高沢秀昭

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高沢 秀昭
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 北海道沙流郡門別町(現:日高町
生年月日 (1958-09-10) 1958年9月10日(59歳)
身長
体重
178 cm
78 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 遊撃手外野手
プロ入り 1979年 ドラフト2位
初出場 1980年11月5日
最終出場 1992年10月10日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
コーチ歴
  • 千葉ロッテマリーンズ (1993 - 2009)

高沢 秀昭(たかざわ ひであき、1958年9月10日 - )は、北海道沙流郡門別町(現:日高町)出身の元プロ野球選手内野手外野手)、野球指導者。

経歴[編集]

庫富小学校門別中学を経て苫小牧工高に進む[1]。高校では2年秋、3年春と夏の北海道大会でいずれもベスト4に進出したが、全国大会出場はならなかった[1]。高校卒業後は王子製紙苫小牧に進む。スカウトの三宅宅三に才能を評価され[2]1979年のドラフト2位でロッテオリオンズに入団した。

プロ3年目までは遊撃手だったが、故障のため外野手に転向した[3]1983年は7月21日に2番・中堅手としてスタメンで起用され、残りのシーズンは全試合に外野手として先発出場した[4]

1984年は開幕から59試合で無安打だったのが12試合だけと好調な打撃を続けた[4]。5月30日にはパ・リーグでは初となる1試合4二塁打も記録している。しかし、8月11日の円山球場での対西武ライオンズ戦でスティーブ・オンティベロスの打球を好捕した際に外野フェンス(コンクリート製)の角に激突し、右膝蓋骨を粉砕骨折して2ヶ月半にわたって入院した[5][6]。この試合が同年最後の出場となったが、シーズンでは打率.317の成績を残し、初のベストナインゴールデングラブ賞を受賞している。

1986年は9月29日の対阪急戦で佐藤義則から死球を受け、左手尺骨を骨折して全治1ヶ月となっている[7]1987年はオープン戦で三塁にスライディングした際に左手薬指の靭帯を痛めた[8]が、開幕までに復帰している[9]。シーズン初の1番打者で起用された5月17日の対日本ハム戦では、4安打2本塁打4打点の活躍を見せた[10]オールスターゲーム第1戦では小松辰雄からの3ランホームランなどで4打点を挙げ、MVPを受賞した[9]。同年後半は4番打者も務め、チーム最高の打率.292をマークしている。同年は3年ぶりにゴールデングラブ賞を受賞した。

1988年は4月は打率2割台前半と低迷したが、5月5日に猛打賞で3割を超えるとその後は好調を持続[11]オールスターゲーム第3戦で史上4人目の先頭打者本塁打を放ち、優秀選手賞を受賞した[12]。9月1日の対南海戦からは不振のビル・マドロックに代わって4番を任された[13]

また、シーズン終盤には松永浩美首位打者を激しく争い、近鉄との10.19の試合前の時点で6試合を残して打率.3277となった。一方の松永はロッテとの3試合を残して.3234で、この日のダブルヘッダーでは7打数0安打以下ならば松永に逆転されるという状況で、監督の有藤通世からは「残り4試合あるが、この日でうちは終わりのつもりだから自分で首位打者を取れ[14]」と言われてスタメンで出場した。第1試合では3打数0安打で打率を.3257まで下げ、4打席目には代打を送られている。第2試合では2打席目に安打を放って首位打者を事実上手中にした。さらに8回裏の4打席目に近鉄の優勝を打ち砕く同点ホームランを阿波野秀幸から放っている。これで打率を.3271とし、10回裏の5打席目では代打を送られている。

その後は高沢は打席に立たず、一方の松永は10月22、23日の対ロッテ3連戦に出場し、初戦の1・2打席目にヒットを放って打率を.3263まで上げた。このため、ロッテ投手陣はこの試合の第3打席以降、日本新の11打席連続四球と勝負を避けた[15]。この結果、初の首位打者のタイトルを獲得し、最多安打も記録した。11月の日米野球では1番打者としてスタメンで出場した第2戦で、9回にダグ・ジョーンズから同点タイムリーを放ちチームの引き分けにつながった[16]。オフには1,500万円増の年俸4,500万円+タイトル料300万円(推定)で契約を更改した[17]

