川藤幸三

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川藤 幸三
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 福井県三方郡美浜町
生年月日 (1949-07-05) 1949年7月5日(67歳)
身長
体重
174 cm
74 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 外野手
プロ入り 1967年 ドラフト9位
初出場 1968年10月9日
最終出場 1986年10月14日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
コーチ歴
  • 阪神タイガース (1990 - 1991)

川藤 幸三(かわとう こうぞう、1949年7月5日 - )は、福井県三方郡美浜町出身の元プロ野球選手外野手)、野球解説者タレント。本名:開田 幸三(かいだ こうぞう、旧姓:川藤→武田)。通称「浪速の春団治」、「野次将軍」。あるいは「川さん」、「」とも。

所属事務所は有限会社ダッシュ・フォー(2010年7月 川藤プロジェクトより社名変更)で、田辺エージェンシーのグループ会社で東京都渋谷区に本社を置く株式会社ぐあんばーると業務提携している。

元プロ野球投手の川藤龍之輔は実兄。

来歴[編集]

プロ入りまで[編集]

野球を始めたきっかけは同郷の山口良治京都市立伏見工業高等学校ラグビー部の元総監督であり、映画・TVドラマ『スクール☆ウォーズ』のモデルとなった教師)である、とテレビ番組で語っている。日体大生にしてラグビー日本代表の選手だった山口が帰省の折り、中学の野球部に人手が足りないことを知り、母校の練習環境を鑑みて(山口は同中の野球部出身だった)、当時小学6年生だった川藤を無理やり引き入れたという。

若狭高校では、エースとして1966年秋季北信越大会決勝に進出。吉岡悟のいた富山商に敗退するが準優勝を果たす。翌1967年は春夏の甲子園に連続出場。春の選抜では遊撃手を兼ねて出場。1回戦で報徳学園に大敗を喫する[1]。その試合でピッチャーライナーを受けて三角筋断裂の重傷を負ったことから、以後は1年下の乗替寿好に投手を任せ、左翼手・四番打者として出場した夏の選手権は、1回戦で武相高島野修に完封負けを喫する[2]

現役時代[編集]

同年のドラフト9位で阪神タイガースに入団(同期にニチダイ硬式野球部監督の桑野議がいる)。プロ入り当初は内野手登録だったが、すぐに外野手へ転向。俊足・強肩で鳴らし、1969年にはウエスタン・リーグ最多盗塁(30個)を記録[3]、同年5月22日のウエスタン・対広島戦1回では1イニング3盗塁という快挙を達成した。

1974年までは一軍で代走守備固めを務め、度々スタメンで出場もしていたが、アキレス腱を断裂する大怪我を負ってしまったため[4]、足に負担が掛からない代打に自分の役割を絞り、後に代打の切り札として一軍に定着する。

1976年、母親の実家に養子に入ったことから戸籍上の苗字を「武田」に改める[5]

1983年当時の一軍最低保障年俸で阪神と再契約したが、この話に感動した阪神ファンの上岡龍太郎2代目桂春蝶中村鋭一らが「川藤の給料はワシらで出そう!」とカンパで集めた金銭(1安打につき賛同者から1万円徴収しプールしたという)をシーズンオフに「これを給料の足しにしてほしい」と持参したところ、川藤は「上岡さんたちの気持ちはありがたいけど、そんなことはできない。このお金は自分のためではなく、ファンのために使わせていただきます」と言って阪神甲子園球場の年間予約席を購入した。川藤はこの席に毎試合身体障害者を招待し、席はファンから「川藤ボックス」と呼ばれるようになった。1983年の成績は、34試合出場、打率.241、本塁打1、打点5。

1984年には62試合出場、打率.241、本塁打2、打点20という、前年を上回る成績を残し、年俸も元の金額に戻っている。

1985年セ・リーグ優勝・日本シリーズ制覇時には、首脳陣と選手とのパイプ役として欠かせない存在だった。特にランディ・バースに対しては、将棋を教えながらほとんど日本語だらけの英語でコミュニケーションを取り、決してチームから孤立させなかった。川藤自身も入団18年目で初めて優勝を経験する。1973年に阪神がマジック1から優勝を逸した時の現役で、1985年の優勝時にも現役として吉田義男監督を胴上げした唯一の選手だった。なお、山本和行も前年の1972年に阪神に入団していたが、アキレス腱を断裂していたため1985年の胴上げには加われず、日本シリーズで日本一決定時に特別の計らいで胴上げされた。この年、甲子園球場を訪れた藤村富美男から「テレビで見たが、お前ベンチで偉そうにしているな。それでいい。タイガースの歴史を作ってきたのは大学出のスターじゃない。お前ら補欠の人間だ。だからそのまま偉そうにしておけ」と激励を受けた[6]。以来、その言葉を忠実に守っているという。

