもだめだということになっていくと、だんだん自分のやれる範囲が絞られてくる。だから、私は何も新しいものを求めていたんでも何でもなくて、考えていくうちに、もうこのへんしかないと。任天堂の行くところは、それしかないと思わざるを得なかったんです。消去法でいけばそうなるんです。
冒険精神と危機意識
企業においては、確かに冒険精神は必要不可欠のものだが、なにも現在、小は小なりにうまく暮らせているものを、わざわざヤケドしに行くことはないという気持ちも、私にはあります。任天堂の場合、どこへ行っていいかわからなかった。だが、現実に何かしなければ会社がなくなってしまう。そういう危機意識が非常に強かったんです。
人気ゲームのキーワード
これからのゲームは、交換・収集・育成・追加の4つがキーワードになる。
成功と失敗
いまソニーがゲームで成功したと言われています。でもそれは、たまたまいま成功しているだけで、ついこの間までは失敗していました。この業界でいま、最も強いと言われているソニーでさえ、成功と失敗を繰り返しています。明日は失敗するかもしれません。
面白いゲームの作り方などない
どうしておもしろいソフトがつくれるのかという問いに対しては、私はいつでも言っているんですが、結局はだれもがわからないんです。実はこうしてつくります、ああしてつくれますという解答が出せるとすると、だれでもそのようにすればできるわけでしてね。だからこそソフトウェアという言葉が非常に重みを持ってきているのでしょうね。
他社に制作依頼したことはない
私はこれまで他社にソフト制作をお願いしますといったことは一度もない。やるのも、やめるのも自由。むしろやめてほしい。
ビジネスの市場は世界
任天堂は東京を相手に商売してるんやない。世界や。
従来と異質のものを作る
娯楽という分野は、つねに従来と異質のものを開発しなければならないのです。つまり改良の程度ではダメです。このビジネスの世界は一日かかって説明しても、なかなか理解してもらえないのではないかと思うほど難しい。
時代が変化に対応する
時代が変化したんです。そのため止むを得ず転換を図った。それだけのことでしかない。それ以降、幾多の苦難を経ながら、ともかく生き延びてこられたのは、本当に運がよかったからだ。もっといえば、明確な経営戦略などがあったわけではなく、文字どおり試行錯誤の連続でその失敗の積み重ねの中から、少しずつ体で覚えて勉強し、それを材料として、たまたま幸運に恵まれて、昭和55年からようやく急成長の波に乗った。要するに、任天堂は運がよかっただけなんですよ。
任天堂は大きく変身したといわれるけども、それはわたしたちが、時代の変化を予測したとか、会社を大きくしよう、もっと儲かる仕事をしようなどと思ってやったことではないんですよ。花札やトランプは、もうこれ以上伸びないことがわかった。それならばこれからどうするのか、いったいどうしていいのかがわからない。経営者にとってこれほど苦しいことはない。そういう時代が長く続きました。そうしたときにマイコン革命が始まった。いやでもその道を行くしかなかった。ひたすらその道を歩みつづけた結果、任天堂自身が変わっていかざるを得なくなった。それだけのことなんですよ。
駄作で市場を崩壊させない
ゲームソフトを作れる技術屋というのはたくさんいます。しかし、本当に才能の豊かな、経験を持った有能な人は極めて少ない。優秀なゲームを作れる人が少ないということは、くだらないゲームなら作る人が大勢いるということです。そんな人に市場を荒らされたら、育つものも潰されてしまう。各メーカーが競争になればなるほど、どうしても多作に走り、ソフトの種類で勝負しようということになる。そうなると、似たようなくだらないゲームソフトが市場に氾濫する。駄作が多く出回ると、消費者は不快感を持つようになる。そうなったら、娯楽市場なんてアッという間に崩壊します。駄作で市場を崩壊させないためにも独占しなければならなかったんです。
余裕資金を持つ
余裕資金は保険の意味を持つ。当社は新しい市場を作る考えだが、どれだけお金がかかるかわからない。銀行は簡単に貸してくれないし、社債を発行すればリスクを伴う。自前で資金を持ち、必要な時に自由に使えるようにしておくことが必要だ。
努力しても成功するとは限らない
「努力したからうまくいった」と言う人がいるのは構わない。でも自分は違う。努力したから成功するとは限らないと思っている。苦労だって経営者ならしていない人などいないから、自分が特に苦労したとは思わない。振り返ると何となくこうなっていた。運が良かっただけだ。
市場調査する必要などない
市場調査?そんなことしてどうするんですか? 任天堂が市場を創り出すんですよ。調査する必要などどこにもないでしょう。
新たな技術を互いに公開・交流する
これからの娯楽業界の発展のためには、むしろ新たな技術を互いに公開・交流することが大切。
運を天に任せる
人事を尽くして天命を待つというが、人事なんてなかなか尽くせるものではない。そのときは、やるだけやった、あとはどうなっても満足だと思うかもしれないが、しくじったら、そのとたんに、ああしておけばよかった、こうもすればよかったと、次から次に反省が生まれるものです。だから、どんなに人事を尽くしたつもりでも、人間は所詮は天命を待つ心境にはなれない。そういう意味でもわたしは、任天堂の名の由来のごとく、人事を尽くして天命を待つのではなく、単純に「運を天に任せる」という発想を積極的に取りたいと思っています。
なにが起ころうともショックを受けない会社
経営の世界は流動的であり、いつまでも成長し続ける保証はどこにもない。そして、予想しなかったことが起きても「私は関係がない」と経営者は言えない。だから、体質を強化してなにが起ころうとも社員や取引先がショックを受けない会社をつくる、それが私の仕事だ。

