遠井吾郎

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遠井 吾郎
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 山口県熊毛郡平生町
生年月日 (1939-12-04) 1939年12月4日
没年月日 (2005-06-27) 2005年6月27日(65歳没)
身長
体重
180 cm
85 kg
選手情報
投球・打席 左投左打
ポジション 一塁手外野手
プロ入り 1958年
初出場 1958年9月17日
最終出場 1977年10月10日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
コーチ歴
  • 阪神タイガース (1975 - 1978)

遠井 吾郎(とおい ごろう、1939年12月4日 - 2005年6月27日)は、山口県熊毛郡平生町出身の元プロ野球選手内野手)・コーチ解説者

恰幅のいい体格や、温厚な人柄から「仏のゴローちゃん」として親しまれた。

経歴[編集]

柳井高校時代は主に一塁手を務めていたが、時折投手も務めていた[1]。3年次の1957年春の選抜へ出場し、2年生エースの友歳克彦(法大日本石油)を擁して準々決勝に進むが、早稲田実業に敗れる。この時、遠井は投手として登板した王貞治に3三振を喫し、リリーフとして登板した時には王からタイムリーヒットを浴びる[1]。同年夏は西中国大会準決勝で広陵高に敗退し、甲子園には届かなかった。在学中に八幡製鐵への就職が内定していたが、河西俊雄から誘いを受けて1958年大阪タイガースへ入団[2]。当時の新聞記事では超高校級の打力と評価され[1]、「ポスト藤村」として期待された[3]

1年目に一軍戦で9試合の出場を果たし、2年目には天覧試合で代打として出場する[4]。怪我の多い藤本勝巳と併用される形で出場し[4]1964年からは4番打者を務めるなど長く中心打者としてチームを支えた。同年の日本シリーズでも4番打者を任されるが、期待通りの活躍はできなかった[3]1966年には長嶋茂雄首位打者争いを繰り広げるが、7月末に肉離れを起こしてタイトル争いから脱落し、シーズン終了時にはリーグ2位の打率.326を記録した[5]。レギュラーを外れた晩年は代打としても活躍し、代打通算打点96は桧山進次郎八木裕に次ぐ球団3位、プロ野球歴代でも6位の好記録である。1975年からは一軍打撃コーチ補佐を兼任し、1977年に球団史上3,000本目の記念ホームランを代打で放ち[6]、同年に引退。阪神一筋で実働は20年に及び、これは2012年に桧山が21年に更新するまで長らく球団最長記録であった。

引退後の翌1978年は阪神の一軍打撃コーチに就任し、新監督の後藤次男と師弟コンビを組んだが、球団初の最下位に転落。同年オフに退団。その後は曽根崎新地でスナック「ゴロー」を経営[7][8]。後に故郷・山口に帰郷し、柳井市魚町に移転。退団後の一時期、日本短波放送たんぱストレートナイター解説者を務めたほか、しばしば草野球にも参加していた[6]

2005年6月27日、肺癌のため東京都内の病院で死去[8]。享年65歳。

選手としての特徴[編集]

遠井はバットコントロールの技術を高く評価されていた[3][9][10]。バットの動きは柔らかく、ファウルライン際に沿って飛ぶ打球の美しさが印象に残る選手だった[3]。左投げの投手との相性は悪く[4][8]、特にサイドスローの投手を不得意にしていた[9]

反面、守備と走力の評価は低い[11][8]。一塁側に平凡なフライが上がっただけで観客席からざわめきが起こり、遠井が捕球に成功した時には拍手が起こるほどだった[7]。60年代前半の阪神内野陣はセカンド鎌田実、ショート吉田義男、サード三宅秀史という鉄壁の布陣であったが、ファースト遠井の守備範囲は広くなかった。ベースカバーが遅い遠井をカバーするため、吉田は捕球後に一塁に直接送球せずにいったん二塁の鎌田に送球し、鎌田が一塁に入った遠井に送球して打者をアウトにしたエピソードが残る[12]。遠井はベースカバーのスピードを上げるために一塁近くで守りに就くようになり、遠井の守備範囲はより狭くなったが、ファーストの守備範囲の打球はセカンドの鎌田がフォローしていた[13]