1989年はキャンプ前に右ふくらはぎ、キャンプ中盤に右肩、開幕直前には右太ももを痛めるなど、故障が相次いだ[18]。さらに7月23日の対近鉄戦で帰塁した際に右足裏側を痛め[19]、8月3日からスタメンを外れ、9月中旬に復帰後は指名打者として出場した。この怪我は捻挫と診断されていたが、オフに手術したところ剥離骨折だったことが判明した[20]。入院中の11月13日に、高橋慶彦白武佳久杉本征使との大型トレードで水上善雄とともに広島東洋カープへ移籍する事が広島側によって発表された[21]。高沢と水上へ連絡する前だったためロッテ側が態度を硬化させたが、その後の調整によりトレードが成立している[21]

監督の山本浩二からはクリーンアップとして期待され[22]1990年は開幕から3番・中堅手として起用されたが、故障の影響などから成績は低迷し長嶋清幸と併用されるようになった。オフには250万円減の年俸4,250万円(推定)で契約を更改している[23]1991年は高卒2年目の前田智徳が急成長して外野手のレギュラーに定着した事もあり、守備固めや代打となっていた[24]。このため、デーブ・ヘンゲルが不振で外野手を必要としていたロッテへ半ば戦力外の金銭トレードという形で復帰した[24]。社長代行に就任した重光昭夫や、監督の金田正一から獲得の希望があったという[24]

ロッテでも故障から本来のプレーを取り戻すことができず、本拠地を千葉マリンスタジアムに移転した1992年、10月16日に翌年のコーチ就任を打診され、これを受諾して現役引退した[25]

現役引退後[編集]

1993年は二軍打撃コーチ、1994年からは一軍の外野守備兼打撃コーチを務めた[26]1997年には一軍の打撃不振のため、広野功と入れ替わる形で6月に二軍打撃コーチに転任している[27]。その後再び一軍の打撃コーチを務めたが、2001年5月にやはり一軍の打撃不振のため、秦真司と入れ替わる形で山下徳人とともに二軍打撃コーチとなった[28]。その後、二軍の打撃兼外野守備走塁コーチとなっている。2009年オフに退任した。

また、1995年には苫小牧市からスポーツマスターに任命され、子供たちに指導などを行なっている[29][30]2004年11月28日には日本プロ野球70周年記念のOBオールスター戦で、10.19を記念したアトラクションで阿波野秀幸と対戦してセンター前ヒットを放っている[31]

2010年からは千葉ロッテマリーンズの少年野球教室『マリーンズ・アカデミー』でテクニカルコーチを務めている。

プレースタイル[編集]

初球から積極的に打ちに行く思い切りの良さがあり、広野功からは手の出が早く体の軸がズレない点を評価されていた[4]。狙い球や投手のデータなどに関係なく、常にストレートにタイミングを合わせて投手二塁手の間に強い打球を放つことをイメージしていたという[32]。また、腰の回転で始動して腕が引き出される、という当時の通説が納得できず、手が先に動いて左足が着地して腰が回転する、という認識をしていた[32]。内角に食い込む球に対して体が開かないため、詰まってもゴロなどにならず内野の頭を越す事が多かったが、一方で1984年には開幕から30試合ほど1試合平均1本のペースでバットを折っていた[4]

1984年から1988年にかけては4年連続で2ケタ盗塁をマークしたように俊足でもある。

俊足・強肩で、右翼手の定位置への外野フライなら相手にタッチアップを許さないと言われた[11]。また、一、二塁間を抜けた打球にチャージをかけ、素早く正確な送球で三塁で走者を刺すプレーを得意とし、「突貫小僧」という愛称があった[3]。打球を見て動き出すのでは遅いと考え、バッターのスイングの特徴から打球方向を予測し、両足へかける体重のバランスを変えていたという[3]。打球判断の能力を磨くには、打撃練習で生きた打球を捕る練習が重要だと語っている[33]

