大矢明彦

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大矢 明彦
YB-Akihiko-Oya20090430.jpg
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 東京都大田区
生年月日 (1947-12-20) 1947年12月20日(69歳)
身長
体重
172 cm
84 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 捕手
プロ入り 1969年 ドラフト7位
初出場 1970年4月22日
最終出場 1985年10月23日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督・コーチ歴

大矢 明彦(おおや あきひこ、1947年12月20日 - )は、東京都大田区出身の元プロ野球選手捕手)・監督野球解説者

来歴・人物[編集]

プロ入りまで[編集]

早実高では1964年、2年生の時に、前年春の選抜で準決勝進出を果たした[1]織田和男、新藤克己の両投手とバッテリーを組み、夏の甲子園東京都予選に出場。優勝候補と目され決勝に進出するが、修徳高のエース成田文男に抑えられ敗退。翌1965年夏の都予選準々決勝では萩原康弘一塁手原田治明外野手のいた荏原高に延長15回サヨナラ負け、甲子園には届かなかった。この予選の4回戦では、投手として都立大附高からノーヒットノーランを記録している。高校の1年上に織田、新藤の他、一塁手内田圭一、同期に遊撃手荒川(当時は出沢)尭がいる。

卒業後は駒澤大学へ進学。東都大学リーグでは1年上のエース野村収とバッテリーを組み、1968年春季リーグに優勝。同年の全日本大学野球選手権大会では、決勝で田淵幸一らのいた法大に敗れ準優勝。リーグ通算94試合出場、326打数84安打打率.258、12本塁打、53打点。ベストナイン4回(捕手3回、一塁手1回)受賞。大学同期にヤクルト入りした内田順三外野手がいる。

現役時代[編集]

1969年ドラフト7位でヤクルトアトムズに入団。当時の正捕手であった加藤俊夫が不祥事で球団から出場停止処分を受けたこともあり、1年目からレギュラーとしてマスクをかぶる。1971年には初の規定打席(23位、打率.231)に到達し、オールスターゲームでもファン投票で初出場を果たす。1978年には正捕手としてヤクルト球団初のリーグ優勝に貢献。4月5日の阪神タイガース戦では代打で古沢憲司からサヨナラ本塁打を打っている[2]阪急との日本シリーズでも全7戦に先発出場し24打数6安打4打点1本塁打を記録、投手陣を好リードしチームを日本一に導く。1980年には打率.283(16位)の好成績を残した。

しかし1983年には控え捕手だった同期入団(高卒)の八重樫幸雄が持ち前の長打を武器に正捕手の座を奪う。その後は出場機会が減り、1984年からコーチ兼任となる[3]1985年に38歳で現役を引退した。30代後半から膝に水が溜まり、医者から「これ以上やったら50歳で歩けなくなりますよ」と言われたことで決断したという[4]

引退後[編集]

引退後、1986年から1992年までフジテレビニッポン放送の野球解説者として活動。1991年オフに日本ハムファイターズの監督の要請を受けるが交渉が難航し就任に至らず[5]

1993年から1995年まで横浜ベイスターズのバッテリーコーチを務め、谷繁元信の育成に貢献。1996年、前年度チーム16年ぶりの勝ち越しを決めながらも退任した近藤昭仁の後任として横浜の監督に昇格。1年目は春先は好調も、最下位だった阪神タイガースに1ゲーム差と迫られる、同一リーグ全球団負け越しを喫する5位と、完全最下位寸前の成績に終わる。2年目の1997年にはマシンガン打線を擁し37年ぶりのリーグ優勝に迫るシーズン2位の成績を残すも、同年シーズン終盤、野手チーフコーチの弘田澄男の解任を示唆された[注 1]ことで球団と対立し、監督を辞任した。

その後、1998年から2006年までフジテレビ・ニッポン放送の野球解説者として活動(実は1998年オフ、野村克也のヤクルト監督退任時に後任候補として名が挙がっていたが「教え子たちと戦う事は辛い」として辞退)。

2007年、横浜の監督に再び就任。1年目はシーズン4位の成績を残すも、翌2008年は優勝した巨人に36.5ゲーム差、5位ヤクルトに19ゲーム差も離されるなど開幕から最下位を独走してシーズンを終了。2009年も開幕からチームは6連敗をするなど、37試合を終えた時点で13勝24敗と最下位に低迷。同年5月18日を以って無期限休養[6]に入り、シーズン終了後、正式に退任した。

2010年から再びフジテレビ・ニッポン放送の野球解説者を務めている。

二女の大矢陽子は、2004年から2005年に横浜ベイスターズの2代目オフィシャル・リポーターを務めていた。

プレースタイル[編集]

