片平晋作

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索
片平 晋作 (片平 伸作)
埼玉アストライア 監督
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 大阪府大阪市港区
生年月日 (1949-08-05) 1949年8月5日(68歳)
身長
体重
184 cm
78 kg
選手情報
投球・打席 左投左打
ポジション 一塁手外野手指名打者
プロ入り 1971年 ドラフト4位
初出場 1972年10月15日
最終出場 1989年10月18日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督・コーチ歴

片平 晋作(かたひら しんさく、本名:片平 伸作(読み同じ)、1949年8月5日 - )は、大阪府大阪市港区出身のプロ野球選手外野手内野手)・コーチ監督解説者

経歴[編集]

上宮高等学校2年時から王貞治に憧れて一本足打法を始め、卒業後は東京農業大学に進学。東都大学リーグでは二部リーグに留まったが、大型の左打者として評価が高く、1971年のドラフト4位で南海ホークスに入団。184cmの長身で「ダンディー」というニックネームがつく。

1年目の1972年古葉竹織二軍守備・走塁コーチから指導を受け、同年10月15日近鉄戦(藤井寺)で初出場。2年目の1973年に頭角を現し、シーズン後半には六番・左翼手に抜擢される。翌1974年から登録名片平 晋作に、背番号22から25に変えると、王そっくりの一本足打法で一躍有名になる。一本足打法だけでなく、ユニフォームの着こなしまでそっくりそのまま真似していた。王本人が気温が高くなる時期にアンダーシャツを長袖から半袖に変えると、片平自身も一日の狂い無く半袖に変えていたくらいであった。同年は新入団のロン・ロリッチと併用され、50試合に先発出場。1975年はわずか39試合の出場に終わるも、1976年には指名打者、一塁手としてレギュラーに定着。初の2ケタとなる12本塁打を放つ。

ところが1977年バセドウ病を発症、柏原純一にレギュラーを奪われ、出場試合数が44試合と激減し、本塁打0に終わる。1978年はあわや練習生の危機もあったが克服し、柏原の日本ハムへの移籍により一塁手の定位置を小田義人と争う。1979年にはレギュラーを確保、初めて規定打席に達し、リーグ5位の打率.329を残す。1980年には21本塁打をマークした。低迷する南海の中で、門田博光新井宏昌定岡智秋河埜敬幸らと共に主力打者として活躍していたが、1982年根本陸夫管理部長の強い要望で、キャンプ前に山下律夫山村善則と2対2のトレードで黒田正宏と共に西武ライオンズに電撃移籍[1]田淵幸一を指名打者に追いやり、一塁手の定位置を獲得、勝負強い打撃で1982年1983年の連続日本一に貢献、守備面でも1983年にダイヤモンドグラブ賞を受賞した。1986年清原和博が入団。同じ一塁手であったため同年は指名打者に回り、打率.292、17本塁打と好成績を残す。

1987年、南海入団当時の守備コーチだった古葉竹識が監督をつとめる横浜大洋ホエールズに、広瀬新太郎との交換トレードで永射保と共に移籍した。大洋でも1年目には一塁手の定位置を獲得し、打率.298、13本塁打を記録するが、翌1988年には新入団のジム・パチョレックにポジションを譲る。しかしその後も代打の切り札として活躍し、持ち味の長打を十分発揮した。1989年は打撃コーチ兼任となり、同年を最後に引退。40歳まで現役であった。

西武時代の1985年から大洋に移籍した1987年にかけて、3年連続開幕戦本塁打もマークしている。

現役引退後[編集]

引退後は西武に戻り、一軍打撃コーチ(1990年 - 1993年)・二軍打撃コーチ(1994年・二軍監督(1995年 - 1997年, 2008年 - 2009年)・編成部長(1998年 - 2007年)を歴任。コーチ時代は鈴木健、二軍監督時代(1期目)には小関竜也を育てた。2期目には二軍の試合の内容と結果、個々の選手の状態などを自分でパソコンに打ち込み、メールで大石友好一軍チーフコーチに送っていた。2010年からTwellV プロ野球中継J SPORTS(共に西武戦)の解説者を務め、2010年10月9日クライマックス・パ ファーストステージ『西武VSロッテ』第1戦(西武ドーム)ではテレ玉の中継に出演。2012年から西武主管試合のCS放送が朝日ニュースターに移行したため、同チャンネルのプロ野球専属解説を担当。2013年には解説者として活動する傍ら、日本女子プロ野球機構イースト・アストライア初代監督に就任。この年に始まった「ティアラカップ」でチームを優勝に導いたほか、チームから多数の表彰選手を輩出したが、1年で退任。

人物[編集]