1986年、現役19年目にしてオールスターゲームに、全セの吉田義男監督(阪神監督)の推薦で初出場[7]。同年の引退への花道となった。大阪球場での第2戦では小野和義近鉄)から左中間真っ二つの見事な長打性の安打を放った[7]。一塁ベースコーチ王貞治巨人監督)の指示で二塁を狙ったが、王の予想していた以上に鈍足だったため、秋山幸二西武)-石毛宏典西武)-大石大二郎近鉄)の見事な中継に阻まれ二塁で悠々アウト、選手・ファンらの爆笑を誘った。また、アウトをコールした二塁塁審松橋慶季でさえも爆笑していた。球宴初安打の記念ボールは、直後に二塁手大石から川藤に贈られ、川藤は笑顔で受け取っている。川藤曰く「バットにボールが当たって、やれ仕事が終わったと思ったら、一塁で王さんがグルグル腕を回してる。これはあかんと思った」。この試合のテレビ中継で、ベンチレポートを務めていた元チームメイトの小林繁は、インタビューブースに現れた川藤に対し「先ほど見事な“二塁打”を放った川藤選手です!」と呼び掛け、現場スタッフや視聴者を爆笑させた。川藤は「じゃかましいわい!!」と突っ込みながらも、ひたすらに照れ笑いするしかなかった。引退試合は10月14日(対大洋戦)に甲子園球場で行われた。1984年から代打専門だったためか、最終打席もやはり代打での出場だった。バースが川藤の引退試合に際し、一塁守備を譲ると言った逸話がある(当時の実況でそのことをアナウンサーが口にしている)。その男臭い風貌と、常に全力を信条としたプレースタイルで、特に男性ファンが多かったとされる。

通算記録に特筆すべきものはないが、一度もレギュラーに定着することなく主力に迫る人気を誇ったという点では、他球団も含め例が少ない。

通算代打成績は318打数、84安打、11本塁打、58打点、打率.264。1984年から引退するまでの3年間は代打一筋の野球人生を過ごしてきたため、この3年間の守備記録はない。しかし、試合前の守備練習では自費で購入したミットを手に一塁を守り、時には内野手からの送球を後ろに逸らすなどしてチームのムード作りに努めていた。また、プロ入り当初は内野手だった経験から、一軍でも何度か遊撃手、二塁手として起用されたことがある。

引退後[編集]

引退後、読売テレビMBSラジオ野球解説者、サンケイスポーツ野球評論家を務めた後、1990年に外野守備コーチとして阪神に復帰。翌1991年には総合コーチに昇格。代打専門のイメージが強いため、外野守備コーチの役割に対しては疑問の声が一部で上がり、同年の総合コーチについてもチーフコーチとして河野旭輝がいたために違和感を持たれたが、むしろ肩書にとらわれることなく現役時代同様のムードメーカーとして中村勝広監督の下で後進の育成とベンチの盛り上げに励んだ。メガホンを片手にベンチから率先して声を出し、選手にもそれを強要していた。ノックアウトされて落ち込んでいる投手にさえも声を出すよう促していたという。彼が「野次将軍」と呼ばれたゆえんである。しかし、選手の指導方針について中村と対立し、このシーズン限りで辞任した。このとき「中村は血も涙もない冷酷非情な男や。俺は犠牲者やで」と言い放った。中村とは後に和解している。

阪神コーチ辞任後は読売テレビの野球解説者を務める。ゲスト解説として日本テレビ製作の巨人×阪神戦も担当。野球の活動としてはサントリーモルツ」のCMに出演した縁で、大沢啓二率いるモルツ球団に参加。毎年一度組まれる球団の試合に代打として登場している。その際、水島新司原作の野球漫画あぶさん』の景浦安武が得意とする「酒飛沫」よろしく、モルツを口に含んでバットに吹き付ける登場の仕方で場内を沸かせている。2001年からはプロ野球マスターズリーグ・大阪ロマンズにも参加している。2003年から2007年までデイリースポーツ野球評論家も兼任した。

2003年に「武田」姓から義父(妻の父)の姓である「開田」姓を名のり[8]、2005年には妻の実家である兵庫県丹波市の建設会社の社長に就任した[9](現在「川藤」姓は評論活動やタレント活動上の通称、いわゆる芸名として用いられている)。

2009年より、大衆居酒屋酔虎伝マルシェグループ)の応援団長や京都府京都市内を中心に展開する『らーめん川藤屋』のイメージキャラクターとなっている。

2010年11月27日、田淵幸一の後任として第7代阪神OB会長に就任した。

2011年9月17日、TUBEが当時恒例としていた甲子園球場でのライブにゲスト参加、「六甲おろし」を熱唱した。

2013年5月1日から31日まで、スポーツニッポン紙上で「我が道・川藤幸三」を連載。

人物[編集]