人物・エピソード[編集]

現役時代、知名度は高くないがトリプルスリーも狙える実力を持つ、パ・リーグを代表する野手という評価を受けていた[11]。打撃コーチだった高畠康真からは、「1,000万円プレーヤーになれる才能がある」と事あるごとに暗示をかけられたという[34]

衛星放送メジャーリーグの試合を見るのが趣味だった[11]。またプロ入り後に遠征での空き時間などの趣味としてハーモニカを始め[35]、全日本ハーモニカ連盟から日本ハーモニカ賞を受賞している[36]

ロッテ応援団による応援歌は、落合博満から引き継がれた「かっとばせ高沢 右へ左へ ホームラン」(ロッテの夢は 観客動員 100万人)だったが、1989年に初芝清が入団、翌年に自身が広島に移籍すると(落合と同じ東芝府中出身とあって)この応援歌は初芝に引き継がれ、1991年にロッテに復帰した際には別の応援歌[37]となった。
また復帰した際の背番号は当時空き番だった「7」[38]だったが、本人は「自分は1桁背番号は似合わない」と、2年目の南渕時高と交換してもらい、トレード前の「31」に戻した。

詳細情報[編集]

年度別打撃成績[編集]

















































O
P
S
1980 ロッテ 1 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 ---- ---- ---- ----
1981 10 3 3 1 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 1 0 .000 .000 .000 .000
1982 38 89 77 15 18 1 1 1 24 9 4 1 6 0 2 0 4 14 0 .234 .289 .312 .601
1983 62 260 234 37 71 11 3 6 106 27 7 3 10 0 15 0 1 32 2 .303 .348 .453 .801
1984 97 432 385 70 122 26 5 11 191 47 11 7 27 2 9 1 9 29 6 .317 .347 .496 .843
1985 120 466 418 75 114 18 2 12 172 56 12 3 11 3 26 0 8 48 5 .273 .325 .411 .737
1986 106 415 355 48 97 16 2 15 162 48 14 3 30 3 20 1 7 54 6 .273 .322 .456 .778
1987 128 514 455 64 133 20 2 11 190 50 27 11 13 3 33 4 10 54 10 .292 .351 .418 .769
1988 125 533 483 67 158 28 1 14 230 64 13 3 7 2 33 2 8 41 7 .327 .378 .476 .855
1989 105 429 368 61 102 22 1 12 162 56 7 1 4 3 43 6 11 38 6 .277 .367 .440 .807
1990 広島 91 281 240 28 61 13 2 6 96 24 5 0 8 1 23 3 9 35 5 .254 .341 .400 .741
1991 20 36 32 5 8 1 1 0 11 2 0 0 0 0 4 1 0 8 0 .250 .333 .344 .677
ロッテ 35 111 100 16 25 3 0 4 40 9 1 0 2 0 6 0 3 18 1 .250 .312 .400 .712
'91計 55 147 132 21 33 4 1 4 51 11 1 0 2 0 10 1 3 26 1 .250 .317 .386 .704
1992 67 145 128 16 23 3 0 3 35 7 6 0 4 0 11 1 2 19 4 .180 .255 .273 .529
通算:13年 1005 3714 3278 503 932 162 20 95 1419 399 107 32 122 17 225 19 72 391 52 .284 .342 .433 .775
  • 各年度の太字はリーグ最高

タイトル[編集]

表彰[編集]

記録[編集]

初記録
節目の記録
  • 1000試合出場:1992年9月19日、対近鉄バファローズ25回戦(千葉マリンスタジアム)、7番・左翼手で先発出場 ※史上307人目
その他の記録

背番号[編集]

  • 31 (1980年 - 1989年、1991年途中 - 1992年)
  • 10 (1990年 - 1991年途中)
  • 7 (1991年途中)
  • 74 (1993年)
  • 85 (1994年)
  • 75 (1995年 - 2009年)

脚注[編集]