それまでの「太め、鈍足」という印象のあった捕手像とはそぐわないスマートな身体・甘いマスクの持ち主で、「鉄砲肩の殺し屋」と称された球界一とも言われる強肩を武器に、長く正捕手として活躍。球審の特徴や癖を把握してゲームに活かすのが上手く、松岡弘安田猛などヤクルトの投手が活躍した陰には、彼の功績が大きいと言われる。

監督として[編集]

第1期監督時代[編集]

第1期では三塁手として3年連続でゴールデングラブ賞を獲得していた石井琢朗遊撃手に、遊撃手だった進藤達哉二塁手に、二塁手だったロバート・ローズを三塁手へと入れ替える、(一塁手の駒田徳広以外の)内野総コンバート策を打ち出したり、当時手薄だった先発陣を増強するために、リーグを代表する中継ぎエースであった盛田幸妃を先発投手に転向させ、先発・中継ぎ・抑えと便利屋的な役割を担っていた五十嵐英樹をセットアッパーに固定するなど、思い切った改革を進めた。結果、石井は、遊撃手としてのチーム歴代最多出場記録を残すほどのリーグを代表する遊撃手に成長し、長年にわたってベイスターズの内野陣を支えたものの、進藤は遊撃手とは異なる二塁手の逆スローの動きから腰を故障をして早々に戦線を離脱。ローズも三塁でエラーを多発したため5月末にはレギュラー不在の二塁手に戻り、復帰した進藤は空いた三塁に入って、実質石井と進藤の入れ替えという形になった。また、五十嵐のセットアッパー転向は成功したものの、盛田の先発転向は成功しなかった[注 2]

1996年は、前年に先発ローテーション投手に二けた勝利投手が一人もいなかったという状況から、抑えのエース・佐々木主浩に頼らない位の自覚を持たせるべく先発投手陣に完投を求め、完投数はリーグ2位の25を記録した[注 3]。特にエース格の斎藤隆には延長戦を1人で投げさせるなど11完投をさせている。しかし完投こそ増えたものの結局失点はリーグワーストの660点を記録し、チーム防御率も同じくリーズワーストの4.67と、前年度の4.37よりさらに悪化してしまった。またこの年は4月、5月と好調で首位を走っていたが、5月15日の巨人戦で、3日前に先発していた斎藤や佐々木を中継ぎとして投入し、結果延長の末に敗れた采配は、それまで好調だったチームの流れを変えるポイントとなったこともあり、議論を呼んだ。また自身の古巣ヤクルトで「野村再生工場」として他球団を戦力外になった選手を蘇らせていたが、自身も古巣ヤクルトから早実の後輩で現役時代バッテリーを組んだ荒木大輔を就任直後の95年オフ無償トレードで獲得したが全く戦力にならず同年限りで引退。

投手陣テコ入れのために加入した、大矢よりも年長で投手コーチとしても実績のあったバッテリー・チーフコーチの権藤博の意向が強く働いていたであろう1997年は、斎藤の故障などもあり先発完投にはこだわらなくなっていた。

また第1期は、コーチ時代からマンツーマンで指導していた、それまで半レギュラー扱いであった谷繁元信を積極的に起用し、リーグを代表する捕手に育て上げている[7]

リーグ2位の成績を残しながらも解任された1997年シーズンの最終戦では、自発的に選手から胴上げをされるなど、人望は厚かった。

第2期監督時代[編集]

前年の2006年から外野のレギュラーを務めていた吉村裕基一塁手へ、牛島和彦監督時代に「クアトロK」と呼ばれていた中継ぎ投手陣の加藤武治川村丈夫を先発へ、中継ぎ左腕不足の事情から那須野巧を先発から中継ぎへ、2008年のシーズン途中には吉見祐治を先発と中継ぎを掛け持ちさせ、同じくシーズン途中から先発の寺原隼人を、マーク・クルーンの移籍によって手薄になっていた抑えへ転向させるなど、第1期同様積極的なコンバート策を打っている。2007年の那須野はほぼ年間を通して左の中継ぎとして活躍したが[注 4]、加藤と川村はローテーションを守れず、失敗に終わっている。また、吉村の一塁コンバートにより、前年2006年の不調から一転して開幕から復調したベテラン一塁手・佐伯貴弘は年間を通じて外野手として出場することになった[注 5]

また2008年、2009年は先発投手陣が弱かったため[注 6]、リリーフに頼らざるをえない状況であった。ワンポイント継投が多く、一試合に多数の投手を起用することがしばしばあった[注 7][注 8]