解説者として[編集]

読売テレビ解説者としては掛布雅之と共演することが多かったが、掛布とは対照的にシンプルな解説・感覚による解説・精神論に基づいた解説を展開する。これは阪神の四番として洗練された打撃理論を持つ掛布が展開する野球解説とは正反対のスタンスであり、両者の解説の内容の違いが目立つ事が多かった。

チャンスの少ない若手選手に対しては、ポジティブな発言を行うことが多い。藪恵壹は、解説者である川藤のことを『阪神タイガースのセラピー・コーチ』と呼んでいた。

1987年、篠塚利夫正田耕三落合博満の首位打者争いの最中、規定打席不足ながらその3人を上回る打率をマークしていた中畑清が打席に立つと、テレビ解説をしていた川藤は、首位打者争いについてアナウンサーに訊かれた際に「わしゃ、規定打席に達したことがないからわからん」と、ある意味、川藤らしい返答をしている。

代打の切り札として活躍したという自負からか、「打って走って守れてこそ野球選手」という広岡達朗の野球理論を公然と批判している。しかし江夏豊東尾修らとは違い、その人間性については批判していない。

テレビ解説で「バッティングで、ボールを捕らえるのが真芯すぎると、かえって打球は飛ばない」という説を披露したが、同席していた村山実から「そんなことあるわけないでしょ」と一蹴された。 現在では、バットの若干上面でボールを捉えるとボールに回転が加わりマグヌス効果によって飛距離が伸びることが立証されているが、川藤はこの時その理屈を説明できなかった。

2008年、クライマックスシリーズ阪神対中日第1戦のテレビ解説で、アナウンサーが「今日は川上がいい投球をしましたね」と褒めると、ムッとしたのか「今までのところはね、今までのところは」と答えた。そのとき川上は阪神を7回無失点に抑えて既に降板していた。

毎年のセ・リーグ順位予想では、「ワシは予想屋じゃないから」という理由でまじめに予想したことが殆ど無く、出す予想はほとんど川藤個人の願望によるものになっている。(ほぼ毎年1位阪神で、2位以下は西から巡に並び、巨人が最下位)

プライベート[編集]

大食漢で、後輩選手には「とにかく飯を食え」と指導していた。現役時代に札幌に遠征した際、試合後にススキノでさんざん飲み食いしたにもかかわらず、その直後大盛の札幌ラーメンを何杯も平らげ、同席していた江本孟紀を仰天させたというエピソードもある。現役晩年には当時新人の遠山昭治を朝まで飲みに付き合わせて、翌日の二軍での試合でマウンド上で嘔吐させてしまったこともある。また力士と大食い勝負をして勝ったこともある。

若手時代は、酒豪だった遠井吾郎の「愛弟子」として、日々酒を飲むのに付き合っていたという。また、カミュのXOを「カマスのペケマル」と呼んで好む(カミュはCamusと表記)。

現役時代から、丹波市内でスポーツ用品店「KAWATO TIGER SPORTS SHOP」を経営している。

45歳で双子の娘を授かった。その娘二人は2013年に大阪桐蔭高等学校の卒業式で総代を務めて答辞を述べている[10]

オリンピック聖火ランナー[編集]

1964年東京オリンピック、1998年長野オリンピックの聖火ランナーを務めた。(2013年9月9日読売テレビす・またん

詳細情報[編集]

年度別打撃成績[編集]

















































O
P
S
1968 阪神 3 11 11 1 1 0 0 1 4 1 0 0 0 0 0 0 0 2 0 .091 .091 .364 .455
1969 14 24 24 5 6 0 1 0 8 0 1 1 0 0 0 0 0 6 0 .250 .250 .333 .583
1970 7 0 0 1 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 ---- ---- ---- ----
1971 22 15 15 5 3 0 0 0 3 0 3 0 0 0 0 0 0 5 0 .200 .200 .200 .400
1973 77 164 151 14 32 3 2 0 39 7 9 2 5 1 6 0 1 20 5 .212 .245 .258 .504
1974 106 240 202 20 40 3 0 1 46 8 9 7 20 1 14 0 3 36 6 .198 .259 .228 .487
1975 8 7 7 0 1 0 0 0 1 0 0 0 0 0 0 0 0 2 0 .143 .143 .143 .286
1976 20 16 15 5 2 0 0 0 2 0 0 1 0 0 1 0 0 3 1 .133 .188 .133 .321
1977 82 89 80 14 17 1 0 2 24 7 4 0 1 0 6 0 2 7 0 .213 .284 .300 .584
1978 42 66 55 6 18 2 0 2 26 8 0 2 2 1 7 0 1 8 1 .327 .406 .473 .879
1979 61 24 23 3 7 2 0 0 9 6 1 0 0 0 1 0 0 5 0 .304 .333 .391 .725
1980 53 49 47 9 17 1 1 0 20 3 2 5 1 0 0 0 1 4 1 .362 .375 .426 .801
1981 52 65 59 3 18 5 0 1 26 13 0 1 1 2 2 0 1 9 0 .305 .328 .441 .769
1982 48 50 46 3 11 3 0 1 17 10 0 0 0 1 1 0 2 8 2 .239 .280 .370 .650
1983 34 32 29 2 7 1 0 1 11 5 0 0 0 0 3 0 0 7 2 .241 .313 .379 .692
1984 62 62 54 3 13 4 0 2 23 20 0 0 0 0 6 0 2 18 2 .241 .339 .426 .765
1985 31 31 28 2 5 1 0 0 6 6 0 0 0 0 3 0 0 7 1 .179 .258 .214 .472
1986 49 49 49 5 13 0 0 5 28 14 0 0 0 0 0 0 0 12 1 .265 .265 .571 .837
通算:18年 771 994 895 101 211 26 4 16 293 108 29 19 30 6 50 0 13 159 23 .236 .284 .327 .612
  • 各年度の太字はリーグ最高