「カメの足」と酷評されたように鈍足で知られた選手であったが[5]、1970年のオールスター第3戦ではランニングホームランで全セの勝利に貢献してMVPを受賞している。両ひじを締めて体を揺すりながらの走塁をし、遠井が無理な進塁を試みてアウトになっても観客からは温かく迎えられた[3]

1968年4月29日の対大洋ホエールズ戦(阪神甲子園球場)で、カウント2ストライク2ボールからのボール球で一塁に歩き出したところ、審判からフォアボールを宣告されたが、試合は続行された[14]。誰も気が付かなかったためにフォアボールが認められ、日本プロ野球史上2人目の「2ストライク3ボール」で四球を宣告された選手となった[14]

人物[編集]

プロ野球選手らしからぬ飄々とした風貌が印象的な人物であり、その穏やかな人柄もあって「仏のゴローちゃん」という愛称がつけられた[15]。しかし、本人は「ホトケではプロ野球選手は務まらない」と、その愛称を快くは思っていなかった[14]

当時随一の酒豪選手としても知られ、朝まで飲み続けた後、飲み屋から直接球場に通ったこともあった[13]。後年入団した田淵幸一江夏豊と合わせて、「阪神相撲部屋」「相撲部屋トリオ」とも呼ばれた[8][14]。その江夏に言わせると、前日の飲み過ぎのためか翌日になっても顔が赤いまま試合に出場していた日があった。そこで、目を覚ましてもらいたい気持ちを込めて、一塁への牽制にカーブを投げた事があった。慌てて捕球した遠井だったが、後輩のトンデモ牽制に怒る事無く、「ゆたか~、こんなボール投げないでくれよぉ~」と返答したという[16]。もう一人の田淵と遠井は親交があり、互いのバッティング技術を高く評価していた[17]

川藤幸三ら当時の若手選手から慕われており、川藤は「野球も人生もワシの師匠や」と述べた[10]

詳細情報[編集]

年度別打撃成績[編集]

















































O
P
S
1958 大阪
阪神
9 10 10 2 4 2 0 0 6 0 0 0 0 0 0 0 0 2 0 .400 .400 .600 1.000
1959 75 129 125 8 31 5 3 1 45 17 0 0 0 0 4 0 0 21 3 .248 .271 .360 .631
1960 91 226 202 19 55 10 6 4 89 23 0 1 0 0 23 1 1 39 5 .272 .350 .441 .790
1961 83 155 139 7 33 5 1 2 46 17 1 3 0 1 12 0 3 25 2 .237 .310 .331 .641
1962 73 119 110 5 29 5 1 1 39 20 1 0 0 0 9 3 0 13 8 .264 .319 .355 .674
1963 118 380 331 36 94 17 1 11 146 56 3 2 0 2 46 2 1 49 8 .284 .371 .441 .812
1964 117 404 372 45 105 17 0 12 158 41 0 1 4 0 27 2 1 65 10 .282 .333 .425 .757
1965 122 385 355 32 91 21 5 16 170 52 3 3 1 2 27 4 0 53 6 .256 .307 .479 .786
1966 123 486 432 50 141 27 2 11 205 55 3 4 3 3 48 9 0 40 6 .326 .391 .475 .866
1967 135 545 489 54 151 28 3 10 215 58 2 4 2 6 45 7 3 70 10 .309 .366 .440 .806
1968 133 549 507 47 133 26 2 13 202 68 1 2 2 4 34 2 2 86 11 .262 .309 .398 .707
1969 88 272 247 20 52 10 1 5 79 31 1 0 2 3 19 1 1 40 8 .211 .267 .320 .587
1970 123 467 416 31 118 18 2 10 170 55 4 2 7 3 38 3 3 62 6 .284 .346 .409 .754
1971 112 384 344 19 77 14 0 6 109 29 1 1 6 0 34 4 0 46 6 .224 .294 .317 .611
1972 102 287 263 25 69 15 2 8 112 34 1 2 3 1 20 2 0 43 9 .262 .313 .426 .739
1973 113 387 351 29 104 18 0 5 137 42 0 4 2 3 29 2 2 53 8 .296 .351 .390 .741
1974 119 397 365 35 95 12 0 14 149 53 1 2 2 0 30 2 0 68 9 .260 .316 .408 .725
1975 80 149 129 5 32 2 0 3 43 17 0 1 1 2 17 1 0 38 2 .248 .331 .333 .664
1976 42 50 43 4 9 0 0 3 18 12 0 0 0 2 5 1 0 10 1 .209 .280 .419 .699
1977 61 56 51 2 13 1 0 2 20 8 0 0 0 1 4 1 0 9 3 .255 .304 .392 .696
通算:20年 1919 5837 5281 475 1436 253 29 137 2158 688 22 32 35 33 471 48 17 832 121 .272 .332 .409 .740
  • 各年度の太字はリーグ最高
  • 大阪(大阪タイガース)は、1961年に阪神(阪神タイガース)に球団名を変更