投手の起用法については「ベテランに敗戦処理をさせても意味はない(プライドを傷つけられて腐るだけ)」「若い、経験の少ない投手なら敗戦処理でも『投げさせてもらえる』とプラスに作用させられる」という持論を持っている。

第2期は当初正捕手である相川亮二がいたが、相川が移籍した2009年はシーズン途中に休養するまでルーキーの細山田武史に期待を掛け、積極的に起用していた。

結果として一年目は4位で終われたものの、二年目・三年目ともに90敗、勝率3割台で首位との差が二年目36.5、三年目42.5というぶっちぎりの最下位となった。

詳細情報[編集]

年度別打撃成績[編集]

















































O
P
S
1970 ヤクルト 93 281 255 17 52 10 1 6 82 27 1 2 9 0 16 4 1 43 7 .204 .254 .322 .575
1971 127 432 377 29 87 16 3 10 139 40 2 3 18 5 28 7 4 39 9 .231 .287 .369 .656
1972 120 416 361 44 97 24 2 5 140 40 6 2 15 4 36 12 0 33 9 .269 .332 .388 .719
1973 121 393 355 28 67 8 2 7 100 21 3 2 10 3 25 7 0 46 14 .189 .240 .282 .522
1974 130 471 431 31 103 20 0 13 162 41 6 3 6 4 28 7 2 44 11 .239 .286 .376 .662
1975 130 466 436 27 106 17 0 9 150 43 2 3 0 4 26 8 0 38 14 .243 .283 .344 .627
1976 122 454 408 30 93 17 1 7 133 42 4 4 9 1 34 3 2 29 14 .228 .290 .326 .616
1977 85 308 282 28 71 14 1 8 111 29 1 1 4 4 17 7 1 30 5 .252 .293 .394 .686
1978 118 408 365 44 98 13 0 7 132 44 2 2 13 3 26 2 1 29 10 .268 .316 .362 .678
1979 100 342 321 26 87 10 0 6 115 31 6 3 4 1 11 1 5 32 7 .271 .305 .358 .663
1980 110 404 368 35 104 15 3 8 149 50 1 10 4 4 25 2 3 32 14 .283 .330 .405 .735
1981 82 234 213 21 47 8 3 2 67 23 2 1 9 2 10 1 0 18 10 .221 .253 .315 .568
1982 81 271 247 16 67 9 0 1 79 18 3 1 2 3 18 7 1 25 5 .271 .320 .320 .640
1983 66 178 150 12 39 5 1 2 52 20 1 1 5 2 21 5 0 16 3 .260 .347 .347 .693
1984 50 89 77 10 23 1 1 2 32 9 1 0 4 0 7 0 1 6 1 .299 .365 .416 .780
1985 17 20 19 1 3 1 0 0 4 1 0 0 1 0 0 0 0 6 0 .158 .158 .211 .368
通算:16年 1552 5167 4665 399 1144 188 18 93 1647 479 41 38 113 40 328 73 21 466 133 .245 .295 .353 .648
  • 各年度の太字はリーグ最高

年度別守備成績[編集]

年度 試合 企図数 許盗塁 盗塁刺 阻止率 失策
1970 88 88 38 50 .568 3
1971 126 144 85 59 .410 12
1972 119 80 36 44 .550 4
1973 121 71 41 30 .424 5
1974 13 87 39 48 .552 6
1975 130 104 54 50 .481 2
1976 121 82 41 41 .500 3
1977 84 59 32 27 .458 2
1978 114 82 48 34 .415 7
1979 92 76 47 29 .382 4
1980 110 103 55 48 .466 2
1981 65 53 33 20 .377 2
1982 79 67 54 13 .194 2
1983 56 52 41 11 .212 3
1984 47 19 15 4 .211 1
1985 15 9 8 1 .111 1
通算 1497 1176 667 509 .433 59

年度別監督成績[編集]

年度 球団 順位 試合 勝利 敗戦 引分 勝率 ゲーム差 チーム
本塁打
チーム
打率
チーム
防御率
年齢
1996年 横浜 5位 130 55 75 0 .433 22.0 85 .270 4.67 49歳
1997年 2位 135 72 63 0 .533 11.0 105 .273 3.70 50歳
2007年 4位 144 71 72 1 .497 9.0 124 .265 4.01 60歳
2008年 6位 144 48 94 2 .338 36.5 145 .266 4.74 61歳
2009年 6位 144 51 93 0 .354 42.5 128 .239 4.36 62歳
通算:5年 590 259 328 3 .441 Aクラス1回、Bクラス3回
※1 1996年は130試合制
※2 1997年から2000年までは135試合制
※3 2007年からは144試合制
※4 2009年はシーズン途中から休養。以降の監督代行は田代富雄
※5 通算成績は、2009年の休養後の107試合を含めない。