人物[編集]

山内時代の任天堂は情報公開が少なく、ファミコンカセットのロイヤリティー問題、ゲームボーイの投げ付け、リコーの話など噂に尾ひれがついたものが多数ある。岩田が社長に就任して以降の任天堂はインターネットなどにより積極的に情報公開するようになっており、かつての定説が崩される事が増えている。

「独特の経営哲学」で知られ、ワンマン経営者の典型として語られる事が多いが、宮本茂は「皆、社長の喜ぶ顔が見たくてやっている」と語り、出石武宏は「(開発第一部部長になって)いまは立場上社長と話せる場面が増えたわけです。好きですね。ますます好きですね。だってすごいですもん(後略)」「社長が笑った顔を見たいがためにみんなつくっている」[23]と熱く語っているようにカリスマ性にも優れ、幹部社員の殆どから厚い信頼を得ていた。

独断的手法については評価が分かれる部分があるものの、「ファミリーコンピュータ(ファミコン)」に代表される一連のテレビゲームや、任天堂では初の開発部長である横井軍平の発案による「ウルトラハンド」「ゲーム&ウオッチ」等の新規市場開拓型のヒット商品については、山内の決断により成功したことはよく知られている。

商品の宣伝については、店頭の宣伝にコストをかけることに否定的で、「金があるなら、テレビに入れろ」という考えをもっており、山内社長時代の任天堂はテレビによる宣伝が多かった[24]

親族[編集]

その他[編集]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 通称ダイヤタクシー。後に任天堂資本をはずれ、京都名鉄タクシーを経て、現在は南ヤサカ交通として現存する。
  2. ^ NHK1979年放送の「ルポルタージュにっぽん」。1996年放送のNHKスペシャル新・電子立国」でもこのときのインタビュー映像が使われている。
  3. ^ 同社は山内家一族を共同代表者としているが、英文では「Banjo Yamauchi & Family」としている。
  4. ^ いずれも克仁の姉にあたる。
  5. ^ 囲碁はゲームの性質上、他のテーブルゲームと比較して思考ルーチンの組み立てが難しく、アマチュア有段者に勝てるコンピュータ囲碁が現れたのは2010年代からである。CPUにアマ6段の山内社長に勝てというのは、おおよそ不可能な話だった。
  6. ^ 実際のところ今まで任天堂は囲碁ゲームをほとんど発売していない。2008年8月5日には任天堂初の囲碁ゲームとして『通信対局 囲碁道場2700問』がWiiウェアで配信開始されたが、これは基本的にオンライン対局ソフトで、コンピュータとの対局は初心者用の練習対局のみである。

出典[編集]

  1. ^ 日経ビジネス編集部(2013年9月20日)「ゲームはまだ終わらない 任天堂・故山内溥相談役を偲ぶ」日経ビジネスオンライン、日経BP社。2013年12月28日閲覧。
  2. ^ a b 代表取締役の異動について”. 2020年12月19日閲覧。
  3. ^ a b ニュースリリース : 2005年4月27日”. www.nintendo.co.jp. 2020年12月18日閲覧。
  4. ^ 食品事業では『インスタントライス』を開発したり、『ポパイラーメン』『ディズニーふりかけ』などを販売したものの、インスタントライスはドロドロですごく不味かったという。近江絹糸(現オーミケンシ)では現在でも子会社で食品事業を行っている。
  5. ^ ただし、プログラムを丸ごとコピーした作品については、損害賠償裁判により支払いが命じられている。亜流スペースインベーダーがキッカケとなり、著作権法の一部が改正されることになった。
  6. ^ “DS故障は無償交換!?任天堂の“神対応”は本当か”. ZAKZAK. (2009-05/21). http://www.zakzak.co.jp/top/200905/t2009052110_all.html 2011年4月21日閲覧。 
  7. ^ スクウェアの取引停止は、ファイナルファンタジー7のPlayStationへの独占提供が原因だとネット上などでは言われている。一方、その後のスクエニとの取引再開は、山内の社長退任と、2003年にスクウェアとエニックスが合併したことが原因だったとされる。
  8. ^ 社長が訊く『ニンテンドー3DS』|ニンテンドー3DS|任天堂”. 任天堂ホームページ. 2020年12月18日閲覧。
  9. ^ 井上理「任天堂 驚きを生む方程式」日経BP社、2009年、233p。
  10. ^ 任天堂の山内相談役、退職金12億円を辞退 - YOMIURI ONLINE読売新聞(2005年11月24日 Internet Archive)
  11. ^ 任天堂の山内溥元社長が死去 85歳 日本経済新聞 2013年9月19日閲覧
  12. ^ 任天堂前社長の山内溥氏死去 ファミコン生みの親 : 京都新聞 京都新聞 2013年9月20日閲覧
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  27. ^ 中興の祖からバトン受けた28歳、任天堂創業家ファミリーオフィス代表”. ブルームバーグ. 2021年5月27日閲覧。
  28. ^ 古嶋誉幸 (2020年2月6日). “『バンジョーとカズーイ』の名前は任天堂の元代表取締役社長「山内溥氏」の家族にちなんで名付けられた。「万丈氏」と「克仁氏」が元ネタに”. 電ファミニコゲーマー. 2021年4月15日閲覧。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]


ビジネス
先代
山内積良
任天堂社長
第3代:1949年 - 2002年
次代
岩田聡