記録[編集]

背番号[編集]

  • 45 (1968年 - 1969年)
  • 4 (1970年 - 1986年)
  • 77 (1990年 - 1991年)

脚注[編集]

  1. ^ 「選抜高等学校野球大会60年史」毎日新聞社編 1989年
  2. ^ 「全国高等学校野球選手権大会70年史」朝日新聞社編 1989年
  3. ^ ウエスタンで表彰されるようになったのは翌年から。
  4. ^ 完全断裂ではなかったため、むしろ治るまで時間がかかったという。
  5. ^ 2013年5月1日付『スポーツニッポン』の「我が道」より
  6. ^ 後藤正治『牙 江夏豊とその時代』講談社、2002年、P148 -149。
  7. ^ a b 【12月6日】1985年(昭60) “浪花の春団治”川藤幸三、粘って粘って現役続行!”. スポーツニッポン (2007年12月26日). 2013年8月31日閲覧。
  8. ^ 川藤幸三『代打人生論~ピンチで必要とされる生き方~』扶桑社新書、2011年、P66 -67。
  9. ^ 実は社長の川藤氏・ビジネス本出しまっせ デイリースポーツ、2011年8月27日閲覧
  10. ^ 阪神OB会長・川藤氏が愛娘卒業式で涙 デイリースポーツ 2013年1月26日閲覧

関連情報[編集]

ディスコグラフィー[編集]

著書[編集]

音楽[編集]

  • 浪花夢情話(長山洋子とデュエット。1997年11月06日発売、ビクターエンタテインメント
  • KAWATO VOICE(川藤のさまざまな発言を集めたサンプリングCD。2002年7月25日発売、カエルカフェ
  • 猛虎の衆(2003年7月24日発売、キングレコード
  • 望郷甲子園(2008年7月23日発売、ビクターエンタテインメント)
  • たんぼdeマンボ(「川藤幸三と子供達」名義。2010年5月26日発売、ミュージックグリッドより「MEG-CD」での販売)
  • RESTART JAPAN with TUBE(2011年6月8日発売、ソニーミュージック)東日本大震災復興応援プロジェクト「RESTART JAPAN」歌唱参加。
  • Sounds of 甲子園球場 我らの六甲おろし編(2012年3月21日発売、阪神コンテンツリンク) OBによる「六甲おろし」を収録。

出演[編集]

映画[編集]

出演番組[編集]

テレビCM[編集]

  • サンガリア - 現役時代。岡田彰布と共演。
  • サントリーモルツ」 - 桂ざこばとの共演。居酒屋でモルツを味わいつつ、野球の試合を見ていた客(ざこば)が、テレビに向かって「川藤出さんかい!」と野次を飛ばすと、「待つことが仕事だった男」というキャッチコピーと共に川藤がバッターボックスに登場する。しかしそれを見た客が、「ホンマに出してどないすんねん」と呆れる、という身も蓋もない内容で話題となる。
  • サントリーフーズBOSS贅沢微糖」 - “贅沢川藤”として出演。
  • 阪神電気鉄道「ノーマイカー甲子園」 - 阪神甲子園球場(同社経営)に駐車場がないことの告知および阪神電車での来場を促すCMであり、2010年からトーマス・オマリー(2004-2009年の阪神駐米スカウト在任時に起用されていた)の後任として起用、このほかに球場内へのビン・カンの持込禁止の告知をするバージョンもある。
  • ACジャパン「いっちょcomingダンス」 - 2012年度大阪地域キャンペーン。キャラクター「イッチョカミ カワトー」として声の出演[1]

脚注[編集]

  1. ^ いっちょcomingダンス(ACジャパン)

関連項目[編集]

外部リンク[編集]