羽田耕一

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羽田 耕一
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 兵庫県尼崎市
生年月日 (1953-06-19) 1953年6月19日(64歳)
身長
体重
181 cm
78 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 内野手
プロ入り 1971年 ドラフト4位
初出場 1973年5月17日
最終出場 1989年10月29日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
コーチ歴

羽田 耕一(はだ こういち、1953年6月19日 - )は、兵庫県尼崎市出身の元プロ野球選手内野手)、野球指導者。

経歴[編集]

三田学園高校では2年生の時、遊撃手として1970年春の選抜に出場。1年先輩の淡口憲治クリーンナップを組み準々決勝に進出するが、鳴門に敗れる。同年夏の甲子園県予選では準決勝で滝川に、翌年夏の県予選では準々決勝で津名に敗退。高校では他に、同期に中西弘明、2年先輩の山本功児がいた。

1971年ドラフト4位で、近鉄バファローズに入団。同期入団組に佐々木恭介梨田昌孝平野光泰らがいる。また同世代のチームメイトとして梨田の他、吹石徳一藤瀬史朗がいる。

入団2年目の1973年から三塁手レギュラーポジションを獲得。この年は12本塁打を放つなど、パンチ力のある打撃で売り出す。1974年就任した監督西本幸雄の下、1975年からは移籍した主砲土井正博の後を受けて、背番号3をつけた。1977年には22本塁打、75打点で、チーム二冠の成績。1979年も13本塁打[1]1980年には自己最多の30本塁打・80打点を上げそれぞれチームのリーグ優勝に貢献した。1982年には22本塁打(栗橋茂と同数)、自己最多の85打点と再びチーム二冠の成績を上げ、永く中心選手として活躍した。

しかし、1986年から金村義明の台頭により控えに回るようになり、1988年の「10.19」では、ダブルヘッダー第2試合の10回表、一死一塁の場面で登場。この回に勝ち越さないと近鉄は優勝を逃すというシーンに、併殺打に倒れて近鉄最後の打者となった。1989年のリーグ優勝を機に現役引退。

引退後は、一軍・二軍打撃コーチ、フロントでの編成担当などを務めたが、球団合併に伴い、2005年からはオリックス・バファローズ大阪営業部に在籍し、少年野球教室「オリックス・ベースボール・アカデミー」校長も務める。2006年から2014年までNPB12球団ジュニアトーナメントでオリックス・ジュニアの監督を務めており、2007年の大会では優勝に導いた。

2008年からオリックス球団が京セラドーム大阪などでの試合終了後に実施した『サラリーマンノック』のノッカーの一人として、集まったサラリーマン等に対し、熱烈なるノックで応えた[2]

2014年12月22日に母校三田学園高校野球部監督に就任する見通しであることが報道された[3]。同年12月31日をもって任期満了に伴いオリックス球団事業本部リテール営業部コミュニティグループを退任[4]2015年2月2日に三田学園野球部の監督就任会見を行った)[5]2013年からの資格回復研修制度を経て、元プロ野球選手が母校の監督に就任する初のケースとなった[6]

羽田殴打事件[編集]

1975年5月30日の対阪急ブレーブス戦(西宮球場)で、監督の西本幸雄によるいわゆる「羽田殴打事件(球団広報誌「近鉄バファローズニュース」1995年9月号では「ポカリ事件」と記載)」が、発生している[7]。この試合の5回表、西本は選手に円陣を組ませ、阪急の先発投手・山口高志の攻略法として、「ワンストライクを待て。高めのボールは絶対に手を出すな」と指示した[7]。ところがその回の先頭打者だった羽田は円陣に加わらずに打席に立っていたため、指示を知らずに2球続けて高めに手を出してファウルの後、ショートゴロに倒れた[7]。これに怒った西本は、ベンチに戻ってきた羽田を殴打した[7]。オフ日のためネット裏から目撃した鈴木啓示は「びっくりした」と述べている[7]。試合はこの後、近鉄打線が山口を打ち崩して勝利した[7]。羽田は三田学園野球部の監督就任会見の際、理想とする指導者として西本の名前を挙げて「本当に厳しい方で、今ではやってはダメだけど、手を出す方。でもグラウンドから一歩出ると優しくて、面倒見のいい監督だった。当時の選手は誰一人、悪口を言わなかった。そういう選手から慕われる監督でありたい」と思いを口にした[5]

詳細情報[編集]

年度別打撃成績[編集]

















