表彰[編集]

記録[編集]

初記録
節目の記録
  • 1000試合出場:1978年8月6日、対広島東洋カープ17回戦(藤崎台県営野球場)、7番・捕手として先発出場 ※史上202人目
  • 1000本安打:1981年7月15日、対中日ドラゴンズ14回戦(明治神宮野球場)、2回裏に小松辰雄から右前安打 ※史上120人目
  • 1500試合出場:1984年7月27日、対横浜大洋ホエールズ14回戦(明治神宮野球場)、8番・捕手として先発出場 ※史上79人目

背番号[編集]

  • 32 (1970年)
  • 27 (1971年 - 1985年)
  • 75 (1993年 - 1995年)
  • 81 (1996年 - 1997年)
  • 85 (2007年 - 2009年)[注 9]

関連情報[編集]

出演番組[編集]

著作[編集]

  • 大矢, 明彦 『プロ野球ニュースおもしろデータ』 フジテレビ出版、1987年5月ISBN 4893531409NCID BA56824229
  • 大矢, 明彦 『捕手の目で見るとプロ野球はこんなに面白い』 リム出版、1991年6月ISBN 4871201333NCID BA32751903
  • 大矢明彦「敗軍の将,兵を語る 大矢明彦氏(横浜ベイスターズ前監督)--積極野球に悔いはない来年も監督続けたかったが…」、『日経ビジネス』第915号、日経BP社、1997年11月10日、 109-112頁、 ISSN 00290491NAID 40002806535
  • 大矢, 明彦 『大矢明彦的「捕手」論』 二見書房、2002年4月ISBN 4576020684NCID BA57666043

資料映像[編集]

  • 大矢明彦(2007年)「捕手編」DISC1 『プロ野球の練習法から 新しい「理論」と「実践」を指導 : sports video T&H 』〈Miracle series. T&HスポーツDVDシリーズ〉ティーアンドエイチNCID BA76358399全国書誌番号:21697552

参考文献[編集]

注記[編集]

  1. ^ 前年にも権藤博をヘッドコーチ格で招聘したのに伴い、当時ヘッドコーチだった弘田の解任を打診されたがその際もこれを頑として拒み、その意志が強いことを示すために契約更改の日に頭を丸めて現れた。結局弘田の解任は回避されたが、権藤がバッテリーチーフコーチ、弘田が野手チーフコーチとヘッド格のコーチが二人置かれる事態となった(矢島裕紀彦 1998)。
  2. ^ しかし深刻な先発投手不足とオープン戦では好投していたので盛田は翌1997年にも開幕投手を任せられている。
  3. ^ 完投数リーグ1位は優勝した巨人の30。
  4. ^ 翌年からチーム事情から先発に戻ったが、先発としては結果を残せなかった。
  5. ^ 吉村はその翌年には佐伯と入れ替わる形で外野手に戻っている。
  6. ^ 第1期時代の先発投手の野村弘樹が引退、斎藤、川村のリリーフ転向以降、エースの三浦大輔、年によって先発とリリーフを行き来する吉見以外の新たな先発投手が育たず、第2期1年目の2007年は寺原、土肥義弘工藤公康の移籍先発投手陣の活躍もあり4位に入るも、2008年も寺原のリリーフ転向と土肥、工藤の不調などによって先発陣が不足した。
  7. ^ インターネット上の掲示板サイト、SNS系サイトでは、マシンガン打線をもじって「マシンガン継投」と揶揄される程であった。
  8. ^ 大矢退任後も先発陣の弱体化が続いたため、後任の尾花高夫も頻繁に投手交代を行っており、尾花は2011年に1シーズンの投手登板のべ人数664人の新記録を作っている。
  9. ^ 2度目の横浜監督就任時の背番号85は第1期横浜監督時代にバッテリーコーチを務め、前年に白血病で死去した小山昭晴の背番号を選んだ。

脚注[編集]

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  1. ^ 「選抜高等学校野球大会60年史」毎日新聞社編 1989年
  2. ^ 東京ヤクルトスワローズ球団アーカイブサヨナラ本塁打
  3. ^ 徳永喜男著『ヤクルトスワローズ球団史』ベースボールマガジン社、P442-P423
  4. ^ 横浜での恩師・大矢明彦氏が語る中日・谷繁の“修業時代”
  5. ^ 【復刻】日本ハム次期監督、土橋正幸氏 日刊スポーツ 2013年8月26日
  6. ^ 大矢監督が休養。後任の監督代行にSR田代監督が就任 横浜ベイスターズ公式HP 2009年5月18日発表
  7. ^ [1]

関連項目[編集]