島本講平

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島本 講平
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 和歌山県海南市
生年月日 (1952-11-01) 1952年11月1日(71歳)
身長
体重
175 cm
80 kg
選手情報
投球・打席 左投左打
ポジション 外野手
プロ入り 1970年 ドラフト1位
初出場 1971年4月11日
最終出場 1985年6月17日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

島本 講平(しまもと こうへい、1952年11月1日 - )は、和歌山県海草郡下津町(現:海南市[1]出身の元プロ野球選手外野手、左投左打)・野球解説者。娘はテレビ朝日アナウンサーの島本真衣

経歴[編集]

箕島高校時代は主戦投手・4番打者として活躍し、1970年第42回選抜高等学校野球大会で優勝[1]。チームを全国制覇に導き[2]、前年の選手権大会で準優勝した三沢高校(青森)のエース・太田幸司(後、近鉄バファローズに入団)に続いて甲子園のアイドルとなる。太田の愛称・コーちゃんと自身の「講平」の名に因んで、「コーちゃん2号」や「2代目コーちゃん」と呼ばれた。選抜大会で優勝投手となった島本は、同年夏の第52回全国高等学校野球選手権大会にも出場[1]。1回戦で北見柏陽高校から完封勝利(スコアは8-0)を挙げるも、2回戦で湯口敏彦を擁した岐阜短期大学付属高校に1-6で敗退している[1]

この年は、湯口(同年、読売ジャイアンツドラフト1位)や広陵高校佐伯和司(同、広島東洋カープ同1位)と共に「高校三羽烏」「高校生ビッグ3」と並び称された。1970年のドラフト会議では、一番くじを引いた南海ホークスが1位で指名[1]。「チームに人気が無いから、島本で人気アップを狙う。来てくれるかな?」と、監督の野村克也から直々に指名され、高校卒業後に入団した[3]

入団当時、野村は島本を二刀流で売り出すことを考え、オープン戦で投手としても起用したが、プロでは通用しないと断念[4]。外野手に転向した[5]

1971年オールスターゲームには、高卒ルーキーながらファン投票で選出された[1](一度も経験のない一塁手として選出)。プロ1年目の打撃成績は、8打数2安打(2本塁打)。南海では、在籍4年半でわずか16試合の出場に留まった。

1975年シーズン途中に佐々木宏一郎との交換トレードにより近鉄バファローズに移籍[1]。7月26日のロッテオリオンズ戦の9回裏に代打で移籍後初出場すると同点2ランを放つ。移籍初年度より西本幸雄監督に鍛えられ打撃開花[6]、控えながら40試合に出場しチームの後期優勝に貢献した。同年の打撃成績は、113打数32安打、打率.283。

1976年には開幕直後から四番打者として起用され、後半は失速気味となるが82試合に先発出場。

1977年には自己最高の12本塁打を放つ。

1979年は故障もあって低迷する。

1980年にはリーグ優勝も経験した。リーグ2連覇の1980年には規定打席には達していないものの、打率.351を記録している(128打席、114打数、40安打)。6月28日のロッテ戦では倉持明からサヨナラ本塁打を放っている。同年の広島東洋カープとの日本シリーズでも4試合に代打、守備固めとして出場した。

1981年以降も外野手、指名打者として起用され打線の中軸として活躍する。

1984年には出場機会が減った。

1985年のシーズン終了後、33歳で引退[1]。バファローズでは通算812試合に出場した。

その後は、1990年代後半までの間、和歌山放送の『WBSゴールデンナイター』(大阪スタヂアムでのホークス戦中継)やテレビ大阪の『藤井寺バファローズアワー』(藤井寺球場からのバファローズ戦中継)[注 1]で解説者を務めた[1]

近年は大阪府東大阪市にある野球塾「チェイスアワードリーム」の塾長として、子供達に野球を教えている。

なお、実弟の島本啓次郎(箕島高校→法政大学→読売ジャイアンツ→近鉄バファローズ)とは、バファローズでチームメイトだった時期がある(1981年途中から1983年オフまでの約2年半。但し、啓次郎は1軍戦未出場の為、パ・リーグ公式戦での同時出場は無し)。

詳細情報[編集]

年度別打撃成績[編集]

















































O
P
S
1971 南海 7 8 8 3 2 0 0 2 8 2 0 0 0 0 0 0 0 3 0 .250 .250 1.000 1.250
1974 9 6 5 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 1 2 0 .000 .167 .000 .167
1975 近鉄 40 124 113 14 32 10 0 4 54 16 3 0 1 2 6 0 2 15 6 .283 .325 .478 .803
1976 116 333 297 33 63 14 1 4 91 28 7 5 1 4 26 1 5 50 3 .212 .283 .306 .590
1977 126 383 352 38 83 16 0 12 135 37 8 7 3 3 19 3 6 59 3 .236 .284 .384 .668
1978 112 244 221 26 44 9 1 9 82 29 2 1 0 4 15 1 4 36 3 .199 .258 .371 .629
1979 21 19 18 0 3 1 0 0 4 1 0 0 0 0 0 0 1 3 0 .167 .211 .222 .433
1980 92 128 114 22 40 5 0 5 60 26 1 3 1 0 10 0 3 21 2 .351 .417 .526 .944
1981 101 283 256 36 69 10 0 11 112 34 5 3 0 2 19 1 6 38 5 .270 .332 .438 .770
1982 105 335 299 37 79 14 0 11 126 40 5 2 5 1 21 0 9 50 6 .264 .330 .421 .752
1983 75 182 161 18 36 4 0 2 46 17 1 1 2 4 11 0 4 32 3 .224 .283 .286 .569
1984 21 21 20 3 3 1 0 0 4 2 0 0 0 1 0 0 0 8 2 .150 .143 .200 .343
1985 3 6 6 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 1 0 .000 .000 .000 .000
通算:13年 828 2072 1870 230 454 84 2 60 722 232 32 22 13 21 127 6 41 318 33 .243 .302 .386 .688

記録[編集]

初記録
節目の記録

背番号[編集]

  • 8(1971年 - 1975年途中)
  • 54(1975年途中 - 同年終了)
  • 10(1976年 - 1985年)

CM[編集]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 現在は『ナマ虎スタジアム』(阪神タイガース戦中継)。
  2. ^ (※右手にを持った島本が「『長久』で乾杯!」というセリフを言う時、画面の下側に「近鉄バファローズ 島本講平」という白字のテロップ(2段組み)が出る)

出典[編集]

  1. ^ a b c d e f g h i プロ野球人名事典 2003(2003年、日外アソシエーツ)、273ページ
  2. ^ 『週刊ベースボール』ベースボール・マガジン社、2003年2月17日、153頁。 
  3. ^ 島本講平選手がドラフト1位に指名された南海ホークスの入団発表”. 時事ドットコム. 時事通信社. 2018年6月30日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年7月31日閲覧。
  4. ^ 朝日新聞1971年4月1日朝刊20頁
  5. ^ 【1月16日】1971年(昭46) 女子中高生アイドル島本コーちゃん、赤のトレパンで始動」『スポーツニッポン』、2008年10月20日。2023年7月31日閲覧。オリジナルの2016年5月13日時点におけるアーカイブ。
  6. ^ 近鉄バファローズ球団史1950-2004、ベースボール・マガジン社、2012年、P58

関連項目[編集]

外部リンク[編集]