O
P
S
1973 近鉄 104 391 371 29 89 17 1 12 144 34 3 2 1 2 13 0 4 59 8 .240 .273 .388 .661
1974 130 541 501 54 124 12 0 14 178 55 9 3 3 6 29 1 2 68 22 .248 .291 .355 .647
1975 126 483 448 47 99 9 0 15 153 46 12 4 3 2 25 0 5 66 16 .221 .270 .342 .611
1976 125 393 359 35 87 9 2 6 118 39 7 3 7 2 23 0 2 48 11 .242 .292 .329 .620
1977 130 535 498 62 132 16 1 22 216 75 9 4 3 5 28 1 1 75 14 .265 .306 .434 .739
1978 130 463 419 41 100 8 4 9 143 47 8 6 3 8 32 0 1 70 10 .239 .294 .341 .636
1979 119 405 351 56 96 13 3 13 154 49 11 2 4 5 42 1 3 46 7 .274 .356 .439 .795
1980 115 446 401 71 109 13 1 30 214 80 6 2 3 4 38 2 0 52 7 .272 .335 .534 .869
1981 107 342 304 39 71 6 1 17 130 39 3 2 1 3 34 0 0 47 9 .234 .311 .428 .738
1982 123 500 430 69 119 18 2 22 207 85 9 5 1 5 62 1 2 62 11 .277 .370 .481 .852
1983 123 476 414 61 110 22 2 14 178 66 6 0 3 7 51 1 1 78 16 .266 .348 .430 .778
1984 115 444 393 55 107 13 1 16 170 50 8 4 4 2 42 0 3 42 7 .272 .347 .433 .780
1985 114 450 399 64 106 14 0 18 174 62 2 1 4 5 41 0 1 56 15 .266 .332 .436 .768
1986 90 213 192 30 42 9 0 8 75 34 3 0 1 2 15 0 3 31 4 .219 .283 .391 .674
1987 74 156 147 11 31 6 2 4 53 17 0 1 1 1 6 0 1 24 2 .211 .245 .361 .606
1988 72 165 156 17 42 9 0 4 63 17 1 0 0 1 8 1 0 21 6 .269 .303 .404 .707
1989 77 181 156 20 40 9 2 1 56 17 1 1 0 2 23 0 0 31 3 .256 .348 .359 .707
通算:17年 1874 6584 5939 761 1504 203 22 225 2426 812 98 40 42 62 512 8 29 876 168 .253 .313 .408 .721
  • 各年度の太字はリーグ最高

表彰[編集]

記録[編集]

初記録
節目の記録
  • 100本塁打:1980年6月12日、対西武ライオンズ前期11回戦(西武ライオンズ球場)、5回表に山下律夫から左越2ラン ※史上111人目
  • 1000試合出場:1981年5月2日、対西武ライオンズ前期4回戦(日生球場)、7番・三塁手として先発出場 ※史上221人目
  • 150本塁打:1982年8月15日、対日本ハムファイターズ後期8回戦(平和台球場)、4回裏に川原昭二から左中間へ2ラン ※史上68人目
  • 1000本安打:1982年9月4日、対南海ホークス後期11回戦(大阪球場)、5回表に山内和宏から中前安打 ※史上126人目
  • 200本塁打:1985年8月23日、対阪急ブレーブス17回戦(ナゴヤ球場)、3回裏に山沖之彦から2ラン ※史上47人目
  • 1500試合出場:1985年9月17日、対南海ホークス24回戦(大阪球場)、3番・三塁手として先発出場 ※史上80人目
  • 1500本安打:1989年8月5日、対西武ライオンズ15回戦(西武ライオンズ球場)、8回表に山根和夫から中前安打 ※史上57人目
その他の記録
  • 4打数連続本塁打:1974年4月29日(対阪急戦)~5月1日(対太平洋戦)の2試合で達成 ※日本タイ記録
  • オールスターゲーム選出:3回 (1974年、1982年、1983年。後の2回はファン投票選出)

背番号[編集]

  • 30 (1972年 - 1974年)
  • 3 (1975年 - 1989年)
  • 84 (1990年 - 1999年)
  • 71 (2000年、2004年)
  • この他、2005年~2014年まで球団職員としてのイベント参加時にオリックスのユニフォームを着用した際の背番号は136 だが、正式登録ではない。

脚注[編集]

  1. ^ チームが初めてリーグ優勝を果たした1979年広島東洋カープとの日本シリーズでは、最終戦の場面「江夏の21球」に先頭打者として江夏豊の1球目を安打にして出塁、ドラマのきっかけを作った。ストライクを取りにいった甘いボール、江夏は「あの場面、あの状況で、初球を打つか?」と回顧している。
  2. ^ [1]オリックス球団ページ、2014年11月15日閲覧
  3. ^ 三田学園高野球部監督 OBで元近鉄の羽田耕一氏就任へ 神戸新聞、2014年12月22日閲覧
  4. ^ 森脇監督付に元阪神杉山直久氏 オリ人事 日刊スポーツ、2014年12月26日閲覧
  5. ^ a b 元近鉄・羽田耕一氏が三田学園監督就任
  6. ^ 報知高校野球2015年5月号136P
  7. ^ a b c d e f 鎮勝也『伝説の剛速球投手 君は山口高志を見たか』講談社、2014年、pp.143 - 146

関連項目[編集]