  • 南海時代、新阪急ホテルの屋上で柵を乗り越え真下までわずか数十センチの場所で、バットを構え右足の上げ下げをして一本足打法のタイミングをはかる練習を常にしていた。(「読む野球-9回勝負- No.2 ホームラン」一本足打法の光と陰(主婦の友社))
  • ホークス時代の野村克也監督によると「片平ほど要領のいい選手はいない」という。ところがライオンズ時代の監督の広岡達朗は「片平はぶきっちょのかたまり」と評している。しかし広岡は反面、片平を非常に信頼しており、1982年のパ・リーグプレーオフ戦で、江夏豊攻略のために広岡が指示したプッシュバントを片平が成功させリーグ優勝につながったことを今なお「見事な技」と語り草にしている。
  • 江夏豊が後に、もし一本足打法に固執していなかったら、生涯通算安打数も2000本近く、通算本塁打も倍は打っていたと述べている[2]
  • 1980年7月5日、大阪球場での南海阪急後期2回戦で、見逃し三振に倒れストライクの判定に、当時の広瀬叔功監督が寺本勇球審に暴力を振るった為、退場となったが、ネット裏の控室にいたパ・リーグ大阪事務所長から寺本球審に「片平も暴力を振るっていた」という指摘があり、審判団の協議の結果、一塁の守りについていた片平までもが“追加退場”になった。さらに、この不可解な退場宣告により片平と寺本球審がやりとりしてる間に、今度は新山隆史投手コーチが、寺本球審に足で蹴ったうえに、殴りかかった為、当時球界初の3人退場劇を引き起こした。
  • 西武時代、現役プロ野球選手における東京六大学OB対東都大学OBの親善試合に東都大学野球OBの1人として出場したが、六大学や東都の強豪である他大学出身選手の中で唯一、弱小チームであった東農大出身者として選出されたため、周囲から冷やかされ、肩身の狭い思いをしたという。
  • 解説をする際は人当りがよく丁寧でめったに選手を貶すことはなく、ミスに対しても「これで勉強するんですよ。」など好意的な解釈を取ることが多い。上記のとおり、主にライオンズ目線での解説が多いが対戦チームの選手も前記のような「好々爺」な解説をする。

詳細情報[編集]

年度別打撃成績[編集]

















































O
P
S
1972 南海 1 1 1 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 1 0 .000 .000 .000 .000
1973 61 168 156 13 42 7 0 4 61 18 0 0 0 0 11 0 1 6 4 .269 .321 .391 .712
1974 82 225 200 21 53 5 0 9 85 26 0 1 0 1 22 2 2 19 4 .265 .342 .425 .767
1975 39 76 68 3 5 0 0 0 5 2 1 0 0 0 6 0 2 14 1 .074 .171 .074 .245
1976 107 370 341 42 84 9 3 12 135 43 1 0 1 2 19 0 7 31 6 .246 .298 .396 .694
1977 44 88 85 2 18 3 0 0 21 3 0 0 0 0 3 0 0 16 2 .212 .239 .247 .486
1978 101 314 290 25 71 6 0 15 122 37 0 2 0 3 15 0 6 29 3 .245 .293 .421 .714
1979 123 486 444 56 146 20 4 16 222 68 2 4 0 3 35 1 4 46 11 .329 .381 .500 .881
1980 111 418 380 51 101 16 1 21 182 66 1 1 0 2 30 2 6 37 5 .266 .328 .479 .807
1981 96 305 283 30 77 13 0 8 114 35 0 0 0 5 15 0 2 33 6 .272 .308 .403 .711
1982 西武 117 413 365 49 101 18 1 14 163 47 1 3 1 2 40 2 5 23 10 .277 .354 .447 .801
1983 118 416 370 50 103 12 1 19 174 55 1 2 0 2 39 1 5 13 7 .278 .353 .470 .824
1984 86 256 231 30 62 8 0 12 106 42 0 0 2 3 18 0 2 12 11 .268 .323 .459 .782
1985 103 354 327 34 100 9 1 10 141 55 1 0 0 4 18 2 5 21 15 .306 .347 .431 .780
1986 110 340 318 35 93 20 1 17 166 45 1 2 0 2 16 1 4 26 3 .292 .332 .522 .854
1987 大洋 102 308 275 36 82 16 0 13 137 36 0 2 1 0 28 0 4 41 10 .298 .371 .498 .870
1988 61 150 135 10 33 3 1 5 53 17 1 0 1 0 10 0 4 19 4 .244 .315 .393 .708
1989 38 41 40 5 10 4 0 1 17 6 0 0 0 0 1 0 0 7 2 .250 .268 .425 .693
通算:18年 1503 4729 4309 492 1181 169 13 176 1904 601 10 17 6 29 326 11 59 394 104 .274 .332 .442 .773

表彰[編集]

記録[編集]

初記録
節目の記録
その他の記録

背番号[編集]

  • 22 (1972年 - 1973年)
  • 25 (1974年 - 1981年)
  • 4 (1982年 - 1986年)
  • 2 (1987年 - 1989年)
  • 72 (1990年 - 1997年、2008年 - 2009年)

登録名[編集]

  • 片平 伸作 (かたひら しんさく、1972年 - 1973年)
  • 片平 晋作 (かたひら しんさく、1974年 - )

関連情報[編集]

出演番組[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 広岡達朗監督が要望した選手で無い為、当初はスポーツ紙で不満を漏らしていたが、両者が活躍すると高評価していた。
  2. ^ 週刊ベースボール連載「江夏豊の球界にんげん交遊伝「球人蔵」 片平晋作編より

関連項目[編集]