  1. ^ a b 苫小牧市 高沢秀昭 プロフィール(pdf)
  2. ^ 毎日新聞、1996年4月8日付夕刊、P.3
  3. ^ a b c 読売新聞、2004年3月12日付朝刊、P.23
  4. ^ a b c d 朝日新聞、1984年6月16日付朝刊、P.19
  5. ^ 朝日新聞、1985年1月18日付朝刊、P.17
  6. ^ 沢柳政義『野球場大事典』大空社、1990年、p.293。この事故がきっかけとなり、翌年円山球場にはラバーフェンスが設置された。
  7. ^ 読売新聞、1986年10月1日付朝刊、P.16
  8. ^ 読売新聞、1987年3月26日付朝刊、P.17
  9. ^ a b 朝日新聞、1987年7月26日付朝刊、P.27
  10. ^ 朝日新聞、1987年5月18日付朝刊、P.19
  11. ^ a b c d 「今年も魅せます!フォー・プロフェッショナルズ ミーハーの大声援より川崎球場の“少数派”を大事にする、球界の好感度ナンバーワン男! 」『週刊ベースボール』、1988年6月6日号、P.26
  12. ^ 読売新聞、1988年7月27日付朝刊、P.19
  13. ^ 「FACE’88 『地味な4番打者』が狙う『派手なタイトル』 」『週刊ベースボール』、1988年10月10日号、P.129
  14. ^ VHSビデオ「最終戦 10.19 川崎球場~優勝を賭けた近鉄の死闘7時間33分」文藝春秋、有藤のインタビュー
  15. ^ 読売新聞、1988年10月24日付朝刊、P>19
  16. ^ 朝日新聞、1988年11月7日付朝刊、P.25
  17. ^ 読売新聞、1988年12月6日付朝刊、P.19
  18. ^ 「ザ・焦点 スロースターターの気になる'89ダッシュ エッ?首位打者高沢秀昭が長距離砲に変身中!?」『週刊ベースボール』、1989年5月22日号、P.61
  19. ^ 読売新聞、1989年7月24日付朝刊、P.10
  20. ^ 「ほっとHotインタビュー 『ベッドの上のボクを高く評価してくれた広島に恩返しをしたい』」『週刊ベースボール』、1990年1月1日号、P.108
  21. ^ a b 読売新聞、1989年11月16日付朝刊、P.19
  22. ^ 『週刊ベースボール』、1990年1月1日号、P.106
  23. ^ 毎日新聞、1991年1月21日付夕刊、P.9
  24. ^ a b c スポニチ 日めくりプロ野球 【5月28日】1991年 異例 1年で出戻り 高沢秀昭 シーズン中に古巣復帰
  25. ^ 毎日新聞、1992年10月25日付朝刊、P.21
  26. ^ 毎日新聞、1993年11月27日付朝刊、P.20
  27. ^ 朝日新聞、1997年6月24日付朝刊、P.23
  28. ^ 毎日新聞、2001年5月22日付朝刊、P.19
  29. ^ 苫小牧市スポーツマスター制度について
  30. ^ 朝日新聞、2000年10月7日付朝刊、北海道地方面、P.26
  31. ^ 毎日新聞、2004年11月30日付夕刊、P.3
  32. ^ a b 「プロフェッショナルのかくし味 26回 高沢秀昭」『週刊ベースボール』、1988年11月14日号、P.106
  33. ^ 「安定性を高めるための外野守備教本(特集・外野守備の真髄 そのワンプレーを見逃すな!)」『週刊ベースボール』、2006年8月28日号、P.27
  34. ^ 朝日新聞、1988年3月24日付夕刊、P.3
  35. ^ 朝日新聞、1989年1月10日付夕刊、P.3
  36. ^ 読売新聞、2007年6月12日付朝刊、山梨地方面、P.32
  37. ^ この応援歌は引退後、1995年に巨人から移籍した西岡良洋や翌年入団した早川健一郎に引き継がれた。
  38. ^ 奇しくもこの番号は、自身とともに広島に移籍した水上善雄が付けており、移籍とともに空き番になっていたものである。

関連項目[編集]