阪田隆

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阪田 隆
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 和歌山県和歌山市
生年月日 (1950-07-09) 1950年7月9日(73歳)
身長
体重
177 cm
75 kg
選手情報
投球・打席 右投両打
ポジション 外野手
プロ入り 1970年 ドラフト5位
初出場 1972年6月13日
最終出場 1979年10月5日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
コーチ歴
  • 南海ホークス (1980 - 1985)

阪田 隆(さかた たかし、1950年7月9日 - )は、和歌山県和歌山市出身の元プロ野球選手外野手)・コーチ

経歴[編集]

市和歌山商では2年次の1967年、1年上のエース・野上俊夫を擁し、控え内野手として甲子園春夏連続出場。春の選抜は準々決勝で甲府商[1]夏の選手権は準決勝で広陵高に敗退[2]。同年の秋季近畿大会県予選は準決勝で箕島高のエース・東尾修に抑えられて敗退し、3年次の1968年夏も県予選で敗れて甲子園には届かなかった。高校卒業後は1969年三菱重工神戸へ入社し、外野手に転向。1970年都市対抗では中心打者として活躍し、橘谷健(川崎重工から補強)の好投もあって決勝に進むが、大昭和製紙との決勝は引き分け再試合の末に敗退し準優勝にとどまる[3]。同大会の優秀選手に選出された。

同年のドラフト5位で南海ホークスに入団[4]。2年目の1972年に一軍昇格を果たし、6月13日ロッテ戦(東京)にウィリー・スミスの守備固めで初出場。強肩俊足を活かした代走や終盤の守備固めとしての出場が多かったが、3年目の1973年4月30日にはロッテ戦(川崎)で8番・右翼手として先発出場を果たし、5月3日近鉄戦(大阪)では相羽欣厚の代打で初安打を放つ。1975年には.333、1976年には.316で2年連続打率3割台をマーク。1978年にはシーズン後半に外野手として自己最多の14試合に先発出場するが、1979年には出番が減り、同年限りで現役を引退。

引退後は南海で二軍トレーニングコーチ(1980年)→二軍外野守備コーチ(1981年)→二軍外野守備兼走塁コーチ(1982年)→一軍外野守備兼走塁コーチ(1983年)→一軍外野守備・走塁コーチ(1984年)→一軍守備・走塁コーチ(1985年)を歴任。

詳細情報[編集]

年度別打撃成績[編集]

















































O
P
S
1972 南海 27 10 10 6 0 0 0 0 0 1 1 0 0 0 0 0 0 1 0 .000 .000 .000 .000
1973 79 25 22 7 5 0 1 0 7 4 0 1 0 0 3 0 0 3 2 .227 .320 .318 .638
1974 76 11 9 15 0 0 0 0 0 0 6 1 1 0 1 0 0 0 0 .000 .100 .000 .100
1975 56 29 24 20 8 3 1 0 13 4 14 3 1 0 4 0 0 6 0 .333 .429 .542 .970
1976 71 20 19 11 6 2 0 0 8 4 8 2 0 1 0 0 0 4 1 .316 .300 .421 .721
1977 88 47 38 13 8 0 1 0 10 1 4 3 3 1 5 0 0 7 1 .211 .295 .263 .559
1978 46 71 64 7 13 1 0 0 14 6 0 0 2 1 2 0 1 9 1 .203 .235 .219 .454
1979 19 3 3 0 0 0 0 0 0 0 1 0 0 0 0 0 0 0 0 .000 .000 .000 .000
通算:8年 462 216 189 79 40 6 3 0 52 20 34 10 7 3 15 0 1 30 5 .212 .269 .275 .544

背番号[編集]

  • 31 (1971年 - 1979年)
  • 75 (1980年)
  • 84 (1981年 - 1985年)

脚注[編集]

  1. ^ 「選抜高等学校野球大会60年史」毎日新聞社編 1989年
  2. ^ 「全国高等学校野球選手権大会70年史」朝日新聞社編 1989年
  3. ^ 「都市対抗野球大会60年史」日本野球連盟 毎日新聞社 1990年
  4. ^ プロ野球人名事典 2003(2003年、日外アソシエーツ)、243ページ

関連項目[編集]

外部リンク[編集]