表彰[編集]

記録[編集]

初記録
節目の記録
  • 1000試合出場:1968年6月19日、対サンケイアトムズ11回戦(明治神宮野球場)、4番・一塁手で先発出場 ※史上130人目
  • 1000本安打:1970年8月6日、対ヤクルトアトムズ16回戦(明治神宮野球場)、4回表に松岡弘から中越ソロ ※史上74人目
  • 100本塁打:1971年7月2日、対中日ドラゴンズ11回戦(阪神甲子園球場)、9回裏に水谷寿伸からソロ ※史上62人目
  • 1500試合出場:1972年9月27日、対中日ドラゴンズ24回戦(中日スタヂアム)、5番・一塁手で先発出場 ※史上92人目

背番号[編集]

  • 8 (1958年 - 1961年)
  • 24 (1962年 - 1977年)
  • 72 (1978年)

出演番組[編集]

脚注[編集]

  1. ^ a b c 『プロ野球〈猛虎復活〉読本』、p.160
  2. ^ 『プロ野球〈猛虎復活〉読本』、pp.159-160
  3. ^ a b c d e 『猛虎大鑑』(ベースボール・マガジン社, 2002年5月)、p.37
  4. ^ a b c 『プロ野球〈猛虎復活〉読本』、p.161
  5. ^ a b 『プロ野球〈猛虎復活〉読本』、p.165
  6. ^ a b 『プロ野球〈猛虎復活〉読本』、p.169
  7. ^ a b 『プロ野球〈猛虎復活〉読本』、p.159
  8. ^ a b c d e 道頓堀野球倶楽部編『阪神タイガース猛虎列伝』(双葉社, 2008年9月)、pp.194-195
  9. ^ a b 『プロ野球〈猛虎復活〉読本』、p.164
  10. ^ a b 『阪神タイガース70年史』(ベースボール・マガジン社, 2010年10月)、p.52
  11. ^ 『プロ野球〈猛虎復活〉読本』、p.159,161
  12. ^ 『プロ野球〈猛虎復活〉読本』、pp.161-162
  13. ^ a b 『プロ野球〈猛虎復活〉読本』、p.162
  14. ^ a b c d 『プロ野球〈猛虎復活〉読本』、p.166
  15. ^ 『プロ野球〈猛虎復活〉読本』、pp.158-159
  16. ^ 『なぜ阪神は勝てないのか? 〜タイガース再建への提言』(江夏と岡田彰布との共著)角川ONEテーマ21 (角川書店、2009年)pp.138-139
  17. ^ 『プロ野球〈猛虎復活〉読本』、p.167

参考文献[編集]

  • 『プロ野球〈猛虎復活〉読本』(別冊宝島437, 宝島社, 1999年5月)

関連項目[編集]